2003年7月に書きました、ピエール・バルー氏についての文章の2回目です。もう9年前であることに今さらながら驚きます。しかし、9年前のことだけあって、私がなぜ、どういう経緯でこの原稿を書くことになったのか、はっきりしません。当時はサイトにいろいろと原稿を書いていました。そこに、この土台となった原稿を載せ、それをご覧いただいた上で、オーマガトキ連絡をいただいて、ということだと思います。
「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」
〈第2回〉
ピエール・バルーがこの世に生を享けたのは、1934年2月19日。パリに近いルヴァロワに生まれたが、両親は、トルコのコンスタンチノープルから移り住んでいた。移動した者の子であり、旅を宿命づけられた子であったと見ることができよう。そのピエールが自ら欲して行う旅は、14歳のころから始まったと聞く。
「少年時代、私の散歩の始まりの頃、道路の両側で交互にヒッチハイクをしていた。北に行ったり南に行ったり、西に東に…水に浮かんだコルク栓と同じ」
CD『ITCHI GO ITCHI E』の解説で、彼はこのように語っている。散歩といい旅という、その行為。欠かせなかったのは、一丁のギターだった。心の赴くままにギターを弾き、歌い、詩を書いた。詩は−−、少年時代に観た映画『悪魔が夜来る』(“LES VISITEURS DU SOIR”)に影響されて志した。マルセル・カルネの監督作品であり、脚本には、フランスの20世紀を代表する詩人、ジャック・プレヴェールが参加している。『悪魔が夜来る』の何が、どこが、少年ピエールの心を動かしたのか。興味は尽きない。
青年時代、フランス代表に選ばれるほどバレーボールに打ちこんだピエールは、音楽に加えてスポーツを介し、見知らぬ人との出逢いを持てた。同じく『ITCHI GO ITCHI E』の解説より拾ってみる。
「リスボン1959年、独裁政権サラザール。ブルージンにギターをかかえた私は実にうさんくさい存在であったが、どんな政権でも地下のルートはあるものだ。タージ河のむこうの漁村にとめてもらいバレーボールを通して友達を作った私は時々リスボンのイタリアレストラン『ソレント』で歌を歌った。その頃ベロアルト近くのあるキャバレーでシブーカを発見しとりこになった。彼こそが当時まったく知られてなかったブラジル音楽の豊かなメロディとハーモニーそして詩の内容を教えてくれた人だ。ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスそして後にバーデン・パウエル等の貴公子達に会わせてくれたのもシブーカだ」
さらにこんな言葉も−−。
「人は一生たったひとつの核のまわりに人生を築いてゆく。私の場合は初めて歌を作った15才の時から『むこう岸』(未知のもの)への憧れがマクニールやブリジット・フォンテーヌ、ピエール・アケンダンゲらに扉をひらかせ、テアトル・アレフと芝居をやらせ、映画や歌を作らせてきた。そうやって私の出会った素晴らしいものや人の証言者になりたいのだ」
1966年にはクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(“UN HOMME ET UNE FEMME”)に出演し、『サンバ・サラヴァ』を歌った。カンヌ映画祭でグランプリを、アカデミー賞では外国語映画賞を獲得するなどしたこの映画によって、ピエール・バルーの名と才能は世界に知られる。しかし、ピエールは映画スターとしての可能性をあっさり捨てた。映画産業という共同体社会に見切りをつけ、サラヴァ・レーベルを創設し、未知の表現者との出逢いを求める。もったいないことかもしれないし、残念なことかもしれないが、ピエールの思い切りを私は支持したい。
『男と女』を観る人は、ピエールの存在感があまりにも異質であることに気づくだろう。彼の出演場面のみ空気間が違っている。演技や台詞回しで他の俳優と斬り結ぶわけではなく、過剰な自己主張を画面にほとばしらせるでもなく、ピエール・バルーはピエール・バルーとして存在している。実際に逢った印象と寸分違わぬピエールが『男と女』に現われるので、かえって驚いてしまうほどだ。
彼は映画俳優か? ノン。彼は歌い手か? ノン。彼はピール・バルーである。自分を一つの場所、一つの姿にとどめない。それもまた旅人としての生き方だ、旅人は共同体では−−、そう、生きられない。
2012年1月7日土曜日
2012年1月6日金曜日
トロッタ15通信.34
昨日、音楽製作者のTさんから年賀メールがありました。フランスのサラヴァ・レーベルのCDを、日本で発売することになったそうです。Tさんはかつて、レコード会社のオーマガトキに所属しておられましたが、お辞めになって、その後はどうされているのか、私は存じ上げないままでした。
年賀メールによると、今はヤマハミュージックアンドビジュアルズに属しておられるようです。そのTさんがサラヴァのCDを出すというのですから、サラヴァのCDはつまり、ヤマハから出る、ということでしょうか。そして、このヤマハミュージックアンドビジュアルズの住所が、トロッタ9の会場だった、ヤマハエレクトーンシティ渋谷と同じなのです。やはり、サラヴァのCDはヤマハから発売されると考えて間違いないようです。
Tさんは、オーマガトキでもサラヴァを担当しておられました。新たな職場でもサラヴァに関わります。サラヴァに対する、相当の思いがあると受けとめました。そのTさんに、かつて原稿を依頼されたことがあります。サラヴァの主宰者、詩人で歌手のピエール・バルーが撮ったドキュメンタリー映画『SARAVAH』の解説です。ボサノヴァを弾いたギタリスト、石井康史さんが亡くなったことを思い続けるうち、ブラジル音楽の神髄に触れようとしたこの映像作品に、思いは自然に至りました。2006年以来、谷中ボッサで「ボッサ/声と音の会」を行っています。トロッタ以前のスタートですが、その第一回ゲストが、ピエール・バルーでした。DVDを開けて自分の原稿を取り出すと、2003年の執筆になっています。もうすぐ10年になろうとする古さです。しかし、昨日書いたような気がしています。音楽の出発点は人それぞれです。私の音楽への思いは、このピエール・バルーの姿、個人ではなくてもピエール・バルーのような人の姿(それは古来の吟遊詩人といってもいい)に重ねられます。書くことはまだ多いのですが、DVDの解説文「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」を改めてここに書き、原点を振り返ります。これは、石井康史さん追悼のための準備でもあります。
