2011年5月26日木曜日

トロッタ13通信(40/5月25日分)

*ここ数日分の文章は、追加されている。既読のものも、決して同じではない。変化している。
5.25分
(其の七十一)
 朝から、今日は除いて残り三日間の練習スケジュールに関するメールを送るなど。
 11時から歌のレッスン。レッスンでロルカ四曲を歌うのも、これで最後。次週のレッスン時にはトロッタは終わっている。そして、ロルカの五曲目を練習する。私にとって、トロッタ14の準備はもう来週から始まる。

(其の七十二)
 今井重幸から依頼があり、追加のチラシ、チケットを渡す。ぎりぎりまで宣伝に努める姿勢を見習いたい。その間もスケジュール調整などを進める。

2011年5月25日水曜日

トロッタ13通信(39/5月24日分)

(其の六十九)
 今井重幸宅にて、『草迷宮』楽譜の整理。表紙作り。
「ギターの友」に載せる、ロルカの譜面と、ロルカの肖像を届ける。
 仕事のための読書。遅れている。

(其の七十)
 夜、渋谷にて。
『北方譚詩 第二番』の合わせ。まずピアノなしで、アカペラでの合わせ。
『草迷宮』を、バリトンソロと、女声合唱、声だけの合わせを、ピアノ入りで行なう。一時間、今井重幸による特別のレッスン。廊下で、『北方譚詩』に出演のバス、白岩洵と、詩と音楽について話す。
『北方譚詩』を、ピアノ入りで合わせる。私も立ち合う。帰宅後、苫小牧の堀井に、電話で合わせの報告。インターネットで録音を送る。
『都市の肖像』第四番、視覚効果の打ち合わせを、上野雄次と、深夜に行なう。

2011年5月23日月曜日

トロッタ13通信(38/5月23日分)

(其の六十七)
 早稲田奉仕園・音楽室にて練習。人の集まりが悪く、こんなに来ないならやめる、と練習を放棄した指揮者のことを思い出す(彼は、演奏者こそ練習を放棄しているではないか、と思ったのだろう)。
 それでも、練習した。『ロルカのカンシオネス』と、『草迷宮』。しかし、清道洋一の『謝肉祭』はできず。また『都市の肖像』の打ち合わせも満足にできず。
 氷雨の降る夜だけに、心にこたえる。さらにさまざまなことがあり、心にこたえている。だが、自分に起こっていることは、これまでの世の中に掃いて捨てるほどあった。そう思えば、気に病むこともなし。自分ひとりの存在など、何ほどのものでもない。個に過ぎぬ。個ですらない。そう思えば何でもできる。
『草迷宮』は、今井重幸にとって、実験精神の到達点だろうと思う。それが成功しているかどうかは、まだわからない。しかし、実験しようと思い、それを実現させた時点で、目的は達している。演劇としてなら、もっといろいろ演出があるだろう。これは音楽だ。演出に走るのではなく、(音楽的)表現を錬磨する必要がある。

(其の六十八)
 トロッタ13の準備を進めながら、14の構想も立てていかなければならない。12月初旬を予定している。すでに何曲か、考えはある。何人かに意思表示をしてもらっている。私はロルカの歌を歌う。12月公演なら、トロッタ13を終えた二日後には申し込みがある。考えなければ。
 ここのところずっと、スケジュール調整などに追われている。創作意欲を燃焼させられない。ロルカの歌で、燃焼すればいい。それだけに集中できればいいのだが。単純に、一篇の詩を書くなどしたい。それが、できない。トロッタの原点に立つ。それは何? 詩と音楽。それ以外にない。たくさんの人を集めて、とかそういうことではない。それは必要だが、詩と音楽、それを見つめたい(原点に立ち、詩と音楽を考えるために、スケジュール調整をしているわけだ。決して、創作と無縁のことではない。必要なことである)

2011年5月22日日曜日

トロッタ13通信(37/5月22日分)

(其の六十五)
 朝は高円寺にて、清道洋一と『ヒトの謝肉祭』の打ち合わせ。この曲が何を表わそうとしているのか、理解したい。話をしているうちに、だんだん、この曲を演奏している光景が見えてきた。別れた後、古本屋に行き、小道具として演奏中に持つ、譜面と詩を貼り付けた本を探す。曲のための、大切な準備である。昼間はロルカの楽譜を整理した。これも、演奏に使うためのもの。覚えているとはいうものの、詩を書きつけて、万が一に備える。しかし、私による日本語訳がまだできないのが気がかり。時間がない。
 夜は秋葉原にて、上野雄次と『都市の肖像』第四番の打ち合わせ。照明の使い方などを相談する。この曲も、見えて来なければならない。私の考え。先に曲があり、後で詩ができた。創作の順序はいつもと逆だが、私の態度は、橘川との共同作業で、何の変わりもない。いつもと同じで変化なし、ということではなく、お客様の前に出すまでは共同作業だと思っている。
『謝肉祭』にせよ『都市の肖像』にせよ、どちらの曲についても、体で納得できなければできない。昨年、橘川の個展で初演された『夏の國』は、練習時は声が満足に出なかったが、すべて納得した本番時には、文字通り腹の底から声が出た。納得しなければ、声は出ない。納得しないで出す声は、嘘である。技術でしかない。生の声を出すのだから、技術ではない声を聴いてほしい。技術なら、マイクを通せばいい。それは私の流儀ではない。

(其の六十六)
■ 田中隆司
 田中隆司『捨てたうた』の」譜面を、久しぶりに開く。昨年四月三十日の第十回以来だから、一年以上、手にしていなかった。
 田中隆司の曲を、戸塚ふみ代が名古屋で偶然に聴いたこと。これがきっかけで、田中のトロッタ参加が決まった。
 田中隆司が書いた芝居を、中野の光座で観たこと。久しぶりにアンダーグラウンドな芝居を観た。洗練よりも大事なものがあると、彼は思っているかもしれない。
 田中隆司が、谷中ボッサの「声と音の会」に来てくれたこと。会場ごとの使い方を考えた方がよいという意見。
 田中隆司の曲を、上野の旧奏楽堂で初めて聴いたこと。私は清道洋一の『風乙女』に出演したが、それに対する意見を、客席で彼に求めた。
 阿佐ヶ谷の喫茶店で打ち合わせを重ねたこと。彼が持つ人生のスタイルに、私の心は必ずしも馴染まない。しかし、それは全員に対してそうだろう。違えば違うほどよいという信念を、どう生かすか、生きるか。自分に問う。田中隆司に向き合うことは、自分に向き合うこと。これも、全員に対して同じことがいえる。
 荻窪のヤマハ音楽教室で、初めて合わせをしたこと。雨が降っていた。私は久しぶりに洋服を着て他人の前に立った。洋服を着ることから、私の『捨てたうた』は始まっている。いや、洋服を探し始めた時から始まっている。
 本番会場での意見の齟齬。これには私にも言い分があるが、彼にも言い分があるだろう。言い分と言い分の衝突。音楽も演劇も、同じだ。しかし、本番当日の舞台上でぶつかり合いたくないというのは正直な思い。最後までぶつからせる、という考え方もあるだろう。
 齟齬は齟齬として、翌日には舞台成果について話ができたこと。アンサンブルではなく、ヴァイオリンとピアノとだけでも演奏できるよう考えてもよいと、彼はいった。どこでもできるようにする、ということ。私の反省点。共演した役者たちと、その後の連絡が取れていない。私の作品(でもある)の駒として彼らを使い、後は知らん顔という形になっている。非常によくない。私のひとつの態度として、その後の緊密な関係作りはできなくても、トロッタを一緒に開催していくことで、関係を保ち続けるというものがある。しかし役者たちは、『捨てたうた』に出たきり。私は人を自分の思い通りに動かしたくない。
 田中隆司の戯曲集に、人生のさまざまが書かれていたこと。彼の中に、制御できない自分があるのだろう。それを背負って生きているのだろう。そんな自分を、他人にどう向き合わせるのかを考えているのだろう。
 田中隆司が指導する声楽リサイタルのチラシを三度まで作ったこと。たった今も作っている。そのチラシ作りを通じて、彼に対していろいろと考えている私がいる。芝居も観ている。電話もかかってきた。『捨てたうた』は終わり、再演の機会を得ないままだが、関係は続いている。浅からぬ関係に思いをはせている。
 彼が、『捨てたうた』のために、私の三篇の詩を、断って構成したこと。三篇の選び方、断ち切り方。そうしたことについて考えてみたいと思う。

2011年5月21日土曜日

トロッタ13通信(36/5月21日分)

(其の六十三)
■ 堀井友徳
 堀井友徳のトロッタ参加は二度目だが、これから先も長く共同作業ができればと思っている。何度か書いたことだが、堀井友徳は、彼が学生時代から知っている。伊福部昭の弟子として、東京音大に在学していた。伊福部の演奏会で会ったし、それは東京だけでなく札幌にも及んだ。作曲家だから当然だが、彼の曲が演奏される機会もあって、立ち合うことができた。長く東京にいたが、今は郷里の苫小牧にいる。そこからトロッタに参加してくれている。その思いに応えるだけの準備をしたいと、常に思っている。
『北方譚詩』シリーズについても、すでに書いた。堀井の創作態度は正攻法である。詩が先にあり、それを受けて曲を書く。正攻法というのは正統ということであり、音楽でいえばクラシック、基準であり標準であり規範ということにつながるだろう。古典様式を尊重する態度は、当然だが、歴史の流れの上に立つ。過去があったから今の自分があり、未来に継承する役目も担うと自覚する。過去は関係ない、今の自分だけがある、この先がどうなっても知らない、というわけではないのだ(過去と切れ、未来と切れる人間などひとりもいない。しかし個人の態度において、歴史意識の濃淡はある)。その意味で、彼の『北方譚詩』には、師の伊福部昭から受け継いだ要素がこめられているだろう。すべてではない。しかし伊福部の教えの上に立って、堀井友徳とは何かということを、音楽にしている。
 伊福部にはなかった、二十一世紀の精神がある(それが何で、どこをさすのかということは、今後に考えることだ。しかし、濃度はともかく、あるだろう。彼は二十一世紀を生きているのだから)。堀井友徳という個人の歴史がある。彼の歴史は彼の精神であり、体験であり、思想だ(堀井とはまだ、住む場所も離れているので、生活面のことなどを語る機会を持たないでいる。しかし、それで不足かというと、そうではない。不自由でも互いに、何とか曲を創ろうとするのが、創作の意思を抱えた者の態度だろう。ファブリツィーオ・フェスタとも、イタリアと日本に離れたまま、『神羽殺人事件』を創っている)。また第十一回のトロッタで、堀井が初めて歌を創る機会に、私は詩を提供できた。私の詩だが、堀井の曲になっている。詩を膨らませてくれている。言葉の意味を、音楽にのせて膨らませ、聴く人々に届けてくれた(すでに何度も書いたことで、まだ答えを得ていないが、堀井の曲に、詩と音楽の良好な関係を見ることができる。詩があって歌があるという、歴史的な関係に立って作曲されているから、疑問を持つ必要がない。曲ができれば演奏者に託すわけで、それは演奏者への信頼にもつながる。聴衆への信頼にもつながる)。

(其の六十四)
 私の中にも、正攻法の態度がある。それは詳述しないで論じよう。正攻法で正統だといっても、手を汚さないで、あるいは血を流さないで様式だけ重んじているだけかというと、それは違う。堀井がそうだというのではなく、まず私がそうだ(そう断言するほど、私は正統派ではないのだが、それはともかく)。

●『ムーヴメントNo.4』
 例えばこの日、田中修一の『ムーヴメント No.4』を、出演者全員で合わせた。その場にいた誰が、安泰した生活の上に立って、音を出していたか。そんな者はひとりもいないだろう。私は出演を願った側だが、彼ら彼女らは出演することを了としてくれた。私には何の強制力もない。とすると、彼ら彼女らの意思で、そこにいたわけだ。音楽とは関係のない仕事をしながら、音楽の道を歩もうとする者もある。そこまでして、ということであり、その上で『ムーヴメントNo.4』が演奏される事実を、私は重く受けとめている。
 田中修一も伊福部昭の弟子であり、彼の曲に伊福部の要素は濃い。流れを汲んだ曲である。伊福部の口から田中のことが話されるのを、私は聞いている。田中の態度も正攻法であり、師の教えを受け継いで自分の音楽世界を表わそうとする姿に、歴史性や時間の意識を感じている。田中修一の音楽を聴きながら、伊福部昭を聴くことにもなる。弟子を通じてなお存在を感じさせる、伊福部昭の強さ、大きさを思うかもしれない。しかし、(伊福部を軽んじるわけではなく)私が聴いているのは、あるいは私が出演して声を発しているのは、田中修一の曲であってそれ以外の何ものでもない。田中の曲は、伊福部の曲に似ているかも知れない。だが、演奏者が、自分たちの世界を表現するだろう。その時点ですでに、歴史は移っている。伊福部昭の次の時代に。時代性は先に送られている。
 ありふれた例だが、モーツァルトを21世紀に演奏する。それはアマデウスが生きた時代の音楽ではない。21世紀の表現にほかならない。田中修一の曲に伊福部昭を感じる。しかし演奏された時点で、たとえ似ていても、それは伊福部の音楽ではない、田中修一の音楽だ。次の時代の音楽なのである。どう表現するか。前時代にとどめるか、次世代に送れるか、それは演奏家にかかっているのではないか?
 堀井友徳を語ろうとしながら田中修一の話になったが、堀井について語りたいことは同じである。私は堀井の曲に出ていないので、出演曲として実感を得ている田中修一の『ムーヴメントNo.4』を例にあげさせてもらった。直接語れないじれったさを感じているが、その機会はいずれ来る。堀井からはすでに(田中もそうだが)、第十四回「トロッタの会」で演奏する曲の希望を受け取っている。互いの二十一世紀精神が、さらに深まればいい。
 短く、私の意思を書いておく。時代と無縁の音楽を作る気は、私にはまったくない。東日本大震災が起こり、原発事故があった。そのような時代の音楽を、私は意識している。あえて“時代を撃つ”などという表現をする必要はない。“撃つ”などと表現する自己満足意識に、私は与(くみ)しない。

