*以下の文章は、1月25日にアップされるべきものでしたが、26日朝のアップとなりました。
奇聞屋に向かう前、打ち合わせの時に、中川さんと雑談しました。声優の事務所と契約するのに、デモテープが必要だといいます。2分ほどの朗読テープが必要だといい、例えばこのようなものを読めればといって、彼は川端康成の『掌の小説』を見せてくれました。しかし、それは登場人物が男女であり、男と女の会話が基本でした。私は彼のために、ドラマを書こうと思い、約束しました。不出来なものでなければ、オリジナルの方がいいのではないでしょうか? 声優としての、彼の力を聴かせられればいいわけです。書き上げて彼に送ったのは、二日後です。
声優であれ、演奏者であれ、さらに詩唱者でも、どれだけ立派な意味を持ち、立派な考えを持っていても、それが表現できなければ、それこそ意味はないというのが、私の考えです。詩なりドラマの背景を理解するのは、当然です。しかし、意味だけ伝えようとしても無意味だと思います。
弾ける人にはつまらないたとえ話でえすが、例えば、私は今、ギターを習っています。指が回りません。非常に苦労しています。また、爪を伸ばして初めてわかりましたが、人さし指の爪の形が、ちょっと変で、先端が鳥の爪に似て、ひっかかりやすくなっています。中指も薬指もまっすぐ伸びているのに。
指が回らないこと。爪の形がいびつであること。克服する方法はきっとあります。練習あるのみでもかまいません。しかし、そこに意味が入り込む余地は、私にはないのです。肉体が動くようにする。その目標だけがあります。
*文章表現でも、実は意味が最優先じゃないんだと、わかっています。もっと、肉体の表現であり、感情の表現です。しかし、読者が受け取る際、作者の肉体がそこに不在であることは間違いありません。読者が、食費も足りない貧しい状態で、むさぼるように小説を読んでいる時、印税で肥え太った作者が、ますます肥え太る食事をしていてもかまいません。ただし、私はそんなあり方に共感しません。送り手と受け手が、場を共有できればいいと思っています。
中川博正さんがほしいものは、意味ではなく、自分を表現する素材でしょう。演奏家にとっての楽譜です。うまくできたかどうかは知らず、私は、そのようなものを欲する中川さんに共感し、ドラマを提供したいと思いました。
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