1月27日(火)、東京音楽大学民族音楽研究所にて、甲田潤さん立ち会いのもと、根岸一郎さん、仁科拓也さん、並木桂子さんが参加して、『摩周湖』の二度目の合わせが行われました。私はずっと聴いていました。
思いましたことです。どんな楽器の伴奏もなく、また自らの言葉に旋律もリズムもなく、ただ語るだけであれば、人は言葉の意味を考えながら読みます。大人ならそうするでしょう。子どもは、自分の経験からして、あまりできないと思います。いずれにせよ、しかし伴奏が伴い、言葉に旋律やリズムが与えられると、人はとたんに意味を見失い、意味を乗せられなくなるのだなということです。乗せられますが、音楽として乗せるのが、非常に難しくなると思いました。根岸さんは、健闘しておられました。当然、私などよりも乗せておられます。折しも、昼間は、三木稔さんのオペラの稽古があったそうで、日本語を歌うことの難しさを実感したところだったそうです。
並木桂子さんが、日本音楽舞踊会議の機関誌「音楽の世界」2010年1月号を持ってきておいででした。そこに、去る12月に行いました、同会議の演奏会「初冬のオルフェウス」の演奏会評が載っていました。私も出ました、橘川琢さんの『冬の鳥』について、詳細な批評がありました。そもそも、今号は、「初冬のオルフェウス」の批評特集なのです。4人の評者が、演奏された8曲すべてについて、語っています。私関係について、抜き書きしましょう。
「男声の語りは多少耳障りな叫びや、言い回しが少し気になる」
「木部の朗読は、思い入れが大きく朗読のための朗読になっていて、声色・リズム・テンポ・調子等を工夫して、コンサートの朗読であるのだからもう少し音楽的な朗読を試みたらどうか」
「時折、詩の朗読が音楽的調和を乱しているように感じられる個所があった」
「詩と朗読はいささか鑑賞に傾きつつも、人間の宿命に対する締念と歓喜の入り混じったような、割り切れない世界を描こうとしていた」……
もちろん、私に関するだけの批評ではありません。しかし、この批評は、私ができたこと、できなかったこと、しようとしていること、などについて触れていると思いました。(16回/1.26分 1.27アップ)
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