〈第1回〉
あなたは−−と、他人に指を向ける前に、まず自分に問うてみる。“私は旅を必要としているのか? 旅を求めているのか?”と。
空間移動としての旅なら。必ずしも私には必要ない。たった今いる東京を、仮に一生離れなくても苦痛を感じないだろうという予感がある。もちろん、現実の自分に満足できなくて、さまざまな事柄に思いを馳せる想念としての旅ならば、それは私にも必要だ。心の旅、精神の旅なしではたちまち窒息してしまう。
しかし世の中には、点から点へ、線を伝って線へと、空間を移動しなくてはどうにもいられない人がいる。その過程で彼や彼女も、心の旅路をたどるのだろう。ピエール・バルーとはまさしく、そのような生来の旅人、生きていることそれ自体を旅に喩えるのはふさわしい人物だと映る。
DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」。映像作品に与えられた題名だが、これはピエール・バルーその人をも表わしている。彼は時空を超えた散歩者であり、その結果としての出逢いを求め、受けとめている人間だ。
『サラヴァ』には、長短の別がある四つの作品が収められている。「1969 Rio de Janeiro」を始めとする、「2003 Tokyo」「1996 Rio de Janeiro」「1998 la suite…」。
もともは1969年の一作だけだったのが、今や四作を合わせて全体となった。見れば、最新作が二番目に配され、第二作が三番目に配されるなどの並べ替えがある。その上で、四番目の作は“つづく…”と題された。
製作年で区別するが、「1969」に登場したバーデン・パウエルの息子二人、ルイ・マルセルとフィリップが「2003」に登場し、「1969」では出逢えなかった音楽家アダン・グザレバラダが「1996」に現われ、そのアダン作曲の『アラウルン』を「1998」ではビーアが歌う。
バーデンを始め、ピシンギーニャやジョアン・ダ・バイアーナは既に亡い。しかし40数年前、ピエールをブラジル音楽に巡り合わせたシブーカの姿を、私たちは観ることができる。マリア・ベターニアとパウリーニョ・ダ・ヴィオラはいまだ若く、その一方でアダンは貧民街から教会の施療院へと身を移し、したたかに音楽を創り続けている。そして、そうしたことの一切に立ち会い、観る私たちに語りかけるのはピエール・バルー。人と人、街と街、国と国、さらに時間と時間を結ぶ、音楽というものの力、不思議さを実感する。
「1998」が「1969」に還ってゆくととらえてもいいし、「1998」から伸びる線上に、まだ創られぬ何かがあるととらえるのもいい。それはもしかすると映像の形をとらず、詩として現われるかもしれず、『ラスト・チャンス・キャバレー』のように音楽劇の姿をまとうかもしれない。全体が円環する場合でも、環の途中に未来の作品が挿しはさまれていくだろう。いずれにせよ『サラヴァ』の世界は永遠に終わらない、終わらせないというピエールの意志を見る。旅人の態度である。旅とは何かを知っている者の態度である。(つづく)
年賀メールによると、今はヤマハミュージックアンドビジュアルズに属しておられるようです。そのTさんがサラヴァのCDを出すというのですから、サラヴァのCDはつまり、ヤマハから出る、ということでしょうか。そして、このヤマハミュージックアンドビジュアルズの住所が、トロッタ9の会場だった、ヤマハエレクトーンシティ渋谷と同じなのです。やはり、サラヴァのCDはヤマハから発売されると考えて間違いないようです。
Tさんは、オーマガトキでもサラヴァを担当しておられました。新たな職場でもサラヴァに関わります。サラヴァに対する、相当の思いがあると受けとめました。そのTさんに、かつて原稿を依頼されたことがあります。サラヴァの主宰者、詩人で歌手のピエール・バルーが撮ったドキュメンタリー映画『SARAVAH』の解説です。ボサノヴァを弾いたギタリスト、石井康史さんが亡くなったことを思い続けるうち、ブラジル音楽の神髄に触れようとしたこの映像作品に、思いは自然に至りました。2006年以来、谷中ボッサで「ボッサ/声と音の会」を行っています。トロッタ以前のスタートですが、その第一回ゲストが、ピエール・バルーでした。DVDを開けて自分の原稿を取り出すと、2003年の執筆になっています。もうすぐ10年になろうとする古さです。しかし、昨日書いたような気がしています。音楽の出発点は人それぞれです。私の音楽への思いは、このピエール・バルーの姿、個人ではなくてもピエール・バルーのような人の姿(それは古来の吟遊詩人といってもいい)に重ねられます。書くことはまだ多いのですが、DVDの解説文「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」を改めてここに書き、原点を振り返ります。これは、石井康史さん追悼のための準備でもあります。
〈第1回〉
あなたは−−と、他人に指を向ける前に、まず自分に問うてみる。“私は旅を必要としているのか? 旅を求めているのか?”と。
空間移動としての旅なら。必ずしも私には必要ない。たった今いる東京を、仮に一生離れなくても苦痛を感じないだろうという予感がある。もちろん、現実の自分に満足できなくて、さまざまな事柄に思いを馳せる想念としての旅ならば、それは私にも必要だ。心の旅、精神の旅なしではたちまち窒息してしまう。
しかし世の中には、点から点へ、線を伝って線へと、空間を移動しなくてはどうにもいられない人がいる。その過程で彼や彼女も、心の旅路をたどるのだろう。ピエール・バルーとはまさしく、そのような生来の旅人、生きていることそれ自体を旅に喩えるのはふさわしい人物だと映る。
DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」。映像作品に与えられた題名だが、これはピエール・バルーその人をも表わしている。彼は時空を超えた散歩者であり、その結果としての出逢いを求め、受けとめている人間だ。
『サラヴァ』には、長短の別がある四つの作品が収められている。「1969 Rio de Janeiro」を始めとする、「2003 Tokyo」「1996 Rio de Janeiro」「1998 la suite…」。
もともは1969年の一作だけだったのが、今や四作を合わせて全体となった。見れば、最新作が二番目に配され、第二作が三番目に配されるなどの並べ替えがある。その上で、四番目の作は“つづく…”と題された。
製作年で区別するが、「1969」に登場したバーデン・パウエルの息子二人、ルイ・マルセルとフィリップが「2003」に登場し、「1969」では出逢えなかった音楽家アダン・グザレバラダが「1996」に現われ、そのアダン作曲の『アラウルン』を「1998」ではビーアが歌う。
バーデンを始め、ピシンギーニャやジョアン・ダ・バイアーナは既に亡い。しかし40数年前、ピエールをブラジル音楽に巡り合わせたシブーカの姿を、私たちは観ることができる。マリア・ベターニアとパウリーニョ・ダ・ヴィオラはいまだ若く、その一方でアダンは貧民街から教会の施療院へと身を移し、したたかに音楽を創り続けている。そして、そうしたことの一切に立ち会い、観る私たちに語りかけるのはピエール・バルー。人と人、街と街、国と国、さらに時間と時間を結ぶ、音楽というものの力、不思議さを実感する。
「1998」が「1969」に還ってゆくととらえてもいいし、「1998」から伸びる線上に、まだ創られぬ何かがあるととらえるのもいい。それはもしかすると映像の形をとらず、詩として現われるかもしれず、『ラスト・チャンス・キャバレー』のように音楽劇の姿をまとうかもしれない。全体が円環する場合でも、環の途中に未来の作品が挿しはさまれていくだろう。いずれにせよ『サラヴァ』の世界は永遠に終わらない、終わらせないというピエールの意志を見る。旅人の態度である。旅とは何かを知っている者の態度である。(つづく)
トロッタ15通信.33
ここ数日、新しい原稿を書いているので、ブログの更新が滞っていました。それとは別のことも考えています。以下は、昨年末に発行した「詩の通信VI」第11号の文面です。
*
《後記》十二月十七日(土)、ギタリストの石井康史さんが亡くなられました。五十二歳でした。南米文学の研究者で、慶應義塾大学で教鞭をとられていましたが、私は二〇〇六年六月四日(日)、第二回「ボッサ 声と音の会」での共演を記憶します。ゲストの細川周平さんのご紹介で、打楽器の内藤修央さんと共に石井さんが出演されました。脳腫瘍で倒れ、半身がご不自由になり、ギターも弾けなくなりましたが、リハビリにつとめ、いったんは教壇に復帰なさいました。十月の第一週までは授業も行なっていたということです(情報を総合すると、一進一退だったのだろうと想像します)。訃報に接してすぐに思ったのは、追悼詩を書きたいということでした。最近、心にとどめている萩原朔太郎の詩に『ぎたる弾くひと』があるので、それに触発される形で『ギター弾く人』を書きました。それが今号の詩です。石井さんがなされた、南米文学の成果は残念ながら存じ上げません。日本語訳が近年に出た、ロベルト・ボラーニョの作品についてお話しをしたことがあり、(原文で読める方に対しておかしな話ですが、病中の石井さんに求められたので)ボラーニョの作品集『通話』を、お見舞いに持参しました。私にとって石井さんはまず、ギタリストでした。ギターを弾く人として私の前に現われ、去って行きました。お別れの会の祭壇にギターが立てられていたことにも、ギタリスト、石井康史の面目は窺われました。石井さんとの共演はわずか一回なので、そんな私が追悼の演奏会などは開けません。せめて詩を書くことで、故人を偲びたいと思いました。石井康史さん、安らかに。もう存分に、ギターを弾けるでしょう。次号第十二号は、二〇一二年一月九日(月)発行予定です。 二〇一一年十二月二十八日(水)
*
私が石井康史さんと共演したのは、ただ一回です。例えば打楽器の内藤修央さんのように、石井さんと共演した音楽家はたくさんいます。そうした彼らによって、石井さんを偲ぶ演奏会が開かれることでしょう。しかし私も、私なりの会を開きたいと思います。会とはいわなくても、何らかの会で、一曲でも石井さんを偲ぶ曲を演奏したいと思います。
上記の『ギター弾く人』は、すでに田中修一さんによって楽曲化され、年末に届きました(12月28日発送、31日着)。この曲を中心にすることで、石井さんと共演した思い出の場所、谷中ボッサで会を開きたいと思うのです。思えばトロッタ1では、田中修一さんと酒井健吉さんによって、伊福部先生追悼作品が2曲、発表されました。音楽の会は人の魂に触れる機会です。石井康史さんの魂に、触れたいと思っています。
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《後記》十二月十七日(土)、ギタリストの石井康史さんが亡くなられました。五十二歳でした。南米文学の研究者で、慶應義塾大学で教鞭をとられていましたが、私は二〇〇六年六月四日(日)、第二回「ボッサ 声と音の会」での共演を記憶します。ゲストの細川周平さんのご紹介で、打楽器の内藤修央さんと共に石井さんが出演されました。脳腫瘍で倒れ、半身がご不自由になり、ギターも弾けなくなりましたが、リハビリにつとめ、いったんは教壇に復帰なさいました。十月の第一週までは授業も行なっていたということです(情報を総合すると、一進一退だったのだろうと想像します)。訃報に接してすぐに思ったのは、追悼詩を書きたいということでした。最近、心にとどめている萩原朔太郎の詩に『ぎたる弾くひと』があるので、それに触発される形で『ギター弾く人』を書きました。それが今号の詩です。石井さんがなされた、南米文学の成果は残念ながら存じ上げません。日本語訳が近年に出た、ロベルト・ボラーニョの作品についてお話しをしたことがあり、(原文で読める方に対しておかしな話ですが、病中の石井さんに求められたので)ボラーニョの作品集『通話』を、お見舞いに持参しました。私にとって石井さんはまず、ギタリストでした。ギターを弾く人として私の前に現われ、去って行きました。お別れの会の祭壇にギターが立てられていたことにも、ギタリスト、石井康史の面目は窺われました。石井さんとの共演はわずか一回なので、そんな私が追悼の演奏会などは開けません。せめて詩を書くことで、故人を偲びたいと思いました。石井康史さん、安らかに。もう存分に、ギターを弾けるでしょう。次号第十二号は、二〇一二年一月九日(月)発行予定です。 二〇一一年十二月二十八日(水)
