2011年5月4日水曜日

トロッタ13通信(19/5月4日分)

(其の二十七)
 私が歌う『ロルカのカンシオネス』は、今井重幸が編曲をした。たいへんにありがたいことである。スペインを愛し、ロルカに思いを寄せる今井として、ロルカに関わる曲の編曲を頼まれれば断れないといった。快く引き受けてくれ、今井なりの工夫を凝らしてもくれた。ただ、その歌はなかなかに難しい。きれいに歌おうと思わず、癖のある歌い方を心がけてほしいといわれている。装飾音を、こぶしとして効果的に歌う。押したり引いたりという歌い方。“木部ロルカ”を(畏れ多いことだ)作り上げてほしい。そういった励ましをもらった。癖のある、というのは歌に限らない。演奏の人々にも、例えばジプシー・ヴァイオリンに通じる弾き方をという指示があった。−−ロマ(ジプシー)のような生き方はしていない。どの時代に生きていてもおかしくない、善も悪も超越したロマ。そんな図太い生き方は自覚していない。しかし、私なりの生き方はもちろんある。私にも哀しみがあれば、歓びもある。そうしたことを、テクニックを超えて出せばいい。今井重幸は、そういってくれているのだと思う。
 その今井重幸によると、『叙事詩断章・草迷宮』を構想したのは、人声を前面に出した作品を書いてみたいとの欲求からである。シャンソンの曲は多いが(トロッタの「今井重幸のヌーヴォー・シャンソン」も、二度で終わっている。続けなければ)、『草迷宮』は誰に依嘱されたのでもない。すすんでの作曲だった。ロルカの歌ではないが、声とは人そのもの。その声を使った演奏会の作品を欲した。
 そこで『草迷宮』を選んだのが、今井重幸らしいところである。『草迷宮』は、幼いころ母親に聴かされていた手毬歌を求めてさまよう青年の物語である。「通りゃんせ通りゃんせ ここは何処の細道じゃ」という歌が繰り返して出てくる。そして、手鞠の幻影。青年がたどりついたのは、三浦半島にある、魑魅魍魎が救う荒れ果てた屋敷だった。鏡花独特の、一語一語を美しく飾った文体で、全篇が描かれている。ストーリーで妖しさを出すというより、文章自体が妖しい。今井の心をしめるのも、理知ではない、非現実への憧れだろう。アンチ・リアリズムの世界にひかれると、明言している。
 今井は、『草迷宮』の物語をたどろうとしなかった。さまよう青年が聴く手毬歌。幻聴ととともに旅する青年の姿。それを一篇の詩として自ら書き、トロッタではバリトン、あるいはメゾ・ソプラノが語り、歌う曲としたのである。もともとはオーケストラ曲だが、それをトロッタのため、室内楽編成にした。これもありがたいことである。

(其の二十八)
 今井重幸による『草迷宮』の詩を掲げよう。音楽作品としてではなく、これを詩の単独作品として朗読するのもおもしろいと思う。機会があれば、詠んでみたいものだ。なお、「まんじ敏幸」とは、舞台作品を演出する際の、今井重幸の名前である。

泉鏡花の『草迷宮』に拠る詩的断章

詩・まんじ敏幸

鎮守の森のてっぺんから
烏天狗が舞い下りて
赤いおべべの娘が二人
手毬をついて 鞠ついて
ひとつとせ ……
ふたつとせ …… 三っつとせ …… 四っつとせ
烟(ケムリ)のように烟のように
昏(くら)い空へとかき消えた。

風が厳かに言った。

「お前は寄る辺ない漂泊者(さすらいびと)
憩(やす)らわぬ巡礼だ」

通りゃんせ 通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ……。
……。
天神様の細道じゃ……。

不意に日が翳る。

野菊が蒼ざめ身震いした。

カラスが赫い口で脅した。

「もう何処へも行けぬ。
死者の足音が盗人(ぬすびと)のように
お前に寄りそっている」

霧が足許で囁いた。

「この道を通るのは亡霊ばかり
ほら、ごらん
悪い噂が向こうの角を曲がり
盲(めし)いた犬が自分の死の影に
吠えている」

りんどうが私を難詰(なじ)った。

「私の首を折ったのはおまえさ!
死のコルクを抜いてしまったのもおまえだ」


おお、見るがいい

山から魔物が降りて来る
野原もざわざわ叫びだし
あたりいちめん
あたりいちめん
青い鬼火が跳ね廻る。
狐が踊り
鬼が笛吹き
蛇(じゃ)が走る。

空が落ちる 海が燃える
ほう、火の玉も来い!
黄泉(よみ)の国の帳(とばり)も降りて来い!
……。
……。
嗚呼、暗い谷間で手を振るおまえ
おん身、私の愛よ
……。
そこをどけ、亡者ども
時が逃げる
行かねばならぬ
行かねばならぬ
行くてを空けろ
さあ、開けろ!
……。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ
細道じゃ……。
天神様の細道じゃ。

通りゃんせ 通りゃんせ
ここは何処の細道じゃ
細道じゃ……。

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