2010年1月29日金曜日

「トロッタ通信 11-17」

正直いって、私の詩唱に、他人に伝えるべき方法論はありません。詩唱の講座を開いたとして、この基準に達したから合格点といったことがいえないのです。五里霧中です。どうなったからいいということをいえません。朗読のための朗読になっているから、どうすれば音楽的な朗読になるのかなど、『冬の鳥』の演奏について、評者が批判する点を、どうすれば改善できるか、はっきりしたことがいえないのです。

音楽には楽器ごとに先生がいて教室があります。芝居には養成所があり、朗読にも、朗読教室なるものがあります。世の中、教室のないものなど、ないのではないでしょうか? ロックやジャズにも教室があり、先生がいます。聴く人を納得させられる方法論が、そこでは伝授されているのでしょう。古い時代には、教室など皆無だったはずですが、音楽は成立していました。教室のようなものに向かない人、教室をはみ出すような人にこそ、もしかすると、やむにやまれず生まれる音楽があるのではないかと思いますが、個人的には、先生と生徒の関係を否定してはいません。

詩唱にせよ、無手勝流でいいとは思わないのです。でたらめにしているつもりはなく、その底流には、私の経験から芝居と歌がある、芝居と歌を生かしたいと思っているので、だから、声楽のレッスンを受けています。歌えるようになって、私の詩唱はあると思います。さらに、最近のことですが、ギターのレッスンも受けるようになりました。楽器、特にギターは詩唱にうってつけだと思いますし、それを奏でながら詩唱できるようになれば、表現の幅が広がると思います。

これは先生方には申し訳ありませんが、自己流でできるとしても、先生と話しながらレッスンをしていく過程で、いろいろなことを考えられます。理屈だけで音楽とは? 詩唱とは? トロッタのあり方とは? そんなことを考えていても仕方ないので、実際に音を出し、コミュニケーションしながら表現を模索してゆくおもしろさがあります。もちろん、ほとんどの時間は五里霧中です。中川博正さんと、詩唱を追究しようと思いました。少しでも具体性を持ちたくて、一緒に探っていこうと思いました。中川さんを見ながら、わかることがあると思うのです。(17回/1.27分 1.29アップ)

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