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私が石井康史さんと共演したのは、ただ一回です。例えば打楽器の内藤修央さんのように、石井さんと共演した音楽家はたくさんいます。そうした彼らによって、石井さんを偲ぶ演奏会が開かれることでしょう。しかし私も、私なりの会を開きたいと思います。会とはいわなくても、何らかの会で、一曲でも石井さんを偲ぶ曲を演奏したいと思います。
上記の『ギター弾く人』は、すでに田中修一さんによって楽曲化され、年末に届きました(12月28日発送、31日着)。この曲を中心にすることで、石井さんと共演した思い出の場所、谷中ボッサで会を開きたいと思うのです。思えばトロッタ1では、田中修一さんと酒井健吉さんによって、伊福部先生追悼作品が2曲、発表されました。音楽の会は人の魂に触れる機会です。石井康史さんの魂に、触れたいと思っています。
2012年1月3日火曜日
トロッタ15通信.32
インターネット上のコミュニティサイトを整理する。twitter、facebookなどは、宣伝に役立つから活用すべきだという意見が多い。実際にそうかもしれないし、そうなのだろう。トロッタの集客に実効性はなくても、少なくともひとりでも多くの人に、トロッタの存在を知ってもらう点では有効だ。それは認めたとしても、所詮は他人が作ったものだという事実は否定できない。まさか同様のコミュニティを作る力はないが、他人の都合には、できるだけ左右されたくない。だから、サイト作りには、すべてではないが、HTMLを自分で書いてきた。初歩的なものである。恥ずかしくもあるが、自分の力で、できるだけのことをしている自負はある。まず発信するものとして、インターネットを使ったトロッタ独自のメディアを作れないか。難しいとわかっていながら、そう思っている。
2012年1月1日日曜日
トロッタ15通信.31
2012年が始まりました。大晦日、トロッタのサイトに、4月12日(火)の「北海道新聞」に掲載された「詩と音楽の力 伊福部昭と更科源蔵」の画像を掲載しました。伊福部先生と更科氏について考えることは、トロッタの原点のひとつだと思います。自分の原稿ですが、何度でも読み返したい思いです。
2011年12月31日土曜日
トロッタ15通信.30
トロッタ15での演奏予定曲を作曲の皆さんに送った。これで調整してゆく。
萩原朔太郎に関係する田中修一さんのことを、ここしばらく書いている。田中さんからは昨日、石井康史さんの追悼詩『ギター弾く人』を楽曲化した楽譜が届いた。こうしたことは、個人の名前を出しているが、それにとどまるものではない。トロッタがテーマにする、詩と音楽についての話である。今年の4月12日(火)、「北海道新聞」に「詩と音楽の力」と題する、伊福部昭・更科源蔵両氏に関する文章を寄せた。それと同じである。
萩原朔太郎に関係する田中修一さんのことを、ここしばらく書いている。田中さんからは昨日、石井康史さんの追悼詩『ギター弾く人』を楽曲化した楽譜が届いた。こうしたことは、個人の名前を出しているが、それにとどまるものではない。トロッタがテーマにする、詩と音楽についての話である。今年の4月12日(火)、「北海道新聞」に「詩と音楽の力」と題する、伊福部昭・更科源蔵両氏に関する文章を寄せた。それと同じである。
2011年12月30日金曜日
トロッタ15通信.30
昨日は、ほぼ一日をかけて、「ギターの友」次号に掲載する連載記事、「ギターとランプ」の最新記事を書いていた。夜になって完成し、送稿。締め切りはまだ先の来年1月20日だが、書きたくなったのである。内容は、萩原朔太郎の詩による歌を発表してきた田中修一について語りつつ、田中氏の考えを紹介するというもの。朔太郎の生地である群馬県前橋市にも行きたいが、なかなかそうはいかない。
トロッタの皆さんに、一年のお礼メールを送ろうと朝から考えていたが、できなかった。結局、一夜が開けたさっき、送信。一日にいくつものことができなくなってきた。早稲田奉仕園スコットホールが忘れ物を預かってくれており、ずっと、取りに行かなければと思いながらできず、やっと昨日行ったものの、すでに年末の休みに入っていた。ちぐはぐだ。近くの穴八幡神社が、年末に決まって行う冬至祭で賑わっていた。懐かしい。
トロッタの皆さんに、一年のお礼メールを送ろうと朝から考えていたが、できなかった。結局、一夜が開けたさっき、送信。一日にいくつものことができなくなってきた。早稲田奉仕園スコットホールが忘れ物を預かってくれており、ずっと、取りに行かなければと思いながらできず、やっと昨日行ったものの、すでに年末の休みに入っていた。ちぐはぐだ。近くの穴八幡神社が、年末に決まって行う冬至祭で賑わっていた。懐かしい。
2011年12月26日月曜日
トロッタ15通信.29
ギタリスト、石井康史さんの葬儀に参列。打楽器の内藤修央さん、音楽学の細川周平さんに会う。このおふたりと石井さんが、ボッサでの共演者だった。2006年のこと。石井さんの追悼演奏会をと思ったが、私などより、彼の追悼会を開くにふさわしい人はおおぜいいる。架空の追悼演奏会を、詩にしよう。
2011年12月23日金曜日
トロッタ15通信.28
思い切ってiPadを購入しました。これでブログやtwitterの更新をスムーズにできればと思います(この時点では文字入力に馴れていないので数行しか書けません)。
