トロッタ17終了後、一週間が経ちました。YouTubeに記録映像をアップし、facebookには終演後一週間の記録を載せるなどしています。「詩の通信VII」の発行が2月26日(火)以来、ずっと滞っていたのですが、これも元に戻そうと作業中です。このブログにどんな性格を持たせるか、まだわかっていませんが、「詩の通信VII」六号分の《後記》を載せることで、ひとまずの役割を担ってもらおうと思います。
「詩の通信VII」の読者数は、現在3名です。増えればいいと思います。送料をどうするかという問題がありますが、手渡しという方法も、本気で採用していいかもしれません。
《16号・後記》六号分をまとめてお送りする事態に立ち至りました。言い訳はせず、ここひと月半のできごとを記そうと思いますが、それはトロッタ17について以外、書くことはありません。ドキュメント「トロッタの会」は、六号分お休みします。付録に引っかかっていると、本体をお送りできなくなりますから。トロッタ17が終わって一週間、楽器を返したり、記録映像をYouTubeにアップしたり、お客様にお礼のメールを書いたり、ご来場の方から出演依頼を受けたりと、終わってもトロッタにひたりきる毎日を過ごしています。十二月一日(日)に予定しているトロッタ18の準備、その前の九月二十八日(土)に開催される、「フランシス・プーランク 音楽の肖像」の準備を進めなければなりません。トロッタ終了の余韻にひたるのはけっこうですが、出発点が遠くなればなるほど、そこに思いを戻すことが大切です。トロッタを始めようとした時、私は何を考えていたのか。一言でいって、詩と音楽の発生ということです。詩はどのように音楽になり、音楽はどのようにして生まれるのか。その答えはトロッタの準備、トロッタが開幕する過程そのものにあるでしょう。無我夢中で、振り返る時間もなかったのですが、あくまでも一例として、初参加された秋元美由紀さんの〃See-through echos〃を例に取って記しましょう。この曲は、どのようにして生まれていったか。秋元さんと出会ったのは、何度か公演したことがある、茅場町の森岡書店でした。画家、朝日聡子さんの個展「湖水の窓」のクロージング・イベントが行われ、秋元さんはそこで曲を発表したのです。二〇一一年三月五日のことでした(*続く)。次号第十七号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《17号・後記》秋元美由紀さんの曲が演奏された時、私は彼女のことを知りません。なぜ森岡書店に出かけたかというと、かつて共演経験のある、岡安圭子さんの朗読を聴こうと思ったのです。そして残念ながら、何ごとか所用があった私は、朗読を聴いた後、秋元さんの曲を聴かないまま退出しました。申し訳ありません。非常に気が咎めており、当日のプログラムはずっと目につくところに置いてありました。動かさないのでほこりをかぶってしまうほどに。捨てようなどとは思いもよりません。可能性としてですが、秋元さんがトロッタに参加してくれればいい、しかし曲を聴いたこともなく、言葉を交わしただけで帰ってしまった私に好印象を持つわけがないなど、くよくよ思っていました。ところが昨年、思いがけず秋元さんからfacebookのお友達申請があり、これこそ気を晴らしてくれるいい機会だと、すぐ承認させていただいた次第です。どうなるかわかりませんが一度会いませんかと申しこみ、神楽坂で会いました。秋元さんは、お友達の個展が神楽坂のギャラリーであるということで、はるばる逗子からお越しでした。九月二十七日(木)のことです。トロッタに参加する前提で話が進み、思いがけず明らかになったのは、映像作家の服部かつゆきさんが共通の友人だということ。服部さんと私は、二十年近い交流があります。トロッタの記録映像は第一回から撮ってくれています。そして秋元さんと服部さんは、共同で何かしたいと思いながら、それを果たせていなかったのです。ならばトロッタでその思いを実現させようということになり、すぐに電話をかけて、服部さんの快諾を得ました(*続く)。次号第十八号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《18号・後記》(〃See-through echos〃ができるまでの記録は、メールの送受信記録を確かめながら書いています)九月二十七日(木)、神楽坂で秋元さんと会った後、十月五日(金)には服部かつゆきさんを交え、品川のカフェで会いました。