2010年8月2日月曜日

詩と音楽ということ

詩歌曲について、詩人が思うこと

 作曲家に、言葉を尽くす必要はない。一曲を、存在させればよい。一曲、彼や彼女のてのひらに、音楽が生まれる。その音楽に出会う喜び。音楽は、作曲家自身である。作曲家の個展とは、そのようなものだろう。彼や彼女が生きた、あかし。生きている、あかし。
 詩歌曲『夏の國』について、詩人として語ろう。“詩と音楽”の道を、ともに歩む者として−−つねづね疑問に思うが、道とはMICHI=未知である。道の涯(はて)は未知。関係あるのだろうか−−。
 作品が生まれる過程はさまざまだ。『夏の國』は、まず題名があった。心に浮かんだ“夏の國”という言葉を、橘川琢に託すか、どうする? 数日、考えた。託せる詩を書けるかどうか、私の問題として、考えたのである。
 詩『夏の國』が、優れたものとして完成しているかどうか、それは知らない。プログラムに載るから判断していただければよい。大切な作品は、優劣の判断からも自由であろう。“夏の國”という言葉に、私は詩を感じた。詩を書かなくても、“夏の國”という言葉自体が詩であると思った。実は、これは危うい。題名に中身が負けるかもしれない。題名に満足して、中身を作らないかもしれない。中身が先、題名が後、これが原則だろう。中身があれば、“無題”といっても許される場合がある。

“夏の國”という言葉で詩を書こうと思うが、託してよいか、どうか。
 何を迷うと思いながら橘川琢に話すと、彼は応諾した。
 橘川に託さないなら、つまり誰に託すとも考えないなら、詩は別の内容になったかもしれないが、橘川が曲を書くといった以上、“夏の國”は男と女の物語になる。川べりに成る黒い実の印象からできあがった詩、『冬の鳥』。歳月を経た男女の物語にしたのだが、これが同名の、橘川作品第41番になった。まだ書かずにいた『夏の国』は、『冬の鳥』に続く“四季物語”−−そのような呼び方は、まだ決定しない。私の中で形を取りつつある言葉−−の一篇になるだろうと思った。
 ある国の、ある街に、消えた女。
 私の中には、国の名も街の名もはっきりしているが、先入観を与えるかと思うので、それは書かない。少なくとも、熱い土地である。人が消えてしまうかもしれない、茫漠とした奥行きを持つ。大きな河が、ゆったりと流れている。上流から樹や草が、時には生きものを乗せて流れてくる。夜は深い。朝は明らかだ。昼下がりのカフェにいるあなたは、隣の席でコーヒーを飲む女性が、店を出て、これからどこへ行くか、わかるだろうか? 大通りから裏通りへ入り、また大通りへ出て、人ごみに消え、二度と戻って来ないとしても、大都会では不思議じゃない。どこから来て、どこへ行くのか。彼女にも、わからないかもしれない。
 そして、“夏の國”に消える運命にある女は、かつて、東京の裏町にある、西陽が強く射すアパートにいた。場末といっていいが、そのような町に住む者も、いずことなく行方知れずになる場合がある。山道にも迷うだろうが、はっきりした道のある都会でも人は迷う。迷ったあげく−−、どうなる?

