久しぶりのブログ更新となりました。現状は、facebookに日々の報告をしておりますので、このページをご覧の方は、facebookにお回りください。ただ、今後はブログもさらに有効活用したいと思っています。
■堀井友徳さんの「オブジェ」【写真左から八木ちはるさん、冨樫咲菜さん、臼井彩和子さん。スコア冒頭部分も】に詩はない。純粋な器楽曲だ。堀井さんの師、伊福部昭先生が好んでいう言葉に、次のようなものがある。「音楽は音楽以外の何物も表現しない」堀井さんも常々、心がけていることだろう。過去、三番まで達した合唱曲「北方譚詩」シリーズや、室内楽形式の詩唱曲「蝶の記憶」を発表してきた堀井さんが、初めてトロッタに出品する、詩に依らない作品である。「曲は約10分の単一楽章で、緩~急~緩(静~動~静)の大きなフォルムが、連続した7つのブロックごとにテンポ変化されて楽想が目まぐるしく次々に流動される、いわば無形式な幻想曲スタイルである」堀井さんの解説だが、これを読むと、音楽とは音による彫刻なのか、と思う。そのとおりに「オブジェ」と題されてもいる。作曲家の意図と無関係にいうのだが、詩のない音楽にも詩はある。厳密にいえば、聴いた者の心に詩が生れる。「オブジェ」について考えるうち、こんな詩を書き始めた。「その国は 光を人が浴びて生き 息を花や草が吸って生きたという 人は死に 花も草も枯れ果てたが 生きている お前は誰 何とも 得体の知れぬ 影として そこに」。堀井さんからは自作のための詩を依頼されている。
ここに掲げる長文は、トロッタ17で当日配布されるプログラムに書いたものです。ここ数日、facebookを使うようになったが、もともとあるブログも生かしたい、ブログを訪れてくださる方々もおられるはず、との思いが募っていました。しかしfacebookとブログの両方に書きこむのは、肉体的、時間的、精神的、物理的に不可能です(twitterもできれば、というところです)。何か書けないかと思った結果、プログラムのまとまった文章を、そのまま掲載しようと思いました。先行して発表してしまうことになりますが、意味はあると思います。
まず、当日にお越しになれない方、結果的に、この文章を読めない方が多いと予想されること。
もともと、このブログは、ここに書いたようなことを載せるためにあるので、方向は逸れていないこと。
この文章で、トロッタ17に少しでも多くの方がご興味を持ってくださるのではと、期待できること。
以上のようなわけですが、もちろん、トロッタ17は読んで終わりではありません。実際の舞台に接していただきたいと思います。あと四日となりました。どうぞよろしくお願いします。お問い合わせは何なりとお願いします。(*写真はプログラムに掲載されるものですが、プログラムはコピー印刷なので、ブログの方が鮮明です。一部そうなっていますが、最終的には、ほとんどの写真がプログラムと別のものになります。5月15日5時42分初回アップ/8時22分更新)
WEB限定版
【トロッタ17、全曲の私的解説】
この文章は、トロッタの関係者全員と連絡を取り合う木部与巴仁が、その交流の過程で思ったこと、考えたことをまとめたものです。作曲家の考えは別のところにあるでしょうし、ここに書いたような文章、さらには作曲家による解説文すら読まずにお聴きいただくのが正しいあり方かもしれません。しかし、演奏会に至るまでに醸成された思いというものがあるので、それを綴りました。「私的解説」として参考にしてください。
■「たびだち・夏の國」【写真は、清道洋一さん編曲の「たびだち・夏の風」楽譜】は、今回で六回目となるシリーズ曲である。“お客様と出演者で合唱・合奏する”をテーマにして来たが、今回は趣向が変る。かつてのアンコール曲「めぐりあい」は六回で終わった。「たびだち」も六回目なので、これを最後にしようと思う。アンコール曲を、トロッタらしい形で行おうと思ったについては、きっかけがある。毎年、横浜で行われている室内楽演奏会に足を運び、そのアンコール演奏を聴いている時、トロッタでも、会の締めくくりにふさわしい演奏をしたいと思った。アンコールは演奏会につきものだから、他で思いつかず、横浜で思いついたことには、私にもわからない理由があるのだろう。その演奏会がよかったから。これが第一の理由に違いない。「めぐりあい」も「たびだち」も、作曲は宮﨑文香さんである。詩が初めにあって作曲されたのだが、二度目からは旋律に合わせて詩を書くことになる。これが毎回、大変な難儀だった。詩を書く者としては、自由に書きたいと思う。逆に、曲を書く方々は、詩にとらわれず自由な旋律を生み出したいと思うのであろうか。ここにも“詩と音楽”をめぐる課題がある。今回の編曲は清道洋一さんに依る。作曲家の個性が楽しみだ。
