2010年11月1日月曜日

「トロッタ12通信」.24 (*10.29分)

*24、25、26回の原稿は、ほぼ書いて、後は公開するだけになっていましたが、なぜか、原稿が消えてしまって、どこにも見当たりません。原稿に費やした時間が消えてしまいました。できるだけ書きますが、時間がなく、プログラムを作ったり、仕事の原稿を書いたりしなければならず、薄くなっていることをご了承ください。原稿が消えて時間を失ったということも、私の実力です。

 駒込のラ・グロットで合わせをしました。清道洋一さん『イリュージョン illusion』と、橘川琢さん『黄金の花降る』です。ラ・グロットは、つい最近に知ったばかりの場所ですが、これで三度目の使用になります。非常に気に入っています。名前は、洞窟という意味だそうです。その名のとおり、半地下に下りてゆく、不定形な空間です。いろいろなことができると思います。
『イリュージョン illusion』と『黄金〈こがね〉の花降る』は、まだつかめていません。私の詩で、作曲家が何を表現しようとしているのか? 特に『イリュージョン』が私に求めているのは、演劇でしょうか? 私の印象として、演劇性が、あまりに優っています。演劇だというならそれで割り切りますが、音楽の要素も多くあります。いや、私としては、トロッタで発表する以上、音楽面を引き出したいと思っています。『黄金の花降る』も同様です。大声で詩を詠むだけでは仕方ありません。もっと、落ち着いて考える時間がほしいと思います。



くろとり
木部与巴仁 「詩の通信」第8号(2006.2.17)

影から現われ 闇へ羽ばたく
夜をねぐらにする、黒い鳥
くろとりが翔んでゆく、音なしに
誰の目にもとまらず、時の谷間をすりぬけて
くろとりは想うことがある、この姿が
前の世ではどんな形をしていたのか、と
闇の中で、目を閉じながら
ここはどこ いまは、いつ
昨日はなかった 今日も、ないだろう
きっと、明日も
誰かを呼びたくて 鳴いた
しかし一切の気配が 闇の中で断ち切られている
なぜ、翔ぶ
何が、自分を翔ばせる
翔んでも、すれ違うものがない さえぎるものも
行き着く場所がどこであれ、どこにあるのであれ
くろとりは 翔ぼうと思った
それが唯一、自分にできること
翼を広げて舞い上がった瞬間
くろとりの姿は消えていた



 橘川琢さんは、詩唱の私や、花いけの上野雄次さんなど、純粋の音楽で育っていない存在と、共同作業をして来ました。それは、彼の、違和を引き受けようとする態度です。清道洋一さんにも、演劇性が強いという意味で、同様のことがいえるでしょう。これは賞賛の意味でいうのですが、橘川さん自身が、違和の存在なのではないでしょうか。少なくとも、世の中に違和感を強く感じているのではないでしょうか。私や上野さんではなく、純粋な音楽の方々と共同作業をしても、橘川さんはやはり、違和感を覚えてしまうのではありませんか? 馴れ合いを求めない。求めたくない。それは芸術家にとって必要な資質です。他人と馴れ合い、自分と馴れ合っていては、創造的な作品は生み出せません。今までのものでいいということになりますから。孤独ですが、孤独を引き受けなければものは創れません。むしろ、孤独を楽しむことが必要です。人の助力を求め、甘えてはいけません。かといって他人を拒み、他人と断絶してはいけません。こうしたことを履き違えて、他人に迷惑をかけて、それは仕方のないことと開き直る人々が少なからずいます。端迷惑は、絶対に避けたいことです。生きている以上。
 私はまだ、橘川さんの作品を理解していません。8月の個展で初演した『夏の國』も、同様でした。わかったと思って臨めたのは、本番の舞台一回きりです。会場で最後の練習をしている時もわかりませんでした。前の演奏が行われている間、楽屋でわかったのです。勘違いでもいいから、自分の解釈を欲しいと思います。
 もちろん譜面どおりに詩唱するのですが、決まりきった詩唱は、嫌です。わざわざ変わったことをしようとは思いませんが、自由に詠みたいと思います。しかし、自由に声を出すということの難しさ。これを痛感しています。

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