2010年1月31日日曜日

「11へ」;40

今日で一月が終わります。いよいよ、トロッタ11の練習が本格的に始まる、2月に入ります。
今朝は、ピアノの徳田絵里子さんのために、仮チラシを作りまして、お渡ししました。今日、ライヴがあったのですが、私は行けませんでした。どうも、仕事がたてこんでしまっており、落ち着きません。ご盛会であったと思います。

その帰り道、練馬区美術館にて、日本画の菅原武彦さんの作品を拝見しました。大きな作品です。私も大好きな、故横山操氏に影響されたそうで、大きさだけでも横山氏に負けまいと描いた作品があるそうです。実にすばらしい心構えだと思いました。

「トロッタ通信 11-19」

『うつろい』は、トロッタ11で、4度目の演奏になります。2008年1月26日(土)、トロッタ5で初演。同じ年の7月28日(金)、名フィル・サロンコンサート「詩と音楽」で再演。2009年3月22日(日)、橘川氏の個展「花の嵐」で三演しました。幸せな曲だと思います。それだけの魅力がある曲です。この演奏回数に匹敵する橘川さんの曲といえば、『花の記憶』でしょう。

たった今、新しい詩を書いています。詩は、誰が書いても短いもので、文字数はたいしたことがありませんから、すぐ書けそうだと錯覚します。しかし、なかなか書けません。説明のための文章ではありませんから、書けばいいというものになりません。

目の前にある、形を取りつつある詩は、いつ、どこで詠む、曲になるというあてのない作品です。書きたいから書いています。詩で商売をしようなどという人は、おそらくありません。商売になるわけがなく、仮に原稿料をもらったとしても、それは一時的なもので、持続性はなく、従って生活を支えるものとはなりません。なればいいと思いますが、ならない方がいいともいえます。

詩の書き方も、おそらく、決まったものはないでしょう。その人だけのものです。詩の教室も、あると思います。そこに通えば、不特定多数の方に、ある程度の説得力を持つ詩が書けるのでしょう。しかし、生まれたものは、詩人にとって絶対の詩ではありません。講師料を受け取る、先生の生活を支えるために書かれたようなものです。

そういえば、私も詩の講座に、一度だけ顔を出したことがあります。どんなことが語られているのだろうと思いまして。また、知り合いが講師をしていた関係もありました。自分の詩を朗読するというので、『夜が吊るした命』という、後に酒井健吉さんが作曲してくれた詩を持参しました。先生が、何かいってくださいました。詩を書く視点、といったようなことだったと思います。詩は、ビルの屋上で、電線にからんで身動きが取れず、冷たい冬空の下で死んでゆく烏を描いています。詩が、私の視点なのか、烏の視点なのか、といったような講評でした。先生の言葉が、正しいのかもしれません。その時の私の関心は、どのように朗読するかに大部分がありました。先生と、関心のありかがずれていたと思います。先生のお言葉を受けて、詩を直そうとは思いませんでした。強情になったわけではなく、これでいいと思ったからです。いや、一種の強情だったのでしょう。

そのことより、講座の主催者が、その後、間もなくして亡くなってしまったことの方が、私の記憶に刻まれています。私よりだいぶ若い方でしたのに。初期の「詩の通信」は送らせていただいていました。まだ「トロッタの会」は始めておらず、彼にも、トロッタに足を運んでいただきたかったと思います。(19回/1.29分 1.31アップ)

「トロッタ通信 11-18」

橘川琢さんと『うつろい』


先に紹介しました、『冬の鳥』評が載った「音楽の世界」誌で、改めて橘川琢さんの曲解説を読みました。私との共同作業が、17作目だと書いています。もう、そんな数になるのでしょうか。驚きましたが、トロッタ11で演奏されます『うつろい』は、その中でも初期の作品にあたります。2008年1月26日(土)の、トロッタ5で初演されました。橘川さんが、チラシの解説に書いています。

『旧い歌曲や唱歌、どこかさびしげでなつかしい歌謡曲…ちょっと時代がかった、はかなげな歌を作りませんか?』…などと木部与巴仁さんとお話していたら、少しして「うつろい」という素敵な詩が届いた

当時、橘川さんのリクエストには、唱歌のようなという表現もあったと思います。高校生のころから、喫茶店が好きな私です。喫茶店にはさまざまな思いがあります。喫茶店には何があってもおかしくありません。喫茶店幻想、といったような詩を書いてみようと思いました。いや、書いているうちに、そうなったのか。

詩の全文を掲げましょう。


うつろい


古ぼけた柱時計が

満開の桜の枝に掛かっていたらおもしろい

カウンターの向こうから

浜辺の歓声が聞こえてきたらおもしろい

落ち葉が舞って

コーヒーカップに浮かんだらおもしろい

椅子に腰かけたまま

しんしんと降る雪の気配を感じたらおもしろい


静かに器を洗う音を

今でも憶えている

その喫茶店では

いつも ひとりの女性が

うつむいたまま仕事をしていた

控えめな笑みを 浮かべて

ほんのり紅く 頬を染めて


[春]


憶えているよ

春になると 桜が咲いたね

花びらが吹雪になって

店いっぱいに舞っていた

季節がうつろう

不思議な喫茶店

今はもう消えてしまった


[夏]


憶えているよ

夏になると 海が見えたね

窓の外には水平線

遙かに遠く かすんでいた

天井をつらぬく

八月の太陽

ぼくの心をじりじり焼いた


[秋]


憶えているよ

秋になると 木立が燃えたね

散り敷く落葉は炎の形

ランプの灯に照らされて

喫茶店は錦に染まる

歌が聞こえた

誰の姿も見えないのに


[冬]


