2011年5月23日月曜日

トロッタ13通信(38/5月23日分)

(其の六十七)
 早稲田奉仕園・音楽室にて練習。人の集まりが悪く、こんなに来ないならやめる、と練習を放棄した指揮者のことを思い出す(彼は、演奏者こそ練習を放棄しているではないか、と思ったのだろう)。
 それでも、練習した。『ロルカのカンシオネス』と、『草迷宮』。しかし、清道洋一の『謝肉祭』はできず。また『都市の肖像』の打ち合わせも満足にできず。
 氷雨の降る夜だけに、心にこたえる。さらにさまざまなことがあり、心にこたえている。だが、自分に起こっていることは、これまでの世の中に掃いて捨てるほどあった。そう思えば、気に病むこともなし。自分ひとりの存在など、何ほどのものでもない。個に過ぎぬ。個ですらない。そう思えば何でもできる。
『草迷宮』は、今井重幸にとって、実験精神の到達点だろうと思う。それが成功しているかどうかは、まだわからない。しかし、実験しようと思い、それを実現させた時点で、目的は達している。演劇としてなら、もっといろいろ演出があるだろう。これは音楽だ。演出に走るのではなく、(音楽的)表現を錬磨する必要がある。

(其の六十八)
 トロッタ13の準備を進めながら、14の構想も立てていかなければならない。12月初旬を予定している。すでに何曲か、考えはある。何人かに意思表示をしてもらっている。私はロルカの歌を歌う。12月公演なら、トロッタ13を終えた二日後には申し込みがある。考えなければ。
 ここのところずっと、スケジュール調整などに追われている。創作意欲を燃焼させられない。ロルカの歌で、燃焼すればいい。それだけに集中できればいいのだが。単純に、一篇の詩を書くなどしたい。それが、できない。トロッタの原点に立つ。それは何? 詩と音楽。それ以外にない。たくさんの人を集めて、とかそういうことではない。それは必要だが、詩と音楽、それを見つめたい(原点に立ち、詩と音楽を考えるために、スケジュール調整をしているわけだ。決して、創作と無縁のことではない。必要なことである)

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