その時、私は秋元さんのためにギターを持参しています。神楽坂で、楽器編成に話を及ばせていたのです。秋元さんは、ギターを使いたいといいました。ギターのための曲は書いたことがなかったそうですが、長年の思いがあったのでしょう、真っ先にギターをあげたので、お貸しすることにしました。品川の話し合いでは、さらにヴァイオリンを加えることも決め、ほぼ最終的な楽器編成を決めました(ヴァイオリンの話は、神楽坂でも出ています)。木部の詩唱、戸塚ふみ代さんのヴァイオリン、萩野谷英成さんのギター、そして服部さんの映像。詩唱するための詩は私が書きます。しかし、どんな映像を創るのか。この時点では、音楽も映像も詩も、何のアイデアもありません。まったくのゼロから創ろうと確認し合いました。かつて私と服部さんは、『新宿に安土城が建つ』という記念碑的作品で共演しました。戸塚さんがヴァイオリン、フリーミュージックの大熊ワタルさんがクラリネットで参加しました。二〇〇六年五月十九日(金)のことです(七月に再演)。しかしその時は先に詩があり、映像は後から創られたので、純粋にゼロから共同制作したわけではありません。今回はそれと異なる態度で臨もうとしました。秋元さんが作曲する前に、まず私と服部さんでビデオレターを交換することになりました。画期的です。映像作家相手に、私が映像を創る。ほぼ三十年ぶりに(*続く)。次号第十九号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《19号・後記》トロッタに映像が登場するのは初めてです。部分的に使われはしましたが、映像作家の参加は間違いなく初めてとなります。映像と音楽は、相性がいいようで、難しい関係にあります。ミュージックビデオの氾濫で想像がつくように、相性がよすぎるのです。映像に音楽がついた途端、ムードに流れてしまいかねません。映像の不足を音楽で補う例は、いくらでもあります。大抵は映像が先に創られ、音楽は後で添えられます。添えるという点で、特に商業映画など、どんな音楽でも何となく合ってしまうのでは? と思うことがしばしばです。しかしそれでは、秋元さんの曲になりません。ギターやヴァイオリンを選んだように、服部かつゆきさんの映像でなければならず、(自分でいうのは気が引けますが)私の詩唱でなければならないのです。楽器を選ぶことであり、音を選ぶことであり、奏者を選ぶことです。私から服部さんへ、第一回のビデオレターが送られたのは、十月十五日(月)のことでした。打ち合わせから十日後です。当時の記憶では、早く撮らなければ、もうそろそろ撮らなければと焦っていたのですが、今にしてみると十日なら早い方です。ゼロからの出発ですから。かつて黒川芳信氏とビデオレターを創っていた時は、直接に会ってビデオテープを交換していたのですが、今回はお互いがYouTubeにアップしたものを観て進めることになりました。その後、私は十月は二十九日(月)、十一月は二日(金)、三日(土)、十日(土)、十九日(月)、二十六日(月)、十二月は五日(水)、そして二〇一三年一月十四日(月)に公開しました。この間に服部さんの公開がはさまれているのです(*続く)。次号第二十号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《20号・後記》ある時点で、秋元さんから作曲を始めたいという希望が出ました。ビデオレターを創っていてもいい、創り続けたいと思っていた私にはいきなりのビデオ終結宣言でした。しかし、ビデオレターが作品の最終形態ではなく、音楽作品なのですから、いつまでもビデオを撮っていていいわけはないのです。秋元さんは、服部さんの何回目かの映像を使いたいといいます。服部さんは、それを完成作に撮り直すことになりました。使われたのは私の映像ではなかったし、服部さんの特定の作品を使う以外の選択肢もあったと思いますが、映像に責任を負うのは映像作家以外になく、私には無理な話です。五月十九日(日)がトロッタの本番です。曲の締め切りは一か月前の四月十九日(金)です。やはり、ビデオレターは打ち切る必要がありました。同時に私は気づきました。詩を書かなければならないと。詩がなければ曲は書けません。二月十五日(金)です。私の新作詩「白い夢」が秋元さんと服部さんに送られたのは。無事に採用していただけました。「白い夢」で工夫したのは、視覚性です。音楽作品ですが、映像を用いるので、詩も視覚的でありたいと思いました。