■「たびだち・夏の國」【写真は、清道洋一さん編曲の「たびだち・夏の風」楽譜】は、今回で六回目となるシリーズ曲である。“お客様と出演者で合唱・合奏する”をテーマにして来たが、今回は趣向が変る。かつてのアンコール曲「めぐりあい」は六回で終わった。「たびだち」も六回目なので、これを最後にしようと思う。アンコール曲を、トロッタらしい形で行おうと思ったについては、きっかけがある。毎年、横浜で行われている室内楽演奏会に足を運び、そのアンコール演奏を聴いている時、トロッタでも、会の締めくくりにふさわしい演奏をしたいと思った。アンコールは演奏会につきものだから、他で思いつかず、横浜で思いついたことには、私にもわからない理由があるのだろう。その演奏会がよかったから。これが第一の理由に違いない。「めぐりあい」も「たびだち」も、作曲は宮﨑文香さんである。詩が初めにあって作曲されたのだが、二度目からは旋律に合わせて詩を書くことになる。これが毎回、大変な難儀だった。詩を書く者としては、自由に書きたいと思う。逆に、曲を書く方々は、詩にとらわれず自由な旋律を生み出したいと思うのであろうか。ここにも“詩と音楽”をめぐる課題がある。今回の編曲は清道洋一さんに依る。作曲家の個性が楽しみだ。
■宮﨑文香さんの「ながさき七歌」【写真は、尺八が宮﨑文香さん、箏が小野裕子さん、詩唱が木部】は、2012年5月28日(月)、「詩の通信VI」第22号で発表した詩がもとになった。「詩の通信」は、2005年11月11日(金)に第I期がスタート。1年ごとにシーズンを改め、現在はVII期目が進行中だ。「ながさき七歌」以前、2007年2月25日(日)のトロッタ1で、「祈り 鳥になったら」という詩を無伴奏で詠んだ。これは酒井健吉さんによって曲になり、2008年8月3日(日)、名古屋で行われた「名フィルの日」で初演。その際、トロッタ1の時にはなかった長崎の歴史に関する詩文を織りこみ、時代を超えた人の物語とした。「ながさき七歌」にも同様の意図がある。宮﨑文香さんとは、酒井さんが主宰する長崎の演奏会で知り合った。尺八修業のために上京されて以降、トロッタのメンバーとなった。アンコール曲「めぐりあい」「たびだち」両シリーズの作曲家として貴重な存在だ。それら二曲に通じる宮﨑さんならではの旋律が、「ながさき七歌」からも聴こえてくる。
■田中隆司さんが選んでくれた詩「すなのおんな」【写真は、指導する田中隆司さん、ピアノの河内春香さん、バリトンの根岸一郎さん】
は、2011年11月16日(水)の発表だ。「すなのおんな」と聞いて、人は安部公房の小説『砂の女』を想うだろう。私の「すなのおんな」は、安部作品とは何の関係もない。以下、連作「すなのおんな」の書き出しである。〈どこかで誰かが泣いている ひとりぼっち どこかで流れる誰かの涙 ひとりぼっち〉(「砂の部屋」)、「命の危うさを感じるほどの戯れ 私はもう駄目あなたも 短く叫んでうつぶせに息を止めるほどの」(「砂の戯れ」)、「遊びに行くなら帽子をかぶりなさい 母にいわれ赤いリボンの麦藁帽をかぶった 乾いた藁のにおいが頭の中いっぱいに広がってゆく」(「砂の記憶)……。第八番「砂場」まで続くが、私の中では安部作品より、泉鏡花の『高野聖』や江戸川乱歩の『化人幻戯』に近い。田中さんは、劇団・萬國四季協會、現代作曲家グループ「蒼」、それぞれのメンバーである。私の原点も芝居にあるので、音楽と演劇に足場を持つ田中さんには共感することが多い。ただ、似ていることは違うことでもある。その違いが面白い。「すなのおんな」は私の手を離れ、田中さんの物語になった。