憶えているよ

冬になると 雪が降ったね

白くなってゆく店に

マフラーをまいたまま

じっと座っていた

ぼくはここにいる

時間だけが過ぎてゆく


今はない 街角の喫茶店

いつの間にか 消えていた

ぼくは今も この町にいる

でも あの人は いない

うつろう季節に連れられて

どこかへ行ってしまった

(18回/1.28分 1.31アップ)

2010年1月30日土曜日

「11へ」;39

すみだトリフォニー小ホールにて、テルミンの大西ようこさんと、ギターの三谷郁夫さんのデュオによる演奏会があり、今井重幸先生の「小ロマンス」が初演されました。今井先生の『神々の履歴書』が、トロッタ11で初演される旨のチラシを配らせていただきました。ありがとうございます。

明日、ピアノの徳田絵里子さんがご出演のライヴで配る、トロッタ11の仮チラシを作り始めました。何とか、午前中にはお渡ししたい予定です。

2010年1月29日金曜日

「11へ」;38

朝、「トロッタ通信 11」の2回目を、サイトにアップしました。ブログで綴っていることを、まとめたものです。

夜は草月ホールに行き、「日本の音楽展」XXXIIで演奏された、今井重幸先生の『仮面の舞』を聴きました。新宿ハーモニックホールのトロッタ8で演奏させていただいた曲です。今井先生の『神々の履歴書』のチラシを、明日まで置かせていただいています。いろいろな意味で刺激になった演奏会でした。

「トロッタ通信 11-17」

正直いって、私の詩唱に、他人に伝えるべき方法論はありません。詩唱の講座を開いたとして、この基準に達したから合格点といったことがいえないのです。五里霧中です。どうなったからいいということをいえません。朗読のための朗読になっているから、どうすれば音楽的な朗読になるのかなど、『冬の鳥』の演奏について、評者が批判する点を、どうすれば改善できるか、はっきりしたことがいえないのです。

音楽には楽器ごとに先生がいて教室があります。芝居には養成所があり、朗読にも、朗読教室なるものがあります。世の中、教室のないものなど、ないのではないでしょうか? ロックやジャズにも教室があり、先生がいます。聴く人を納得させられる方法論が、そこでは伝授されているのでしょう。古い時代には、教室など皆無だったはずですが、音楽は成立していました。教室のようなものに向かない人、教室をはみ出すような人にこそ、もしかすると、やむにやまれず生まれる音楽があるのではないかと思いますが、個人的には、先生と生徒の関係を否定してはいません。

詩唱にせよ、無手勝流でいいとは思わないのです。でたらめにしているつもりはなく、その底流には、私の経験から芝居と歌がある、芝居と歌を生かしたいと思っているので、だから、声楽のレッスンを受けています。歌えるようになって、私の詩唱はあると思います。さらに、最近のことですが、ギターのレッスンも受けるようになりました。楽器、特にギターは詩唱にうってつけだと思いますし、それを奏でながら詩唱できるようになれば、表現の幅が広がると思います。

これは先生方には申し訳ありませんが、自己流でできるとしても、先生と話しながらレッスンをしていく過程で、いろいろなことを考えられます。理屈だけで音楽とは? 詩唱とは? トロッタのあり方とは? そんなことを考えていても仕方ないので、実際に音を出し、コミュニケーションしながら表現を模索してゆくおもしろさがあります。もちろん、ほとんどの時間は五里霧中です。中川博正さんと、詩唱を追究しようと思いました。少しでも具体性を持ちたくて、一緒に探っていこうと思いました。中川さんを見ながら、わかることがあると思うのです。(17回/1.27分 1.29アップ)

2010年1月28日木曜日

「11へ」;37

早朝、小松史明さんから、チラシの直しが送られてきました。そして確認をし、夜になって、印刷所に入稿をいたしました。チケットも同様です。ずいぶん長くかかったようですが、一段落つきました。

2010年1月27日水曜日

トロッタ通信 11-16

1月27日(火)、東京音楽大学民族音楽研究所にて、甲田潤さん立ち会いのもと、根岸一郎さん、仁科拓也さん、並木桂子さんが参加して、『摩周湖』の二度目の合わせが行われました。私はずっと聴いていました。

思いましたことです。どんな楽器の伴奏もなく、また自らの言葉に旋律もリズムもなく、ただ語るだけであれば、人は言葉の意味を考えながら読みます。大人ならそうするでしょう。子どもは、自分の経験からして、あまりできないと思います。いずれにせよ、しかし伴奏が伴い、言葉に旋律やリズムが与えられると、人はとたんに意味を見失い、意味を乗せられなくなるのだなということです。乗せられますが、音楽として乗せるのが、非常に難しくなると思いました。根岸さんは、健闘しておられました。当然、私などよりも乗せておられます。折しも、昼間は、三木稔さんのオペラの稽古があったそうで、日本語を歌うことの難しさを実感したところだったそうです。

並木桂子さんが、日本音楽舞踊会議の機関誌「音楽の世界」2010年1月号を持ってきておいででした。そこに、去る12月に行いました、同会議の演奏会「初冬のオルフェウス」の演奏会評が載っていました。私も出ました、橘川琢さんの『冬の鳥』について、詳細な批評がありました。そもそも、今号は、「初冬のオルフェウス」の批評特集なのです。4人の評者が、演奏された8曲すべてについて、語っています。私関係について、抜き書きしましょう。

「男声の語りは多少耳障りな叫びや、言い回しが少し気になる」

「木部の朗読は、思い入れが大きく朗読のための朗読になっていて、声色・リズム・テンポ・調子等を工夫して、コンサートの朗読であるのだからもう少し音楽的な朗読を試みたらどうか」