改行や文字の配置に気を配りましたが、そのような形式を採ったのは初めてです。「詩の通信Ⅶ」第十三号には、画像を印刷した詩を掲載してあります。やむを得ないのですが、詩を書いた後は、秋元さんと服部さんにおまかせすることになりました。別の言い方をすれば、秋元さんの曲の、今度は演奏者になる番です。さらに私は製作者として、トロッタ17全体に気を配り、トロッタそのものを創っていかなければならなくなりました(*続く)。次号第二十一号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《21号・後記》二月二十五日(月)だったでしょうか。秋元美由紀さんが、彼女さんと服部さんと私、三人のページ[Image&Poetry&Sound Relation(仮)]をfacebook上に作ってくれたのは。お誘いにはすぐ応じましたが、この時点ではfacebookを積極的に使おうという気になっていません。効果が疑問でしたし、どう使いこなしていいかも不明だったのです。今でも不明ですが、もちろん宣伝には、使えるものは何でも使いたいと思います。初演が終わった今になってみると、私は[Image&Poetry&Sound Relation(仮)]を、もっと活用しなければなりませんでした。使うための工夫ができたはずです。それは記録にもなったし、宣伝にもなったし、意思疎通の道具にもなったでしょう。既にあるブログやサイトと、どう使い分けるかということを含め、今後の課題です。秋元さんの曲名は、〃See-through echōs for Violin, Guitar, Poetry and Image〃に決まりました。服部さんの映像に見られた、にじみ。ビデオレターには、私が創った一回目から、水のイメージがありました。三月十一日(月)に届いた秋元さんのメールに、こんな一節があります。「当初からあった、和紙や光、そして共通のキーワードである、水などすべては、透き通った布のシースルー越しに見えている、そしてシースルーの様な透き通った質感を持つそれらのものの空間。そして、私たち、3人+演奏家の2人の芸術がその空間で互いに響き合う(echosエコーズ)という意味で最近、ずっとそのことを頭の中でぐるぐる考えていました」チラシを印刷所に入れる、ぎりぎりの段階のこと。曲の完成は、四月二十八日(日)でした(*この稿終わり)。次号第二十二号は二〇一三年六月十日(月)発行予定です。二〇一三年五月二十七日(月)
「詩の通信VII」の読者数は、現在3名です。増えればいいと思います。送料をどうするかという問題がありますが、手渡しという方法も、本気で採用していいかもしれません。
《16号・後記》六号分をまとめてお送りする事態に立ち至りました。言い訳はせず、ここひと月半のできごとを記そうと思いますが、それはトロッタ17について以外、書くことはありません。ドキュメント「トロッタの会」は、六号分お休みします。付録に引っかかっていると、本体をお送りできなくなりますから。トロッタ17が終わって一週間、楽器を返したり、記録映像をYouTubeにアップしたり、お客様にお礼のメールを書いたり、ご来場の方から出演依頼を受けたりと、終わってもトロッタにひたりきる毎日を過ごしています。十二月一日(日)に予定しているトロッタ18の準備、その前の九月二十八日(土)に開催される、「フランシス・プーランク 音楽の肖像」の準備を進めなければなりません。トロッタ終了の余韻にひたるのはけっこうですが、出発点が遠くなればなるほど、そこに思いを戻すことが大切です。トロッタを始めようとした時、私は何を考えていたのか。一言でいって、詩と音楽の発生ということです。詩はどのように音楽になり、音楽はどのようにして生まれるのか。その答えはトロッタの準備、トロッタが開幕する過程そのものにあるでしょう。無我夢中で、振り返る時間もなかったのですが、あくまでも一例として、初参加された秋元美由紀さんの〃See-through echos〃を例に取って記しましょう。この曲は、どのようにして生まれていったか。秋元さんと出会ったのは、何度か公演したことがある、茅場町の森岡書店でした。画家、朝日聡子さんの個展「湖水の窓」のクロージング・イベントが行われ、秋元さんはそこで曲を発表したのです。二〇一一年三月五日のことでした(*続く)。次号第十七号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《17号・後記》秋元美由紀さんの曲が演奏された時、私は彼女のことを知りません。