2010年1月1日金曜日

「11へ」;6

2010年が始まりました。皆様、今年もよろしくお願いします。

本日、書き上げました、「詩の通信IV」第11号のため詩を掲げます。この詩が曲になる保証はどこにもありません。しかし、曲になるならないを別にして、書きたいから詩を書くという自発的な生き方こそが根底にあります。そのような例として、お読みいただければ幸いです。


人生の花


木部与巴仁



恋愛とは

相手の人生を引き受けてもいい

そう思うことですよ


私はまだ

十二歳だった

語る僧侶は

五十代だったと思う

戦争中

静岡で米軍の空襲に遭い

好きな人を亡くした

僧侶は学校の教師だったが

戦争が終わると剃髪し

二度と教壇に戻らなかったという


Kくんが好きになった人は

どんな女性だろうか

せいぜい大切にしてあげてください


しかし

小学六年生の私に

言葉の真意がわかるはずはない

あの夏の

僧侶と変わらぬ年齢になった今も

わかってはいない

相手の人生を引き受ける

苦い思いとともに

時折り

その言葉を噛み締めることはある


あやめの花が

咲いているでしょう

死んだあの人が好きでした

寺のまわりにたくさん生えています

そんなことを

これからも

ずっと引き受けるのだと思います


家に帰った私は

僧侶の言葉を母に聞かせた

ふうんといったまま

母は言葉を継がなかった

その数日後である

僧侶が

行く先も告げず

姿を消したと聞いたのは


恋愛とは

相手の人生を引き受けてもいい

そう思うことですよ


あのころ

私は初めて女性を好きになった

同級生の女の子だった

胸が痛いと母にいい

心臓でも悪いのかと心配された

誰かに自慢したくて

顔見知りの僧侶に告げたのだ

町の歴史に詳しい

子どもの話し相手になってくれる

俳句をよく詠む人だった


夏蝉の

声ききながら

友を待つ


Kくん

あなたのことですよ

半紙に書いた句を見せながら

そこまでいってくれた

たった十二歳の私に向かって

四十年前である

もう生きてはいないだろう

私を置いて行ってしまった僧侶

今も

あやめを見るたび

彼の姿を思い出している

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