今夜は、上野雄次さんも出演する会に出かけました。池ノ上駅に近い現代HEIGHTSにて、上野雄次(はないけ)×吉本由美子(ギター)×坂本宰(影)によるパフォーマンスでした。
今夜は、上野雄次さんも出演する会に出かけました。池ノ上駅に近い現代HEIGHTSにて、上野雄次(はないけ)×吉本由美子(ギター)×坂本宰(影)によるパフォーマンスでした。
2011年12月21日水曜日
トロッタ15通信.27
ここしばらく、滞っていました。まとめて書きます。
■YouTubeへのアップを、断片的に継続。新しくアップした曲は、以下のとおり。
酒井健吉さん作曲『唄う』(トロッタ2より)
田中修一さん作曲『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』(トロッタ2より)
たった今も、アップのための作業を行っています。
12月18日(月)、トロッタのサイトに、「記録映像」のページを新設しました。そこに挙げられた曲名から、直接、YouTubeの動画にリンクさせました。過去を振り返ると、いろいろと思うことがあります。できるだけ、曲数を増やしたいと思います。
■昨日12月19日(月)、慶応義塾大学の教授の石井康史さんがお亡くなりになりました。石井さんは、私が初めて共演したギタリストでした。トロッタに出演された打楽器奏者、内藤修央さんのお友達でもあります。ショックでした。その知らせは外で受けたのですが、帰宅すると、大家さんが亡くなっていました。老衰です。こちらもショックでした。阿佐ケ谷の住まいで、お世話になりました。今年は身近に感じる人がたくさん亡くなっており、そのことを考えない日はないのに、一日に二人も周囲の方が亡くなるとはと、心が乱れました(大家さんのお通夜は20日、石井さんのお別れ会は25日)。
■12月16日(金)、柳珠里さんが出演された、「年の瀬&クリスマスコンサート」を聴きに、練馬文化センター小ホールに出かけました。I部が「日本の四季を歌う」、II部が「クリスマスにちなんで」。柳さんは、独唱としてはI部で『からたちの花』を歌いました。II部ではアンドルー・ロイド・ウェッバー作曲『ピエ・イェズ』をお歌いでしたが、私は体調が悪くなり、I部のみで失礼しました。それでも約20曲の歌を聴き、考えることがいろいろとありました。
■12月17日(土)、3号も滞っていた「詩の通信VI」を発行しました。情けないことですが、目下、購読者は3名です。それもありがたいことだと思います。完全有料制にしたことが原因か。それとも詩がつまらないことが原因か。両方でしょうし、他にも理由があるかもしれません。《後記》3号分をまとめてご覧ください。もし、このブログをご覧になった方で、一号でも読みたいとお思いの方は、ご連絡ください。
【8号】トロッタ14が終了しました。お運びいただいたお客様には、感謝の気持ちでいっぱいです。メシアンの『世の終わりへの四重奏曲』を、詩唱を入れて演奏しました。クラリネット藤本彩花さん、ヴァイオリン戸塚ふみ代さん、チェロ香月圭佑さん、ピアノ森川あづささん、詩唱は中川博正さんでした。演奏されたのは第三楽章の抜粋と、一、四、七の各楽章です。中川さんには、メシアンかもしれない男、曲の初演に立ち会っている男、今は生きていないかもしれない男、死んで鳥になっている男、それらすべての性格を合わせ持った人物を演じていただきました。いつの日にか、全楽章を演奏する前提で、この〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉を取り上げたいと思います。音楽家は誰でもそうですが、メシアンは特に、どんな状況にあっても音楽を生きた人物に映ります。作った音楽だけでなく、鳥の声を通じて自然にある音楽にも心を傾けました。彼にとっての音楽は、自然にあるものなのでしょう。鳥の音楽も自然にあるものです。私にとってはどうだろうと思います。トロッタの〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉は、自然にある音楽を考える、私なりの試みの第一歩でした。雑誌「ギターの友」のため、田中修一氏と彼の曲『遺傳』について書き、そこで、『遺傳』の詩を書いた萩原朔太郎に触れました。朔太郎も音楽を愛し、マンドリンやギターを弾きました。マンドリン倶楽部を結成したり、作品が何か、今はわかりませんがオーケストラ伴奏で詩を詠んだりしていたようです。世田谷文学館の生誕一二五年展には、燕の姿を螺鈿細工したギターが展示され、示唆に富むものでした。生地の前橋に、いつか行ければと思います。次号第九号は、十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【9号】二年がかりで書いた二冊分の原稿が当面は没となり、それに代わる原稿を考えています。十年前、ある小説を書きました。それは近未来のインターネットカフェを舞台にした小説です。わけあって公開されませんでしたが、四百字詰め原稿用紙にして三百数十枚を完成させていたのです。それを見つめ直します。今の私の心境を反映させたものにします。元気いっぱいで、つまり無反省で、自分のことだけを考えればよかった、つまり他人の痛みを思いやれずにいたころは否定すらしていた、癒しの物語でありたいと思います。私自身、癒されたいし、癒しが必要です(ただ、癒しではなく他の言葉に言い換えられないか考えています。言葉自体には責任がなくても、癒しという言葉を商いに利用する人々がいることに不信感を持つので)。シンプルであること、余分なものができる限りないこと、コンピュータが世界と結びつく手段であること、そのために作られた空間がある、そのようなことを書こうと思います。つい先頃亡くなった、アップルの創業者、スティーヴ・ジョブズについて、書評を書くなどする過程で考えることがありました。ずっと以前から彼については考えていました。私は彼の礼賛者ではありません。しかし、彼を通してコンピュータとその文化について考えてきました。小説の題名は、旧来のとおりなら『電脳喫茶養生記』となります。