は、2011年11月16日(水)の発表だ。「すなのおんな」と聞いて、人は安部公房の小説『砂の女』を想うだろう。私の「すなのおんな」は、安部作品とは何の関係もない。以下、連作「すなのおんな」の書き出しである。〈どこかで誰かが泣いている ひとりぼっち どこかで流れる誰かの涙 ひとりぼっち〉(「砂の部屋」)、「命の危うさを感じるほどの戯れ 私はもう駄目あなたも 短く叫んでうつぶせに息を止めるほどの」(「砂の戯れ」)、「遊びに行くなら帽子をかぶりなさい 母にいわれ赤いリボンの麦藁帽をかぶった 乾いた藁のにおいが頭の中いっぱいに広がってゆく」(「砂の記憶)……。第八番「砂場」まで続くが、私の中では安部作品より、泉鏡花の『高野聖』や江戸川乱歩の『化人幻戯』に近い。田中さんは、劇団・萬國四季協會、現代作曲家グループ「蒼」、それぞれのメンバーである。私の原点も芝居にあるので、音楽と演劇に足場を持つ田中さんには共感することが多い。ただ、似ていることは違うことでもある。その違いが面白い。「すなのおんな」は私の手を離れ、田中さんの物語になった。
■橘川琢さんの「夏の國memento」【写真左から橘川琢さん、森川あづささん、赤羽佐東子さん、神山和歌子さん】は、2010年8月7日(土)に行われた、「橘川琢 音楽作品個展IV」が初演。彼の詩の解釈に、私との興味深い相違がある。彼が詩に感じた激情を私は書かなかった。橘川さんの日常は抑制されたものだが、こんな激情を持っているのかと再認識した。詩について 。人の心には何人もの死者がいる。実際に死んだ人でもいいし、死なずに別れてしまった人でもいい。死んだ人の記憶と、別れてしまった人の記憶に違いはあるだろうか。死んでも心に生きている人がいる。生きていても死んだと同様の存在になった人がいる。生の国と死の国を行き来するのは、間違いなく、私たち生きている者だ。トロッタにおいて、橘川さんの曲に上野雄次さんの花は欠かせない。当然だが、死者にも花が欠かせない。なぜ、人は死者に花を手向けるのか? もちろん死のにおいを消すためであろう。野辺送りの見立てであろう。切られても死なない花の力で、死者を永遠の眠りにつかせるためでもあろう。旅立ちを美しく飾りたい意味を含めて、無数の答えがある。上野雄次さんの花に何が見えるか? 彼の花は音楽の添え物ではない。花の視覚性を含めて音楽なのである。
■堀井友徳さんの「オブジェ」【写真左から八木ちはるさん、冨樫咲菜さん、臼井彩和子さん。スコア冒頭部分も】に詩はない。純粋な器楽曲だ。堀井さんの師、伊福部昭先生が好んでいう言葉に、次のようなものがある。「音楽は音楽以外の何物も表現しない」堀井さんも常々、心がけていることだろう。過去、三番まで達した合唱曲「北方譚詩」シリーズや、室内楽形式の詩唱曲「蝶の記憶」を発表してきた堀井さんが、初めてトロッタに出品する、詩に依らない作品である。「曲は約10分の単一楽章で、緩~急~緩(静~動~静)の大きなフォルムが、連続した7つのブロックごとにテンポ変化されて楽想が目まぐるしく次々に流動される、いわば無形式な幻想曲スタイルである」堀井さんの解説だが、これを読むと、音楽とは音による彫刻なのか、と思う。そのとおりに「オブジェ」と題されてもいる。作曲家の意図と無関係にいうのだが、詩のない音楽にも詩はある。厳密にいえば、聴いた者の心に詩が生れる。「オブジェ」について考えるうち、こんな詩を書き始めた。「その国は 光を人が浴びて生き 息を花や草が吸って生きたという 人は死に 花も草も枯れ果てたが 生きている お前は誰 何とも 得体の知れぬ 影として そこに」。堀井さんからは自作のための詩を依頼されている。
■田中修一さんは「叛逆の旋律」【写真左から神山和歌子さん、萩野谷英成さん、白岩洵さん、丹野敏広さん】について、原田芳雄主演の映画『反逆のメロディー』とは関係ないというが、題の意味は同じだ。『反逆のメロディー』「叛逆の旋律」と作品を名づけたい、心の動きが人にはある。詩も音楽も生きながら創るから、生活と密接なつながりがある。今の私は詩が書けない状況にある。トロッタの準備で忙しいなどといっているが、そうではなく、生活に潰されかけているのだ。そんな時に、田中修一さんから「叛逆の旋律」の詩作を依頼された。艱難辛苦の果てに王を殺した、古代中国のテロリストの話「聶政刺韓王」をもとにして、という。主人公には音楽にまつわるエピソードがある。古琴の曲『広陵散』の名手となり、それを手段として王に近づくのである。だから、「叛逆の旋律」。テロリストの心の動きを旋律ととらえていることはいうまでもない。田中修一さんの曲は、これまで赤羽佐東子さんによって多く歌われて来た。今回の初演者、白岩洵さんは、田中さんが選んだ男声である。白岩さんがどんな“反逆のメロディー”を歌うのか楽しみだ。詩は2012年5月14日、「詩の通信VI」21号に発表。