トロッタ13通信(35/5月20日分)

(其の六十一)
*朝十時、今井重幸宅にて、連載原稿「ギターとランプ」ロルカ篇を確認するなどの作業。帰宅後、池袋に向かい、12時から橘川琢『都市の肖像』第四番の合わせ。ピアノの森川あづさ、ソプラノの大久保雅代、作曲の橘川、そして私。詩を詠むタイミング確定できた。雑司が谷地域文化創造館に行き、予約中の練習場代金を支払う。帰宅後、週末、週明けの練習場所を何か所か確保。夜は練習場として初めて使う渋谷区文化総合センター大和田を下見して、予約。19時から三浦ピアノにて『ヒトの謝肉祭』の合わせ。ギターと弦楽カルテットほぼ全員が集合。演者の中川博正も。21時終了まで行い、食事をして帰るとくたくたで、何もできず(この忙しい時に、プロバイダ料金未払いでメールの送受信が不能となる。その後、支払いをすませて復旧。連載原稿も送信できた)。

(其の六十二)
●『都市の肖像』
 録音はしたが、まだ聴いていない。軟らかい詠み方ができていればいい。花いけの上野雄次が、この曲にどんな視覚表現を与えてくれるか楽しみだが、この点については、なお打ち合わせが必要であろう。うまくいけば、私と橘川の共同作品に、まったく新しい世界を作り出せると思う。これまで器楽曲だった『都市の肖像』が、第四番で、詩と歌、花をともなうものとなる。また私の詩も、子どもの世界を描いたもの。さらにいえば、私の三十年来のテーマ、題材である、“古東京川”を、初めて詩で描いた作品になる(ビデオ作品はある)。
●『ヒトの謝肉祭』
 この日は第一ヴァイオリンが参加せず。その他の人々は、ほぼ合って来た。ただ、この曲における詩唱者の位置づけがまだわからない。このままでは、たとえ作曲者の意図どおりにできたとしても、不完全燃焼に終わる。私自身の創作、表現になっていない。打ち合わせをして、曲の世界を納得したい。
●『ロルカのカンシオネス』
『アンダ・ハレオ』一曲を合わせただけで、時間切れとなる。練習室の延長ができなかった。欲求不満。しかし、一日の体力としては限界。

 メゾ・ソプラノ、松本満紀子の第三回リサイタルのチラシを作っている。ほぼできたが、いくつか訂正の要あり。田中隆司の曲も多い。今回を代表する曲は、宮澤賢治の詩による『永訣の朝』。ここにも、詩と音楽を探究する人がいる。

トロッタ13通信(34/5月19日分)

(其の五十九)
*ショックなことがあった。高田馬場のBen's Cafeが、20日(金)で閉店するという。東日本大震災の影響だという。夜の客足が落ちたこと、イベントやパーティのキャンセルが相次いだこと、そして、このお店に多かった外国人が帰国していなくなってしまったことで、収益の減少を招いた。
 何の気なしに立ち寄っただけだが、偶然、閉店間際に足を運べたわけで、不幸中の幸いだった。今は行っていないし、長く足を運んだわけでもないのだが、「奇聞屋」同様、ここは私が、朗読の力を鍛える場だった。何年も通っている人は、もちろん、私の比ではなく、鍛え続けている。私は音楽を意識してトロッタを始めたので、そちらに重心が移り、Ben's Cafeには行かなくなった。朗読の基本は、音楽もそうだが、たったひとりで詠むことだと思う(音楽は、発生の初期から、合奏があっただろう。必ずしもひとりではないが、合奏にせよひとりの集まりから集団に発展するので、基本はやはり、ソロだと思う)。Ben's Cafeの舞台は、覚悟して舞台に立ち、詩を詠むことを意識させてくれた。がやがやとした状態で、多くの人が聴いていないのに詠むことの厳しさをも体験させてくれた。残念だ。詩を詠む場としてだけでなく、カフェとしても理想の店だった。残されたトロッタを続けていかなければと思う。

(其の六十)
*夜は「ギターの友」の原稿を書き続ける。翌20日(金)が締切である。参考資料を見ながら、民謡の詩を訳す。CDや楽譜に詩が日本語訳詩が添えられているから、それでいいわけだが、少しでも自分の言葉にしたい。本番までにはすべて翻訳して、プログラムに載せたい。今井重幸にも質問をし、とにかくまとめる。ロルカについて、なぜ『ロルカのカンシオネス』を演奏したいと思ったかについて、いろいろ説明することがあるので、なかなか曲の解説に入れない。明朝、今井の確認を経て、提出する予定。
 週末から来週にかけてのスケジュール調整がなかなか進まない。原稿を書くこと、スケジュールを調整すること。すべて別のものだから。
 本番まで十日を切り、まだプログラムも作っていない状態で、さらに仕事などもあるので、このブログの書き方が、トロッタ論ではなく日々の報告になっている。ご容赦いただきたい。何とか書き続けたいと思いながら、時間が取れない。しかし、つぶやきにはしたくない。報告を、したい。

トロッタ13通信(33/5月18日分)

(其の五十七)
*同じ場所で、フェデリコ・ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲の『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]I - IV』、清道洋一の『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』、堀井友徳の『北方譚詩 第二番』を合わせ、さらに場所を移動して橘川琢の『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》を合わせた。
 すべて声をともなう曲である。作曲家ごとに聴こえてくるものが違う。
●『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]』
 楽器アンサンブルと合わせるのは難しい。しかし、音の世界が広がっていることは間違いない。ピアノなりギターなり、ひとりの楽器で演奏するより、音の豊饒さが出るかもしれない。スペインの雰囲気を醸し出せるかもしれない。雑誌「ギターの友」の連載『ギターとランプ』に、前後篇構成で書く予定。
●『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』
 指揮がなければ難しい。演奏者は合わせるのに苦労している。それ以上に、私は何をするのか、見えて来ない。演者の中川博正とともに、声を出すふたりは何をするのか。清道洋一の頭の中、心のうちを表現することになるのだと思うのだが。
●『北方譚詩 第二番』
 男女の声が重なっただけでも、豊かな気持ちになる。テノールの根岸一郎と、バスの白岩洵の、低く落ち着いた声の重なりがよい。もちろん、ソプラノの柳珠里、アルトの青木希衣子の透明感もよい。言葉がどこまで聴こえるか。さんざん、ここで書いてきたことだ。意味を、どこまで伝えられるか(やはり、意味が伝わってほしいとは思っている)。
●『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》
 大久保雅代による声について、書いておく。詩『ぼくたちはどこまでも河をくだる』は、子どもの物語である。私はできるだけ優しく、やわらかく詠みたい。ここで聴こえる女声は、天の声であり(街が水没してしまった世界の物語である)、母の声であり(女の子は河をくだりながら母を求めている)、水の妖女セイレーン(人を水にひきこんで殺してしまう)の声でもある。その大きさと深みが出ればいい。詩唱の課題は自分で克服したい。

(其の五十八)
 5月18日(水)、第三水曜日なので、西荻窪のライヴハウス「奇聞屋」にてオープンマイクの朗読会に出る。トロッタの直前には、トロッタ関係の詩を詠むことにしている。三篇、『たびだち・北の町』『森と海のある土地(*曲名は「森と海への頌歌」となる。詩の題もそうするかもしれない)』『ぼくたちは河をくだる』を詠んだ。『北の町』は私の声と、ピアノの吉川正夫によるデュオ。後の二篇は、声は簑和田慶子、ピアノは吉川正夫とのトリオ。
 音楽とともに詩を詠む、最終的にそれは音楽になる。というスタイルは、奇聞屋で模索してきた。一か月に一回、そのような機会を得ているのだから、貴重である。この日は、音楽と一緒にではなく、自作の詩をひとりで詠む参加者もいて、新鮮だった。トロッタでも、私はひとりで詠んだことがある。ひとりでも、詩唱にはなるのである。それを音楽として人が聴いてくれるかどうかは別なので、その点、私は工夫をしたい。しかし、朗読者ひとりでも聴かせられることは、再確認した。私もそこから出発している。
 奇聞屋の前に、八木ちはるのフルートを聴いた。ヤマハホールで、彼女は尾高尚忠の『フルート協奏曲』を吹いた。熱演だったと思う。そこでしか聴けない、ライヴの印象が強かった。生きている証明。その音楽的印象を大切にしたい。

2011年5月20日金曜日

トロッタ13通信(32/5月17日分)

(其の五十五)
*フェデリコ=ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲による『ロルカのカンシオネス』の練習を、編曲者立ち合いの元、ギター奏者萩野谷英成とともに行う。練習場は、荻窪駅南口にある、ヤマハ音楽教室。
 編曲者が強調するのは、歌として、歌ってほしいということ。言葉は大切にするが、それに加えてメロディとリズムを重視してもらいたい。
 スペイン語で歌うから、歌っている私にも、言葉から実感するものはない。しかし意味を持つ言葉には違いない。大学を出て数年後のこと。独り芝居として『東海道四谷怪談』の連続上演を続けた。共同作業をしている人々からしきりにいわれたことは、言葉を大切にしてほしいということだった。今から思えば、違ったニュアンスでいったことかもしれないが、私には、意味を大切にしてほしいと聞こえた。聞く者に誤解を与えないためには、言葉を続けていうのではなく、ていねいに、切りながらいう方が間違いない。しかし歌は、レガートで、言葉を切らず、つなげて歌う。意味を誤解されないようにと思うが、ただ話している時でさえ誤解を生むのに、歌で意味を伝えるのは難しい。聴いている人が歌詞を聴き間違うことはよくある。アクセントも、話し言葉のものとは違ってくる。調子で聴いてしまう。
 芝居のように、意味を伝えようとしても駄目だろう。言葉を歌うのだから、正確な意味は伝わらないと思った方がいい(それでもなお伝える工夫は、歌い手がすべきかもしれない)。

(其の五十六)
*前日、今井重幸作曲『草迷宮』の合わせがある。雑司が谷地域文化創造館の多目的ホールにて。バリトン・ソロの根岸一郎に注文が出る。今井の楽譜には、sprechgesangと書かれている。音程はない。リズムだけが書かれている。語るように歌うということで、シェーンベルクらが用いた奏法である。今井は、きれいに歌おうとしないで、もっと粗野にというのだが、これがなかなか難しい。
 泉鏡花の『草迷宮』から得たイメージを、今井が自由に詩として表現した。母親が歌っていた、通りゃんせ、通りゃんせというわらべ歌を追い求める青年が主人公が物語る(歌う)。「空が落ちる 海が燃える ほう、火の玉も来い! 黄泉(よみ)の帳(とばり)も降りて来い!」と。
 思い出せば、田中修一の『MOVEMENT No.3』にはdeclamando risoluto ma espr. 物語るように、決然と、しかし表情豊かに、と書かれていた。「世の終わりの儀式 千万年が過ぎてゆく」と。
 今井の曲にせよ、田中の曲にせよ、きれいに歌おうとするだけでは表現できないのである。実は、先のロルカの曲でも、私に対し、きれいに歌おうとしないで粗野に歌ってほしいという注文が出されていた。きれいに歌うことも難しいが、表現のレベルは落さず粗野に歌うことは、なお難しい。私でさえ、歌のレッスンでは粗野に歌ってとはいわれていない。誰もいわれてないだろう。きれいに歌うことも粗野に歌うことも表現である。おおまかにいえば、前者は、どの曲でも心がけること。後者は、ある曲によって心がけること。前者は歌手としての表現。後者は、歌う曲に応じての表現といえるだろうか。

2011年5月16日月曜日

トロッタ13通信(31/5月16日分)

(其の五十三)
■ 甲田潤
 彼とのつきあいは、約20年以上になる。『伊福部昭 音楽家の誕生』を書いていたころ、東京音楽大学の民族音楽研究所員として常駐する彼には、さまざまな便宜をはかってもらた。1995年ごろに出会ったと思う。トロッタを始めるにあたって、甲田潤にも出品を依頼した。いや、もっと広く、協力してほしいと思った。できれば、一緒にトロッタを作っていこうとした。
 甲田潤とは、1999年3月初演の、合唱曲『くるみ割り人形』を共同製作した。チャイコフスキーの原曲を彼が編曲し、私が日本語の詩を書いたのである。ピアノ伴奏のためだけでなく、オーケストラ伴奏の合唱曲にもなっている。そして去る2011年3月には、地震のために正式の形ではなかったが、新たな合唱曲『シェヘラザード』を発表した。こちらも、オーケストラ伴奏版が間もなく作られる。夏に演奏されるだろうか。
 2005年には、甲田潤の依頼を受けて、合唱のための詩『ひよどりが見たもの』全七篇を書き下ろしている。しかし曲がなかなかできない間に、2007年には酒井健吉が詩唱と器楽のための曲とし、2010年には田中修一が、七篇から二篇を選んでソプラノとピアノのための歌曲にした。甲田潤による『ひよどり』の前奏を聴かせてもらったが(まだ歌が始まるまで行っていない)、彼らしい厚みのある音の重ね方であった。詩に対しては異論がないはずなので、合唱曲として完成される日を楽しみにしている。
 その、始まりの一篇を掲げよう。



「夜あけ」

夜がささやく
もう行くから また明日
朝がささやき返す
おはよう 元気だったかい
時が去り、時が来(きた)る
移りゆく時のはざまで
羽の衣に包まれ
じっと 目を閉じている
一羽のひよどり

朝露にしっとり濡れた私の翼
もう少し眠っていたい
誰にも邪魔されない ねぐらの中で
静かだな
風はもう 吹いていない
静かだな
雨ももう やんだみたい
怖かった 昨夜の嵐
何もかもが吹き飛んで
この世の終わりが来たかのような
春の嵐だった

羽の音が聞こえた
誰かが飛び立った
また羽の音が聞こえた
誰かがどこかへ飛んでゆく
まだ暗いよね 暗いはずなのに
きらきら星がとけてゆく
黄金色(こがねいろ)の光が 
夜のとばりを押し上げて
朝の訪れを告げている
さあ 起きなさい
新しい一日の始まりだよ
どこかで聞こえる 朝の声
まだいいでしょう まだいいよね
私はもう少し 眠っていたい
この木の上で じっとしていたい
でも また誰かのはばたきが
もう 夜が明けるのかな

