2011年6月10日金曜日
2011年6月7日火曜日
2011年6月6日月曜日
トロッタ14通信(6/6月6日分)
早稲田奉仕園に電話をし、トロッタ14を11月13日(日)とすることを決定。
この日は別の企画のため、昼から夕方にかけ、都内三か所の会場を回る。トロッタではないが、私が参加する企画で、上野雄次氏も出る。ひとつの大きな流れの中で考えることになるだろう。
この日は別の企画のため、昼から夕方にかけ、都内三か所の会場を回る。トロッタではないが、私が参加する企画で、上野雄次氏も出る。ひとつの大きな流れの中で考えることになるだろう。
2011年6月5日日曜日
トロッタ14通信(4/6月4日分)
部屋の片づけを進める。トロッタ13の名残を整理しなければならない。夜にほぼ終わる。実は12についても、まだ整理できているとはいえない。
今日はふたり、出演がほぼ決まったといっていい。13には出演しなかった方々。すべての曲の編成がまだ決まっていない。しかし、鍵になる曲があるので、その方の出演を優先的に考えざるを得ない。仮に出演できない方があったとしても、軽んじているわけでは決してない。これは自分に言い聞かせている。辛い判断をしなければいけない。
今日はふたり、出演がほぼ決まったといっていい。13には出演しなかった方々。すべての曲の編成がまだ決まっていない。しかし、鍵になる曲があるので、その方の出演を優先的に考えざるを得ない。仮に出演できない方があったとしても、軽んじているわけでは決してない。これは自分に言い聞かせている。辛い判断をしなければいけない。
2011年6月3日金曜日
トロッタ14通信(3/6月3日分)
サイトなどを書き改めなければならない。
雑誌「東京人」に記事が載る。三省堂書店神田本店に関するもの。トロッタ13の準備で忙しい時に取材し、書いた。トロッタとは関係ないが、私には関係がある。神田本店ではコーナーを設けて売ってくれるというので、借りていた資料を返しがてら、見に行く。
メシアンの資料を探すが、すでに本屋には売っていなかった。出版社に問い合わせて、絶版ではないことがわかる。しかし直接注文できず、書店を通してほしいといわれ、断る。書店注文で一週間待つのは嫌だ。夜になって、Amazonで注文した。
トロッタではない別の企画のため、会場下見の希望を1日に出してあった。その返事があり、6日(月)でどうかということになる。関係者に連絡。これは、いつ実施するとも決まっていないもの。
雑誌「東京人」に記事が載る。三省堂書店神田本店に関するもの。トロッタ13の準備で忙しい時に取材し、書いた。トロッタとは関係ないが、私には関係がある。神田本店ではコーナーを設けて売ってくれるというので、借りていた資料を返しがてら、見に行く。
メシアンの資料を探すが、すでに本屋には売っていなかった。出版社に問い合わせて、絶版ではないことがわかる。しかし直接注文できず、書店を通してほしいといわれ、断る。書店注文で一週間待つのは嫌だ。夜になって、Amazonで注文した。
トロッタではない別の企画のため、会場下見の希望を1日に出してあった。その返事があり、6日(月)でどうかということになる。関係者に連絡。これは、いつ実施するとも決まっていないもの。
トロッタ14通信(2/6月2日分)
原稿を書くための資料として、大きな買い物をする。金銭的には負担だが、書かなければならない。書いて原稿料を得なければ、生きていけないし、トロッタが開けない。
あっちへ行ったりこっちへ来たりという時間を過ごすが、次に行くために必要なこととはいえ、落ち着いていないのだろうか。混沌とした気分である。
私自身の企画による曲を、次回はふたつ、出す予定。ひとつは『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]2』。ひとつは、メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』を題材にしたもの。構成したものになって全曲ではない。それを不足感なしに形にしたい。
昨日、録画データから一曲がない(つまり一曲録れていない)と思っていたが、本日、再確認して発見した。ほっとする。
あっちへ行ったりこっちへ来たりという時間を過ごすが、次に行くために必要なこととはいえ、落ち着いていないのだろうか。混沌とした気分である。
私自身の企画による曲を、次回はふたつ、出す予定。ひとつは『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]2』。ひとつは、メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』を題材にしたもの。構成したものになって全曲ではない。それを不足感なしに形にしたい。
昨日、録画データから一曲がない(つまり一曲録れていない)と思っていたが、本日、再確認して発見した。ほっとする。
2011年6月2日木曜日
トロッタ14通信(1/6月1日分)
まだ少しずつでしかないが、トロッタ14に向けて書き始める。
6月1日は、12月の半年前である。12月の早稲田奉仕園開催を想定しているので、申し込みに出かける。
