2010年11月18日木曜日
ブログ「ボッサ 声と音の会」をご覧ください
トロッタ12は無事に終わりました。ありがとうございました。
目下、トロッタ13の準備を進めています。
間近くは、12月12日(日)17時から、谷中ボッサにて「ボッサ 声と音の会」が開かれます。
そのブログをご覧ください。
http://torottax.blogspot.com/
目下、トロッタ13の準備を進めています。
間近くは、12月12日(日)17時から、谷中ボッサにて「ボッサ 声と音の会」が開かれます。
そのブログをご覧ください。
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2010年11月2日火曜日
「トロッタ12通信」.27 (*11.1分)
一日中、プログラム作りでした。異状に時間がかかります。まだ材料が揃わないので、印刷所に入れることができません。やはり、コピー屋で行うことになります。この問題は進展させられませんでした。
とにかく、自分の練習どころではありません。
シューマンの『女の愛と生涯』を演奏することになったので、シューマンを少し勉強しました。詩と音楽が彼の終生のテーマであった点、トロッタと重なります。シューマンを取り上げることになり、よかったと思います。
深夜、前日練習の予定をやっと作り、皆さんに送信しました。
とにかく、自分の練習どころではありません。
シューマンの『女の愛と生涯』を演奏することになったので、シューマンを少し勉強しました。詩と音楽が彼の終生のテーマであった点、トロッタと重なります。シューマンを取り上げることになり、よかったと思います。
深夜、前日練習の予定をやっと作り、皆さんに送信しました。
「トロッタ12通信」.26 (*10.31分)
西日暮里の東京音楽学院で、朝から合わせでした。
バリトン根岸一郎さんとピアノ徳田絵里子さんによる、伊福部昭先生『ギリヤーク族の古き吟誦歌』。
メゾソプラノ徳田絵里子さんとピアノ森川あづささんによる、宮崎文香さん『めぐりあい』。宮﨑さん、立ち合いました。
アルト青木希衣子さんとピアノ森川あづささんによる、ロベルト・シューマン『女の愛と生涯』。私が日本語詩を詩唱します。演奏は全8曲からの抜粋です。
ソプラノ柳珠里さん、メゾソプラノ徳田絵里子さん、アルト青木希衣子さん、ピアノ森川あづささんによる、堀井友徳さん『北方譚詩』。堀井さんに、すぐメールで録音を送りました。
夕方になり、ソプラノ柳珠里さん、ギター栗田和樹さん、フルート八木ちはるさん、ヴィオラ仁科拓也さんによる、田中修一さん『ムーヴメントNo.3』。田中さん立ち合いました。
ここを終えてから、私はまったく練習をしていないので、ギターと合わせて、清道洋一さんの『イリュージョン』を個人練習しました。
バリトン根岸一郎さんとピアノ徳田絵里子さんによる、伊福部昭先生『ギリヤーク族の古き吟誦歌』。
メゾソプラノ徳田絵里子さんとピアノ森川あづささんによる、宮崎文香さん『めぐりあい』。宮﨑さん、立ち合いました。
アルト青木希衣子さんとピアノ森川あづささんによる、ロベルト・シューマン『女の愛と生涯』。私が日本語詩を詩唱します。演奏は全8曲からの抜粋です。
ソプラノ柳珠里さん、メゾソプラノ徳田絵里子さん、アルト青木希衣子さん、ピアノ森川あづささんによる、堀井友徳さん『北方譚詩』。堀井さんに、すぐメールで録音を送りました。
夕方になり、ソプラノ柳珠里さん、ギター栗田和樹さん、フルート八木ちはるさん、ヴィオラ仁科拓也さんによる、田中修一さん『ムーヴメントNo.3』。田中さん立ち合いました。
ここを終えてから、私はまったく練習をしていないので、ギターと合わせて、清道洋一さんの『イリュージョン』を個人練習しました。
「トロッタ12通信」.25 (*10.30分)
*あらゆることに時間がなく、切迫した状況ですので、「トロッタ12通信」に、時間を要する作品論はもう書けません。報告のみといたします。予想外のことが起こりうるとはいえ、結局、このように慌ただしくなってしまう事態は、何とか避けたいと思います。
台風が来ました。
朝から今井重幸先生宅にうかがい、萩野谷英成さんが『シギリヤ・ヒターナ』のマンツーマンでのレッスンを受けました。その間、皆さんとはメールで連絡など取り合いました。