(其の五十四)
 甲田潤は、女声合唱団コール・ジューンの指導を続けている。彼女らの演奏会は、四百人規模の会場がもう満席になるほどで、その点はトロッタが見習わなければならないと、常に思っている。コール・ジューンの演奏会を聴いた時、女声合唱の透明感に心をうたれ、涙が流れて止まらなかった。伊福部昭追悼演奏会が、代々木上原のけやきホールで行われた時、私とコールジューンは前後して舞台に上っている。伊福部の『オホーツクの海』について書かれた更科の詩を私が詠み、その後で、コール・ジューンが『オホーツクの海』を演奏した。トロッタにも、合唱団として出てほしい。早稲田奉仕園スコットホールで女声合唱が聴ければいい。自分たちの演奏会を作ってゆく彼女らの思いもあり、なかなか、難しいことではあるが。
 声の力。人が発する声の力は、それ自体に価値がある。それは肉体そのもの力。肉体は、生きている証である。
 私にとって、詩と音楽の出発点に、甲田潤がいる。だから、トロッタを始めるにあたって、私は彼と手を携えたかった。現実には、そうなっていない。理由はさまざまある。しかし、甲田潤は二度、第七回にソプラノとヴァイオリン、ピアノによる『嗟嘆(といき)』を、第八回に独奏曲『ピアノのための〈変容〉』、縁山流声明と絃楽のための『四智讚(しちさん)』を出品してくれた。特に『四智讚』は、声明のたに三人の僧侶に出演してもらうという、通常では考えられないトロッタとなった。甲田潤の音楽は、トロッタに近いところにあると思う。彼が容易に参加できないのは、私の力が不足しているからだ。
 私は彼のため、2007年に、こんな詩を書いている。具体的には、甲田潤が作曲し、甲田潤と音楽活動をする、ソプラノの弓田真理子に歌ってもらえたらと思っていた。目下、甲田潤の心はこの詩にないと思うが、いつか、実現できればいい。



うたいたくて

木部与巴仁

あなたは うたおうとする
立っている うたおうとして
歌は 何もないところに
生まれる

すり切れた日常に 求める
すりへった心に 求める
こわれかけた風景に 求める
そんな あなたの歌
ちぎれかけた時間を つなぎとめたくて

あなたがうたうまで
何もなかった
あなたがうたうまで
見えなかった
聴こえる 声が
見えてくる 心が
はっきりと

目を閉じれば 思い出せる
安らぎとともに
眠っていた 忘れかけていた
あの時のこと じっと
耳をすましている

聴きたい
あなたの声
見たい
あなたの姿
味わいたい
あなたが作り出す
作り出さなければ なかった
風景

覚えていてほしい ずっと
忘れないでほしい いつまでも
刻みつけて 深く深く
見てごらん ここにある
見えるだろう 目を凝らせば
歌が あらわしたもの
あなたがうたってくれたもの
光っている
そっと

2011年5月15日日曜日

トロッタ13通信(30/5月15日分)

(其の五十一)
■ 山本和智
 第七回に『齟齬』を出品した。齟齬をテーマに四行詩を書いてほしい、というのが山本の希望であった。詩人(私とは限るまい)が書く言葉を、作曲家が拡張ないし増幅しなければおもしろくないと、第六回を聴いて考えたという。『齟齬』の楽器編成も、弦楽四重奏とJAZZアンサンブルで、トロッタでは初めて、PAを通した演奏をお聴きいただくことになった。生の音と増幅された音。これ自体が“齟齬”といえたかもしれない。さらにJAZZ奏者らが、女優と一緒に演技を伴って登場したこと自体、初めてのことであった(もっともこの回は、清道洋一の『ナホトカ音楽院』があって、この曲にも清道特有の演劇的演技があり、花いけの上野雄次がトロッタに初出演して花いけを見せ、語りの要素が濃いファブリツィーオ・フェスタの『神羽殺人事件』が初演されて、これまでになく、“増幅”ないし“拡張”的な曲が多かった)。
 その後、山本には、谷中ボッサの「声と音の会」に曲を出してもらえないかと打診してスケジュールが合わず、またトロッタにもいつでも曲を出してほしいといっているが、これも実現していない。山本は、私が上野雄次と行なった『花魂-HANADAMA-』にも、ソロライヴと銘打って行なった『隠岐のバラッド』にも足を運んでくれた。山本のために、私は詩を書きたいと思っている。出会った当初の彼がいった四行詩の形で、例えばこのようなものを書いてみたが、どうだろうか−−。

(其の五十二)

齟齬の町

木部与巴仁

何かが少し違う町
見慣れているのに見慣れていない
何かが少し狂った町
覚えているのに覚えていない

節電のためしばらくの間
当店は午前九時開店と致します
貼紙が風に舞うコインランドリー
当店が無理なら別の店に行きますよ

洗濯駕篭を提げて歩く町
初めてじゃないだろう
初めてに見えるのだが
洗濯駕篭が恥ずかしい

朝の光が塀を照らす
朝の光が道を照らす
ここはどこの町?
ここはどこにある町?

私は知らない町を歩いていた
私は見たことのない町を歩いていた
こんな近所にこんな町が?
私は歩いたことのない町をさまよっていた

ぬけだせるのか? どうやって
洗濯をしなければ
ぬけだせない どうやっても
洗濯をするまでは

携帯電話が鳴っている
「もしもし私」「ああ、おれだよ」
「もしもし、いまどこにいるの?」「ああ、おれにもわからないんだよ」
「もしもし私よ」「おれだったらおれだよ」

すぐかっとする女なのだ
ばかにしないでと叫ぶなり切ってしまった
すぐかっとするのだおれも
ばかにしないでと聞く前に切ってしまった

朝の光が翳りを帯びて
朝の光が力をなくして
見知らぬ町に落ちている
見知らぬ町に降っている

知らない町を歩いていた
見たことのない町を歩いていた
もう二時間が経つ
歩いたことのない町をさまよい続けた



 山本和智は、アウトサイダー・アーティストのフリードリヒ・シュレーダー・ゾンネンシュターンを敬愛しているという。ゾンネンシュターンの絵は、日本ではシュルレアリストたちの評価を得たようだ。しかし、画家本人にとっては、彼が描く世界は超現実ではなく、現実だったのではないか。
 山本和智は、やはりアウトサイダー・アートのヘンリー・ダーガー(2011年5月15日まで、ラ・フォーレ原宿で作品展が行なわれていた。私は行けなかったが、山本は先月、すでに足を運んでいる)の作品を評して、“生きるための絵”とも、“描かねば生きることができなかった画家の絵”ともいった。心に刻みこんでおきたい言葉だ。

トロッタ13通信(29/5月14日分)

(其の四十九)
■ 松木敏晃
 第五回に、『冥という名の女』を出品した。アルトと詩唱、ピアノのための曲である。この詩は、下落合を歩いていて、ふと目にとめた、くちなしの花を忘れられず、女の姿に重ねて書いた。同様の詩に、九段坂に咲く飯桐(いいぎり)の姿と、水に棲む女を合わせて書いた『水にかえる女』がある。
 松木は第四回に足を運んでくれ、その上で第五回に参加した。曲目解説には、漠然とした言葉のイメージだけを紡ぎ、詩を書くのは初めての体験だった。つまり、言葉を受けとめ、そこから浮かんでくる音楽の形をすくいとっていったということだろう。
 歌と詩唱が重なる。それぞれがピアノと重なる。メロディとリズムのぎりぎりの緊張がある。松木が教えてくれたのは、詩唱には抑揚やアーティキュレーション(音のつなげ方や強弱)があるからメロディの要素がある。しかし、リズムもまた大切だということ。特に、音楽作品における詩唱は、歌や楽器との、リズムのからみあいを意識しなければならない。それができなければ、音楽がBGMになってしまう。BGMにするかどうかは、詩唱者の力次第だ。私もうまくいっているかどうかわからない。
 松木にはぜひもう一度、参加してほしい。音楽作品は、作曲家の声であろう。私は松木の声を聴いた。『冥という名の女』の演奏後、松木の友人、知人が、曲を称賛する言葉を耳にした。その人々も、曲を通して、松木の心の形を見たのであろう。
 松木には、次の詩を送ってある。いつの日か、形になればいい。

黒い翅(はね)

木部与巴仁

燃える翅
黒くはかない
それは女の背に
生えては落ちる
つまみあげ
燃やしている
女の火にあぶられて
消えうせる
跡も残さず

女にはいわず
隠し持つ
一枚の翅
見つけておいた
部屋の片隅で
ガラスの器にしまってある
あかしとして
はかなくても
女の生を感じていたい

黒い翅
生のあかし
指先を女の背に
じっとして動かず
まかせていた からだ
かすかな気配
口づける
ほのかに匂う
裸の香りに
翅のありかを知る

(其の五十)
■ 成澤真由美
 第八回に、『オリーヴが実を結ぶころ』を出品した。トロッタでは初めてとなった、高低ふたりの女声による歌として、初めから意識して書いた。ソプラノ〈瑠璃〉が赤羽佐東子、それより低いヴォーカル〈紫苑〉として笠原千恵美が出演した。楽器は、フルート、弦楽四重奏、ピアノである。女声の対話を実現したかった。まさに、エグログである。
 成澤は、2008年12月7日(土)の第七回トロッタと、299年3月22日(日)の橘川琢作品個展2009《花の嵐》を聴いて、第八回への参加を申し出てくれた。
 曲の印象は、実験的なものであった。成澤自身が、実験を欲しているのであろう。自分に何ができるか、それを曲を書くことで、確かめたい。私もそうだ。エグログは初めてだったのだから、結果を聴きたい。ただ、実験をするならば、続けたい。一度切りの実験はあり得ない。死ぬまで実験でいいのだし、安定したスタイルにのっとって、安定した曲、あるいは詩を書き続けても、私には意味がない。次が前と同じなら、前一篇があればいいことになる。「トロッタの会」自体が実験ではないか。
 第九回へも参加してもらいたく、私は成澤に詩を書いた。成澤には別の意図があり、この詩をトロッタのためではなく曲にしたいという意向があった。幾度かやり取りがあったが、実験ではなくやり取り自体が途絶えた。返事がないまま、トロッタは回を重ねている。私は、詩を預けたつもりだ。いつでもいい。返答があればと思う。私も実験をしたいのだから。
 ちなみに、詩の最後に、記号のような一行がある。これがなぜ書かれたか、覚えていない。コンピュータを前に寝てしまい、無意識にキーを押したのか。意味は無いが、おもしろいのでそのままにした。不要なら、いつでも消せる。

ヅ・ドゼーラ症候群

木部与巴仁

ろうそくの灯(ひ)は
生命(いのち)なんだと
教えてくれた
もういない人
逝ってしまった

灯が揺れる
風もないのに
消えないで
お願いだから
呼びかけていた

ともしびに
両手をかざし
もう一度
逢わせてほしい
祈り続ける

くらやみで
胸の鼓動を
聴いていた
寄り添いながら
瞼を閉じて

ふたりだけ
ここにいるのは
あなたと私
ささやきかわす
小鳥のように

六月の朝
帰らないでと
いいたくて
後ろ姿に
言葉を呑んだ

からみあう
指先も燃え
どこまでも
歩き続けた
冬枯れの街

この肌を
あなたのものに
命すら
あなたのものに
抱きしめていて

虫にさえ
命があると
思い知る
あなたを亡くし
泣きぬれた夜

楽しかった
思い出も去り
今はただ
涙を流す
ひとりぼっちで

おやすみね
わずらいもなく
悩みもなく
苦しみもない
眠りの時を

蚊として
生まれたから殺される
ごきぶり

なめくじ
として生まれたから
殺される

だに
虱(しらみ)だったので
蜘蛛なのだ
百足(むかで)として
紙魚(しみ)だから
蛾なのだ
殺されなければならない

ヅ・ドゼーラ症候群と命名された
人を襲う
現象

薔薇の鍵は
必ず身につけましょう
足に
手に口に
白く光っている
薔薇の鍵を
頭と膝 耳と背中 かかと
紛失した場合は
罰金を申し受けます

触れると痛い
花に触れようとして
ちくり
棘に刺され
ふきだす血
思わず口にふくんで
味わう
薔薇の鍵
しっかり身につけないから
痛い思いをする
ヅ・ドゼーラ症候群
どうしてもやまない雨を
うらめしく思いながら
診断されてしまった
六月の午後

冷たい階段を下りてゆく

cchh eeeee ed dcc

2011年5月14日土曜日

トロッタ13通信(28/5月13日分)

(其の四十七)
 私はもともと芝居をしていたので、清道洋一の感覚にはわかるところがある。私がそう思っているだけかもしれない。しかし、それは措いて−−。
 2010年12月12日(日)に、第6回「ボッサ 声と音の会」として、『隠岐のバラッド』を行なった。後鳥羽上皇が配流先の隠岐で、日本全国に向けてメッセージを送る、海賊放送を行なっている。マイクを前に語り、楽士の演奏で歌い、各地の配所を結んだ情報を交換しあったりもしている。
 当初は、私のソロライヴとして、たったひとりで行なう予定だった。しかし、内容を吟味していくうちに変更が生じた。橘川琢、清道洋一、田中修一という三人の作曲家に協力を求めるたのは予定どおりだが、萩野谷英成にギター演奏を依頼し、チラシができた後に急遽、詩人で俳人の生野毅に対し、自作を詠んでもらいたいと頼んだ。語り、歌い、演じる。演劇の要素と音楽の要素を持った作品になった。これはトロッタを続けて来たからできたことである。
 田中修一の『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』について、“エグログ”とは対話劇のスタイルを持った音楽だと書いた。音楽の要素が強い対話劇ともいえる。オペラもそうだが、演劇と音楽が未分化だ。一般にオペラは音楽の一ジャンルとみなされるが、演劇の要素が濃いことを無視する方がおかしい(日本の能や歌舞伎は、さらに舞踊の要素が加わっている)。『隠岐のバラッド』をオペラとはいわないし、いうつもりもない。しかし、自然と両方の要素が入った。やはりトロッタがあったから、『隠岐のバラッド』は実現したと、私は信じている。田中修一、橘川琢、萩野谷英成、生野毅。誰もが力を合わせてくれた。思いはそれぞれあるだろうが、清道洋一にとっては、彼が普段から意識している形式に、近い結果となったかもしれない。清道はもう15年、萬國四季教會という劇団のために音楽を書き続けて来ている。
 繰り返すが、ライヴを企画した当初は、結果を予想していなかった。台本もなかった。後鳥羽上皇に扮することも決まっていない。共演者も初めはなかった。すべてが自然と、落ち着いていったのだ。落ち着いたということは、必然性があったということ。ひとりでギターを弾いて歌えるなら、あるいは作曲までできるなら、文字通りのソロライヴで、誰の力も借りなくていい。わざわざ芝居に近い形を取らなくても、淡々と歌っていくだけで、一晩の舞台は成立する。だがそれができないので、作曲家と演奏家の力を借りた。その結果、演劇と音楽、“詩と音楽”といってもいいが、そうした要素を持つ作品になった(この前段階に、花道家の上野雄次とともに、やはり谷中ボッサでのコラボレーション作品『花魂-HANADAMA-』を行なった。私にとっては初めての即興であった。芝居ではないが、台詞に頼らない身体表現である。いきなり『隠岐のバラッド』に行き着いたのではないことは記しておきたい。生傷の絶えない一週間公演であった)。

