2012年1月31日火曜日

トロッタ日記120131

一見、音楽とは関係のない話からーー。ここ数日、野上弥生子の長編小説『迷路』を読み進めている。直截の理由は、山本薩夫が晩年に映画化を構想していた作品だから。『戦争と人間』論を書くため、山本が何を考えていたか、知らなければと思って買っておいたまま読んでいなかった。
『戦争と人間』の映画作家が関心を持ったにふさわしい、世界大戦に突入する時代を背景にした知識人の物語。本能だけで生きている、美しく気持ちの強い女性も出る。五味川純平とは別の、“戦争と人間”である。あの小さな野上弥生子の、どこからこんな大きな世界が生まれるのか。
身体の大小をいうのは失礼だが、作家の想像力、構想力を思う。余勢をかって、秋元松代の初期戯曲集と後期戯曲集がYahoo!オークションに出ていたので落札(この文章を書きながら、円地文子との共著『女舞』を落札)。秋元松代は、私が日本で一番に好きな戯曲家のひとりだ。
日本の民俗を背景にしながら、千年単位で人の歴史とエロスをからめて描いた『常陸坊海尊』や『かさぶた式部考』は掛け値なしの傑作。私の中での最高傑作は『七人みさき』である。もちろん、他人のことをすごいとばかりいっていてはいけないので、自分の作品年について考えてみた。
後鳥羽上皇を主人公にした私の「隠岐のバラッド」が、音楽作品だが演劇性を帯びている意味で、秋元作品に匹敵すればと思う。野上弥生子、秋元松代という二人の女性作家について考えるうち、田中修一氏の作品年表を作った影響も大きいだろう、自分の詩をまとめる必要にかられた。
書き放しにするのではなく、自分を見直したい(自分が何を書いたか思い出せない状態なのだ)。昨日は、全6期にまたがって進行中の「詩の通信」を整理。トロッタで発表した詩や、他の主要作についても整理しておこうと思う。繰り返すが、詩集を作りたいとはまったく思っていない。
〈私が詩集に関心を持たない理由〉出版社との交渉には、これまでの体験でうんざりしている。しかし仕事では必要だから、これ以上、心労を増やしたくない。詩集は、どんな著名な詩人でも、自費出版となることは明らか。そして、トロッタこそ私にとっては詩集であると考えている。
詩集がいらない理由は特に最後の点が大きい。昨日書いた、他人の言葉を素直に、心から詠めるのかという点を具体的に考えなければならない問題に直面している。一昨日、日本音楽舞踊会議が3月12日(月)に開催する演奏会のチラシが、橘川琢氏から送られてきたのである(続く)。
「動き、舞踊、所作と音楽」と題された演奏会である。清道氏の『革命幻想歌2』も演奏され、私が出る。橘川氏とは、多少のやりとりがあったが、彼の叙情組曲《日本の小径(こみち)補遺より「春告花(はるつげばな)・三景」》で、詩唱をすることになった。つまり2曲に出る。
詩は私の作品ではなく、橘川氏が書くという。こういう展開になったかと、正直驚いた。橘川氏の詩は、これまでニ度詠んでいる。2007年5月、彼がトロッタに初めて参加した時の「幻灯機」、昨年に谷中ボッサで行った橘川氏個展での「1997年 秋からの呼び声」である。
聴いてくれた人からは、自分の詩よりも他人の詩を詠んでいる方が、妙な力みがなくてよかったという声を聞いた。本当かな? と思う。正直なところ、橘川氏の詩が楽しみ、というよりも不安だ。詩の出来具合とか、そういう失礼な話ではなく、私はどう詠めるのか、という意味で。

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