 そんな世界を、橘川琢と共有できるのか。しかも詩歌曲として、音楽として。いや、橘川と私は、演奏家を含めて、共有してきた。
 詩歌曲−−。詩と音楽によって生まれるもの。詩唱があり、歌があり、楽器演奏がある、音楽。
『時の岬・雨のぬくもり』(Op.16)に始まり、『うつろい』(Op.22)、『鼠戦記』(Op.26)、『花の記憶』(Op.28)、『異人の花』(Op.35)、『死の花』(Op.40)、『冬の鳥』(Op.41)が作られてきた。詩歌曲集『恋歌』(Op.25)、合唱詩歌曲『幻桜会・春を呼ぶ歌』(Op.34)もある。
 歌がない、詩歌曲ではない形なら、『冷たいくちづけ』(Op.19)、『花骸』(Op.37)、詩曲『宇の言葉』(Op.39)なども。
 橘川琢が創ろうとしてきた、詩と音楽の総体。
 いつまで作るのだろう。しかし、ずっと作るのだろう。私が単に書くことのみ務めとする詩人なら、すること、できることは、もう終っている。時々、詩を書いて橘川に渡せばよい。機会を見つけて、彼は作曲してくれるだろう。しかし、例えば今回の個展で、私は『うつろい』を、歌う。詩を書いた者が、自分ではない者の手になる音楽として、自分の詩を歌う。初演以来、私が行ってきた詩唱は、中川博正に託した。初めての形である。−−私が私の詩を歌ったことは、何度かある。酒井健吉作曲『天の川』、清道洋一作曲『ナホトカ音楽院』、田中修一作曲『雨の午後/蜚(ごきぶり)』、そういえば橘川の『春を呼ぶ歌』。歌ったのは、詩の部分である。そして、どの機会も、自分の詩を歌っている気分ではなかった−−
 詩を書いた者だからといって、思いどおりに詠めるものではない。思いどおりにできているのは−−できているとして−−、それは紙上の話。声に出した瞬間、詩は詩人の手を離れる(註*参照)。ましてや、橘川が作曲をし、『うつろい』ならヴァイオリンとピアノが入る。歌の音程は、橘川の感性によって一音一音、定められたもの。私の手から、よほど遠ざかっている。

 はっきりいって、『うつろい』はもう、詩人のものではない。数えきれないほどの曲がり角を曲がっているうち、書く者として詩人の姿−−自分の姿−−は遠ざかり、見えなくなった。
 この点は橘川琢に限らず、私たちが拠り所とする「トロッタの会」の、他の作曲家、演奏家との作業、音楽づくりにおいて、常に感じていることだ。トロッタでは詩は解体される。音楽になること自体、解体されることだし、音楽にならなくても詩唱、いや朗読をするなら、自分の詩を解体する勇気がなくてどうする?
 トロッタに取り上げられる私の詩は原形をとどめなくてよい。橘川琢の個展においても同様。詩を書いたのが私であるという事実は、どこか遠く、夏の國の雲の彼方へ去れ!−−詩には、“詠み人知らず”という考え方がある。トロッタの詩人として、私の態度はそれでいいだろう。
(註* 思いどおりに詠めないといったが、思いどおりに詠んでもつまらないと思っている。それは単なる予定調和だ。思いもよらない自分に出会わなければ。しかし、その方法論、具体的手段について、ここに書く余裕はないし、まだわからないことが多いのである)
 最後に、橘川琢が四年連続で個展を開催することに、敬意を表しながら、詩歌曲について、私の考えを述べる。橘川の考えと異なるだろうが、ご了解いただきたい。
 詩が音楽になってゆく。その過程が、詩歌曲にはある。詩が、いきなり歌になってもよい。作曲家の内側に、作曲する体験として、過程があるだろうから。しかし橘川は、詩唱パートを設けることで、メロディのない言葉、詩唱者にまかされるリズム、作曲家として予測しないハーモニーを、あえて引き受けている。その上で、メロディのある言葉、奏者まかせにしないリズム、予測できるハーモニーを、歌のパートで作る。詩唱を、橘川は、手元で完成させられない。歌は、橘川の手で完成させられる−−もちろん、どのパートも表現として最後に完成させるのは、舞台に乗る演奏家だ−−。
 勝手なことをいわせてもらえば、私が詩唱しないことで、『うつろい』に、新たな可能性が生まれると思っている。『夏の國』では私が詩唱することで、詩歌曲に新たな可能性をつけ加えられると思っている。いずれも、未知のことだ。未知に出会う機会として、第四回個展は開かれる。

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