(其の四十八)
 清道洋一と初めて言葉を交わしたのは、オーラJの演奏会場だ。評論家の西耕一が紹介してくれた。そして後日、改めて神田神保町の喫茶店、ミロンガで会った。清道は自作の演奏を収めたCDを持参した。そこには、彼の代表曲といっていい弦楽五重奏曲『蠍座アンタレスによせる二つの舞曲』もあった。そして私は、「詩の通信」第一期23号に掲載した『椅子のない映画館』を、仮に作曲してもらうならこれではないかと持参していた。一読した清道は、期待どおり、『椅子のない映画館』を楽曲化するとその場で約束した。会う前の私に計算があったわけではない。直感しかなかった。
『椅子のない映画館』は、不治の病に亡くなった演劇評論家、長尾一雄の言葉にヒントを得て書かれた。築地の方に、椅子のない、立ったまま映画を観る映画館があった、と。なさそうな話なのに、長尾はあったという。あったに違いない。しかし、なくてもいい(ある方が変だといえる)。芝居は、虚構と現実の境目に位置する。『椅子のない映画館』は、ありそうでなさそう、なさそうでありそうな世界を描いた詩だから、演劇の世界に居続けて来た清道にふさわしいと思った。彼は混沌とした世界にひかれている。領域を拡大したいと思っている。初演と再演の会場に、彼は椅子に関するオブジェを置いて、美術の方面にも領域を広げた。それは作曲者にとっては大切なことだが、私は仮にそれがなくても、曲自体(清道にとっては椅子も曲の大切な要素だが)で、じゅうぶんに領域は広がっていると思う。想像力の領域が広がっているのだ。聴こえるもの、見えるものにも増して、想像力が広がることこそ、芸術表現において大切だろう。

トロッタ13通信(27/5月12日分)

(其の四十五)
 橘川琢について、一言、付け加えておこう。彼だけの課題ではないが、叙情性とどう向き合うかを、私は共同製作者として、一緒に考えたいと思っている。感情をどう発露させるか。芸術表現を支えるのは感情だ。もちろん理性も支えているが、理性的な態度に終始するなら、わざわざ芸術活動はしなくてよい。理性的芸術というものがあったとしても、私に限っていえば、おそらく、ひかれない。ただ感情というものに、人は溺れがちだから、それを芸術表現の力とする以上はコントロールしなければならない(いや、コントロールできないのが感情だろうか。コントロールすべきは、感情ではなく、表現のスタイル、形式、方法か)。橘川琢の音楽は、叙情的だ。曲名からして、『日本の小径(こみち)』『古い署名』『小さな手記』『秋からの呼び声』といったものがあげられ、『都市の肖像』もある。自分の叙情性を発露させる手だてとして、彼は詩、あるいは物語を欲したのだと思う(『日本の小径』『古い署名』『小さな手記』『秋からの呼び声』といった曲名に、すでに私は物語性を感じている)。『1997年 秋からの呼び声』が演奏できなかったのは、彼が自分の感情をコントロールできず、その結果、表現スタイルと方法のコントロールが不足したからだろう。第十三回の『都市の肖像』第四集《硝子の祈り》がどんな作品になるか、叙情性の新たな形に期待している。(さらに付け加えるなら、彼の作品一覧を見ると、2007年から詩歌曲の割合が増え、曲名は『うつろい』『恋歌』『鼠戦記』『花の記憶』『冬の鳥』『夏の國』といったものである。私との共同作品で、詩の題名でもある。これら自体、すでに叙情的であり物語性があるとわかっている。橘川の課題は、私の課題でもある)

(其の四十六)
■ 清道洋一
 清道洋一の談話を構成してみた。
「トロッタに参加して、自分自身がテーマとすること。それは、領域の拡大です。領域を広げる試みをしているのです。映画やオペラは、総合芸術と呼ばれて来ました。自分がめざす形は、映画やオペラのようなものかも知れないし、芝居に近いかも知れない。そうした既成の言葉で表現できないものかも知れません。音楽劇、演劇音楽といってしまうとおもしろくなくて、詩と音楽をすべて含め、音楽として作っていこうとしているのです。現代は、あらゆる分野で境界や様式が細分化しています。しかし境界がない時代に成立した表現は、技術が今ほど発達していなくても、その時代なりの先端技術が集積していたでしょう。照明でも、音響でも、装置でも、美術でも。トロッタにおいて私は、未分化な表現、あるいは領域を広げた表現を試みていますが、その意味で、初のトロッタとなった第六回で初演した『椅子のない映画館』は、私にとって重要な作品となりました。美術、工芸が、圧倒的な比重を占めるものとして作ったのです。舞台の外に置かれた、新聞紙が梱包された椅子を始め、情報がとてもたくさん乗っている音楽です。第九回の『アルメイダ』は、演劇に接近した音楽で、エレクトーンシティの広い会場を全体に使って、したいことをさせていただきました。第七回の『ナホトカ音楽院』も重要です。捏造による音楽世界が始まった曲です。トロッタでは演奏されていませんが、私が参加するグループ『蒼』の第26回公演で初演した、詩唱と木管四重奏による『風乙女』も、シンプルな形で、私のテーマを音楽にできた作品だと思います。谷中ボッサの「声と音の会」第四回公演で初演し、トロッタの第十回で演奏した『主題と変奏、或いはBGMの効用について』は、音が言葉に接近していく、あるいは音楽が音に接近していく、そうしたことを確認するために、作曲した音楽だったのです……」

2011年5月11日水曜日

トロッタ13通信(26/5月11日分)

(其の四十三)
 トロッタの音楽様式がカンタータであると思うなら、それはそれでよい。名前にはこだわらない。名前は後からついてくるものである。名前はなくてもよい。先に書いたことだが、名前のためにすることになるから。つまり、カンタータを書きたいからカンタータを書く、といった類。自分の中に生じたテーマなり、抱いたモティーフを生かすために、例えばバリトンとオーケストラを欲した。それが結果的にカンタータと呼ばれた。これが本当だろう。憧れだけでカンタータを書く必要はまったくない。自分のスタイルが生まれればいい。電子楽器が必要なら使えばいいし、機械音が必要なら、それを使えばいい。現代人だから、電気的な音は身近にある。それを忌避さけることはない。私は、聴く側に肉声を届かせたいと思っているので、マイクを通さなければならない声は使いたくないだけだ。生きているのだから空気の振動で伝わる生の声がよい。マイクを通した声なら、私は生きていなくてもよい。
 酒井健吉は朗読を伴う自作の曲を、室内楽劇と呼んだ。ソプラノ、詩唱、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための『天の川』や、これはまだトロッタで演奏していないが、詩唱、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための『祈り 鳥になったら』、これもトロッタで演奏していない、アルト、詩唱、オーボエ、ヴァイオリン、ピアノ、打楽器などの『海の幸』などが典型だろう(初演時には電子オルガンも使用されたが、作曲者に改訂の意向があると聞く)。もちろん、『トロッタで見た夢』を忘れてはいけない。ソプラノとヴァイオリン、チェロ、ピアノ、あるいはソプラノとピアノのための曲になっている。
 また橘川琢は、同様に自作の曲を詩歌曲と呼んでいる。橘川の姿を初めて意識したのは、伊福部昭の葬儀の場であった。それまでも幾度か、演奏会場で見かけている。初めてトロッタ参加のことで話をした際、それは新宿にある小田急百貨店のカフェだったが、酒井健吉の『天の川』の録画をコンピュータの画面で観た。橘川が、こういうことをしたかったのです、といった時の声を忘れない。誰もが同じ反応を示すかどうかはわからないが、『天の川』という曲には、“こういうこと”といわれる、わかりやすさ、典型がある。ひとつには、語りが、音楽を牽引する力になっていること。ふたつには、歌や楽器演奏など、一般的な音楽の形もあること。みっつには、形式感や規則に縛られない(歌にもしなくてよい。人間にとって普遍な、語りも音楽の要素にしてよい)自由さがあること。よっつには、音楽が語りのBGMにならない、歌と同様の結びつきが維持されていること。いつつには、事実を述べる叙事性と、感情を述べる叙情性のバランスを、作曲者が計算できること。特にこの点は、叙情的な橘川にふさわしいと思っている。作曲家には、彼や彼女独自の、詩へのアプローチがある。橘川との作業を振り返ってみよう。

(其の四十四)
■ 橘川琢
 橘川は第十四回のために、『都市の肖像』第四集を出品する。『硝子の祈り』と題されている。一集『ロマンス』と二集『摩天楼組曲』は演奏されたが、三集『時代の逆光』はまだ。2010年の第三回個展で演奏予定だったが、曲が間に合わず未完のまま。しかし、すでに構想はあるので、トロッタのため、先に四集が作曲されることになったのである。
 未完といえば、橘川は『1997年 秋からの呼び声』という曲を構想し、第九回で発表するはずだったが、仕上がりが遅れて演奏できなかった。ヴォーカル、詩唱、弦楽四重奏、ピアノ、エレクトーンによる、大がかりな曲であった。学生時代のヨーロッパ旅行をもとにした自己の物語を、彼は持つ。それを音楽にする、ということだ。
 手元に、その資料が見当たらないので記憶で書く。誤認があったら訂正するが、実はこの曲は、すでに一度、完成していた。橘川と、前記の小田急百貨店で打ち合わせをした時、提供された作品集のCDに収録されていたのである。それは、彼が音楽ソフトで作曲したものだ。舞台で演奏されたことはないが、すでにあるものには違いないので、トロッタで発表することは容易だと思い、彼もそう判断した。ところが、改訂作業を繰り返しているうちに構想が膨れ上がり、練習に間に合わなくなったのである。
 失礼な表現になるといけないが、私は、未完の作品に関心を持っている。小説と映画で、何作か、未完に終わったという観点から論じたいと思っている作品がある。つまり、可能性を有し、読む者、見る者の想像を働かせてくれる(抽象的と思われるといけないので、例をあげる。三島由紀夫の『豊饒の海』第四部「天人五衰」は、現行版では他の三部にくらべて短いが、本来はより長大な作品になるはずであった。それは残されたノートでも明らかである。「天人五衰」はよくまとまっていると思うが、三島の死と引き換えるような形で当初の構想が文章化されなかったことは残念である。よく知られたことだが、「天人五衰」最終回を書き上げて、彼は死地に赴いたのだ。また山本薩夫監督の映画『戦争と人間』は、現行は三部作で終わっているが、本来は五部作ないし四部作を構想していた。映画会社の経営が悪化したので、三部で終わったのである。そのため、描かれた時代が短くなった。また第三部の初期台本を読むと、完成作とは大幅に異なる。一部、二部の登場人物が三部でも描かれていたが、完成作から省かれた場合が多い。第三部で完結させるために、台本が改変されたのだ。どちらの作も、とりあえずは完成しているので、未完とはいえない。刊行も上映もできなかったわけではないが、私は作品の構想を大きくすること自体には、可能性を与えることだから、反対ではないのである。繰り返すが、だから発表できなかったという言い訳は、もちろん、できない)。
 橘川の『秋からの呼び声』が第九回で初演できなかった事実は重く受けとめなければならない。しかし、曲の構想が大きくなることは理解できる。小さくなるよりはよい。いろいろな理由があるだろうが、『秋からの呼び声』が曲にならなかったのは、彼の中でまだ、学生時代の物語が生々し過ぎるからではないだろうか。客観化できていない。だから構想が大きくなって、まとめられなかったのだと思う。この点に、橘川琢の特徴もある。至らない点、実現できなかったことにこそ、作家の特徴はあると思っている。

2011年5月10日火曜日

トロッタ13通信(25/5月10日分)

(其の四十一)
■ ファブリツィーオ・フェスタ
『神羽(かんばね)殺人事件』という曲があった。第七回で初演された。私の詩による曲で、作曲者は、イタリアのファブリツィーオ・フェスタである。フェスタは、酒井健吉が2 agosto 国際作曲コンクールで第二位に入賞した際の芸術監督であったという。酒井の紹介で、第五回の『いのち』、第六回の『NEBBIE』、そして第七回の『神羽殺人事件』と出品が続いた。『いのち』は私の日本語詩による、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノの曲。『NEBBIE』は“霧”という意味だが、レオナルド・ダ・ヴィンチの詩を、フェスタの友人、カルロ・ヴィターリが生かした、ソプラノとピアノのための曲。そして『神羽殺人事件』は、私の日本語詩による、ソプラノ、詩唱、フルート、弦楽四重奏、そしてピアノという編成の曲だった。
『神羽殺人事件』には、明確な物語がある。神羽山の頂で、真裸になった男性の遺体が見つかった。男の首筋には刺し傷があった。誰がなぜ殺し、神羽山の頂に置いたのか。物語は、男の死を追う、女性刑事の視点で語られる。殺された男は、実は刑事の、他人に明かせぬ恋人だったのだ。



神の羽と書いて神羽(かんばね)と読む 
北に向かって二時間 
自動車(くるま)を走らせると見えてくる 
荒々しく削ぎ落とされた三角の岩山 
神羽山(かんばねさん)
麓には現代(いま)も 
神々の遊び場という 
手つかずの森が広がっている 
人などまだいない時代(ころ)
神は神羽山の頂で白く大きな羽を休めた 

三週間が経つ 
男の死体が発見されたのは 
神聖なその場所だった 
立ち入りを禁じられた神羽山だが 
航空写真を撮影するヘリコプターには何もかもが見渡せる 
男は平たい石に横たえられ 
真裸にされていた 
首筋には深い刃物傷 
ただし血は流れていない 
誰が 
どこで 
なぜ殺した?
さらしものにした理由(わけ)は?

