2010年1月26日火曜日

「トロッタ通信 11-13」

*以下の文章は、「トロッタ通信 11」の13回目です。2日遅れで、1月25日にアップしました。


詩唱は、朗読に似ています。同じだといってもいいのですが、音楽を伴う表現として、私は朗読と区別しています。音楽として詩を詠もうと思っています。なぜ、音楽にこだわるのか? 先の記述と矛盾しますが、楽器の伴奏がなくても成り立つ、声だけの音楽表現を念頭に置きながら、このことを考えたいと思います。中川さんと追求したいのも、その点です。“詩と音楽を歌い、奏でる”トロッタが追求したい、といってもいいかもしれません。

私の中で、朗読は演劇に近く、詩唱は音楽に近いという区別があります。絶対の区別ではなく、仮にとしてでかまいません。

さらに、演劇は小説に近く、音楽は詩に近いという期別もあります。これも絶対ではありません。さらにいえば、詩唱は演劇ではなく踊りに近く、音楽は小説ではなく踊りに近いとも考えます。

演劇、音楽、小説、詩、さらに踊り。それぞれ、似たところはあっても、異なる独立の表現です。わざわざ共通点を探すことはありません。似ているという根拠も、印象に拠るところがほとんどです。ただ、これはいいたいところです。私は意味からできるだけ自由になりたい。意味にしばられたくない。教養や知識からも自由でいたい。私にとって、先にあげた表現で、最も意味性を感じる表現は、小説です。次に演劇です。次いで詩です。踊りが続き、音楽が最後です。いや、踊りを最後に持ってくる方がいいかもしれません。

音楽にも、言葉を伴う歌の場合があります。詩唱を音楽と考える私にとって、言葉をともないながら、それは意味から自由な音楽だと言い切るのは、実は困難です。その困難なことを実行したいのです。

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