しかし、日程Aを優先すれば駄目な人がおり、日程Bを優先すれば別の人が駄目になりというケースが出る。どちらかを、どなたかを諦めなければならないケースが生じる。仕方のないことではあるのだが。
録画のデータを受け取る。皆さん、熱演である。この編集をしなければ。
すでにトロッタ14のための詩の依頼をいただいている。気持ちを整理して、書かなければ。
特に、作曲の方々に質問。どんな編成の曲を希望しているのか。編成が決まらないと、演奏の方々に依頼ができない。
昨夜、5月31日(火)、森川あづささんのはからいにて、松本明ピアノリサイタルに足を運ぶ。演奏における間、聴く者にとっての音の記憶ということを、ずっと考えていた。
6月1日は、12月の半年前である。12月の早稲田奉仕園開催を想定しているので、申し込みに出かける。
しかし、日程Aを優先すれば駄目な人がおり、日程Bを優先すれば別の人が駄目になりというケースが出る。どちらかを、どなたかを諦めなければならないケースが生じる。仕方のないことではあるのだが。
録画のデータを受け取る。皆さん、熱演である。この編集をしなければ。
すでにトロッタ14のための詩の依頼をいただいている。気持ちを整理して、書かなければ。
特に、作曲の方々に質問。どんな編成の曲を希望しているのか。編成が決まらないと、演奏の方々に依頼ができない。
昨夜、5月31日(火)、森川あづささんのはからいにて、松本明ピアノリサイタルに足を運ぶ。演奏における間、聴く者にとっての音の記憶ということを、ずっと考えていた。
2011年6月1日水曜日
トロッタ13通信(終了)
5月29日(日)、無事に第13回「トロッタの会」が終わった。今回も、あとわずかっだったが、「トロッタ通信」を書き切れずに終わった。
6月1日(水)、早稲田奉仕園に、第14回「トロッタの会」の申し込みに行く。年末の開催に向けて、準備を始める。「トロッタ通信」も、もう始めようと思う。
6月1日(水)、早稲田奉仕園に、第14回「トロッタの会」の申し込みに行く。年末の開催に向けて、準備を始める。「トロッタ通信」も、もう始めようと思う。
2011年5月26日木曜日
トロッタ13通信(40/5月25日分)
*ここ数日分の文章は、追加されている。既読のものも、決して同じではない。変化している。
5.25分
(其の七十一)
朝から、今日は除いて残り三日間の練習スケジュールに関するメールを送るなど。
11時から歌のレッスン。レッスンでロルカ四曲を歌うのも、これで最後。次週のレッスン時にはトロッタは終わっている。そして、ロルカの五曲目を練習する。私にとって、トロッタ14の準備はもう来週から始まる。
(其の七十二)
今井重幸から依頼があり、追加のチラシ、チケットを渡す。ぎりぎりまで宣伝に努める姿勢を見習いたい。その間もスケジュール調整などを進める。
5.25分
(其の七十一)
朝から、今日は除いて残り三日間の練習スケジュールに関するメールを送るなど。
11時から歌のレッスン。レッスンでロルカ四曲を歌うのも、これで最後。次週のレッスン時にはトロッタは終わっている。そして、ロルカの五曲目を練習する。私にとって、トロッタ14の準備はもう来週から始まる。
(其の七十二)
今井重幸から依頼があり、追加のチラシ、チケットを渡す。ぎりぎりまで宣伝に努める姿勢を見習いたい。その間もスケジュール調整などを進める。
2011年5月25日水曜日
トロッタ13通信(39/5月24日分)
(其の六十九)
今井重幸宅にて、『草迷宮』楽譜の整理。表紙作り。
「ギターの友」に載せる、ロルカの譜面と、ロルカの肖像を届ける。
仕事のための読書。遅れている。
(其の七十)
夜、渋谷にて。
『北方譚詩 第二番』の合わせ。まずピアノなしで、アカペラでの合わせ。
『草迷宮』を、バリトンソロと、女声合唱、声だけの合わせを、ピアノ入りで行なう。一時間、今井重幸による特別のレッスン。廊下で、『北方譚詩』に出演のバス、白岩洵と、詩と音楽について話す。
『北方譚詩』を、ピアノ入りで合わせる。私も立ち合う。帰宅後、苫小牧の堀井に、電話で合わせの報告。インターネットで録音を送る。
『都市の肖像』第四番、視覚効果の打ち合わせを、上野雄次と、深夜に行なう。
今井重幸宅にて、『草迷宮』楽譜の整理。表紙作り。
「ギターの友」に載せる、ロルカの譜面と、ロルカの肖像を届ける。
仕事のための読書。遅れている。
(其の七十)
夜、渋谷にて。
『北方譚詩 第二番』の合わせ。まずピアノなしで、アカペラでの合わせ。
『草迷宮』を、バリトンソロと、女声合唱、声だけの合わせを、ピアノ入りで行なう。一時間、今井重幸による特別のレッスン。廊下で、『北方譚詩』に出演のバス、白岩洵と、詩と音楽について話す。
『北方譚詩』を、ピアノ入りで合わせる。私も立ち合う。帰宅後、苫小牧の堀井に、電話で合わせの報告。インターネットで録音を送る。
『都市の肖像』第四番、視覚効果の打ち合わせを、上野雄次と、深夜に行なう。
2011年5月23日月曜日
トロッタ13通信(38/5月23日分)
(其の六十七)