私は事件を追っている 
ひとりの刑事として 
頂に立って山を見下ろし 
森を眺め 
その向こうに続く町を見るたび 
裸の感触をよみがえらせた 
誰も知らない 
男が私の恋人だった事実を 
誰も知らない 
私のからだに 
男の生命(いのち)が宿されている事実を 
ひとりの刑事として 
私は恋人が殺された理由を探している 

(其の四十二)
 私が詠んだが、本来は女声のための曲であろう。この、小説にするのが当然という物語を、私は詩として書いた。小説としては短いが、詩としては長い。フェスタは、日本語をそのまま使って楽曲化した。フェスタには、物語を英語に翻訳して送り、内容を理解してもらった。私の語りも、録音して送った。曲に付される詩は、日本語である。私の詩唱パートだけでなく、赤羽佐東子によるソプラノのパートも、日本語である。日本人もオペラのアリアをイタリア語で歌うから、こうしたこと自体はおかしくない。オペラにはイタリア語の音が生かされているから、翻訳して日本語で歌わない方がいいだろう。歌曲も同じだ。意味よりも音を、重視したい。だから、フェスタも日本語の音を生かす曲を創ろうとしたのだと、私は思っている。ただ、歌はともかく、日本語による詩唱にイタリア人が曲をつける例はないと思われるが。歌も、おそらくはないだろう。
 五つの連に分かれた詩が、順次、楽曲化されて電子メールで届く。詩と音楽が、関連しあっているだろうかと思ったが、その心配は杞憂だったと思う。なぜ、そのようなことができたのかわからないが、フェスタの曲は、詩の内容と融け合っていた。悲劇的な場面に悲劇的な音楽をと、完全に密着しているといけないので、聴く側の想像力をうながす適度な距離が必要となる。それをフェスタは作った。フェスタと日本語の関連というと、酒井健吉との交流しか思い浮かばないが、最終的には音楽家の直感が、それを可能にしたに違いあるまい。いろいろな点で希有なこの曲を、私は大切にしなければならないと思う。厳密にいえば、この曲が生まれたという事実について、考え続けたいということだ。



 第十三回で演奏される、今井重幸の『叙事詩断章・草迷宮』が進行している。泉鏡花の小説から今井本人が自由な詩を書き、それをもとにカンタータを書いた。バリトンの根岸一郎は、語り、歌う。赤羽佐東子、大久保雅代、柳珠里、青木希衣子による女声合唱もある。金管楽器はないが、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、打楽器、ピアノによる演奏がある。
 さらに、田中修一の『MOVEMENT an extra』も進行している。赤羽佐東子のソプラノ、私の詩唱、平昌子のファゴット、大場章裕の打楽器、森川あづさのピアノで演奏される。歌と語りと楽器演奏。田中は私に詩を求め、そこから生まれる自身の音楽的感興に期待し、一曲にまとめあげた。
 これらの曲には、共通項があるだろう。詩から生まれた音楽として。約束事はなかったのに、音楽の様式として、共通するものがある。その様式が感じさせるものは何か? 考えることが多い。まだ考えなければならない。

2011年5月9日月曜日

トロッタ13通信(24/5月9日分)

(其の三十七)
■ 田中修一
 トロッタで演奏された田中修一の曲が、PITINAのサイトwww.piano.or.jp/で4曲、視聴できる(「田中修一」を検索すればよい)。第二回で演奏された『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』、第三回で初演され編成を変えて第九回で演奏された、ソプラノと二台ピアノのための『ムーヴメント〜木部与巴仁「亂譜」に依る』(第九回ではソプラノと打楽器、ピアノ、電子オルガン)、第四回で演奏されたヴァイオリン、チェロ、ピアノのための『TRIO BREVE“牧嘯歌”』、第十一回で演奏されたソプラノ、詩唱、マリンバ、ピアノのための『ムーヴメントNo.2から木部与巴仁「瓦礫の王」に依る』である。そのうち、『エグログ』についてここ数日、思っていた。
『エグログ』を田中が作曲したのは、1991年。ヴァイオリンとピアノの対話を意識した曲で、Eglogueという言葉自体、対話体の田園詩という意味を持つ。16世紀のスペインで流行した、羊飼いが登場し、歌と音楽を伴う牧人劇の意味合いもあった。作曲された1991年に初演、1994年に改訂初演、1997年にはさらに改訂を施している。中間部に短いカデンツァ風の部分と、ジプシーヴァイオリンに近い様式のAllegroを加えたという。トロッタでの演奏が、97年版の初演となった。演奏は、ヴァイオリンが戸塚ふみ代、ピアノが今泉藍子である。
 Eglogueという言葉は、伊福部昭の『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』で親しい。伊福部は、野坂恵子による二十絃箏と、オーケストラとの対話を意図した。田中はヴァイオリンとピアノである。以下に書くことは私の解釈で、田中の意図とは別にしていただきたい。『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』は、田中修一が提出した、“詩と音楽”である。
 対話といえば、言葉を思い浮かべる。牧人劇として使われた言葉だから、言葉を伴ったのである。つまり意味がある。エグログやオペラは音楽といえようが、言葉があり意味のある表現だ。しかし、田中修一や伊福部昭のエグログは、言葉に依らない音楽表現であり、意味はない。それをあえて対話という。
 戸塚ふみ代と今泉藍子のエグログを、改めて聴く(個人的には、その演奏と今の間に、十回のトロッタがあったのかという感慨を、当然抱く)。田中の意図したとおり、ヴァイオリンとピアノの対話が聴こえてくる。言葉に頼り、意味を伴うものだけが詩ではないのかもしれない。鳥の言葉は、人に意味をもたらさない。鳥同士には意味があるだろう。しかし人に意味は聴こえず、音楽として聴こえる。あるいは−−、詩として聴こえる?

(其の三十八)
 詩は、意味を持たないものだろうか。
 確かに、私も詩を書く時、意味を伝えることを第一の目的にしていない。
 意味を伝えるには、詩はあまりにも言葉足らずだ。
 言葉足らずがいいと思い、詩を選ぶ。意味を伝えるなら散文で、評論を書く。
 詩は、まず絵画に近い。
 目の前にある風景、人の心の風景を詠む。
 そして音楽にも近い。
 朗読なり詩唱される、その声を聴いてほしい。
 黙読される場合も、言葉の連なりが生むメロディやリズムを、頭に浮かべる。意味の助けを受けながら(“空”と詠めば、“海”ではなく“空”を思ってほしい)、その瞬間にとどまらず、次の言葉に展開し、その意味を待ち、そうして連続する言葉の広がりが、ひとつの世界を描き出す。
 田中修一の『エグログ』は、音楽による詩、といえるだろう。それならば、“詩と音楽”の会であるトロッタにふさわしい。実は当時、そんなことは思わなかった。たった今、『エグログ』について考えながら思った。第一回に出品した歌曲『鳥ならで』に続くものとして、彼なりに考えて、出品したのではなかったか(後からわかってくることがある。トロッタで演奏されたすべての曲についても同じことがいえよう。トロッタが、意味を求めて行なわれているのではないから)。
『エグログ』の中間部に、彼はジプシーヴァイオリンに近い様式を加えたという。洗練されていない、力強く、土の味わいがする音楽。
 ジプシーと来れば、楽器はギターを想像し、彼らは長い流浪を繰り返しており、その途次にさまざまな芸能を吸収し、踊りを伴い、当然だが歌も生まれる。田中はそういうものに心を寄せるのだなと想う。それだけで、すでにじゅうぶん、詩的である。田中の心のうちが想像できるし、ヴァイオリンとピアノの対話といいながら、田中修一から聴く者に働きかけるエグログ、対話ではないのか。『エグログ』の戸塚ふみ代は、第十三回で、伊福部昭の『協奏風狂詩曲』を弾く。彼女を生かした田中修一のヴァイオリンを、トロッタの舞台で、いつの日か、久しぶりに聴きたいと思っている。
(この文章を書いている時、『協奏風狂詩曲』について、田中と戸塚の間に電子メールのやりとりがあったと聞いた。だからふたりについて書いたわけではない。偶然の重なりである)


(其の三十九)
 酒井健吉から電子メールが届き、第十四回の出品曲ついて、彼なりの考えを伝えてきた。新曲を書く時間が取れそうにないので旧作でと、何曲か候補をあげてくれた。そして、作曲の時間がないと思うのは、東日本大震災で被害を受けた人々を支援するため、東北のある地方の民謡を使った吹奏楽を作曲するからだという。自治体から依頼されたのである(今はまだ具体的には書かずにおく)。私は、旧作でも何らさしつかえがない。旧作の中には、トロッタで演奏されたことのない、興味深い曲があった。酒井が社会的と思う仕事をし、現実を生きる中で、トロッタに出品してくれればうれしい。



 先の田中修一の曲から始めた話を、もう少し、掘り下げておこう。
 音楽に意味はない(当然だが、価値がないということではない)。音楽は頭で聴くものではなく、耳で聴くものである。耳で聴いて心に響かせる。聴く側にとって、音楽の想像力というと、私には連想と受け止められる。そのような類のものもあっていい。映像と一緒に味わう音楽がそうだし、いかにも朝日が昇る、あるいは海原が広がる、嵐に襲われている、そのような音楽はあるのだから。
 しかしEglogueといいながら、田中修一の曲を聴いて、例えば田園詩(“田園”に意味があるだろう)とか、牧人劇(“牧人”に意味がある)といった、言葉本来の意味は連想しない。もっと直接的な、ヴァイオリンとピアノによる、その場の対話を聴く。対“話”というから、言葉を連想するのかもしれない。掛け合いとでもいった方が、誤解がなくていい。やはりPITINAのサイトで視聴できる、『TRIO BREVE“牧嘯歌”』も同じだ。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの対話である。田中によれば、三つの楽章ごとの主題は、牧童の嘯歌になぞらえているという。民俗音楽が下敷きにある。プリミティブな様式を求めているというから、ここでも洗練は第一の目的になっていない。
 牧人、牧童というから、私などは洒落たニュアンスで受け取ってしまうのだが、要するに羊飼いであり、牛や馬を追う者であろう。そして演奏に洗練は求めない、ジプシー奏法、プリミティブな様式といいながらも、一定のレベルは求められるし、アンサンブルの場合は他の楽器との協調性が必要だ。粗野で得手勝手は許されない。一定レベルの演奏で、原始的に聴こえるようにしたい。つまり、演技に通じる演奏がほしいということ。
 プリミティブな演奏を、というのは意味である。しかし実際の音になった場合、それは意味を超越して心に届く。届かざるを得ない。意味がないのだから、下手でも心に届いてしまう(その場合、奏者は何を表したいのかと、聴き手は意味を求めるだろうか。上手は聴き手が意味を求める隙を与えない。詩も、同様であろうか)。

(其の四十)
『立つ鳥は』の詩は短かった。わずか六行である。

立つ鳥はみずらに歌いて 
天たかく舞わんとす 
その声 人に似て耳に懐かし 
温もりもまた 人に似る 
鳥 消ゆ 
再び会う日の来ぬを われは知る 

 詩が描くのは鳥である。鳥となって飛び立つ人の魂である。しかし『ムーヴメント』を生んだ詩『亂譜』は、さらに長い。23行ある。一番というべき、二台ピアノ版の初演にあたり、田中はこんな言葉を寄せている。
「7拍子を核とした律動により、詩の趣意を表現したいと考えました」
 詩の趣意とは何か? 今にして思えば、よくこんな詩を書いて田中修一に渡したものだ、描いたのは崩壊して瓦礫となった都市、具体的にいえば私に近い、崩壊した新宿。なぜ壊したか。大震災の記憶が新しいので書くことを躊躇するが、造っては壊し、造っては壊しするような軽薄な、便利さや快適さを追い求めるような都会に、力はないと思いたかったのである。動く歩道(地震以来、停まっている)のような愚劣な施設は必要ない。長く続くコンクリートで固めた通路は速く移動したいだろうというので作ったのかもしれないが、そもそも、そのような非人間的な通路を作らなければいい。本末が転倒しているのである。私が初めて動く通路を知ったのは1970年の大阪万博だが、あの催しは、何だったのか? 多くの芸術家が参加したのだが。それこそ、会期が終われば壊されて、瓦礫になった。高度経済成長の象徴ともいわれたが、その背後では公害問題がいわれ、自然破壊もあった。所詮、高度経済成長などというものは、何かの多大な犠牲の上に成り立っていたので、その化けの皮がはがれたのが、かつては公害問題、そして今回の原発事故だろう。原発がなければ成り立たない仕組みを作ったから大騒ぎしているので、それがなくてもいい仕組みになれば、当然だが原発はいらない。大事なのは原発ではなくて人の生活。動く歩道と同じで本末が転倒している。そうしたことへの憤りが、詩『亂譜』にはある。つまり根源的な、人の生命感を求めるということだ。意味はない。エネルギーを求めた。瓦礫の山から生まれる、生命の力を描きたかったのである。
『ムーヴメント』一番の映像には、ソプラノの赤羽佐東子、打楽器の星華子、ピアノの森川あづさ、電子オルガンの大谷歩が見える。女性たちが力を合わせて、このエネルギーに満ちた音楽を演奏している。意味を超えた強さを感じる。そこには美しさもある。意味は、いってみれば、手段に過ぎない。その先にあるものこそほしい。意味のために意味を求める(手段のために手段を求める。原発のために原発を求める)など、愚かなことだ。生きるための手段として、意味はある。どうやらこのあたりに、それこそプリミティブな時代から、人が音楽を求めてきた理由がありそうだ。