「時折、詩の朗読が音楽的調和を乱しているように感じられる個所があった」

「詩と朗読はいささか鑑賞に傾きつつも、人間の宿命に対する締念と歓喜の入り混じったような、割り切れない世界を描こうとしていた」……

もちろん、私に関するだけの批評ではありません。しかし、この批評は、私ができたこと、できなかったこと、しようとしていること、などについて触れていると思いました。(16回/1.26分 1.27アップ)

「11へ」;36

「11へ」;35
昨日は、朝から、サイトの更新作業をしました。時間がかかりましたが、いつかはしなければなりません。スタートページの画像、左端の欄がトロッタ11専用となり、詩も掲載されています。トロッタのサイトは、トロッタ11に向けて、新しくなっています。もし、古いままでしたら、再読み込みをしてみてください。間違いなどありましたら、ご一報ください。ただちに対処します。

kinko'sにて、チラシを出力しました。きれいな状態で見なければ、校正できません。わずかですが、直すべき箇所がありました。小松さんからは、新しい要素を入れた絵が、近々、届く予定です。届き次第、すぐ印刷所に入稿しなければなりません。

夜は、東京音楽大学民族音楽研究所で、『摩周湖』の合わせでした。根岸一郎さん、仁科拓也さん、並木桂子さんにより、甲田潤さんのご意見をうかがいながら、練習しました。

「11へ」;36
8時半過ぎ、今井重幸先生宅にうかがい、チラシの校正刷りと、『神々の履歴書』初演の告知に特化したチラシをお渡ししました。今井先生の新曲が、1月30日(土)に初演されるので、その会場で配る予定です。続いて、ギターのレッスン、歌のレッスン。
いったん帰りまして、再び外出し、kinko'sへ。『神々の履歴書』のチラシをコピーして、1月30日配布分を郵送するためです。また、今井先生のおすすめで、1月29日(金)、先生の曲が演奏される、「日本の音楽」の会場である、草月ホールでも配ることにしました。その分もコピーし、草月ホールに持参しました。

草月会館には、1、2階の吹き抜けに、巨大な石の庭園が造られています。私は、生け花のことを知りませんし、草月流の本質も知りません。あれだけ大きな建物を造るからには、いろいろな意味で、すごいのだろうなと思います。しかし、権威には反対します。反対しながらも、ある種の大きさを表現するためには、大きな器が必要だとわかっています。そのことを、石の庭園で実感しましった。

阿佐ヶ谷駅で今井先生と会い、いろいろ話しつつ、新宿までご一緒しました。

2010年1月26日火曜日

「トロッタ通信 11-15」

*以下の文章は、1月25日にアップされるべきものでしたが、26日朝のアップとなりました。


奇聞屋に向かう前、打ち合わせの時に、中川さんと雑談しました。声優の事務所と契約するのに、デモテープが必要だといいます。2分ほどの朗読テープが必要だといい、例えばこのようなものを読めればといって、彼は川端康成の『掌の小説』を見せてくれました。しかし、それは登場人物が男女であり、男と女の会話が基本でした。私は彼のために、ドラマを書こうと思い、約束しました。不出来なものでなければ、オリジナルの方がいいのではないでしょうか? 声優としての、彼の力を聴かせられればいいわけです。書き上げて彼に送ったのは、二日後です。

声優であれ、演奏者であれ、さらに詩唱者でも、どれだけ立派な意味を持ち、立派な考えを持っていても、それが表現できなければ、それこそ意味はないというのが、私の考えです。詩なりドラマの背景を理解するのは、当然です。しかし、意味だけ伝えようとしても無意味だと思います。

弾ける人にはつまらないたとえ話でえすが、例えば、私は今、ギターを習っています。指が回りません。非常に苦労しています。また、爪を伸ばして初めてわかりましたが、人さし指の爪の形が、ちょっと変で、先端が鳥の爪に似て、ひっかかりやすくなっています。中指も薬指もまっすぐ伸びているのに。

指が回らないこと。爪の形がいびつであること。克服する方法はきっとあります。練習あるのみでもかまいません。しかし、そこに意味が入り込む余地は、私にはないのです。肉体が動くようにする。その目標だけがあります。

*文章表現でも、実は意味が最優先じゃないんだと、わかっています。もっと、肉体の表現であり、感情の表現です。しかし、読者が受け取る際、作者の肉体がそこに不在であることは間違いありません。読者が、食費も足りない貧しい状態で、むさぼるように小説を読んでいる時、印税で肥え太った作者が、ますます肥え太る食事をしていてもかまいません。ただし、私はそんなあり方に共感しません。送り手と受け手が、場を共有できればいいと思っています。

中川博正さんがほしいものは、意味ではなく、自分を表現する素材でしょう。演奏家にとっての楽譜です。うまくできたかどうかは知らず、私は、そのようなものを欲する中川さんに共感し、ドラマを提供したいと思いました。

「トロッタ通信 11-14」

*以下の文章は、1月24日分を、1月25日にアップしたものです。


ひとつ、私の詩は、発声するところから始めたいと思っています。この時点では、朗読も詩唱も同じです。少なくとも詩は、声に出して詠みたい。なぜかといえば、声に出すことは人にとって、文字を読む、文字を書くより先にあった行為だから。文字がなくても、声は出せます。書き留められていない物語も、声に出して聴かせる、表現することができます。物語を共有できます。場も共有できます。文字を読むとは、個人の営みにとどまります。大ベストセラーで、大部数が出たとしても、個人の営みが別々の場所で行われたに過ぎないと、私は感じます。声が出れば、それは肉体表現として音楽に大きく近づくと、私は思います。

何度も書きましたが、大晦日のニューヨークで、朗読会に参加しました。私は読まず、聴いていただけです。今は出版されていない長編小説を、声に出して回し読むことで、体験しようという催しでした。これにひかれました。私にとって、詠むことの原点です。ただ、音楽性は皆無でした。皆さん、座って、文字に目を落としながら詠んでいます。抑揚とかリズムとか、最低限のものはありますが、特に意識されてはいません。音楽性ではなく、声に出している点に、私はひかれたのです。

