2010年10月29日金曜日

「トロッタ12通信」.19 (*10.24分)

 日曜日です。だんだん、トロッタ12が近づいてきました。渋谷のヤマハにて、田中修一さんの『Movement.No3』と、『ヘンリー八世の主題による詩唱曲』を合わせました。その後、駒込のラ・グロットに移動して、ひとり、『イリュージョン』の練習をしました。氷雨が降っていました。
『イリュージョン』のギターソロの箇所は、ほぼ暗譜できました。ただ、時によって間違えるので、本当に暗譜しているとはいえません。なお努力しますが、本番では、譜面を前にして弾きます。譜面をなしにして弾けるほどの力はありません。(ただ、私としては、曲がりなりにも暗譜できたことは、たいへんな進歩です。完全に弾けなければ駄目なので自慢にはなりません。あくまでも私のレベルで、ということの経過報告です)



『ヘンリー八世の主題による詩唱曲』のような詩を、たくさん書ければおもしろいと思います。しかし、これは本当に、奇遇ですねといいたいような偶然から生まれた詩なので、いつもめぐりあえるとは限りません。今年は梅雨が長く、そんな中でコインランドリーに足を運ぶ道すがら、思いついた詩なのです。思いつきで書いているのかと自問自答しますが、その傾向はあります。思いつかなければ書けない、ということです。
 それと正反対の態度で書いたのが、田中修一さんとの共同作業、“亂譜”のシリーズです。「亂譜」「亂譜 瓦礫の王」と続き、トロッタ12で、シリーズ三作目「亂譜 未來の神話」が生まれます。この詩は、意志の力で書きました。
 田中さんからは、安部公房の長編小説『第四間氷期』をモティーフにした詩を書いてもらえないかといわれました。前回の『瓦礫の王』は、ボルヘスの『ブロディーの報告書』をモティーフに、というリクエストでした。どちらの作家も、私は好きです。ボルヘスはボルヘスなりに、安部公房は安部公房なりに。
 ボルヘスそのまま、という詩を、私はかつて、書きました。あまりにそのままなので、成功していません。どなたも、よいといわないので、評価もしていただけませんでした。憧れだけで書いてしまったというべきでしょう。失敗作です。しかし、いずれはその素材を使って、何とか新しい詩を、真似ではないと思える詩を書きたいと思っています。
 安部公房については、まだ真似に過ぎない詩は書いていません。『未來の神話』も、田中さんからのリクエストはありましたが、『第四間氷期』そのままではないのです。詩を読んで『第四間氷期』を連想する人はひとりもいないでしょう。私も連想しません。ただ、題名は、人間の未来、地球の未来を描いた『第四間氷期』に通じています。未来に神話はないはずです。神話の後に、人が生まれたのですから−神話とは、過去、現在、未来という時間に関係なく存在するものかもしれませんが−。
『第四間氷期』は、長さとしてはさほどではありませんが、何ともいえないスケールを感じます。電子計算機が地面の水没を予想したので、人を改造して、水棲人を作り出そうとする。ものすごく大きな話です。上質のSFは、私の思うところ、神話に似ています。啓示があります。書き手の意志−神話に書き手があったとして−、それを感じさせずに、人のありのままの姿を語り、見せてくれます。
 上質のSFといいましたが、上質の物語は、すべて神話に通じるかもしれません。私の感じるところ、神話とは、人の営みの延長です。人がしてきたこと、するかもしれないこと、していることが、善悪の判断なしに書かれています。神話は、善悪を判断しないものだと思います。神の所行に、善悪の別はあるでしょうか? 太陽や風や海や山や川や星など、自然と神が重ねられているとして、そういった自然には善悪がありません。ただSFは、神話は、人の運命を描くのみです。
 もっといいましょう。
 よくできた詩にも、善悪はないと思います。
 さらにいえば、よくできた芸術作品には、善悪がありません。
 価値観の押しつけは、芸術の務めではないのです。
『未來の神話』と名づけた以上、私は、運命の姿を描こうとしただけで、この詩をもって何かを主張したのではないと書いておきます。

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