2011年5月8日日曜日

トロッタ13通信(23/5月8日分)

(其の三十五)
3.トロッタの人々がいる風景

 しばしば、あなたが好きな音楽は? 好きな作曲家は? 好きな演奏家は? と訊かれる。話題として、誰もが交わすことである。私は、好きな音楽はトロッタのそれだと答える。好きな作曲家はトロッタの、好きな演奏家はトロッタの彼ら、彼女らであると答える。当然だ。手を携えているのだから。質問者は、もう少し一般的な、理想とする音楽とか、誰にとっても普遍の存在の名を期待して訊くのかもしれない。つまり、私と会話するために。ドビュッシーだと答えれば、ドビュッシーについての話が弾む。私を知る手だてにもなる。そういうことだろう。
 私の理想はトロッタで演奏される音楽であり、普遍の存在はトロッタに集う人々である。(好きな詩は? と訊かれた時、トロッタの詩です、というのだろうか。用いられる詩は、私の作品が最も多いのだが。そこまでうぬぼれてはいない。しかし、その時に、これしか書けないという詩を書いている。それを作曲家が、音楽にしてくれる。好きな、と自己愛的にはいえないが大切な詩、とはいえるだろう。かつてある詩人に、今まで書いた詩は捨てなさい、習作的なものだから、といわれた。お断りする)
 ただ、本当にトロッタ以外の作曲家と曲をあげてほしいといわれれば、私はメシアンの『世の終わりのための四重奏曲』をあげるだろう(先達の、ということなら伊福部昭の人と作品をあげるのは当然だが、それはすでに書いたことだし、トロッタで取り上げている)。『世の終わりのための四重奏曲』は、メシアンが捕虜収容所で作曲し、初演した作品である。ありあわせの、状態の非常によくない楽器をかき集め、それで演奏できる曲を、そこで創った。編成は、ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノ。やむにやまれず生まれた音楽である。聴衆は、収容された人々と、収容する人々であった。音楽が生まれた、最も劇的な状況がそこにあった。どんな曲にもドラマはある。平穏と見える生活を送っている作曲家にも、内側は劇的だろう。しかしメシアンは、内的にも外的にも劇的な状況下で、音楽を作った。私は共感している。トロッタは暇にあかせて趣味でする活動ではない。新曲で臨んでいる点が、何よりもそれを証明している。トロッタの作曲家、演奏家と、メシアン自身、その周囲の演奏家、さらには聴衆まで、私は同じだと信じ、そのような場を作りたい。いずれはメシアンを、トロッタで演奏できればと思っている。
 トロッタの人々との交流の仕方において、私には足りない点がいくつもあって、例えば、一度しか出演しなかった方々に、その後もきちんと連絡をとっているかといえば、そうではない。身の周りのことをしようとすると、たった今、第十三回の準備に追われていてまったく余裕がないように、つまり目先のことに追われてしまってきめ細かいやりとりができなくなる。小ささを思うしかない。しかし私は、一度しか関われなかった人々に、仮に不足感を抱かれ、不信すら抱かれても、それを恨みに思うようなことはまったくない。私が、(もう少しこうしてくれたらな)と、その人々に対して思い、そうしたことを口にしたとしよう。それは単なる愚痴であり、気持ちを晴らすためのつぶやきであって、心からの、未来にわたる決定的な思いではないことを誓っていう。たった一度の出品でも出演でも、トロッタを支えてくれた。彼らや彼女らがいなければトロッタは成立しなかった。感謝する以外にない。

(其の三十六)
■ 酒井健吉
 彼は、私が書いた『伊福部昭 音楽家の誕生』を読んでくれていた。酒井は長崎県諫早市に暮らしているが、伊福部の曲が演奏された、池袋芸術劇場の演奏会後、私に声をかけてくれた(2002年9月4日、東京芸術劇場での都響スペシャル「日本音楽の探訪」だったと思う。伊福部の曲は『日本狂詩曲』)。そうして交流が始まり、私が長崎に出向いて彼が主催する演奏会に出演し、彼はトロッタ第一回から参加する作曲家となり、そうしてさまざまな交流を続けた。
 最も記憶に新しいのは、彼が昨年秋の第十二回で、私の詩による『ガラスの歌』を出品できなかったことである。チラシに掲載された曲を発表できなかったのは残念である。春に初演されていた曲だから、秋の演奏には問題なく出品できると計算した。初演時が邦楽器による編成であり、トロッタでは洋楽器による編成であったとしても、だ。ところができなかった。さまざまな事情があるだろう。私も迷ったが、彼も迷った。出品取りやめは、本番一週間前の申し出であったろうか。結局、『ガラスの歌』のために招いたアルトの青木希衣子には、彼女がしばしば演奏会で歌う、シューマンの
『女の愛と生涯』を、抜粋して歌ってもらった。私は詩の大意を舞台で詠んだ。青木の歌は見事であり、詩と音楽を考え続けたシューマンを取り上げることにも、トロッタならではの必然を感じた。それでも、新作歌曲を歌うから来てほしいと招いたお客様もいたので、そうした点で、心残りとなった出品の取りやめであった(結局、そのお客様は、迷ったあげくに足を運んでくださり−表現が難しいが、足の悪い方で、車椅子での来場だった。しかし、トロッタの試みに共感を示し、励ましてくださった。ありがたいことである−)。
 書けなかった、という事実を前提にして、酒井と私の関係は、たった今の段階を踏んでいると思う。彼はつい先日、電話をかけてきた。青木繁の絵をモティーフに作曲した室内楽劇『海の幸』を見直したいという。これは私が、夏の十日間、毎日書き続けた詩をもとにしている。初演は、2008年8月22日、長崎市で行なわれたkitara音楽研究所の第5回演奏会だった。最近、雑誌の「サライ」で、青木繁の小特集が組まれた。酒井にいわれて私も読んだが、今年は青木の没後百年にあたる。青木の地元、久留米の石橋美術館はもちろん、東京のブリヂストン美術館でも、企画展示会が開かれる。青木も酒井も、九州の人間である。『海の幸』は、九州のために創られた音楽といってもいい。石橋美術館で、酒井健吉の曲を演奏できないかという思いすらあったのだ。石橋美術館の敷地には、演奏のためのホールも建っている。演奏の可能性は消えていない。可能性を消すのは、自分自身である。
 酒井健吉は、第十四回トロッタに参加する予定だ。

2011年5月7日土曜日

トロッタ13通信(22/5月7日分)

(其の三十三)
 先に書いたが、橘川琢の『都市の肖像 第四集』のために、詩を書かなければならない。それを、5月6日(日)に書いた。書きながら、演奏形態も考えた。まだ変わるかもしれない。しかし、『たびだち』の項でも書いたことだが、書きながら生きる、生きながら書いているのなら、この詩は、私は生きた証となる。トロッタの準備はたいへんだ。練習の調整をしているだけで一日はたちまち過ぎる。自分の練習もしたいし、詩も書きたいし、まったく滞っている原稿を書きたいし、仕事もしなければならない。そうした中で書いた詩だから、「トロッタ通信」というなら、掲げるものは詩しかないわけだ。「詩の通信V」の第20号にも、この詩を載せるつもり予定である。今はまだ、無題である。

I.

雨が降っていました。
灰色の重たい雲が、空を覆っています。
桟橋に、傘をさした男の子と女の子がいました。
小さな舟が、風と波に揺れています。
二人はこれから、大きな大きな、河をくだるのです。
「舟が出るよお」
誰かの声が、風に千切れて飛びました。
男の子と女の子は、手をつないで舟に乗りました。
その時、大きな波が押し寄せて、ふたりを揺さぶりました。
黒い合羽を着た、顔の見えない人が立ち上がりました。
長い竿を使って舟を押し出します。
波にもまれながら、舟はゆっくりと岸を離れてゆきました。

II.

空と河しか見えません。
陸(おか)はどこにもないのです。
海のように広い河でした。
男の子も女の子も口をききませんでした。
波しぶきを上げる魚の群れが見えました。
「あれは、海豚だよ」
舟を漕ぐ人が教えてくれました。
ものすごい数の海豚が、鳴きながら泳いで行きます。
緑色の光が見えました。
「灯台だよ。舟がぶつからないように」
風に乗って歌声が聴こえて来ます。
たくさんの人を乗せた舟が、波の合間に現れました。
小さな舟から、人がこぼれそうになっています。
「巡礼さんだよ、お参りの帰り道だよ」
何をお参りしたのだろう。
男の子は思いながら、女の子を見ました。
女の子は黙ったまま、巡礼を見送っていました。

III.

大きな波や小さな波が渦を巻いています。
波はあちこちでぶつかり合い、身を寄せ合っていました。
隙を見て追い越したり、身じろぎしています。
取り澄ましたかと思うと、恥ずかしがりもします。
こんなにたくさんの波を見たのは初めてでした。
「気をつけて。もうすぐ潜るから」
舟を漕ぐ人がいいました。
こんな広い河の、どこに潜るというのだろう。
ぼくは溺れてしまう。
男の子は心配になって、女の子を見ました。
「お母さんに会えるの、お母さんに会えるの」
女の子はそうつぶやくだけでした。
「御覧、三角島だよ」
何本もの塔が波の上に突き出ていました。
「水の底に町がある。大きな町が沈んでいる」
舟を漕ぐ人は合羽の頭巾を取りました。
それは髪の長い、女の人でした

IV.

ごおごおと音がして舟が揺れ始めました。
男の子と女の子も頭から合羽をかぶりました。
「しっかりつかまって!」
女の人が叫びました。
あたりの波が空を隠すほど盛り上がっていきます。
呑みこまれると思い、ふたりはぎゅっと目を閉じました。
でも、そうではなかったのです。
目を開けると、舟はぐんぐん河の坂道を下りていました。
合羽も役には立ちません。
ものすごい風と波飛沫で二人ともびしょ濡れです。
舟は木の葉のようにもみくちゃになりました。
ぬらりとした魚の背中を超えました。
大きな瀧が落ちていました。
遠くで火の手が上がっていました。
暗い空からたくさんの流れ星が河に落ちていきました。
この坂道はどこまで続くのだろう。
ぼくたちはどこまで落ちてゆくのだろう。
そばを見ると、女の子はもういませんでした。
後ろを見ると舟を漕ぐ女の人もいませんでした。
目を開けていられませんでした。
男の子は舟底にうずくまったままでした。
そうして、何もわからなくなりました。

気がつくと、あたりは一面の星空でした。
何の音もしません。
男の子は舟に乗ったまま、夜の空に浮かんでいました。

(其の三十四)
 子どもの話を書きたいと思った。
 近ごろ読んだ、ある作家の評伝に、あなたは子どもに向けた物語を書かなければいけない(ニュアンスは正確ではない)と諭される場面があった。発言者の意図ははっきりしないが、その人物は教育者だから、子どもに向けた物語の大切さを、よく意識しているのだろう。私は、ことさら子ども向けの物語を書きたいとは思っていない。大人の物語ばかり書いている。それでも、子ども向けとされる物語で、感銘を受けたものは多い。『赤毛のアン』や『ノンちゃん雲に乗る』などには泣いた(何をもって子ども向けとするかの線引きは難しい。『アン』や『ノンちゃん』を、作者が子ども向けに書いたのかどうかは知らない。ただ、年若い人々に読まれることは事実だろう)。ただ、子どもの世界は五里霧中であり、右も左もわからず、混沌としている。自分の意思でものごとが決定できないから、何とも頼りない。感受性はあるが、判断力に乏しい。そうした頼りなさが嫌なのだが、それでも(頼りなさを描写しつつ)書くとしたら、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』が指標となる。
 トロッタのチラシをもって渋谷の古書店を訪れ、置かせてもらった御礼に、「ユリイカ」の賢治特集を買った。これも何度目かの購入だが、1975年7月号で、入沢康夫と天沢退二郎の「徹底討議 『銀河鉄道の夜』とは何か」が載っている。初めて読んだ時、銀河鉄道の地図に感銘を受けた。このように物語を図解して解読する方法があるのかと思った。その少し前から、ある理由があって賢治関係の雑誌を買ってもいた。こうしたことから、子どもが登場する詩を、『銀河鉄道』にならって書こうとしたのが、先に掲げた無題の詩である(子どもが出るから子ども向けというわけではない。子どもが出る大人向けの物語もある。ただ、作家は書きたいから書くので、特定の誰かに向けて書く、相手をしぼるというのは、広告の仕事をしているわけでもなし、おかしな話である。私が書いたのは、子どもが出る話だ)。
 ただ、トロッタの、それも橘川琢の曲のために書いたのは間違いない。この詩がそのまま生かされるかどうかはわからない。橘川との打ち合わせが、まだ行なわれないから。ソプラノの大久保雅代、ヴァイオリンの戸塚ふみ代、ヴィオラの仁科拓也、ピアノの森川あづさ、さらに花いけの上野雄次も出演する。そうした人々との共演に生きる詩であるかどうか。生かされない可能性もあるのだ。

2011年5月6日金曜日

トロッタ13通信(21/5月6日分)

(其の三十一)
 第十二回から、アンコール曲として『たびだち』を演奏することにした。作曲は、宮﨑文香。それまでに六回演奏された『めぐりあい』に続き、美しいメロディを創ってくれた。今回は『たびだち』の二度目で、詩は『北の町』を用いる。詩は、次に掲げるとおり、はっきりと、東日本大震災を念頭に書いた。
 挨拶文にも書いたことだが、3月11日の地震、津波、原発被害で、世間は大きく変わった。考え方が根底から覆った人もいるだろう。しかし私の考えは、それ以前から、少しずつでも世界は変わっていたのだということ。強くありたい。強くなければ、トロッタは続けられない。何もないところからトロッタを始めたのである。今も同じだ。いつでもゼロであり、そこから作り始める。
 3月11日の直後、さすがに愕然として数日を過ごした。これではいけないと、ある原稿を書き始めた。それはトロッタと同じで、他人にいわれて書くものではない。私自身の意志で書こうとし、一冊分は書いたが本にならずにある、同じテーマの別原稿だ。書き手は、書くことで、生きる。演奏家は、演奏することで、生きるだろう。作曲家は、作曲することで生きる。誰もがそうして生きている。地震の直後、大停電なども噂され、トロッタは開催できるかと不安だった。事実、多くの演奏会が中止になっている。そんな馬鹿な、と正直に思った。生きる場が失われるではないか。私の書く仕事も、大幅に減った。現実に、生きるための手段がなくなってゆく。(電車に乗って、車内広告がほとんどなくなっているのを見て、ぞっとした。企業が広告を出さないということは、私が書く、広告関係の原稿仕事もなくなるということなのだ)
 そうした現実に、何としても立ち向わなければならない。その思いで書いたのが、「たびだち・北の町」だった。地震から一か月が経とうとする、4月8日に書いている。

