2012年1月7日土曜日

トロッタ15通信.35

2003年7月に書きました、ピエール・バルー氏についての文章の2回目です。もう9年前であることに今さらながら驚きます。しかし、9年前のことだけあって、私がなぜ、どういう経緯でこの原稿を書くことになったのか、はっきりしません。当時はサイトにいろいろと原稿を書いていました。そこに、この土台となった原稿を載せ、それをご覧いただいた上で、オーマガトキ連絡をいただいて、ということだと思います。

「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」

〈第2回〉
ピエール・バルーがこの世に生を享けたのは、1934年2月19日。パリに近いルヴァロワに生まれたが、両親は、トルコのコンスタンチノープルから移り住んでいた。移動した者の子であり、旅を宿命づけられた子であったと見ることができよう。そのピエールが自ら欲して行う旅は、14歳のころから始まったと聞く。
「少年時代、私の散歩の始まりの頃、道路の両側で交互にヒッチハイクをしていた。北に行ったり南に行ったり、西に東に…水に浮かんだコルク栓と同じ」
 CD『ITCHI GO ITCHI E』の解説で、彼はこのように語っている。散歩といい旅という、その行為。欠かせなかったのは、一丁のギターだった。心の赴くままにギターを弾き、歌い、詩を書いた。詩は−−、少年時代に観た映画『悪魔が夜来る』(“LES VISITEURS DU SOIR”)に影響されて志した。マルセル・カルネの監督作品であり、脚本には、フランスの20世紀を代表する詩人、ジャック・プレヴェールが参加している。『悪魔が夜来る』の何が、どこが、少年ピエールの心を動かしたのか。興味は尽きない。
 青年時代、フランス代表に選ばれるほどバレーボールに打ちこんだピエールは、音楽に加えてスポーツを介し、見知らぬ人との出逢いを持てた。同じく『ITCHI GO ITCHI E』の解説より拾ってみる。
「リスボン1959年、独裁政権サラザール。ブルージンにギターをかかえた私は実にうさんくさい存在であったが、どんな政権でも地下のルートはあるものだ。タージ河のむこうの漁村にとめてもらいバレーボールを通して友達を作った私は時々リスボンのイタリアレストラン『ソレント』で歌を歌った。その頃ベロアルト近くのあるキャバレーでシブーカを発見しとりこになった。彼こそが当時まったく知られてなかったブラジル音楽の豊かなメロディとハーモニーそして詩の内容を教えてくれた人だ。ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスそして後にバーデン・パウエル等の貴公子達に会わせてくれたのもシブーカだ」
 さらにこんな言葉も−−。
「人は一生たったひとつの核のまわりに人生を築いてゆく。私の場合は初めて歌を作った15才の時から『むこう岸』(未知のもの)への憧れがマクニールやブリジット・フォンテーヌ、ピエール・アケンダンゲらに扉をひらかせ、テアトル・アレフと芝居をやらせ、映画や歌を作らせてきた。そうやって私の出会った素晴らしいものや人の証言者になりたいのだ」
 1966年にはクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(“UN HOMME ET UNE FEMME”)に出演し、『サンバ・サラヴァ』を歌った。カンヌ映画祭でグランプリを、アカデミー賞では外国語映画賞を獲得するなどしたこの映画によって、ピエール・バルーの名と才能は世界に知られる。しかし、ピエールは映画スターとしての可能性をあっさり捨てた。映画産業という共同体社会に見切りをつけ、サラヴァ・レーベルを創設し、未知の表現者との出逢いを求める。もったいないことかもしれないし、残念なことかもしれないが、ピエールの思い切りを私は支持したい。
『男と女』を観る人は、ピエールの存在感があまりにも異質であることに気づくだろう。彼の出演場面のみ空気間が違っている。演技や台詞回しで他の俳優と斬り結ぶわけではなく、過剰な自己主張を画面にほとばしらせるでもなく、ピエール・バルーはピエール・バルーとして存在している。実際に逢った印象と寸分違わぬピエールが『男と女』に現われるので、かえって驚いてしまうほどだ。
 彼は映画俳優か? ノン。彼は歌い手か? ノン。彼はピール・バルーである。自分を一つの場所、一つの姿にとどめない。それもまた旅人としての生き方だ、旅人は共同体では−−、そう、生きられない。

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