早稲田奉仕園・音楽室にて練習。人の集まりが悪く、こんなに来ないならやめる、と練習を放棄した指揮者のことを思い出す(彼は、演奏者こそ練習を放棄しているではないか、と思ったのだろう)。
それでも、練習した。『ロルカのカンシオネス』と、『草迷宮』。しかし、清道洋一の『謝肉祭』はできず。また『都市の肖像』の打ち合わせも満足にできず。
氷雨の降る夜だけに、心にこたえる。さらにさまざまなことがあり、心にこたえている。だが、自分に起こっていることは、これまでの世の中に掃いて捨てるほどあった。そう思えば、気に病むこともなし。自分ひとりの存在など、何ほどのものでもない。個に過ぎぬ。個ですらない。そう思えば何でもできる。
『草迷宮』は、今井重幸にとって、実験精神の到達点だろうと思う。それが成功しているかどうかは、まだわからない。しかし、実験しようと思い、それを実現させた時点で、目的は達している。演劇としてなら、もっといろいろ演出があるだろう。これは音楽だ。演出に走るのではなく、(音楽的)表現を錬磨する必要がある。
(其の六十八)
トロッタ13の準備を進めながら、14の構想も立てていかなければならない。12月初旬を予定している。すでに何曲か、考えはある。何人かに意思表示をしてもらっている。私はロルカの歌を歌う。12月公演なら、トロッタ13を終えた二日後には申し込みがある。考えなければ。
ここのところずっと、スケジュール調整などに追われている。創作意欲を燃焼させられない。ロルカの歌で、燃焼すればいい。それだけに集中できればいいのだが。単純に、一篇の詩を書くなどしたい。それが、できない。トロッタの原点に立つ。それは何? 詩と音楽。それ以外にない。たくさんの人を集めて、とかそういうことではない。それは必要だが、詩と音楽、それを見つめたい(原点に立ち、詩と音楽を考えるために、スケジュール調整をしているわけだ。決して、創作と無縁のことではない。必要なことである)
早稲田奉仕園・音楽室にて練習。人の集まりが悪く、こんなに来ないならやめる、と練習を放棄した指揮者のことを思い出す(彼は、演奏者こそ練習を放棄しているではないか、と思ったのだろう)。
それでも、練習した。『ロルカのカンシオネス』と、『草迷宮』。しかし、清道洋一の『謝肉祭』はできず。また『都市の肖像』の打ち合わせも満足にできず。
氷雨の降る夜だけに、心にこたえる。さらにさまざまなことがあり、心にこたえている。だが、自分に起こっていることは、これまでの世の中に掃いて捨てるほどあった。そう思えば、気に病むこともなし。自分ひとりの存在など、何ほどのものでもない。個に過ぎぬ。個ですらない。そう思えば何でもできる。
『草迷宮』は、今井重幸にとって、実験精神の到達点だろうと思う。それが成功しているかどうかは、まだわからない。しかし、実験しようと思い、それを実現させた時点で、目的は達している。演劇としてなら、もっといろいろ演出があるだろう。これは音楽だ。演出に走るのではなく、(音楽的)表現を錬磨する必要がある。
(其の六十八)
トロッタ13の準備を進めながら、14の構想も立てていかなければならない。12月初旬を予定している。すでに何曲か、考えはある。何人かに意思表示をしてもらっている。私はロルカの歌を歌う。12月公演なら、トロッタ13を終えた二日後には申し込みがある。考えなければ。
ここのところずっと、スケジュール調整などに追われている。創作意欲を燃焼させられない。ロルカの歌で、燃焼すればいい。それだけに集中できればいいのだが。単純に、一篇の詩を書くなどしたい。それが、できない。トロッタの原点に立つ。それは何? 詩と音楽。それ以外にない。たくさんの人を集めて、とかそういうことではない。それは必要だが、詩と音楽、それを見つめたい(原点に立ち、詩と音楽を考えるために、スケジュール調整をしているわけだ。決して、創作と無縁のことではない。必要なことである)
2011年5月22日日曜日
トロッタ13通信(37/5月22日分)
(其の六十五)
朝は高円寺にて、清道洋一と『ヒトの謝肉祭』の打ち合わせ。この曲が何を表わそうとしているのか、理解したい。話をしているうちに、だんだん、この曲を演奏している光景が見えてきた。別れた後、古本屋に行き、小道具として演奏中に持つ、譜面と詩を貼り付けた本を探す。曲のための、大切な準備である。昼間はロルカの楽譜を整理した。これも、演奏に使うためのもの。覚えているとはいうものの、詩を書きつけて、万が一に備える。しかし、私による日本語訳がまだできないのが気がかり。時間がない。
夜は秋葉原にて、上野雄次と『都市の肖像』第四番の打ち合わせ。照明の使い方などを相談する。この曲も、見えて来なければならない。私の考え。先に曲があり、後で詩ができた。創作の順序はいつもと逆だが、私の態度は、橘川との共同作業で、何の変わりもない。いつもと同じで変化なし、ということではなく、お客様の前に出すまでは共同作業だと思っている。
『謝肉祭』にせよ『都市の肖像』にせよ、どちらの曲についても、体で納得できなければできない。昨年、橘川の個展で初演された『夏の國』は、練習時は声が満足に出なかったが、すべて納得した本番時には、文字通り腹の底から声が出た。納得しなければ、声は出ない。納得しないで出す声は、嘘である。技術でしかない。生の声を出すのだから、技術ではない声を聴いてほしい。技術なら、マイクを通せばいい。それは私の流儀ではない。