それでは、小学校の朗読と変わらないではないか。そう、変わりません。学校では、どのように意味付けているのでしょう。授業中の朗読を。見当がつきません。ただ読むだけでは、深く理解することにならないと思います。読む本人は、読むことだけに気をとられてしまいますので。意味をとらえることができないのではないでしょうか。−−これに似た点を、理由は違うと思いますが、私は重視したいのでしょうか? 朗読は、意味をとらえられない。意味ではなく、声による音を、重視するということ。

「トロッタ通信 11-13」

*以下の文章は、「トロッタ通信 11」の13回目です。2日遅れで、1月25日にアップしました。


詩唱は、朗読に似ています。同じだといってもいいのですが、音楽を伴う表現として、私は朗読と区別しています。音楽として詩を詠もうと思っています。なぜ、音楽にこだわるのか? 先の記述と矛盾しますが、楽器の伴奏がなくても成り立つ、声だけの音楽表現を念頭に置きながら、このことを考えたいと思います。中川さんと追求したいのも、その点です。“詩と音楽を歌い、奏でる”トロッタが追求したい、といってもいいかもしれません。

私の中で、朗読は演劇に近く、詩唱は音楽に近いという区別があります。絶対の区別ではなく、仮にとしてでかまいません。

さらに、演劇は小説に近く、音楽は詩に近いという期別もあります。これも絶対ではありません。さらにいえば、詩唱は演劇ではなく踊りに近く、音楽は小説ではなく踊りに近いとも考えます。

演劇、音楽、小説、詩、さらに踊り。それぞれ、似たところはあっても、異なる独立の表現です。わざわざ共通点を探すことはありません。似ているという根拠も、印象に拠るところがほとんどです。ただ、これはいいたいところです。私は意味からできるだけ自由になりたい。意味にしばられたくない。教養や知識からも自由でいたい。私にとって、先にあげた表現で、最も意味性を感じる表現は、小説です。次に演劇です。次いで詩です。踊りが続き、音楽が最後です。いや、踊りを最後に持ってくる方がいいかもしれません。

音楽にも、言葉を伴う歌の場合があります。詩唱を音楽と考える私にとって、言葉をともないながら、それは意味から自由な音楽だと言い切るのは、実は困難です。その困難なことを実行したいのです。

2010年1月25日月曜日

「11へ」;34

ここ数日、更新が滞っていました。いけません。わずかでも書かなければ。トロッタ11の準備は進んでいるのですから。

「11へ」;31
1月22日(金)、朝早く、小松史明さんに、チラシの直しを伝えました。細かい作業が多く、手間をかけてしまいます。

午前中に扇田克也さんと打ち合わせをしました。昨夜、上野雄次さんを交えて行った話し合いの続きです。都合により、金沢における、私のギター演奏は取りやめることにしました。
WEB用の書評原稿を送りました。漫画の「聖☆おにいさん」について書きました。今の心境を、非常に反映した表現になりました。

夕方はギターのレッスンでした。金沢での演奏が中止になっても、ギターは弾きます。ギターを弾くことは、詩唱の延長上にある、非常に自然なことです。
会場のスタジオヴィルトゥオージに行きまして、下見ができないか尋ねましたが、使用している人がいるので、この夜は駄目でした。明日、改めて尋ねる予定にしました。打楽器の使用はできないといわれました。使用案内には書かれていないことです。深夜、今井重幸先生と打ち合わせをし、太鼓を激しく打ち鳴らすようなことはしないので、何とか交渉してみることにしました。

夜は疲れるまでギターの練習をしました。しかし、全然足りません。弦を張り替えました。

「11へ」;32
1月23日(土)、早朝、清道洋一さんから、トロッタ11で演奏する曲についてなど、彼が目下、考えているさまざまなことについて、メールが届きました。返事をしたいと思います。しかし、すぐにできません。彼が考えていることについて、私も考えなければならないからです。

一日、心落ち着かない時間を過ごしました。午後4時、スタジオヴィルトゥオージに行きました。以前、下見をしたとおりの会場でした。記憶の中で、広がりも狭まりもしていません。ただ、楽屋として使えるBスタジオは、思ったより広く、安心しました。

役者の中川博正さんのために、短いドラマを書いて送りました。彼が、デモテープを作りたいのだそうです。

「11へ」;33
1月24日(日)、朝、デザイナーの小松史明さんから、チラシの絵が送られてきました。強烈な絵です。詩『瓦礫の王』からインスピレーションを得たものです。一日、仕事のための本を読んで過ごしました。

「11へ」;34
本日、1月25日(月)は「詩の通信IV」第13号を発行しました。久しぶりで、予定通り発行できました。その前に、朝、小松さんと電話で話しあいをし、絵を描き直してもらうことにしました。非常に心苦しいお願いでした。

今朝は、近所の資源ゴミの日でした。何冊か、かつて大事だった本を捨てました。今の私にとって、基本的に、本は必要ありません。すべて否定してもいいくらいです。特に、ある詩人に対する気持ちの変化は、自分でも驚くべきものです。学生時代から、あれほど大切だったと思う人に対し、今はまったく心が動きません。本屋でその人の本を見つけても、手に取ろうと思いません。目を避けるほどです。その反面、トロッタに関わる人たちの、お客様を含め、何と大事な存在であることか。

明日の夜は、「摩周湖」の、二回目の合わせです。

下の花を、「詩の通信IV」第13号に掲載しました。ミモザを用いました。田中隆司さんが戯曲を書きました、萬国四季協會公演『鬼沢』を観ての帰り道、神楽坂で求めたミモザです。『鬼沢』は、二度観ました。いろいろと考えたいことがありましたので。
このミモザは、もう、ドライフラワーになっていました。黄色い花の下に、写真では見えませんが、緑の葉を敷いてあります。手にするだけで、ぱらぱらと落ちてきました。気がつかなかったけれど、実は死んでいたのだという事実を、心にとどめました。