■酒井健吉さんの「海の幸~青木繁に捧ぐ~」は、朗読するだけでも一時間近くかかる長詩をもとにしている。初演は2008年の8月22日(金)、長崎である。私は未完成に可能性を見る。完成したものに可能性はない。未完成にこそ 。だが、誰も未完成など目指していないのだから矛盾がある。青木繁は、苦しんだ人間だ。若くして才能を認められたが、ちやほやされ、うぬぼれ、焦れば焦るほど悪循環に陥って28歳で死んだ。『海の幸』は、近代日本美術を代表する傑作だが、作品には未完の気配が濃い。殴り描きのようだ。しかし、その荒々しさが人をとらえる。恋人を含めた友人たちと千葉の海に出かけ、そこで絵を描いたというエピソードも若者のものだ。『海の幸』を始め青木繁の諸作を見ると、若々しさと官能性にあふれた傑作揃いである。その魅力にひかれて一日一篇、八篇を書いた。詩「歌声」は『天平時代』、詩「狂女」は『狂女』、詩「日輪」は『輪転』をもとにしている(自己満足的だが、青木の出身地、久留米の石橋美術館におもむき、そのホールを借りて、全篇を朗読した。いずれはそこで「海の幸~青木繁に捧ぐ~」全曲を演奏できればいい)。今回の組曲に、絵画『海の幸』にもとづく詩「死と生と」は選ばれなかった。当然、酒井さんにはこの先がある。【写真は独唱の練習にて。左から森川あづささん、青木希衣子さん。そして鍬を手にした酒井健吉さん近影/長崎より】】
■秋元美由紀さんの“See-through echōs”で使われる詩は、2013年2月26日、「詩の通信VII」13号に発表した「白い夢」である。作曲はまず、映像の服部かつゆきさんと私による、ビデオレターの交換から始まった。詩はそれを受けて書かれ、曲はさらに、ビデオと詩を受けて書かれた。約30年前、私はビデオ作家の黒川芳信さんと、ビデオレターを創っていた。約3分の作品を交互に創って渡す繰り返しだった。久々のビデオレターはおもしろかった。これをずっと続けていたいと思ったほどだが、いつしか中断され、秋元さんの作曲が始まった。欲求不満に陥ったが、今回に限ってはそれが本道だ。トロッタとして初めての、映像を伴う作品である。花いけがあり、踊りがあり、芝居のようなことはあったが、映像作家の参加は初。トロッタとスコットホールの、未知の表情に出会える。演奏者としていうなら、酒井さんの「海の幸」と今井先生の「神々の履歴書」にはさまれ、これまでにない詩唱を試みたいと思っている。【写真は、服部かつゆきさん、秋元美由紀さん】
【秋元美由紀さん】
【左から萩野谷さん、秋元さん、木部】
■今井重幸先生の舞踊組曲「神々の履歴書」は、2010年3月5日(金)、トロッタ11で演奏した同じ曲とは装いを変える。あの時は室内楽のための編曲だった。今回は、舞踊曲としての編曲である。元になったのは1988年に公開された前田憲二監督のドキュメンタリー映画『神々の履歴書』。トロッタ15に今井先生は「伊福部昭讃『協奏的変容』〈プロメテの火〉」を出品された。もともとは伊福部先生に捧げた曲で、江口隆哉・宮操子振付、伊福部先生作曲の舞踊作品『プロメテの火』の主題が使われた。それに踊りを組み合わせたらと発想し、江口・宮門下の金井芙三枝さん、その弟子・坂本秀子さんのご協力を仰いで成功をおさめた。今回は、それをさらにスケールアップしたものだ。昨今、舞踊に生の演奏が組み合わされることは少ない。たいへんな経費を要するからだが、人々の熱意と協力があれば、不可能ではない。事実、トロッタで実現できている。しかも、今回は歌が入る。“詩と音楽と舞踊”というわけで、これだけの要素が揃った作品は稀であろう。金美福さん、小倉藍歌さん、猪野沙羅さん、小宮山紬さん、丸山里奈さん、佐々木礼子さん、そして振付・構成の坂本秀子さん。舞踊の方々に感謝したい。
【ピアノとスコアを前にした今井重幸先生】
【「神々の履歴書・渡来の舞」踊りと合奏の練習風景】
0 件のコメント:
コメントを投稿