(其の六十六)
■ 田中隆司
田中隆司『捨てたうた』の」譜面を、久しぶりに開く。昨年四月三十日の第十回以来だから、一年以上、手にしていなかった。
田中隆司の曲を、戸塚ふみ代が名古屋で偶然に聴いたこと。これがきっかけで、田中のトロッタ参加が決まった。
田中隆司が書いた芝居を、中野の光座で観たこと。久しぶりにアンダーグラウンドな芝居を観た。洗練よりも大事なものがあると、彼は思っているかもしれない。
田中隆司が、谷中ボッサの「声と音の会」に来てくれたこと。会場ごとの使い方を考えた方がよいという意見。
田中隆司の曲を、上野の旧奏楽堂で初めて聴いたこと。私は清道洋一の『風乙女』に出演したが、それに対する意見を、客席で彼に求めた。
阿佐ヶ谷の喫茶店で打ち合わせを重ねたこと。彼が持つ人生のスタイルに、私の心は必ずしも馴染まない。しかし、それは全員に対してそうだろう。違えば違うほどよいという信念を、どう生かすか、生きるか。自分に問う。田中隆司に向き合うことは、自分に向き合うこと。これも、全員に対して同じことがいえる。
荻窪のヤマハ音楽教室で、初めて合わせをしたこと。雨が降っていた。私は久しぶりに洋服を着て他人の前に立った。洋服を着ることから、私の『捨てたうた』は始まっている。いや、洋服を探し始めた時から始まっている。
本番会場での意見の齟齬。これには私にも言い分があるが、彼にも言い分があるだろう。言い分と言い分の衝突。音楽も演劇も、同じだ。しかし、本番当日の舞台上でぶつかり合いたくないというのは正直な思い。最後までぶつからせる、という考え方もあるだろう。
齟齬は齟齬として、翌日には舞台成果について話ができたこと。アンサンブルではなく、ヴァイオリンとピアノとだけでも演奏できるよう考えてもよいと、彼はいった。どこでもできるようにする、ということ。私の反省点。共演した役者たちと、その後の連絡が取れていない。私の作品(でもある)の駒として彼らを使い、後は知らん顔という形になっている。非常によくない。私のひとつの態度として、その後の緊密な関係作りはできなくても、トロッタを一緒に開催していくことで、関係を保ち続けるというものがある。しかし役者たちは、『捨てたうた』に出たきり。私は人を自分の思い通りに動かしたくない。
田中隆司の戯曲集に、人生のさまざまが書かれていたこと。彼の中に、制御できない自分があるのだろう。それを背負って生きているのだろう。そんな自分を、他人にどう向き合わせるのかを考えているのだろう。
田中隆司が指導する声楽リサイタルのチラシを三度まで作ったこと。たった今も作っている。そのチラシ作りを通じて、彼に対していろいろと考えている私がいる。芝居も観ている。電話もかかってきた。『捨てたうた』は終わり、再演の機会を得ないままだが、関係は続いている。浅からぬ関係に思いをはせている。
彼が、『捨てたうた』のために、私の三篇の詩を、断って構成したこと。三篇の選び方、断ち切り方。そうしたことについて考えてみたいと思う。
朝は高円寺にて、清道洋一と『ヒトの謝肉祭』の打ち合わせ。この曲が何を表わそうとしているのか、理解したい。話をしているうちに、だんだん、この曲を演奏している光景が見えてきた。別れた後、古本屋に行き、小道具として演奏中に持つ、譜面と詩を貼り付けた本を探す。曲のための、大切な準備である。昼間はロルカの楽譜を整理した。これも、演奏に使うためのもの。覚えているとはいうものの、詩を書きつけて、万が一に備える。しかし、私による日本語訳がまだできないのが気がかり。時間がない。
夜は秋葉原にて、上野雄次と『都市の肖像』第四番の打ち合わせ。照明の使い方などを相談する。この曲も、見えて来なければならない。私の考え。先に曲があり、後で詩ができた。創作の順序はいつもと逆だが、私の態度は、橘川との共同作業で、何の変わりもない。いつもと同じで変化なし、ということではなく、お客様の前に出すまでは共同作業だと思っている。
『謝肉祭』にせよ『都市の肖像』にせよ、どちらの曲についても、体で納得できなければできない。昨年、橘川の個展で初演された『夏の國』は、練習時は声が満足に出なかったが、すべて納得した本番時には、文字通り腹の底から声が出た。納得しなければ、声は出ない。納得しないで出す声は、嘘である。技術でしかない。生の声を出すのだから、技術ではない声を聴いてほしい。技術なら、マイクを通せばいい。それは私の流儀ではない。
(其の六十六)
■ 田中隆司
田中隆司『捨てたうた』の」譜面を、久しぶりに開く。昨年四月三十日の第十回以来だから、一年以上、手にしていなかった。
田中隆司の曲を、戸塚ふみ代が名古屋で偶然に聴いたこと。これがきっかけで、田中のトロッタ参加が決まった。
田中隆司が書いた芝居を、中野の光座で観たこと。久しぶりにアンダーグラウンドな芝居を観た。洗練よりも大事なものがあると、彼は思っているかもしれない。
田中隆司が、谷中ボッサの「声と音の会」に来てくれたこと。会場ごとの使い方を考えた方がよいという意見。