午後は練馬にて、中川博正さんと『黄金〈こがね〉の花降る』の詩唱を合わせました。詩唱パートは、まだまだ表現になっていません。
夜はピアノの森川あづささんと会い、『たびだち』の譜面を渡しました。『たびだち』のピアノは、森川さんです。
台風が来ました。
朝から今井重幸先生宅にうかがい、萩野谷英成さんが『シギリヤ・ヒターナ』のマンツーマンでのレッスンを受けました。その間、皆さんとはメールで連絡など取り合いました。
午後は練馬にて、中川博正さんと『黄金〈こがね〉の花降る』の詩唱を合わせました。詩唱パートは、まだまだ表現になっていません。
夜はピアノの森川あづささんと会い、『たびだち』の譜面を渡しました。『たびだち』のピアノは、森川さんです。
2010年11月1日月曜日
「トロッタ12通信」.24 (*10.29分)
*24、25、26回の原稿は、ほぼ書いて、後は公開するだけになっていましたが、なぜか、原稿が消えてしまって、どこにも見当たりません。原稿に費やした時間が消えてしまいました。できるだけ書きますが、時間がなく、プログラムを作ったり、仕事の原稿を書いたりしなければならず、薄くなっていることをご了承ください。原稿が消えて時間を失ったということも、私の実力です。
駒込のラ・グロットで合わせをしました。清道洋一さん『イリュージョン illusion』と、橘川琢さん『黄金の花降る』です。ラ・グロットは、つい最近に知ったばかりの場所ですが、これで三度目の使用になります。非常に気に入っています。名前は、洞窟という意味だそうです。その名のとおり、半地下に下りてゆく、不定形な空間です。いろいろなことができると思います。
『イリュージョン illusion』と『黄金〈こがね〉の花降る』は、まだつかめていません。私の詩で、作曲家が何を表現しようとしているのか? 特に『イリュージョン』が私に求めているのは、演劇でしょうか? 私の印象として、演劇性が、あまりに優っています。演劇だというならそれで割り切りますが、音楽の要素も多くあります。いや、私としては、トロッタで発表する以上、音楽面を引き出したいと思っています。『黄金の花降る』も同様です。大声で詩を詠むだけでは仕方ありません。もっと、落ち着いて考える時間がほしいと思います。
*
くろとり
木部与巴仁 「詩の通信」第8号(2006.2.17)
影から現われ 闇へ羽ばたく
夜をねぐらにする、黒い鳥
くろとりが翔んでゆく、音なしに
誰の目にもとまらず、時の谷間をすりぬけて
くろとりは想うことがある、この姿が
前の世ではどんな形をしていたのか、と
闇の中で、目を閉じながら
ここはどこ いまは、いつ
昨日はなかった 今日も、ないだろう
きっと、明日も
誰かを呼びたくて 鳴いた
しかし一切の気配が 闇の中で断ち切られている
なぜ、翔ぶ
何が、自分を翔ばせる
翔んでも、すれ違うものがない さえぎるものも
行き着く場所がどこであれ、どこにあるのであれ
くろとりは 翔ぼうと思った
それが唯一、自分にできること
翼を広げて舞い上がった瞬間
くろとりの姿は消えていた
*
橘川琢さんは、詩唱の私や、花いけの上野雄次さんなど、純粋の音楽で育っていない存在と、共同作業をして来ました。それは、彼の、違和を引き受けようとする態度です。清道洋一さんにも、演劇性が強いという意味で、同様のことがいえるでしょう。これは賞賛の意味でいうのですが、橘川さん自身が、違和の存在なのではないでしょうか。少なくとも、世の中に違和感を強く感じているのではないでしょうか。私や上野さんではなく、純粋な音楽の方々と共同作業をしても、橘川さんはやはり、違和感を覚えてしまうのではありませんか? 馴れ合いを求めない。求めたくない。それは芸術家にとって必要な資質です。他人と馴れ合い、自分と馴れ合っていては、創造的な作品は生み出せません。今までのものでいいということになりますから。孤独ですが、孤独を引き受けなければものは創れません。むしろ、孤独を楽しむことが必要です。人の助力を求め、甘えてはいけません。かといって他人を拒み、他人と断絶してはいけません。こうしたことを履き違えて、他人に迷惑をかけて、それは仕方のないことと開き直る人々が少なからずいます。端迷惑は、絶対に避けたいことです。生きている以上。