「トロッタ通信 11-12」

*以下の文章は、「トロッタ通信」の1月22日分で、1月25日にアップしました。


中川博正さんは、詩唱の表現者として来てもらいました。何も、私が自分の表現を追求したいから協力を求めたのではなく、役者であり声優である、彼の表現にも役立つ、詩唱もまた彼の表現になると信じるからです。

そこで、1月20日(水)、西荻窪の奇聞屋にて、彼と一緒の舞台に立ちました。音楽はありません。声だけの舞台となりました。本来は、即興ピアノを弾いてくださる吉川正夫さんがおられるのですが、お風邪をひいてお休みでした。つまり、助けになるものがないわけですが、それでいいと思いました。詩唱だけで独立した表現にできます。

作品は、私の詩『夜が来て去ってゆく』を選びました。清道洋一さんのリクエストに応えて書いた詩で、「ドアを開けると/女が男を殺していた」のように、ドアを開けると、次から次へと、思いがけない光景が展開してゆくといった内容です。舞台が始まる2時間前に集合し、西荻窪で稽古をしました。私は、自分で書いたのですから内容をわかっていますが、中川さんは、この日に初めて目を通す詩です。即興が苦手だということでしたが、時間がないので、ひらめきをそのまま舞台で表現することにもなりました。

即興表現だけがよいのではありません。しかし、即興にも対応できればしたいと思います。何かが起きた時、舞台でとっさの判断ができることは重要です。それは、自分の声を聴くことでもあります。役者は、長い稽古を積み重ねて舞台に立ちますから、知らず知らずのうちに、稽古してきた通りに演じようと思いがちです。それでいいのですが、自然の生理に素直になることも大切です。舞台で、こうしたいと思えば、それに従おうと思います。生きているのだし、再生機械ではないのですから。

2010年1月22日金曜日

「11へ」;29

いろいろと、考えることのあった一日でした。一時的なショックはあれ、何事も、前向きにとらえたいと思います。

2010年1月21日木曜日

「トロッタ通信 11-11」

*以下の文章は、1月25日にアップしました。


中川博正さんと、何をするかは決まっていません。曲がないのです。正式のプログラムではなく、試演という名目で、短い詩を、一緒に詠もうとしています。打楽器の内藤修央さんにもご協力いただくことになっています。内藤さんには、即興の演奏をお願いしています。内藤さんは、前回のトロッタ10で、今井重幸先生の曲にお出になりました。私とは、谷中ボッサで三度、ご一緒させていただきました。内藤さんと即興でつとめる舞台の緊張感は、他で得られないものです。

しかし、詩は即興というわけにいかないので、本番までに決めます。つまり、私は中川さんと、詩唱のデュオで出演するつもりです。詩唱という表現を、追求したいのです。

こんな批判が、成り立つと思います。

詩の“朗読”を、音楽に助けてもらっている。

事実、そのとおりです。詩唱といいません、“朗読”を、声だけでもたせるのは、至難のわざです。ただ詠むだけなら誰でもできますが、それを表現にすることの難しさ。だからこそ、音楽があれば助かる。それではいけないという気持ちと、それでいいのだという、両方の気持ちがあります。後者は、初めから一体となった表現だから、切り離せず、どちらにとってもどちらも必要。別に助け合っているのではないということ。前者は、音楽がなくても、声だけで聴く者を飽きさせない技術が必要だという思います。どちらの考えにも正当性はあると思います。その、どちらの正当性も、私は追求していきたいのです。中川さんとともに。

「11へ」;28

デザイナーの小松史明さんから、文字だけを載せたチラシの原稿が送られてきました。確認中です。細かなミスがありました。完璧にはできないと思いますが、最善を尽くします。

6月に金沢で開かれる扇田克也さんの個展のため、上野雄次さんを交えてミーティングを行いました。上野さんには、橘川琢さんの「うつろい」の楽譜をお渡ししました。

バンドネオンの生水敬一朗さんからご連絡をいただきました。「レコード芸術」誌で、生水さんのCDが準推薦盤に選ばれたそうです。ご覧くださいませ。

2010年1月20日水曜日

「トロッタ通信 11-10」

*以下の文は、1月25日にアップしました。


トロッタ11で、再び、中川博正さんに参加していただくことにしました。

中川さんとは、9月にエレクトーンシティ渋谷行われた、トロッタ9でご一緒しました。特に、橘川琢さん作曲の『花骸-はなむくろ-』と、清道洋一さんの『アルメイダ』で共演したのです。中川さんは役者です。声優でもあります。声を出す人です。私もまた、声を出す人間です。

正直に申し上げて、似た表現をする彼を、私はじっと見ていました。冷静に。どんな表現をするのだろうという興味。どんな声を出すのかいう判断。どんな人なのかという疑問。中川さんには、私の目は、冷たく映ったかもしれません。

トロッタ10の舞台に、彼の出番はなかったのですが、裏方として参加していただきました。人手が足りなかったという事実はあります。役者なら体が動くから、裏方として協力してもらえるのでは? という期待がありました。それに加えて、彼という人間を知りたかったのだと思います。

その後、中川さんが出演した舞台、『天才バカボンのパパなのだ』を観に行きました。彼は、バカボンのパパを演じていました。

まず、中川さんの目で見て、私は不足していると思います。私から見て、中川さんには不足の点があります。さらに、お客様として足を運んでいただいた、ある役者の方に、方々といってもいいですが、私の表現は不足なのだそうです。あるいは、違っているのだそうです。似た表現をしている者は、お互いに対して敏感です。表現の細部がわかりますので。だから、私は中川さんを見ることができました。その中川さんと、トロッタ11で、再び共演したいと思いました。