田中隆司の曲を、上野の旧奏楽堂で初めて聴いたこと。私は清道洋一の『風乙女』に出演したが、それに対する意見を、客席で彼に求めた。
阿佐ヶ谷の喫茶店で打ち合わせを重ねたこと。彼が持つ人生のスタイルに、私の心は必ずしも馴染まない。しかし、それは全員に対してそうだろう。違えば違うほどよいという信念を、どう生かすか、生きるか。自分に問う。田中隆司に向き合うことは、自分に向き合うこと。これも、全員に対して同じことがいえる。
荻窪のヤマハ音楽教室で、初めて合わせをしたこと。雨が降っていた。私は久しぶりに洋服を着て他人の前に立った。洋服を着ることから、私の『捨てたうた』は始まっている。いや、洋服を探し始めた時から始まっている。
本番会場での意見の齟齬。これには私にも言い分があるが、彼にも言い分があるだろう。言い分と言い分の衝突。音楽も演劇も、同じだ。しかし、本番当日の舞台上でぶつかり合いたくないというのは正直な思い。最後までぶつからせる、という考え方もあるだろう。
齟齬は齟齬として、翌日には舞台成果について話ができたこと。アンサンブルではなく、ヴァイオリンとピアノとだけでも演奏できるよう考えてもよいと、彼はいった。どこでもできるようにする、ということ。私の反省点。共演した役者たちと、その後の連絡が取れていない。私の作品(でもある)の駒として彼らを使い、後は知らん顔という形になっている。非常によくない。私のひとつの態度として、その後の緊密な関係作りはできなくても、トロッタを一緒に開催していくことで、関係を保ち続けるというものがある。しかし役者たちは、『捨てたうた』に出たきり。私は人を自分の思い通りに動かしたくない。
田中隆司の戯曲集に、人生のさまざまが書かれていたこと。彼の中に、制御できない自分があるのだろう。それを背負って生きているのだろう。そんな自分を、他人にどう向き合わせるのかを考えているのだろう。
田中隆司が指導する声楽リサイタルのチラシを三度まで作ったこと。たった今も作っている。そのチラシ作りを通じて、彼に対していろいろと考えている私がいる。芝居も観ている。電話もかかってきた。『捨てたうた』は終わり、再演の機会を得ないままだが、関係は続いている。浅からぬ関係に思いをはせている。
彼が、『捨てたうた』のために、私の三篇の詩を、断って構成したこと。三篇の選び方、断ち切り方。そうしたことについて考えてみたいと思う。
2011年5月21日土曜日
トロッタ13通信(36/5月21日分)
(其の六十三)
■ 堀井友徳
堀井友徳のトロッタ参加は二度目だが、これから先も長く共同作業ができればと思っている。何度か書いたことだが、堀井友徳は、彼が学生時代から知っている。伊福部昭の弟子として、東京音大に在学していた。伊福部の演奏会で会ったし、それは東京だけでなく札幌にも及んだ。作曲家だから当然だが、彼の曲が演奏される機会もあって、立ち合うことができた。長く東京にいたが、今は郷里の苫小牧にいる。そこからトロッタに参加してくれている。その思いに応えるだけの準備をしたいと、常に思っている。
『北方譚詩』シリーズについても、すでに書いた。堀井の創作態度は正攻法である。詩が先にあり、それを受けて曲を書く。正攻法というのは正統ということであり、音楽でいえばクラシック、基準であり標準であり規範ということにつながるだろう。古典様式を尊重する態度は、当然だが、歴史の流れの上に立つ。過去があったから今の自分があり、未来に継承する役目も担うと自覚する。過去は関係ない、今の自分だけがある、この先がどうなっても知らない、というわけではないのだ(過去と切れ、未来と切れる人間などひとりもいない。しかし個人の態度において、歴史意識の濃淡はある)。その意味で、彼の『北方譚詩』には、師の伊福部昭から受け継いだ要素がこめられているだろう。すべてではない。しかし伊福部の教えの上に立って、堀井友徳とは何かということを、音楽にしている。
伊福部にはなかった、二十一世紀の精神がある(それが何で、どこをさすのかということは、今後に考えることだ。しかし、濃度はともかく、あるだろう。彼は二十一世紀を生きているのだから)。堀井友徳という個人の歴史がある。彼の歴史は彼の精神であり、体験であり、思想だ(堀井とはまだ、住む場所も離れているので、生活面のことなどを語る機会を持たないでいる。しかし、それで不足かというと、そうではない。不自由でも互いに、何とか曲を創ろうとするのが、創作の意思を抱えた者の態度だろう。ファブリツィーオ・フェスタとも、イタリアと日本に離れたまま、『神羽殺人事件』を創っている)。また第十一回のトロッタで、堀井が初めて歌を創る機会に、私は詩を提供できた。私の詩だが、堀井の曲になっている。詩を膨らませてくれている。言葉の意味を、音楽にのせて膨らませ、聴く人々に届けてくれた(すでに何度も書いたことで、まだ答えを得ていないが、堀井の曲に、詩と音楽の良好な関係を見ることができる。詩があって歌があるという、歴史的な関係に立って作曲されているから、疑問を持つ必要がない。曲ができれば演奏者に託すわけで、それは演奏者への信頼にもつながる。聴衆への信頼にもつながる)。
(其の六十四)