私はまだ、橘川さんの作品を理解していません。8月の個展で初演した『夏の國』も、同様でした。わかったと思って臨めたのは、本番の舞台一回きりです。会場で最後の練習をしている時もわかりませんでした。前の演奏が行われている間、楽屋でわかったのです。勘違いでもいいから、自分の解釈を欲しいと思います。
もちろん譜面どおりに詩唱するのですが、決まりきった詩唱は、嫌です。わざわざ変わったことをしようとは思いませんが、自由に詠みたいと思います。しかし、自由に声を出すということの難しさ。これを痛感しています。
駒込のラ・グロットで合わせをしました。清道洋一さん『イリュージョン illusion』と、橘川琢さん『黄金の花降る』です。ラ・グロットは、つい最近に知ったばかりの場所ですが、これで三度目の使用になります。非常に気に入っています。名前は、洞窟という意味だそうです。その名のとおり、半地下に下りてゆく、不定形な空間です。いろいろなことができると思います。
『イリュージョン illusion』と『黄金〈こがね〉の花降る』は、まだつかめていません。私の詩で、作曲家が何を表現しようとしているのか? 特に『イリュージョン』が私に求めているのは、演劇でしょうか? 私の印象として、演劇性が、あまりに優っています。演劇だというならそれで割り切りますが、音楽の要素も多くあります。いや、私としては、トロッタで発表する以上、音楽面を引き出したいと思っています。『黄金の花降る』も同様です。大声で詩を詠むだけでは仕方ありません。もっと、落ち着いて考える時間がほしいと思います。
*
くろとり
木部与巴仁 「詩の通信」第8号(2006.2.17)
影から現われ 闇へ羽ばたく
夜をねぐらにする、黒い鳥
くろとりが翔んでゆく、音なしに
誰の目にもとまらず、時の谷間をすりぬけて
くろとりは想うことがある、この姿が
前の世ではどんな形をしていたのか、と
闇の中で、目を閉じながら
ここはどこ いまは、いつ
昨日はなかった 今日も、ないだろう
きっと、明日も
誰かを呼びたくて 鳴いた
しかし一切の気配が 闇の中で断ち切られている
なぜ、翔ぶ
何が、自分を翔ばせる
翔んでも、すれ違うものがない さえぎるものも
行き着く場所がどこであれ、どこにあるのであれ
くろとりは 翔ぼうと思った
それが唯一、自分にできること
翼を広げて舞い上がった瞬間
くろとりの姿は消えていた
*
橘川琢さんは、詩唱の私や、花いけの上野雄次さんなど、純粋の音楽で育っていない存在と、共同作業をして来ました。それは、彼の、違和を引き受けようとする態度です。清道洋一さんにも、演劇性が強いという意味で、同様のことがいえるでしょう。これは賞賛の意味でいうのですが、橘川さん自身が、違和の存在なのではないでしょうか。少なくとも、世の中に違和感を強く感じているのではないでしょうか。私や上野さんではなく、純粋な音楽の方々と共同作業をしても、橘川さんはやはり、違和感を覚えてしまうのではありませんか? 馴れ合いを求めない。求めたくない。それは芸術家にとって必要な資質です。他人と馴れ合い、自分と馴れ合っていては、創造的な作品は生み出せません。今までのものでいいということになりますから。孤独ですが、孤独を引き受けなければものは創れません。むしろ、孤独を楽しむことが必要です。人の助力を求め、甘えてはいけません。かといって他人を拒み、他人と断絶してはいけません。こうしたことを履き違えて、他人に迷惑をかけて、それは仕方のないことと開き直る人々が少なからずいます。端迷惑は、絶対に避けたいことです。生きている以上。
私はまだ、橘川さんの作品を理解していません。8月の個展で初演した『夏の國』も、同様でした。わかったと思って臨めたのは、本番の舞台一回きりです。会場で最後の練習をしている時もわかりませんでした。前の演奏が行われている間、楽屋でわかったのです。勘違いでもいいから、自分の解釈を欲しいと思います。
もちろん譜面どおりに詩唱するのですが、決まりきった詩唱は、嫌です。わざわざ変わったことをしようとは思いませんが、自由に詠みたいと思います。しかし、自由に声を出すということの難しさ。これを痛感しています。
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