なぜ森岡書店に出かけたかというと、かつて共演経験のある、岡安圭子さんの朗読を聴こうと思ったのです。そして残念ながら、何ごとか所用があった私は、朗読を聴いた後、秋元さんの曲を聴かないまま退出しました。申し訳ありません。非常に気が咎めており、当日のプログラムはずっと目につくところに置いてありました。動かさないのでほこりをかぶってしまうほどに。捨てようなどとは思いもよりません。可能性としてですが、秋元さんがトロッタに参加してくれればいい、しかし曲を聴いたこともなく、言葉を交わしただけで帰ってしまった私に好印象を持つわけがないなど、くよくよ思っていました。ところが昨年、思いがけず秋元さんからfacebookのお友達申請があり、これこそ気を晴らしてくれるいい機会だと、すぐ承認させていただいた次第です。どうなるかわかりませんが一度会いませんかと申しこみ、神楽坂で会いました。秋元さんは、お友達の個展が神楽坂のギャラリーであるということで、はるばる逗子からお越しでした。九月二十七日(木)のことです。トロッタに参加する前提で話が進み、思いがけず明らかになったのは、映像作家の服部かつゆきさんが共通の友人だということ。服部さんと私は、二十年近い交流があります。トロッタの記録映像は第一回から撮ってくれています。そして秋元さんと服部さんは、共同で何かしたいと思いながら、それを果たせていなかったのです。ならばトロッタでその思いを実現させようということになり、すぐに電話をかけて、服部さんの快諾を得ました(*続く)。次号第十八号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《18号・後記》(〃See-through echos〃ができるまでの記録は、メールの送受信記録を確かめながら書いています)九月二十七日(木)、神楽坂で秋元さんと会った後、十月五日(金)には服部かつゆきさんを交え、品川のカフェで会いました。その時、私は秋元さんのためにギターを持参しています。神楽坂で、楽器編成に話を及ばせていたのです。秋元さんは、ギターを使いたいといいました。ギターのための曲は書いたことがなかったそうですが、長年の思いがあったのでしょう、真っ先にギターをあげたので、お貸しすることにしました。品川の話し合いでは、さらにヴァイオリンを加えることも決め、ほぼ最終的な楽器編成を決めました(ヴァイオリンの話は、神楽坂でも出ています)。木部の詩唱、戸塚ふみ代さんのヴァイオリン、萩野谷英成さんのギター、そして服部さんの映像。詩唱するための詩は私が書きます。しかし、どんな映像を創るのか。この時点では、音楽も映像も詩も、何のアイデアもありません。まったくのゼロから創ろうと確認し合いました。かつて私と服部さんは、『新宿に安土城が建つ』という記念碑的作品で共演しました。戸塚さんがヴァイオリン、フリーミュージックの大熊ワタルさんがクラリネットで参加しました。二〇〇六年五月十九日(金)のことです(七月に再演)。しかしその時は先に詩があり、映像は後から創られたので、純粋にゼロから共同制作したわけではありません。今回はそれと異なる態度で臨もうとしました。秋元さんが作曲する前に、まず私と服部さんでビデオレターを交換することになりました。画期的です。映像作家相手に、私が映像を創る。ほぼ三十年ぶりに(*続く)。次号第十九号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《19号・後記》トロッタに映像が登場するのは初めてです。部分的に使われはしましたが、映像作家の参加は間違いなく初めてとなります。映像と音楽は、相性がいいようで、難しい関係にあります。ミュージックビデオの氾濫で想像がつくように、相性がよすぎるのです。映像に音楽がついた途端、ムードに流れてしまいかねません。映像の不足を音楽で補う例は、いくらでもあります。大抵は映像が先に創られ、音楽は後で添えられます。添えるという点で、特に商業映画など、どんな音楽でも何となく合ってしまうのでは? と思うことがしばしばです。しかしそれでは、秋元さんの曲になりません。ギターやヴァイオリンを選んだように、服部かつゆきさんの映像でなければならず、(自分でいうのは気が引けますが)私の詩唱でなければならないのです。楽器を選ぶことであり、音を選ぶことであり、奏者を選ぶことです。