(其の三十二)
たびだち・北の町(歌唱版)

星が見たもの
それは人
遠い町で
泣いてた
星が見たもの
それは人
遠い町で
泣いていた

消えた町
流れた町
何もかもなくした
思い出も

声もない
悲しみに
眠れない
とき過ごす
面影を追いながら

星が見たもの
それは人
時が経ち時が過ぎ
耳をすませて
星は聴く
歌ってる小さな声で
取り戻す歌声と
微笑みと優しさと
声を合わせて歌う時
灯はともる
北の町に

 ここに掲げたのは、歌唱版とあるとおり、編作をした田中修一によって、歌うために改められた詩である。お客様と、思いをこめて歌いたい。第十三回を収めるために。第十四回に続くために。
 宮﨑文香は、『たびだち』ではない別の曲を、出品予定であった。私の詩はいくつか渡してあり、彼女もそれを受け取り、編成を考えるなどして、作曲を励みにしていた。しかし、いろいろな理由で無理となった。作曲家は、作曲することで生きる。宮﨑には、尺八奏者としての顔がある。知り合った当初は長崎にいたが、今は東京にいて、音楽の道を生きている。第十四回には、新曲を出品したいという。私も聴きたい。。

2011年5月5日木曜日

トロッタ13通信(20/5月5日分)

(其の二十九)
 今井重幸(まんじ敏幸)は、2011年4月発行の文芸誌「伽羅」第3号に詩を掲載するにあたり、大幅な加筆を行なった。ここに掲げたのは、加筆後の改訂版である。演奏時の詩は異なる可能性があることをお断りする。
 単に書き加えたというよりも、音楽とともに詠まれ、歌われる詩と、音楽なしに詠まれる詩に違いがあるのは当然だと思う。再び田中修一に登場してもらうが、彼は私の詩を使い、悪くいうのではなく、詩の形がなくなるほどに変えて、歌にしてくれた。古代中国にある、詩の一部を任意に選んで歌う、断章賦詩という手法を採った。詩人は、最初の一文字から最後の一文字まで、必要だと思うから書いている。しかし詠み手は、詩人ではないから、自分の好きな箇所だけ選んでいいわけだ。小説の拾い読みなど、誰でもすることである。作品として味わうなら最初から読まなければならないわけだが、気になるところ、気に入ったところ、それを読み返したいというのは当然の気持ちだ。断章賦詩もそれだと思えばいい(もちろん作品として発表するなら、詩のすべてを、と詩人は思うだろう。ここで持ち出されるのが、詩のままである詩と、音楽になった詩は違うという考えである)。
 今井重幸も、詩としての『草迷宮』に、“詩的断章”という言葉を添えてある。小説の『草迷宮』から採ったのは、「通りゃんせ」の詩だけだという。他は自由に書いた。今井なりの“断章賦詩”だといえるだろうか。

(其の三十)
 これを書くなら、他の作曲家についても書かなければならないだろうが、まず今井重幸について書くことを、バランスを失するのだが、お許しいただきたい。特にトロッタが近づくと、今井重幸の家に通うことが多くなる。それは楽譜の受け取りや、編成の打ち合わせなどの用があるわけだが、そうしたことが必要だとしても、遠いと通うのは無理である。しかし、私と今井は、最寄りの駅が隣同士だ。阿佐ヶ谷と荻窪である。電話をかけてから電車に乗り、バスを乗り継いで行ったとしても、30分とかからない。思い切れば、歩いて行くこともできる。
 今井に、トロッタへの参加を依頼したことも、ひとつには近所同士で、阿佐ヶ谷の駅でしばしばすれ違うことがあり、その記憶が強かったので、ぜひにと思ったことが理由だ。
 また遠い記憶としては、2007年3月4日に「伊福部昭音楽祭」がサントリーホールで開かれた時、終演後のパーティで、酒井健吉が今井重幸と話をした。その折りに今井自ら、もし自分の曲を演奏するならこういう曲があるがという言葉をもらったと聞いた(伝聞なので間違っていたらお許し願いたい)。今井重幸は、前の月の2月25日に行なわれた第一回「トロッタの会」に足を運んでくれた。その上で、酒井にそのような話をしてくれたのだ。重ねて、細かなニュアンスはわからないと断りながら、たいへん勇気づけられたことを、ここに書いておきたい。
 今井重幸は伊福部昭の弟子である。しかし伊福部の生前は、親しく話をする機会も得なかった。伊福部の死後、それもトロッタを始めてから、共に会を開くようになり、出品される曲について検討をし、今井の曲に詩唱者として出演し、第十三回では、今井の編曲によるガルシア・ロルカの歌を歌う事にもなった。こうしたことを、ゆっくり振り返る機会もないまま、常に、一種の現場意識で共同作業をしている。得難い縁だと思っている(それはトロッタの作曲家、演奏家全員に思うことで、ただ一度しか参加しなかった人々にも、同じことを感じている。素直に、感謝していると書きたい)。

2011年5月4日水曜日

トロッタ13通信(19/5月4日分)

(其の二十七)
 私が歌う『ロルカのカンシオネス』は、今井重幸が編曲をした。たいへんにありがたいことである。スペインを愛し、ロルカに思いを寄せる今井として、ロルカに関わる曲の編曲を頼まれれば断れないといった。快く引き受けてくれ、今井なりの工夫を凝らしてもくれた。ただ、その歌はなかなかに難しい。きれいに歌おうと思わず、癖のある歌い方を心がけてほしいといわれている。装飾音を、こぶしとして効果的に歌う。押したり引いたりという歌い方。“木部ロルカ”を(畏れ多いことだ)作り上げてほしい。そういった励ましをもらった。癖のある、というのは歌に限らない。演奏の人々にも、例えばジプシー・ヴァイオリンに通じる弾き方をという指示があった。−−ロマ(ジプシー)のような生き方はしていない。どの時代に生きていてもおかしくない、善も悪も超越したロマ。そんな図太い生き方は自覚していない。しかし、私なりの生き方はもちろんある。私にも哀しみがあれば、歓びもある。そうしたことを、テクニックを超えて出せばいい。今井重幸は、そういってくれているのだと思う。
 その今井重幸によると、『叙事詩断章・草迷宮』を構想したのは、人声を前面に出した作品を書いてみたいとの欲求からである。シャンソンの曲は多いが(トロッタの「今井重幸のヌーヴォー・シャンソン」も、二度で終わっている。続けなければ)、『草迷宮』は誰に依嘱されたのでもない。すすんでの作曲だった。ロルカの歌ではないが、声とは人そのもの。その声を使った演奏会の作品を欲した。
 そこで『草迷宮』を選んだのが、今井重幸らしいところである。『草迷宮』は、幼いころ母親に聴かされていた手毬歌を求めてさまよう青年の物語である。「通りゃんせ通りゃんせ ここは何処の細道じゃ」という歌が繰り返して出てくる。そして、手鞠の幻影。青年がたどりついたのは、三浦半島にある、魑魅魍魎が救う荒れ果てた屋敷だった。鏡花独特の、一語一語を美しく飾った文体で、全篇が描かれている。ストーリーで妖しさを出すというより、文章自体が妖しい。今井の心をしめるのも、理知ではない、非現実への憧れだろう。アンチ・リアリズムの世界にひかれると、明言している。
 今井は、『草迷宮』の物語をたどろうとしなかった。さまよう青年が聴く手毬歌。幻聴ととともに旅する青年の姿。それを一篇の詩として自ら書き、トロッタではバリトン、あるいはメゾ・ソプラノが語り、歌う曲としたのである。もともとはオーケストラ曲だが、それをトロッタのため、室内楽編成にした。これもありがたいことである。

(其の二十八)
 今井重幸による『草迷宮』の詩を掲げよう。音楽作品としてではなく、これを詩の単独作品として朗読するのもおもしろいと思う。機会があれば、詠んでみたいものだ。なお、「まんじ敏幸」とは、舞台作品を演出する際の、今井重幸の名前である。

泉鏡花の『草迷宮』に拠る詩的断章

詩・まんじ敏幸

鎮守の森のてっぺんから
烏天狗が舞い下りて
赤いおべべの娘が二人
手毬をついて 鞠ついて
ひとつとせ ……
ふたつとせ …… 三っつとせ …… 四っつとせ
烟(ケムリ)のように烟のように
昏(くら)い空へとかき消えた。

風が厳かに言った。

「お前は寄る辺ない漂泊者(さすらいびと)
憩(やす)らわぬ巡礼だ」

通りゃんせ 通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ……。
……。
天神様の細道じゃ……。

不意に日が翳る。

野菊が蒼ざめ身震いした。

カラスが赫い口で脅した。

「もう何処へも行けぬ。
死者の足音が盗人(ぬすびと)のように
お前に寄りそっている」

霧が足許で囁いた。

「この道を通るのは亡霊ばかり
ほら、ごらん
悪い噂が向こうの角を曲がり
盲(めし)いた犬が自分の死の影に
吠えている」

りんどうが私を難詰(なじ)った。

「私の首を折ったのはおまえさ!
死のコルクを抜いてしまったのもおまえだ」


おお、見るがいい

山から魔物が降りて来る
野原もざわざわ叫びだし
あたりいちめん
あたりいちめん
青い鬼火が跳ね廻る。
狐が踊り
鬼が笛吹き
蛇(じゃ)が走る。

空が落ちる 海が燃える
ほう、火の玉も来い!
黄泉(よみ)の国の帳(とばり)も降りて来い!
……。
……。
嗚呼、暗い谷間で手を振るおまえ
おん身、私の愛よ
……。
そこをどけ、亡者ども
時が逃げる
行かねばならぬ
行かねばならぬ
行くてを空けろ
さあ、開けろ!
……。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ
細道じゃ……。
天神様の細道じゃ。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ
細道じゃ……。

2011年5月3日火曜日

トロッタ13通信(18/5月3日分)

(其の二十五)
 清道洋一の『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』については、初演がまだということ以上に、練習の過程で作り上げていきたい、手元の楽譜をもとに再構成していきたいという作曲者の希望があるので、ここで論じることは避けよう。詩唱者の私を含め、スコアを受け取った演奏家はまだ誰も、これがどういう曲になるか、わかっていないと思う。予測できないまま練習にのぞむことになる。これも清道なりの、作曲方法だろう。作曲家の手元で、すべて作り上げないということ。どんな曲も最後は演奏家にゆだねられるから、作曲家がすべてではないが、そのことの議論は措こう(何であれ最後は舞台成果がすべてなので、机上の論に時間を使うのは無駄だ)。
次回のトロッタには“ヒトの謝肉祭”というテーマで出品したいので、詩を書いてほしい。そのような依頼を受けて、私は冬の上野動物園に通った。さまざまな動物がいる。動物園は哀しい。檻に入れられているのが人なら、いや自分ならどうする? 赤ん坊の時から死ぬまで、若く溌剌とした姿から老いさらばえてしまった姿まで、他者の目に裸をさらすのである。みんな、よく我慢していると思う。反乱を起こして当然だろう。どうにもならないと諦め、運命と共存する道を歩むことに決めたのか。いや、やはり反乱を起こすべく、準備していると考えた方が救われる。私は何枚も写真を撮り、メモを取り、帰宅して詩を書き、それを数日繰り返して、以下の五篇を書いた。

■革命家
最も小さい種類のヒトで、熱帯から亜熱帯の森林に生息します。
冬眠はしませんが、メスは出産時に巣穴にこもります。
雑食性で木の芽や葉、果実などを食べ、前あしのかぎ爪で他人の巣をこわす癖があります。

■旅人
日本固有種で、1921年に天然記念物指定。雑食性で、木の実や果物類、昆虫類やトカゲなどを食べます。
現在の旅人は、約700人しかいません。(社)日本動物園水族館協会では、旅人を国内血統登録種に選定しました。将来的に日本の動物園全体で旅人100人の飼育を目指していきます。

■大家
大家と家主は夜の動物と思われていますが、超音波で物を認識する家主と違い、大家は目でものを見るため、夜中は意外と動きません。多くは森林に住んでいますが、沖縄県那覇市国際通りのような街中でも見られます。
大家は日中、日当たりのよい枝にぶら下がり、翼を広げて日光浴をします。
主に果物を食べます。

■ストリッパー
ストリッパーは北アルプスの高山帯にのみ生息しています。昔は中央アルプスにも生息していましたが、現在は絶滅していません。
日本のストリッパーは特別天然記念物で、環境省の「レッドデータブック」では絶滅の危機が増大している「絶滅危惧種II類」に指定されています。

■電話交換手
昼行性で、他のヒトに比べ多くの時間を地上ですごします。果実、葉、花、樹皮、樹液、無脊椎動物などを食べます。
においづけによって縄張りを主張する臭腺から出る分泌液を尾につけ、それを振って強さを競います。

 なぜ、このような説明書きみたいな書き方がされているかというと、それが作曲家の注文だったから。

(其の二十六)
“ヒトの謝肉祭”とは、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』をもじったテーマであり題名だろう。動物が謝肉祭を祝う、ヒトが謝肉祭を祝う。宗教的な意味は、私は考えていない。謝肉祭に集う人ということに主眼を置いた。つまり、さまざまな人、人の種類を描こうとした。五篇なのは、これも作曲者の希望による。謝肉祭としてまとめあげるのは、清道洋一であろう。
 そのような清道洋一と、私が詩人として、一緒に曲を創ろうとした場合、何をすべきか。作曲者ひとりでは曲が完成しないのだから、私も働きかけるべきではないだろうか。「ヒトの謝肉祭」という詩を書いて預けるだけではいけない。関係を進行させ続ける対話が必要だというのが私の解釈だ。  返事が返って来ないとしても、それは気にとめないことだ。Aは自由に働きかける。Bは自由に働きかけない。人にはどんな場合も自由がある。大きく考えれば、曲にかかわる全員が、演奏家も含めて、清道に対し、受け取る側に徹することはない。作曲途上で働きかけてもいいだろう。それに対する清道の反応は、顧慮しなくてもいい。私は彼と彼の曲について、誰も支配者にならない、アナーキーな状態を感じているようだ(それは気持ちのいいことだが、アナーキーであることは難しい。その難しさを感じている。ついに終わりが来るまで難しいままだろう)。
 曲の締切日、四月十六日の三日前、四月十三日に、私は清道洋一に詩を送った。これが今の、私と清道の関係の、ひとつの形である。彼がどう受けとめたかわからないが、ここに発表する。(題名の「幸福」が、そのままふたりの関係を表わしているのではないことをお断りしておく)

幸福な世紀に

I.