私の中にも、正攻法の態度がある。それは詳述しないで論じよう。正攻法で正統だといっても、手を汚さないで、あるいは血を流さないで様式だけ重んじているだけかというと、それは違う。堀井がそうだというのではなく、まず私がそうだ(そう断言するほど、私は正統派ではないのだが、それはともかく)。
●『ムーヴメントNo.4』
例えばこの日、田中修一の『ムーヴメント No.4』を、出演者全員で合わせた。その場にいた誰が、安泰した生活の上に立って、音を出していたか。そんな者はひとりもいないだろう。私は出演を願った側だが、彼ら彼女らは出演することを了としてくれた。私には何の強制力もない。とすると、彼ら彼女らの意思で、そこにいたわけだ。音楽とは関係のない仕事をしながら、音楽の道を歩もうとする者もある。そこまでして、ということであり、その上で『ムーヴメントNo.4』が演奏される事実を、私は重く受けとめている。
田中修一も伊福部昭の弟子であり、彼の曲に伊福部の要素は濃い。流れを汲んだ曲である。伊福部の口から田中のことが話されるのを、私は聞いている。田中の態度も正攻法であり、師の教えを受け継いで自分の音楽世界を表わそうとする姿に、歴史性や時間の意識を感じている。田中修一の音楽を聴きながら、伊福部昭を聴くことにもなる。弟子を通じてなお存在を感じさせる、伊福部昭の強さ、大きさを思うかもしれない。しかし、(伊福部を軽んじるわけではなく)私が聴いているのは、あるいは私が出演して声を発しているのは、田中修一の曲であってそれ以外の何ものでもない。田中の曲は、伊福部の曲に似ているかも知れない。だが、演奏者が、自分たちの世界を表現するだろう。その時点ですでに、歴史は移っている。伊福部昭の次の時代に。時代性は先に送られている。
ありふれた例だが、モーツァルトを21世紀に演奏する。それはアマデウスが生きた時代の音楽ではない。21世紀の表現にほかならない。田中修一の曲に伊福部昭を感じる。しかし演奏された時点で、たとえ似ていても、それは伊福部の音楽ではない、田中修一の音楽だ。次の時代の音楽なのである。どう表現するか。前時代にとどめるか、次世代に送れるか、それは演奏家にかかっているのではないか?
堀井友徳を語ろうとしながら田中修一の話になったが、堀井について語りたいことは同じである。私は堀井の曲に出ていないので、出演曲として実感を得ている田中修一の『ムーヴメントNo.4』を例にあげさせてもらった。直接語れないじれったさを感じているが、その機会はいずれ来る。堀井からはすでに(田中もそうだが)、第十四回「トロッタの会」で演奏する曲の希望を受け取っている。互いの二十一世紀精神が、さらに深まればいい。
短く、私の意思を書いておく。時代と無縁の音楽を作る気は、私にはまったくない。東日本大震災が起こり、原発事故があった。そのような時代の音楽を、私は意識している。あえて“時代を撃つ”などという表現をする必要はない。“撃つ”などと表現する自己満足意識に、私は与(くみ)しない。
■ 堀井友徳
堀井友徳のトロッタ参加は二度目だが、これから先も長く共同作業ができればと思っている。何度か書いたことだが、堀井友徳は、彼が学生時代から知っている。伊福部昭の弟子として、東京音大に在学していた。伊福部の演奏会で会ったし、それは東京だけでなく札幌にも及んだ。作曲家だから当然だが、彼の曲が演奏される機会もあって、立ち合うことができた。長く東京にいたが、今は郷里の苫小牧にいる。そこからトロッタに参加してくれている。その思いに応えるだけの準備をしたいと、常に思っている。
『北方譚詩』シリーズについても、すでに書いた。堀井の創作態度は正攻法である。詩が先にあり、それを受けて曲を書く。正攻法というのは正統ということであり、音楽でいえばクラシック、基準であり標準であり規範ということにつながるだろう。古典様式を尊重する態度は、当然だが、歴史の流れの上に立つ。過去があったから今の自分があり、未来に継承する役目も担うと自覚する。過去は関係ない、今の自分だけがある、この先がどうなっても知らない、というわけではないのだ(過去と切れ、未来と切れる人間などひとりもいない。しかし個人の態度において、歴史意識の濃淡はある)。その意味で、彼の『北方譚詩』には、師の伊福部昭から受け継いだ要素がこめられているだろう。すべてではない。しかし伊福部の教えの上に立って、堀井友徳とは何かということを、音楽にしている。
伊福部にはなかった、二十一世紀の精神がある(それが何で、どこをさすのかということは、今後に考えることだ。しかし、濃度はともかく、あるだろう。彼は二十一世紀を生きているのだから)。堀井友徳という個人の歴史がある。彼の歴史は彼の精神であり、体験であり、思想だ(堀井とはまだ、住む場所も離れているので、生活面のことなどを語る機会を持たないでいる。しかし、それで不足かというと、そうではない。不自由でも互いに、何とか曲を創ろうとするのが、創作の意思を抱えた者の態度だろう。ファブリツィーオ・フェスタとも、イタリアと日本に離れたまま、『神羽殺人事件』を創っている)。また第十一回のトロッタで、堀井が初めて歌を創る機会に、私は詩を提供できた。私の詩だが、堀井の曲になっている。詩を膨らませてくれている。言葉の意味を、音楽にのせて膨らませ、聴く人々に届けてくれた(すでに何度も書いたことで、まだ答えを得ていないが、堀井の曲に、詩と音楽の良好な関係を見ることができる。詩があって歌があるという、歴史的な関係に立って作曲されているから、疑問を持つ必要がない。曲ができれば演奏者に託すわけで、それは演奏者への信頼にもつながる。聴衆への信頼にもつながる)。