「11へ」;27

池袋にて、『摩周湖』の合わせを行いました。
詩唱の中川博正さんと共に、奇聞屋の朗読会に出演しました。詠みました詩は、私の『夜が来て、去ってゆく』です。
詩『人形の夜』を、ギターを弾きながら詩唱しました。生まれて初めて、人前でギターを弾きました。指が動きませんでした。場数を踏むことが必要です。

2010年1月18日月曜日

「トロッタ通信 11-9」

明日、1月20日(水)トロッタ11のための、初めての合わせが池袋で行われます。『摩周湖』の練習です。バリトンの根岸一郎さん、ヴィオラの仁科拓也さん、ピアノの並木桂子さんによります。私も聴かせていただきますが、非常に楽しみです。

『摩周湖』は、ソプラノの藍川由美さんに献呈されています。藍川さんは、伊福部先生の歌曲だけを集めたリサイタルを、何度か開催されました。CDとしても、10曲を収録して、作品世界をまとめておられます。藍川さんがいなければ生まれなかった作品だと思います。生まれたかも知れませんが、すぐ演奏することにはならなかったでしょう。藍川さんは、歌いたいと思っておられました。その気持ちが作曲家を動かしたのだと確信しています。幸せな、音楽の関係だと思います。

トロッタ11でお歌いになるのは、根岸一郎さんです。始めに書きました。演奏家の側から、こんな曲を演奏したいという希望が、もっと出てもいい、と。詩人と作曲家だけでなく、演奏家と作曲家、演奏家と詩人、さらに詩人と演奏家と作曲家という関わりの中で、もっと曲が生まれていいと思います。

すでにその形は示していると思いますが、もっと深く。トロッタを開催する時だけ集まるのではなく。--いや、トロッタを開催する時だけに集まるからいいのかもしれません。

トロッタはどこに行くのか? というテーマをしばしば投げかけられます。それはわからないのですが、詩人と演奏家と作曲家が共同作業をする形は、維持していいでしょう。それを維持することが目的、その方向で音楽を創る、それがトロッタの行く先だとは確かにいえます。その形を作っておけば、何でもできると思います。

「11へ」;26

原稿の締切日で、朝から落ち着かず、お昼過ぎになって、やっと提出できました。

田中修一さんから電話があり、伊福部玲さんの陶芸展のチラシができ、送られてきたそうです。八王子の「ギャラリー・スペース ことのは」で4月に開催され、田中さんが編曲した、伊福部先生の『土俗的三連画』などが、会期中に演奏されるといいます。楽しみです。

明日、9時半から、池袋にて、『摩周湖』の合わせが行われます。トロッタ11のための、初めての合わせです。幸い、毎週行われているギターと歌のレッスンが、両日とも先生のご都合で行われないので、私も参加できます。その代わり、ギターのレッスンは、本日です。

詩唱者としてトロッタ11に参加される中川博正さんのため、詩を三篇、送りました。「夜が来て去ってゆく」「北へ、アカシアへ」「夜の花」。実験的な試みとして、休憩時間の終わりごろに、このうちのどれかを、一緒に詠もうと思っています。その準備を始めます。

「トロッタ通信 11-8」

伊福部先生は、詩人ではありません。音の作り手ではありますが、言葉の作り手ではありません。『管絃楽法』のような解説書はありますが、文学ではありません。先生のお考えはわかりませんが、一方に音楽があれば、一方に詩がある。どちらの表現も芸術と呼ばれる。自分が音楽の書き手であれば、詩の書き手がほしい。詩そのものがほしい。それは、自分が仮に詩人なら書いたであろう、言葉の連なりである。更科源蔵の詩に、共感できた。共感できたなら、それを歌曲にしてみたい。このようなお考えではなかったでしょうか?

『知床半島の漁夫の歌』にせよ、『オホーツクの海』にせよ『摩周湖』にせよ、スケールの大きさを感じます。大自然とか、民族とか、歴史とか、そのような言葉も印象として浮かびます。伊福部先生の音楽には、そのようなスケール感があります。伊福部先生の音楽は、やはり、大きなスケールの詩を欲したのでしょう。それに応えた更科の詩も、スケールが大きいということになります。ちまちましていません。いきなり、山や川や海の姿を詠み、人を、それと同等のものして歌い上げるのですから。東京の街の中にいたのでは、生まれない詩ばかりです。伊福部先生もまた、森林官として山に住み、海を間近に感じて、青年期を過ごしました。ふたりとも、そんな自分の姿を客観視するだけの近代性は持っていたのですが。ふたりとも近代人です。丸ごとの野生児ではありません。野生児なら、詩も音楽も必要なかったでしょう。野性的な感性を持った近代人として、さらに同じスケール感を持つ者同士として、詩人と作曲家は、幸福な出会いをしたことになります。

「トロッタ通信 11-7」

以下は、トロッタ11のチラシのために書きました、解説です。


摩周湖 【1992】

作曲・伊福部昭 詩・更科源蔵

トロッタ第10回公演で演奏した『知床半島の漁夫の歌』と同じく、更科源蔵の詩による、伊福部昭の歌曲である。「摩周湖を書くことは、私にとってもっとも容易であり、同時に一番むずかしいことでもある」更科は、著書『北海道の旅』で、こう述べる。生まれ故郷の北海道・弟子屈村東端にある摩周湖は、更科自身の肉体であり、父であり母でもあった。詩は1943年刊行の第二詩集『凍原の歌』で発表された。伊福部が作曲したのは、半世紀後の1992年で、初演は翌1943年。伊福部作品に力を注ぐソプラノ藍川由美の歌とともに、ヴィオリスト百武友紀の存在も、『摩周湖』作曲の大きな力となった。伊福部によると、摩周湖はアイヌによって“神の湖”と呼ばれた。哀しいほどに美しい摩周湖の姿を、バリトン根岸一郎、ヴィオラ仁科拓也、ピアノ並木桂子の演奏で受けとめていただきたい。(木部与巴仁)