散らばった
世界に
流れこむ
破壊と
再生
真の
勝利は
封印された
自作自演のドラマ
究極の未来志向は
もう終わりだから
消し去られた
道筋と
痕跡
敗北のカードを切る
奪われて
止めを刺した
無能
底をつく
敵の目的が
絶叫せよ!
これこそが
断片なのだ
終わらない
攻撃は
何もかも不明
速やかな
撤退と
裏切り
犠牲
GOのサインが
点滅する
切り裂かれた
瞼の
向こうで墜落してゆく
朝焼けは
あまりにもまぶしい
衝撃

II.

夢中だったのです
どこがどう違うのか
理解できます
惜しげもなく披露公開暴露しています
明らかに違うしたたかさ
そこまで考えた時に食い潰されました
この惑星で暮らしてゆこう
冒険の記録は本質がまったく逆です
想像を絶した歴史に集約されてゆきます
このあたりでつながった
意味のある少年たちの疑い
一連の決まった動作で行います
すべてが託されているのです
あのころは何もかも余談でした
死の実験室と過渡期のダンスフロア
むき出しの攻撃性は単一志向です
予測できたことでは?
人生を安定させるための噴射を制御
存在しない三次元を探して苛立っていました

III.

灯もつけないバスが
真暗な尾を引いて
走ってゆく高速道路
時速百五十キロで
何もかも人生を終わらせよう
果てしない坂道に星が!
またたいていた
運転席でハンドルを握る
死というやつ
呼び止めても無駄なこと
いつか乗っていた
ひび割れて修復不能の
人生を抱えて
ドアを開けるとそこは
空っぽだ
覚えているだろうお前なら
落ちていったはずだ
どこまでも
望んだこと望みどおりのこと
自在な
つかみどころのない
予言が
築き上げる
暗黙の
実現可能な
時代と
先触れした
約束
巨人たちの戦い
ファインダー越しに見ている
独白の
記憶装置
叙述装置
さかのぼってゆく
たどってゆく
物理的に存在しない
幻想
過去
リアル
何もかもすべて
「ベースは用途に応じて作ってきたんです距離を変えてなかなか思うようにいかない時間がかかるなら現代人だからこそかなり自由度を持って捨てられない浮かんできたアイデアなんです私のひとつの理想なんですウチのストーリーそこで何種類かの雪の降る本質の面白さを殺して大きなシステムを抱えこむと基本的に負荷が増えますからね最もリアルタイムなんですよ」
誰もいない
運転席
時速百五十キロ
ひた走る
灯もつけないバスは
無言で
走ってゆく
果てしない高速道路
坂道の頭上にまたたいていた星空は死というやつが乗っていた
人生の終わりに

2011年5月2日月曜日

トロッタ13通信(17/5月2日分)

(其の二十三)
 田中修一との作業は、現在、いくつも抱えていることがあり、整理が難しい。モノオペラ、合唱曲、ギター曲、独唱歌曲、その他。そうしたことを同時並行で考えながら(具体的に考えられないが心に抱きながら)、第十三回「トロッタの会」で初演する、『MOVEMENT an extra』について書く。
 既に記したが、これで四曲目の『MOVEMENT』である。田中修一から、ハラルト・シュテュンプケの『鼻行類』に取材して、『亂譜外傳』という題で詩を書いてほしいと依頼されたのは、改めて調べてみて驚いたが、何と一年前、昨年の四月三十日であった。詩を書き、作曲をして、一年がかりで演奏が実現することになるわけだ。(一年の間に二度のトロッタがあった)
『鼻行類』の内容は、すべて作り事である。鼻で歩き、鼻で補色する哺乳類が、南太平洋のハイアイアイ群島にいた。しかし、その島は核実験の影響で沈んでしまったという。学術論文の贋作だ。その島に棲息する動植物の多くが固有種だというマダガスカル島にせよ、どうせこちらは行けないし、見ることもできないのだから、鼻行類が実在したものであっても、何らさしつかえはない。私はそのような態度で、詩作に臨んだ。
 十二月五日に『楽園』という詩を書いて送ったが、これは意に沿わず(その途中、十二月十二日に谷中ボッサで『隠岐のバラッド』公演があったので、詩が書けなかった)、十二月二十九日に『儀式』という詩を送り、これが採用となったのである。『儀式』を次に掲げる。*印の詩句は、曲にする上で変更してもかまわないとして書き添えたものだ。

儀式

焼けた風に
黒髪をなびかせて
波打際を駈けてゆく(*駈ける)
女は
ヒトではなかった

色づいた実の
赤さにまさる緋の肌(はだえ)
健やかに微笑んでいる(*微笑む)
女は
ヒトではなかった

火の山の下(もと)
死の果てに生まれた生命(いのち)
原生の密林に
奥深く住むという(*住む)
女は
ヒトではなかった

雨が降る
泣きながら
風が吹く
呼びながら
雪は積もる
沈黙して

風はなく声もなく
気配も息吹も消したまま
ヒトではない
女たちが舞っている
天はビロード
稲妻に引き裂かれ
ほとばしる血の滴(しずく)
あざやかに
あざやかに あざやかに横たわる情念
無惨
愛の力は喪失し
路傍の頚木(くびき)に
一対の生き物が
縛られた
逃れられないのだから
棄ててしまえないのだから
終わりは何処にもないのだから
聴け
ヒトではない
女たちの歌声を
それは燃えながら凍りつき
 宇宙に向かって立ち尽くす


(其の二十四)
 これが曲になると、どうなるのか、ご覧いただこう。田中修一の筆が加わった詩である。

「MOVEMENT an extra~亂譜外傳・儀式」

焼けた風に
波打際を駈けてゆくものは
ヒトではなかった

色づゐた實の
赤さにまさる緋の肌(はだへ)
健やかに微笑むものは
ヒトではなかった

火の山の下(もと)
死の果てに生まれた生命(いのち)
原生の密林に
奥深く棲むといふ
ハナアルキ

雨が降る
泣きながら
風が吹く
呼びながら
嵐が來る
沈黙して

風はなく聲もなく
氣配も息吹も消したまま
ハナアルキが舞ってゐる
天はビロード
稲妻に引き裂かれ
ほとばしる血の滴(しづく)
あざやかに
あざやかに あざやかに横たはる情念
無惨
愛の力は喪失し
路傍の頚木(くびき)に
一對の生き物が
縛られた
逃れられないのだから
棄ててしまへないのだから
終わりは何處にもないのだから
聴け
ハナアルキの歌聲を
それは燃えながら凍りつき
宇宙に向かって立ち盡くす

 私は女を描いた。田中修一はハナアルキを描いた。私が描いた女も、人ではない。しかし、ハナアルキとは書かなかった。理由は単純で、ハナアルキは自分をハナアルキと思っていないから。人間は自分を人だと思っているが、「人」はものの呼び名に過ぎない。鼠を人は鼠と呼ぶが、そう呼ばれる以前から鼠はいたのだし、鼠も自分を鼠とは思っていないだろう。「ハナアルキ」という呼び名にしても、田中修一が曲目解説に書いているが、ハイアイアイ群島のフアハ=ハチ族は、「ホーナタタ」と彼らを呼んでいたのである。「ハナアルキ」は日本式の呼び方だが、現地には現地の言葉がある。すべての生物は、呼び名から自由だ。しかし性別は自由ではない。自由ではないが、ハナアルキも人も鼠も、「女」として一致する。性は動物の分類を超越している。私はそこにひかれる。
「女」が「ハナアルキ」になり、それに伴う変更以外は、「雪が積もる」が「嵐が来る」になったことだけで、詩はそのまま生かされた。そして詩は、四連までをソプラノが歌い、以下を私が詩唱し、もう一度、四連までをソプラノが歌うという構成である。
 用いられる楽器は、ファゴット、コンガ、ピアノ。田中の解説が、フアハ=ハチ族の、春の祭に触れている。もしかすると、『MOVEMENT an extra』は、その祭の音楽的表現ではないかと想像する。ではソプラノは、祭の儀式歌で、詩唱者は儀式の語り部か。違うかも知れない。その判断は、聴く者にまかされる。

2011年5月1日日曜日

トロッタ13通信(16/5月1日分)

(其の二十一)
 堀井友徳との共同作業も二度目となった。『北方譚詩』と題して、北の国を音楽で表現する。前回の『北都七星』『凍歌』に続いて、『運河の町』『森と海への頌歌』を書き下ろした。仮にこの先も続くとしたら、堀井にとっても私にとっても、たいへんに大きな世界が作れると思う。数だけでいえば(比べてどうこうしようというのではない)、伊福部昭が更科源蔵の詩で作曲した歌の数と同じになった。もっとも、更科には『凍原の歌』としてまとまった詩集があるが、私の“凍原の歌”は、まだ数が足りない。できれば北海道に行き、気持ちを新たにして詩が書ければいい。
『運河の町』は、題名から想像できると思うが、小樽を描いた。たまたま知り合いになった油絵画家、佐藤善勇が、運河がまだあったころの小樽の風景を描いている。佐藤が小樽に寄せる愛着は、何度も話に聞いた。佐藤は、姓も同じ彫刻家の佐藤忠良にデッサンを習った。佐藤忠良は、伊福部昭の友人である。同じ旧制札幌二中出身で、伊福部の兄、勳、友人の三浦淳史とともに、絵画サークルを結成していた。私は縁を感じ、『音楽家の誕生』『タプカーラの彼方へ』『時代を超えた音楽』をオンデマンド本として刊行する際、佐藤善勇の絵とデッサンを、表紙画に使わせてもらった。また、最近はまったく行っていないが、伊福部昭に関する原稿を執筆中はもちろん、かつてはしばしばあった北海道の取材旅行では、時間を作って、伊福部にゆかりの土地を巡っていた。もちろん、“運河の町”にも足を運んでいる。小林多喜二、伊藤整らもこの町で、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学んだかと思い、非常に感慨深かった。
 詩に描いたのは、そうした私の実体験もあるが、主に、佐藤善勇と交流する中で育った、心の風景である。

『運河の町』

消えてしまった運河に
冷たい時間が眠っている
覚えていてほしい
降る雪に凍え
かじかむ手を暖めながら
あなたと私が
立っていた
白い町
白い光景

行くあてもないまま
運河を見たくて
その日しか逢えなかったから
私たちは約束した
消えてゆく運河を見ようと
朽ちかけた船が
傾いている
容赦のない姿に
あなたも私も声をなくした

月が運河に落ちている
覚えているよ
あなたの
小さな声を
滑りながら駈けてゆく
黒い影になり
運河にかかる橋へ
思い出
何もかも
運河の町に置いてきた
私たちの思い出

(其の二十二)
『森と海への頌歌』は、もともとの詩は、『森と海のある土地』という題名であった。こちらは厚岸の風景を詠んだ。厚岸は、伊福部昭に縁の深い土地である。北海道帝国大学林学実科を卒業した伊福部は、森林官となって厚岸に赴任する。『日本狂詩曲』チェレプニン賞受賞の知らせは、その厚岸に届いた。チェレプニンに横浜で作曲のレッスンを受け、その返礼にと思い立った『土俗的三連画』は、厚岸の人と風土を楽曲化したものだ。厚岸の女たちに共感した「同郷の女達」、厚岸半島の絶壁の名である「ティンベ」、アイヌの古老が繰り返し歌った歌の名「パッカイ」。楽章に付された題名である。『土俗的三連画』は、厚岸に生きとし生けるものの音楽的表現である。
 どうも、文学的な方面に興味が行ってしまうのだが−−。伊福部はプルーストの『失われた時を求めて』を愛読し、そこに描かれたノルマンディの避暑地バルベックに厚岸を重ねていた。そこを最果ての土地、太古の土地をとらえ、人も動物も植物も、皆が平等に生きる世界だと、その風景を受けとめていたのである。厚岸に足を運ぶと、その大きさに圧倒される。足元の石ころや植物など、小さなものまで大きく感じる。詩に登場する鹿には、実際に対面した。海豹には会わなかったが、海に浮かぶ島を、あそこが海豹がいると聞く場所かと眺めた。鹿、海豹を詠んだならと、最後の連では人を登場させたのである。
 前回、堀井は女声三重唱とピアノという編成を採った。今回は、混声四部とピアノである。声の魅力、歌の魅力を聴かせようとしている。

『森と海への頌歌』

濡れている鹿の目は
何を見た
太古の森を映して
漆黒に光り
ひるがえす身の行く手に
人はなし
木霊(こだま)の息が満ちている
数え切れない歳月に
生きて死ぬ
獣たちよ永遠(とわ)に

濡れている海豹(あざらし)の目は
人を見た
海と陸(おか)に別れて暮らす
はらからよ
言葉がもしも通うなら
見たもの
聞いたものを語らおう
蒼(あお)果てしない海底(うなぞこ)で
われは待つ
踊りながら揺れて

濡れている人の目は
風を見た
そびえる崖に立ちながら
時間(とき)の流れに思いを馳せて
いにしえは今
今もいにしえ
生命(いのち)は絶えることなしに
はるかな空へ続いてゆく
響けよ歌
名も知らぬこの土地で
生まれ変わるものたちのため