「トロッタの会」も、コンピュータと無縁ではありません。強い勧めがあり、トロッタの演奏風景をYouTubeにアップし始めています。まだ数は少ないのですが、ご興味のある方は検索してご覧ください(その後、これまでに演奏した約半数にあたる約五十曲をアップできました)。今号は、次号第十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【10号】《後記》様々な理由がありますが、三号を同時にお送りする有り様です。申し訳ありません。「ぎたる弾く、ぎたる弾く、ひとりしおもへば、たそがれは音なくあゆみ、石造の都会、またその上を走る汽車、電車のたぐひ、それら音なくして過ぎゆくごとし、わが愛のごときも永遠の歩行をやめず、ゆくもかへるも、やさしくなみだにうるみ、ひとびとの瞳は街路にとぢらる。」萩原朔太郎『ぎたる弾くひと』の前半です。世田谷文学館の萩原朔太郎展を訪れ、朔太郎が詩と音楽について深い関心を抱いていたことを知りました。「作曲者以外に歌詞を作ることの出来るものはない筈である」「文学としての詩は、その中に音楽の所有する二部要素、即ち『歌詞』と『旋律』とを総合的に持たねばならない」(いずれも「詩と音楽の関係」より)というような考えを持っていたことも知りました。私は前者に不同意、後者に同意です。彼が音楽の挫折者であったことも知りました。挫折者であったとは、行為する人であった証拠です。レコードだけ聴く人に挫折はありません。このような彼を研究しようとは思いません。彼の考えに正解不正解はないはずです。トロッタの活動にも結論は出ていません。むしろ、出すまい、必要ないと思っています。答えが出ているなら活動しなくてよく、答えなど求めない本能的活動こそしたいと思うからです。私が答えを出しても、見方を変えれば別の答えが出るはずで、それはきりがないことです。朔太郎も、本能の人であったようです。更科源蔵と伊福部昭先生のような、詩人と作曲者の関係を、朔太郎は持ちませんでした。身近に作曲者がいたら彼はどう考え、どう行動したでしょうか。次号第十一号は、二〇一一年十二月二十六日(月)発行予定です。二〇一一年十二月十七日(土)
■12月18日(日)、神奈川邦楽合奏団 第3回定期演奏会にて、田中修一氏の『ダンツァ・ブルレスカ』が演奏され、田中氏自ら指揮をされました。横浜みなとみらい小ホールに、私もうかがいました。この日もいろいろと考えることがありました。トロッタの会を通して、私自身もその中に身を置いているわけですが、一曲一曲を完成させて人前に披露することの意味。それはとりもなおさず、人生を刻んでいることに他なりません。トロッタも14回を終えて15回目に向かっています。記憶の濃淡はありますが、それでも起こったことはすべて覚えています。YouTubeのための作業を通じて、振り返ることも多く、2007年以来のトロッタの歩みを、じっくり考えてみたいと思っています(前はトロッタの原稿を書く、という考えを抱きました。まだ、捨てていません)。
■YouTubeへのアップを、断片的に継続。新しくアップした曲は、以下のとおり。
酒井健吉さん作曲『唄う』(トロッタ2より)
田中修一さん作曲『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』(トロッタ2より)
たった今も、アップのための作業を行っています。
12月18日(月)、トロッタのサイトに、「記録映像」のページを新設しました。そこに挙げられた曲名から、直接、YouTubeの動画にリンクさせました。過去を振り返ると、いろいろと思うことがあります。できるだけ、曲数を増やしたいと思います。
■昨日12月19日(月)、慶応義塾大学の教授の石井康史さんがお亡くなりになりました。石井さんは、私が初めて共演したギタリストでした。トロッタに出演された打楽器奏者、内藤修央さんのお友達でもあります。ショックでした。その知らせは外で受けたのですが、帰宅すると、大家さんが亡くなっていました。老衰です。こちらもショックでした。阿佐ケ谷の住まいで、お世話になりました。今年は身近に感じる人がたくさん亡くなっており、そのことを考えない日はないのに、一日に二人も周囲の方が亡くなるとはと、心が乱れました(大家さんのお通夜は20日、石井さんのお別れ会は25日)。
■12月16日(金)、柳珠里さんが出演された、「年の瀬&クリスマスコンサート」を聴きに、練馬文化センター小ホールに出かけました。I部が「日本の四季を歌う」、II部が「クリスマスにちなんで」。柳さんは、独唱としてはI部で『からたちの花』を歌いました。II部ではアンドルー・ロイド・ウェッバー作曲『ピエ・イェズ』をお歌いでしたが、私は体調が悪くなり、I部のみで失礼しました。それでも約20曲の歌を聴き、考えることがいろいろとありました。
■12月17日(土)、3号も滞っていた「詩の通信VI」を発行しました。情けないことですが、目下、購読者は3名です。それもありがたいことだと思います。完全有料制にしたことが原因か。それとも詩がつまらないことが原因か。両方でしょうし、他にも理由があるかもしれません。《後記》3号分をまとめてご覧ください。もし、このブログをご覧になった方で、一号でも読みたいとお思いの方は、ご連絡ください。