字数の制限がありますので、短くまとめましたが、曲の概要は、ほぼおわかりいただけると思います。続いて、『摩周湖』の全文を載せます。


『摩周湖』


更科源蔵


大洋(わだつみ)は霞て見えず釧路大原

銅(あかがね)の萩の高原(たかはら) 牧場(まき)の果

すぎ行くは牧馬の群か雲の影か

又はかのさすらひて行く暗き種族か


夢想の霧にまなことぢて

怒るカムイは何を思ふ

狩猟の民の火は消えて

ななかまど赤く実らず


晴るれば寒き永劫の蒼

まこと怒れる太古の神の血と涙は岩となつたか

心疲れし祖母は鳥となつたか

しみなき魂は何になつた


雲白くたち幾千歳

風雪荒れて孤高は磨かれ

ヤマ ヤマに遮り はて空となり

ただ

無量の風は天表を過ぎ行く


以上です。

2004年の『時代を超えた音楽』で、当時の私なりに、『摩周湖』を分析しています。本来は、音楽を聴き、楽譜を読み、詩を読み、それだけでいいはずのところを、いろいろと書いているので、それ自体が私の思いの表われではありますが、余計なことという思いが、今の心境としてはあります。文章で書くと、どんなにすぐれた分析でも限界はあるので、それよりは、トロッタの会のように、演奏するのが一番だと、私は思っています。しかし何度も書きますが、伊福部先生への取材に始まり、関係した人や土地を取材し、さまざまな文献を読み、三冊の本にし、そういうことを経ないではトロッタに行き着けなかったのですから、何もかもが必要だったこと、遠回りでも無駄はひとつもない、たとえ出発点が音楽ではない文学であろうともと、私は納得したいと思います。

「11へ」;25

「トロッタ通信 11」が、実際の日付に、追いつきそうです。1回目を書いただけで書けませんでしたが、さかのぼってお読みいただければ幸いです。
詩人・更科源蔵と、作曲家・伊福部昭の関係について、改めて考えています。

ただいま、追いついたと思います。8回目まで行きました。少しは務めを果たした思いです。

「トロッタ通信 11-6」

更科源蔵は、摩周湖がある、弟子屈の生まれです。青年になってからは、東京と北海道を行ったり来たりしながら、生活に、詩作に明け暮れていました。更科にとって、その二つは決して分けて考えられず、生活しながら詩を書き、詩を書きながら生活していたと、私は考えます。そうした中で、約10歳の年下である、伊福部昭と知り合ったのです。

そのきっかけは、札幌における文化人の集まりで、更科も伊福部先生も参加した、「五の日の会」だったでしょう。1940(昭和15)年のことです。更科が編集した雑誌「北方文藝」第三号には、1942(昭和17)年、伊福部先生も寄稿しています。当時の伊福部先生は、1935(昭和10)年に『日本狂詩曲』でチェレプニン賞を受け、『日本組曲』がヴェネチア国際現代音楽祭に入選し、『土俗的三連画』や『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』を書いて、新進作曲家として、その名を知られていました。まだ歌曲は書いていませんが、更科源蔵という詩人と出会い、いずれは詩のある音楽を、と思ったでしょう。事実、1942(昭和17)年の「東京日日新聞」北海道版には、伊福部先生が更科源蔵の詩にもとづいて、『オホツクの海』(新聞表記のママ)を書く予定であると、報道されている。「詩は『北方文藝』の更科源蔵氏に依頼」ともある。とすれば、伊福部先生が、更科に、詩を書いてほしいと頼んだことになります。これが事実とすれば、私の認識が、いささか足りなかったようです。伊福部先生は、既成の詩を、ただ選んだだけではなかった。詩人に、詩を依頼して、曲を書こうとしたことになります。詩人と作曲家による双方向の交流が、はっきりとあったのです。

実際に、オーケストラと合唱による『オホーツクの海』が演奏されるのは、1958(昭和33)年です。伊福部先生自身が指揮をした、北海道放送による放送初演でした。そして更科源蔵は、死が間近い晩年の日々をまとめた詩集『如月日記』1984(昭和59)年221日の一篇に、『オホーツクの海』が舞台初演された日のことを記しているのです。

こうした事柄を、私は、『音楽家の誕生』以下の三部作に、できる限り詳しく、共感をこめて書きました。今、読みますと、いささか共感の度が過ぎたのではないかと思うほどです。