私から服部さんへ、第一回のビデオレターが送られたのは、十月十五日(月)のことでした。打ち合わせから十日後です。当時の記憶では、早く撮らなければ、もうそろそろ撮らなければと焦っていたのですが、今にしてみると十日なら早い方です。ゼロからの出発ですから。かつて黒川芳信氏とビデオレターを創っていた時は、直接に会ってビデオテープを交換していたのですが、今回はお互いがYouTubeにアップしたものを観て進めることになりました。その後、私は十月は二十九日(月)、十一月は二日(金)、三日(土)、十日(土)、十九日(月)、二十六日(月)、十二月は五日(水)、そして二〇一三年一月十四日(月)に公開しました。この間に服部さんの公開がはさまれているのです(*続く)。次号第二十号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《20号・後記》ある時点で、秋元さんから作曲を始めたいという希望が出ました。ビデオレターを創っていてもいい、創り続けたいと思っていた私にはいきなりのビデオ終結宣言でした。しかし、ビデオレターが作品の最終形態ではなく、音楽作品なのですから、いつまでもビデオを撮っていていいわけはないのです。秋元さんは、服部さんの何回目かの映像を使いたいといいます。服部さんは、それを完成作に撮り直すことになりました。使われたのは私の映像ではなかったし、服部さんの特定の作品を使う以外の選択肢もあったと思いますが、映像に責任を負うのは映像作家以外になく、私には無理な話です。五月十九日(日)がトロッタの本番です。曲の締め切りは一か月前の四月十九日(金)です。やはり、ビデオレターは打ち切る必要がありました。同時に私は気づきました。詩を書かなければならないと。詩がなければ曲は書けません。二月十五日(金)です。私の新作詩「白い夢」が秋元さんと服部さんに送られたのは。無事に採用していただけました。「白い夢」で工夫したのは、視覚性です。音楽作品ですが、映像を用いるので、詩も視覚的でありたいと思いました。改行や文字の配置に気を配りましたが、そのような形式を採ったのは初めてです。「詩の通信Ⅶ」第十三号には、画像を印刷した詩を掲載してあります。やむを得ないのですが、詩を書いた後は、秋元さんと服部さんにおまかせすることになりました。別の言い方をすれば、秋元さんの曲の、今度は演奏者になる番です。さらに私は製作者として、トロッタ17全体に気を配り、トロッタそのものを創っていかなければならなくなりました(*続く)。次号第二十一号は本号と同日、二〇一三年五月二十七日(月)発行です。二〇一三年五月二十七日(月)
《21号・後記》二月二十五日(月)だったでしょうか。秋元美由紀さんが、彼女さんと服部さんと私、三人のページ[Image&Poetry&Sound Relation(仮)]をfacebook上に作ってくれたのは。お誘いにはすぐ応じましたが、この時点ではfacebookを積極的に使おうという気になっていません。効果が疑問でしたし、どう使いこなしていいかも不明だったのです。今でも不明ですが、もちろん宣伝には、使えるものは何でも使いたいと思います。初演が終わった今になってみると、私は[Image&Poetry&Sound Relation(仮)]を、もっと活用しなければなりませんでした。使うための工夫ができたはずです。それは記録にもなったし、宣伝にもなったし、意思疎通の道具にもなったでしょう。既にあるブログやサイトと、どう使い分けるかということを含め、今後の課題です。秋元さんの曲名は、〃See-through echōs for Violin, Guitar, Poetry and Image〃に決まりました。服部さんの映像に見られた、にじみ。ビデオレターには、私が創った一回目から、水のイメージがありました。三月十一日(月)に届いた秋元さんのメールに、こんな一節があります。「当初からあった、和紙や光、そして共通のキーワードである、水などすべては、透き通った布のシースルー越しに見えている、そしてシースルーの様な透き通った質感を持つそれらのものの空間。そして、私たち、3人+演奏家の2人の芸術がその空間で互いに響き合う(echosエコーズ)という意味で最近、ずっとそのことを頭の中でぐるぐる考えていました」チラシを印刷所に入れる、ぎりぎりの段階のこと。曲の完成は、四月二十八日(日)でした(*この稿終わり)。次号第二十二号は二〇一三年六月十日(月)発行予定です。二〇一三年五月二十七日(月)