【8号】トロッタ14が終了しました。お運びいただいたお客様には、感謝の気持ちでいっぱいです。メシアンの『世の終わりへの四重奏曲』を、詩唱を入れて演奏しました。クラリネット藤本彩花さん、ヴァイオリン戸塚ふみ代さん、チェロ香月圭佑さん、ピアノ森川あづささん、詩唱は中川博正さんでした。演奏されたのは第三楽章の抜粋と、一、四、七の各楽章です。中川さんには、メシアンかもしれない男、曲の初演に立ち会っている男、今は生きていないかもしれない男、死んで鳥になっている男、それらすべての性格を合わせ持った人物を演じていただきました。いつの日にか、全楽章を演奏する前提で、この〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉を取り上げたいと思います。音楽家は誰でもそうですが、メシアンは特に、どんな状況にあっても音楽を生きた人物に映ります。作った音楽だけでなく、鳥の声を通じて自然にある音楽にも心を傾けました。彼にとっての音楽は、自然にあるものなのでしょう。鳥の音楽も自然にあるものです。私にとってはどうだろうと思います。トロッタの〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉は、自然にある音楽を考える、私なりの試みの第一歩でした。雑誌「ギターの友」のため、田中修一氏と彼の曲『遺傳』について書き、そこで、『遺傳』の詩を書いた萩原朔太郎に触れました。朔太郎も音楽を愛し、マンドリンやギターを弾きました。マンドリン倶楽部を結成したり、作品が何か、今はわかりませんがオーケストラ伴奏で詩を詠んだりしていたようです。世田谷文学館の生誕一二五年展には、燕の姿を螺鈿細工したギターが展示され、示唆に富むものでした。生地の前橋に、いつか行ければと思います。次号第九号は、十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【9号】二年がかりで書いた二冊分の原稿が当面は没となり、それに代わる原稿を考えています。十年前、ある小説を書きました。それは近未来のインターネットカフェを舞台にした小説です。わけあって公開されませんでしたが、四百字詰め原稿用紙にして三百数十枚を完成させていたのです。それを見つめ直します。今の私の心境を反映させたものにします。元気いっぱいで、つまり無反省で、自分のことだけを考えればよかった、つまり他人の痛みを思いやれずにいたころは否定すらしていた、癒しの物語でありたいと思います。私自身、癒されたいし、癒しが必要です(ただ、癒しではなく他の言葉に言い換えられないか考えています。言葉自体には責任がなくても、癒しという言葉を商いに利用する人々がいることに不信感を持つので)。シンプルであること、余分なものができる限りないこと、コンピュータが世界と結びつく手段であること、そのために作られた空間がある、そのようなことを書こうと思います。つい先頃亡くなった、アップルの創業者、スティーヴ・ジョブズについて、書評を書くなどする過程で考えることがありました。ずっと以前から彼については考えていました。私は彼の礼賛者ではありません。しかし、彼を通してコンピュータとその文化について考えてきました。小説の題名は、旧来のとおりなら『電脳喫茶養生記』となります。「トロッタの会」も、コンピュータと無縁ではありません。強い勧めがあり、トロッタの演奏風景をYouTubeにアップし始めています。まだ数は少ないのですが、ご興味のある方は検索してご覧ください(その後、これまでに演奏した約半数にあたる約五十曲をアップできました)。今号は、次号第十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【10号】《後記》様々な理由がありますが、三号を同時にお送りする有り様です。申し訳ありません。「ぎたる弾く、ぎたる弾く、ひとりしおもへば、たそがれは音なくあゆみ、石造の都会、またその上を走る汽車、電車のたぐひ、それら音なくして過ぎゆくごとし、わが愛のごときも永遠の歩行をやめず、ゆくもかへるも、やさしくなみだにうるみ、ひとびとの瞳は街路にとぢらる。」萩原朔太郎『ぎたる弾くひと』の前半です。世田谷文学館の萩原朔太郎展を訪れ、朔太郎が詩と音楽について深い関心を抱いていたことを知りました。「作曲者以外に歌詞を作ることの出来るものはない筈である」「文学としての詩は、その中に音楽の所有する二部要素、即ち『歌詞』と『旋律』とを総合的に持たねばならない」(いずれも「詩と音楽の関係」より)というような考えを持っていたことも知りました。私は前者に不同意、後者に同意です。彼が音楽の挫折者であったことも知りました。挫折者であったとは、行為する人であった証拠です。レコードだけ聴く人に挫折はありません。このような彼を研究しようとは思いません。彼の考えに正解不正解はないはずです。トロッタの活動にも結論は出ていません。むしろ、出すまい、必要ないと思っています。答えが出ているなら活動しなくてよく、答えなど求めない本能的活動こそしたいと思うからです。私が答えを出しても、見方を変えれば別の答えが出るはずで、それはきりがないことです。朔太郎も、本能の人であったようです。更科源蔵と伊福部昭先生のような、詩人と作曲者の関係を、朔太郎は持ちませんでした。身近に作曲者がいたら彼はどう考え、どう行動したでしょうか。次号第十一号は、二〇一一年十二月二十六日(月)発行予定です。二〇一一年十二月十七日(土)
■12月18日(日)、神奈川邦楽合奏団 第3回定期演奏会にて、田中修一氏の『ダンツァ・ブルレスカ』が演奏され、田中氏自ら指揮をされました。横浜みなとみらい小ホールに、私もうかがいました。この日もいろいろと考えることがありました。トロッタの会を通して、私自身もその中に身を置いているわけですが、一曲一曲を完成させて人前に披露することの意味。それはとりもなおさず、人生を刻んでいることに他なりません。トロッタも14回を終えて15回目に向かっています。記憶の濃淡はありますが、それでも起こったことはすべて覚えています。YouTubeのための作業を通じて、振り返ることも多く、2007年以来のトロッタの歩みを、じっくり考えてみたいと思っています(前はトロッタの原稿を書く、という考えを抱きました。まだ、捨てていません)。
2011年12月18日日曜日
2011年12月12日月曜日
トロッタ15通信.25
久しぶりのYouTubeアップ。トロッタ12で演奏した、『ヘンリー八世の主題による詩唱曲』。昨夜、字幕付きにしたメシアンがアップできなかったので、ヘンリー八世に字幕をつけてみた。
2011年12月11日日曜日
トロッタ15通信.24(12.9分)
新たにYouTubeにアップしたもの。ペースが落ちているが、少しずつ数を増やしていきたい。
田中修一さん作曲『立つ鳥は』(初演版)
橘川琢さん作曲『冷たいくちづけ』
田中修一さん作曲『牧嘯歌』
酒井健吉さん作曲『天の川』
清道洋一さん作曲『椅子のない映画館』