「11へ」;24

何とか、「詩の通信IV」第12号を印刷し、宛名書きをしました。
下の花は、12号に載せた花です。

その前に、昨夜から書き始めた詩を、完成させました。いきなりだったのですが、何とか書きました。



ただいま、遅れていました「トロッタ通信 11」を、第6回、1月17日分までアップしました。実際の日付に追いつかせるための更新作業を続けます。



夜の花


木部与巴仁



「あなた お仕事は?」

思わず答えていた

「夜です」


「あなた ご家族は?」

答えたくなかったが答えた

「夜です」


「あなた おすまいは?」

答えはひとつしかなかった

「夜です」


恋人は夜だし

着るものは夜だし

食べるものは夜だし

趣味だって夜


裏庭に

夜の花が咲いた

夜の鳥が

種を運んでくれたのだろう

一緒に眺めて遊ばないか

友だちに声をかけた

彼は翻訳家だ

夜の本を出したばかりである

恋人が夜の料理を作ってくれるという

友だちは夜の酒を買ってきた

夜の花を眺め

三人で時間を忘れて過ごした


夜の花は

ぽっかり咲く

いつまで見ていても飽きない

花の芯を覗きこむと

吸いこまれそうになった

美しいとかきれいとか

言葉は役に立たない

「言葉にできないものを表わす言葉ってあるんだよ」

友人はいった

翻訳していて見つけたそうだ

必死になって思い出そうとしたが

できなかった

わかったらすぐ教えるから

手を振りながら

気持ちよさそうに帰っていった


恋人が

台所で洗いものをしている

花を見ていたいでしょう

見ていていいよ

さっさと食器を流しに運び

勢いよく水音をさせながら洗い始めた

私は彼女の後ろ姿が好きだ

スカートから伸びた足も

束ねた長い黒髪も

きれいだった

言葉にできないものを表わす言葉

それがわかっていれば

彼女のためにも使いたいと思う


電話が鳴った

出てみたが声がしない

ああ また夜の電話だと思う

最近よくかかってくる

耳をあてるが人の声も物の音もせず

夜の気配だけがした

(誰?)

気になるのだろう

手をふきながら現われた恋人が

目で問いかけている

(夜だよ ほら例の夜の電話だよ)

この世界は夜とつながっている

どこまでも深くどこまでも広くて大きい

夜そのものだと思う


恋人は縁側に腰をおろし

お茶を飲みながら夜の花に見入っていた

真っ暗なのに

花は浮かんで見えた

電話を切って彼女に並んだ

手を添えるとひやりとして冷たい

細く柔らかな手

私たちは幸せなのだろうか

これを幸せというなら

夜はあまりにも永いと思う

終わることなく

いつまでも続いている

2010年1月16日土曜日

「トロッタ通信 11-5」

(そろそろ、過去にさかのぼって書けるかなという気になっています。/1月18日にアップしました)

『原野彷徨 更科源蔵書誌』という、小野寺克己氏の労作があります。更科源蔵の著作、文献、年譜をまとめたものです。これ一冊を持っていれば、更科源蔵の一生は、ほぼつかめます。伊藤整や小林多喜二の名も見えます。『知床半島の漁夫の歌』のもとになった詩、『昏れるシレトコ』を書くきっかけになった、知床半島への旅のことなども記されています。

ただ、1983(昭和60)年、若かった私も記憶している事柄、年譜に「アイヌ女性より第一法規刊『アイヌ民族誌』に掲載の写真について肖像権侵害、と東京地裁に訴えられる」と書かれた点は、詳細がわかりません。更科の死後、1988(昭和63)年に「和解」したと、短く書かれているだけです。もちろん、事実を伝えるのが『原野彷徨』のテーマなので、より深い内容については、知りたいと思う読者ひとりひとりが、探ればいいのです。更科の晩年に起こった、残念なできごとですが、裁判になった以上、残念なのは更科、アイヌ女性か、周囲の者が軽々しく判断することはできません。しかし、見過ごせない重要なことではあります。

私は『原野彷徨 更科源蔵書誌』を、札幌の古書店で買い求めました。発売元である古書店、サッポロ堂書店のご主人、石原誠さんのご好意によるものでした。石原さんには、たいへんお世話になりました。『伊福部昭 音楽家の誕生』は、石原さんを始め、多くの方々のご好意がなければ完成しませんでした。となると、そうした方の存在は、トロッタの会の遠い出発点にもなっているわけです。トロッタの会をスタートさせてから、その事実を、私は一度も自覚しませんでした。伊福部先生のことは、常に思っていましたが。たいへん、失礼なことでした。申し訳ありません。

「11へ」;23

朝早く起きて、チラシの原稿を作成・整理し、昼前に、デザイナーの小松史明さんに送りました。

甲田潤さんが音楽を担当している芝居を、池袋の東京芸術劇場にて拝見しました。
夕方は、画家の佐藤善勇さんが参加しているグループ展を見に、新橋へ行きました。
夜は、昨日と同じ、田中隆司さんが原作の芝居を見に、神楽坂へ行きました。

チラシを作ったりして、準備をしている段階は、「トロッタ通信 11」は書けないのかと感じています。

「11へ」;22

チラシを作成中です。「挨拶文」を書きました。


*ご挨拶

2010年、新しい十年のトロッタが始まりました。どこまで行けるだろう? という思いはありますが、気負いなく続けます。詩と音楽は、特別なものではありません。生活とともにあるのですから。第11回公演は、東京・大久保のスタジオヴィルトゥオージを舞台に、春を迎えるトロッタとなりました。チラシに引用しましたのは、田中修一さん作曲『ムーヴメントNo.2』の一部です。詩は『亂譜 瓦礫の王』ですが、いち早く届いた楽譜を手に、あ、これはシリーズになるのかな? という思いを得ました。『ムーヴメント』の“第一番”は二度、トロッタで演奏しています。“二番”が生まれたことで、詩と音楽の生命感に触れた思いがいたしました。さて、ギターは詩と音楽に親しい楽器です。今回、長谷部二郎さんに『人形の夜』でご参加いただき、トロッタの可能性が広がりました。橘川琢さんの『うつろい』は、移り変わる季節を情熱的に表現した、好評の曲。今井重幸さんの『神々の履歴書』は、評価の高い映画音楽を、室内楽版として初演するものです。久しぶりでトロッタに登場する酒井健吉さんの『ソナチネ』や、前回に続く伊福部昭さんの歌曲『摩周湖』、実験精神旺盛な清道洋一さんの詩唱のための曲『いのち』と、意欲作が並びます。アンコール曲としておなじみ、宮﨑文香さん作曲の『めぐりあい』が、今回の「春」篇で完結しますのも楽しみです。お誘い合わせの上、トロッタ11に、お越しくださいませ。

*陽が少しずつ長くなってゆく1月の朝 木部与巴仁