(其の六十四)
私の中にも、正攻法の態度がある。それは詳述しないで論じよう。正攻法で正統だといっても、手を汚さないで、あるいは血を流さないで様式だけ重んじているだけかというと、それは違う。堀井がそうだというのではなく、まず私がそうだ(そう断言するほど、私は正統派ではないのだが、それはともかく)。
●『ムーヴメントNo.4』
例えばこの日、田中修一の『ムーヴメント No.4』を、出演者全員で合わせた。その場にいた誰が、安泰した生活の上に立って、音を出していたか。そんな者はひとりもいないだろう。私は出演を願った側だが、彼ら彼女らは出演することを了としてくれた。私には何の強制力もない。とすると、彼ら彼女らの意思で、そこにいたわけだ。音楽とは関係のない仕事をしながら、音楽の道を歩もうとする者もある。そこまでして、ということであり、その上で『ムーヴメントNo.4』が演奏される事実を、私は重く受けとめている。
田中修一も伊福部昭の弟子であり、彼の曲に伊福部の要素は濃い。流れを汲んだ曲である。伊福部の口から田中のことが話されるのを、私は聞いている。田中の態度も正攻法であり、師の教えを受け継いで自分の音楽世界を表わそうとする姿に、歴史性や時間の意識を感じている。田中修一の音楽を聴きながら、伊福部昭を聴くことにもなる。弟子を通じてなお存在を感じさせる、伊福部昭の強さ、大きさを思うかもしれない。しかし、(伊福部を軽んじるわけではなく)私が聴いているのは、あるいは私が出演して声を発しているのは、田中修一の曲であってそれ以外の何ものでもない。田中の曲は、伊福部の曲に似ているかも知れない。だが、演奏者が、自分たちの世界を表現するだろう。その時点ですでに、歴史は移っている。伊福部昭の次の時代に。時代性は先に送られている。
ありふれた例だが、モーツァルトを21世紀に演奏する。それはアマデウスが生きた時代の音楽ではない。21世紀の表現にほかならない。田中修一の曲に伊福部昭を感じる。しかし演奏された時点で、たとえ似ていても、それは伊福部の音楽ではない、田中修一の音楽だ。次の時代の音楽なのである。どう表現するか。前時代にとどめるか、次世代に送れるか、それは演奏家にかかっているのではないか?
堀井友徳を語ろうとしながら田中修一の話になったが、堀井について語りたいことは同じである。私は堀井の曲に出ていないので、出演曲として実感を得ている田中修一の『ムーヴメントNo.4』を例にあげさせてもらった。直接語れないじれったさを感じているが、その機会はいずれ来る。堀井からはすでに(田中もそうだが)、第十四回「トロッタの会」で演奏する曲の希望を受け取っている。互いの二十一世紀精神が、さらに深まればいい。
短く、私の意思を書いておく。時代と無縁の音楽を作る気は、私にはまったくない。東日本大震災が起こり、原発事故があった。そのような時代の音楽を、私は意識している。あえて“時代を撃つ”などという表現をする必要はない。“撃つ”などと表現する自己満足意識に、私は与(くみ)しない。
トロッタ13通信(35/5月20日分)
(其の六十一)
*朝十時、今井重幸宅にて、連載原稿「ギターとランプ」ロルカ篇を確認するなどの作業。帰宅後、池袋に向かい、12時から橘川琢『都市の肖像』第四番の合わせ。ピアノの森川あづさ、ソプラノの大久保雅代、作曲の橘川、そして私。詩を詠むタイミング確定できた。雑司が谷地域文化創造館に行き、予約中の練習場代金を支払う。帰宅後、週末、週明けの練習場所を何か所か確保。夜は練習場として初めて使う渋谷区文化総合センター大和田を下見して、予約。19時から三浦ピアノにて『ヒトの謝肉祭』の合わせ。ギターと弦楽カルテットほぼ全員が集合。演者の中川博正も。21時終了まで行い、食事をして帰るとくたくたで、何もできず(この忙しい時に、プロバイダ料金未払いでメールの送受信が不能となる。その後、支払いをすませて復旧。連載原稿も送信できた)。
(其の六十二)
●『都市の肖像』
録音はしたが、まだ聴いていない。軟らかい詠み方ができていればいい。花いけの上野雄次が、この曲にどんな視覚表現を与えてくれるか楽しみだが、この点については、なお打ち合わせが必要であろう。うまくいけば、私と橘川の共同作品に、まったく新しい世界を作り出せると思う。これまで器楽曲だった『都市の肖像』が、第四番で、詩と歌、花をともなうものとなる。また私の詩も、子どもの世界を描いたもの。さらにいえば、私の三十年来のテーマ、題材である、“古東京川”を、初めて詩で描いた作品になる(ビデオ作品はある)。
●『ヒトの謝肉祭』
この日は第一ヴァイオリンが参加せず。その他の人々は、ほぼ合って来た。ただ、この曲における詩唱者の位置づけがまだわからない。このままでは、たとえ作曲者の意図どおりにできたとしても、不完全燃焼に終わる。私自身の創作、表現になっていない。打ち合わせをして、曲の世界を納得したい。
