更科源蔵は、摩周湖がある、弟子屈の生まれです。青年になってからは、東京と北海道を行ったり来たりしながら、生活に、詩作に明け暮れていました。更科にとって、その二つは決して分けて考えられず、生活しながら詩を書き、詩を書きながら生活していたと、私は考えます。そうした中で、約10歳の年下である、伊福部昭と知り合ったのです。
そのきっかけは、札幌における文化人の集まりで、更科も伊福部先生も参加した、「五の日の会」だったでしょう。1940(昭和15)年のことです。更科が編集した雑誌「北方文藝」第三号には、1942(昭和17)年、伊福部先生も寄稿しています。当時の伊福部先生は、1935(昭和10)年に『日本狂詩曲』でチェレプニン賞を受け、『日本組曲』がヴェネチア国際現代音楽祭に入選し、『土俗的三連画』や『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』を書いて、新進作曲家として、その名を知られていました。まだ歌曲は書いていませんが、更科源蔵という詩人と出会い、いずれは詩のある音楽を、と思ったでしょう。事実、1942(昭和17)年の「東京日日新聞」北海道版には、伊福部先生が更科源蔵の詩にもとづいて、『オホツクの海』(新聞表記のママ)を書く予定であると、報道されている。「詩は『北方文藝』の更科源蔵氏に依頼」ともある。とすれば、伊福部先生が、更科に、詩を書いてほしいと頼んだことになります。これが事実とすれば、私の認識が、いささか足りなかったようです。伊福部先生は、既成の詩を、ただ選んだだけではなかった。詩人に、詩を依頼して、曲を書こうとしたことになります。詩人と作曲家による双方向の交流が、はっきりとあったのです。
実際に、オーケストラと合唱による『オホーツクの海』が演奏されるのは、1958(昭和33)年です。伊福部先生自身が指揮をした、北海道放送による放送初演でした。そして更科源蔵は、死が間近い晩年の日々をまとめた詩集『如月日記』1984(昭和59)年2月21日の一篇に、『オホーツクの海』が舞台初演された日のことを記しているのです。
こうした事柄を、私は、『音楽家の誕生』以下の三部作に、できる限り詳しく、共感をこめて書きました。今、読みますと、いささか共感の度が過ぎたのではないかと思うほどです。
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