宮﨑文香さん作曲『ほたる』
ある方に、メールを送る。その要点。
関心は、詩が音楽になる過程にある。
いっそ歌になってしまっていては、それはそれでいいのですが、当たり前の話であり、
その過程にある、詩人と作曲者の思いを、トロッタの私は大事にしたい。
音楽を、詩を朗読するための適当な、雰囲気作りのBGMにはしたくない。
音楽作品として、詩がきちんと五線紙に記されているものにしたい、
いつでも再現でき、そのたびに創作できる、再創造できるものにしたい。
いい加減という意味ではない、すばらしいBGM、すばらしく適当な詩と音楽の関係もあるだろうが、
それは私の道ではない。
問題もある。朗読、詩唱には音程がなく、他の楽器の音とずれてしまっても、何となく聴けてしまう。
これは歌と違った安易さで、それは拒みたい。朗読、詩唱の技術レベルを上げたい。
詩人が何となく読めば何となく雰囲気で聴けてしまうという事態は避けなければ。
これは私自身が、実践を通じて体系化していくしかないだろう。
田中修一さん作曲『立つ鳥は』(初演版)
橘川琢さん作曲『冷たいくちづけ』
田中修一さん作曲『牧嘯歌』
酒井健吉さん作曲『天の川』
清道洋一さん作曲『椅子のない映画館』
宮﨑文香さん作曲『ほたる』
ある方に、メールを送る。その要点。
関心は、詩が音楽になる過程にある。
いっそ歌になってしまっていては、それはそれでいいのですが、当たり前の話であり、
その過程にある、詩人と作曲者の思いを、トロッタの私は大事にしたい。
音楽を、詩を朗読するための適当な、雰囲気作りのBGMにはしたくない。
音楽作品として、詩がきちんと五線紙に記されているものにしたい、
いつでも再現でき、そのたびに創作できる、再創造できるものにしたい。
いい加減という意味ではない、すばらしいBGM、すばらしく適当な詩と音楽の関係もあるだろうが、
それは私の道ではない。
問題もある。朗読、詩唱には音程がなく、他の楽器の音とずれてしまっても、何となく聴けてしまう。
これは歌と違った安易さで、それは拒みたい。朗読、詩唱の技術レベルを上げたい。
詩人が何となく読めば何となく雰囲気で聴けてしまうという事態は避けなければ。
これは私自身が、実践を通じて体系化していくしかないだろう。
2011年12月9日金曜日
トロッタ15通信.23
三木稔氏が亡くなられた。私自身は、作品にしか接したことがない。しかし、氏と関わりのあった人々が周囲にいる。弔意を表したい(思うことはいろいろあるが、知らない身で勝手をいうのは控える。今は、ひとりの作曲家が亡くなられた事実に対し、弔意を表したい)。
2011年12月8日木曜日
2011年12月6日火曜日
トロッタ15通信.21
徳島から上京してきた小西昌幸氏と会う。昨日開催された、野坂操寿さんの演奏会のために来られた。伊福部先生の『琵琶行』も演奏された。まったく知らずにいた。
田中修一氏について書いた「ギターの友」最新号が届く。次号では、田中氏について書きながら、萩原朔太郎とギターの関わりを紹介できればと思う。
田中修一氏について書いた「ギターの友」最新号が届く。次号では、田中氏について書きながら、萩原朔太郎とギターの関わりを紹介できればと思う。
トロッタ15通信.20(12.5分)
12月5日は、以下をアップ。
橘川琢作曲『うつろい 花の姿』
酒井健吉作曲『トロッタで見た夢』
田中修一作曲『立つ鳥は』
ここ数日の作業を経て、いろいろと考えることがあった。少なくとも、こうした過去の上に、現在はあるという実感。
橘川琢作曲『うつろい 花の姿』
酒井健吉作曲『トロッタで見た夢』
田中修一作曲『立つ鳥は』
ここ数日の作業を経て、いろいろと考えることがあった。少なくとも、こうした過去の上に、現在はあるという実感。
2011年12月4日日曜日
トロッタ15通信.19
ひたすらYouTubeへのアップを続ける。
田中隆司作曲『捨てたうた』
今井重幸作曲『時は静かに過ぎる』
清道洋一作曲『いのち』
清道洋一作曲『主題と変奏、或いはBGMのための変奏曲』
山本和智作曲『齟齬』
清道洋一作曲『蛇』
甲田潤作曲『縁山(えんざん)流声明と絃楽合奏のための「四智讃」』
大谷歩作曲『アルバ/理想の海』
今井重幸作曲『ピアノと弦楽四重奏のための「仮面の舞」』
甲田潤作曲『嗟嘆』
田中修一作曲『こころ』
橘川琢作曲『花の記憶』
今日はここまで。
田中隆司作曲『捨てたうた』
今井重幸作曲『時は静かに過ぎる』
清道洋一作曲『いのち』
清道洋一作曲『主題と変奏、或いはBGMのための変奏曲』
山本和智作曲『齟齬』
清道洋一作曲『蛇』
甲田潤作曲『縁山(えんざん)流声明と絃楽合奏のための「四智讃」』
大谷歩作曲『アルバ/理想の海』
今井重幸作曲『ピアノと弦楽四重奏のための「仮面の舞」』
甲田潤作曲『嗟嘆』
田中修一作曲『こころ』
橘川琢作曲『花の記憶』
今日はここまで。
2011年12月3日土曜日
トロッタ15通信.18
YouTubeへのアップを続ける。伊福部昭『知床半島の漁夫の歌』、橘川琢『花骸 -はなむくろ-』『死の花』、長谷部二郎『人形の夜』、酒井健吉『ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ』、アレハンドロ・バルレッタ『Cinco preludios cosmics』、田中修一『雨の午後/蜚』をアップ。他にも続行中。
2011年12月2日金曜日
トロッタ15通信.17
昼間はできなかったが、夜はひたすらYouTubeへのアップを続けている。こればかりになってきた。
伊福部昭『蒼鷺』、伊福部昭『ギリヤーク族の古き吟唱歌』、伊福部昭『摩周湖』、田中修一『ムーヴメントNo.1(編作版)』、田中修一『ムーヴメントNo.2』を完了。ただいま、DVDからの読み込みを行っている。
伊福部昭『蒼鷺』、伊福部昭『ギリヤーク族の古き吟唱歌』、伊福部昭『摩周湖』、田中修一『ムーヴメントNo.1(編作版)』、田中修一『ムーヴメントNo.2』を完了。ただいま、DVDからの読み込みを行っている。
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