●『ロルカのカンシオネス』
『アンダ・ハレオ』一曲を合わせただけで、時間切れとなる。練習室の延長ができなかった。欲求不満。しかし、一日の体力としては限界。
メゾ・ソプラノ、松本満紀子の第三回リサイタルのチラシを作っている。ほぼできたが、いくつか訂正の要あり。田中隆司の曲も多い。今回を代表する曲は、宮澤賢治の詩による『永訣の朝』。ここにも、詩と音楽を探究する人がいる。
*朝十時、今井重幸宅にて、連載原稿「ギターとランプ」ロルカ篇を確認するなどの作業。帰宅後、池袋に向かい、12時から橘川琢『都市の肖像』第四番の合わせ。ピアノの森川あづさ、ソプラノの大久保雅代、作曲の橘川、そして私。詩を詠むタイミング確定できた。雑司が谷地域文化創造館に行き、予約中の練習場代金を支払う。帰宅後、週末、週明けの練習場所を何か所か確保。夜は練習場として初めて使う渋谷区文化総合センター大和田を下見して、予約。19時から三浦ピアノにて『ヒトの謝肉祭』の合わせ。ギターと弦楽カルテットほぼ全員が集合。演者の中川博正も。21時終了まで行い、食事をして帰るとくたくたで、何もできず(この忙しい時に、プロバイダ料金未払いでメールの送受信が不能となる。その後、支払いをすませて復旧。連載原稿も送信できた)。
(其の六十二)
●『都市の肖像』
録音はしたが、まだ聴いていない。軟らかい詠み方ができていればいい。花いけの上野雄次が、この曲にどんな視覚表現を与えてくれるか楽しみだが、この点については、なお打ち合わせが必要であろう。うまくいけば、私と橘川の共同作品に、まったく新しい世界を作り出せると思う。これまで器楽曲だった『都市の肖像』が、第四番で、詩と歌、花をともなうものとなる。また私の詩も、子どもの世界を描いたもの。さらにいえば、私の三十年来のテーマ、題材である、“古東京川”を、初めて詩で描いた作品になる(ビデオ作品はある)。
●『ヒトの謝肉祭』
この日は第一ヴァイオリンが参加せず。その他の人々は、ほぼ合って来た。ただ、この曲における詩唱者の位置づけがまだわからない。このままでは、たとえ作曲者の意図どおりにできたとしても、不完全燃焼に終わる。私自身の創作、表現になっていない。打ち合わせをして、曲の世界を納得したい。
●『ロルカのカンシオネス』
『アンダ・ハレオ』一曲を合わせただけで、時間切れとなる。練習室の延長ができなかった。欲求不満。しかし、一日の体力としては限界。
メゾ・ソプラノ、松本満紀子の第三回リサイタルのチラシを作っている。ほぼできたが、いくつか訂正の要あり。田中隆司の曲も多い。今回を代表する曲は、宮澤賢治の詩による『永訣の朝』。ここにも、詩と音楽を探究する人がいる。
トロッタ13通信(34/5月19日分)
(其の五十九)
*ショックなことがあった。高田馬場のBen's Cafeが、20日(金)で閉店するという。東日本大震災の影響だという。夜の客足が落ちたこと、イベントやパーティのキャンセルが相次いだこと、そして、このお店に多かった外国人が帰国していなくなってしまったことで、収益の減少を招いた。
何の気なしに立ち寄っただけだが、偶然、閉店間際に足を運べたわけで、不幸中の幸いだった。今は行っていないし、長く足を運んだわけでもないのだが、「奇聞屋」同様、ここは私が、朗読の力を鍛える場だった。何年も通っている人は、もちろん、私の比ではなく、鍛え続けている。私は音楽を意識してトロッタを始めたので、そちらに重心が移り、Ben's Cafeには行かなくなった。朗読の基本は、音楽もそうだが、たったひとりで詠むことだと思う(音楽は、発生の初期から、合奏があっただろう。必ずしもひとりではないが、合奏にせよひとりの集まりから集団に発展するので、基本はやはり、ソロだと思う)。Ben's Cafeの舞台は、覚悟して舞台に立ち、詩を詠むことを意識させてくれた。がやがやとした状態で、多くの人が聴いていないのに詠むことの厳しさをも体験させてくれた。残念だ。詩を詠む場としてだけでなく、カフェとしても理想の店だった。残されたトロッタを続けていかなければと思う。
(其の六十)
*夜は「ギターの友」の原稿を書き続ける。翌20日(金)が締切である。参考資料を見ながら、民謡の詩を訳す。CDや楽譜に詩が日本語訳詩が添えられているから、それでいいわけだが、少しでも自分の言葉にしたい。本番までにはすべて翻訳して、プログラムに載せたい。今井重幸にも質問をし、とにかくまとめる。ロルカについて、なぜ『ロルカのカンシオネス』を演奏したいと思ったかについて、いろいろ説明することがあるので、なかなか曲の解説に入れない。明朝、今井の確認を経て、提出する予定。
週末から来週にかけてのスケジュール調整がなかなか進まない。原稿を書くこと、スケジュールを調整すること。すべて別のものだから。
本番まで十日を切り、まだプログラムも作っていない状態で、さらに仕事などもあるので、このブログの書き方が、トロッタ論ではなく日々の報告になっている。ご容赦いただきたい。何とか書き続けたいと思いながら、時間が取れない。しかし、つぶやきにはしたくない。報告を、したい。
*ショックなことがあった。高田馬場のBen's Cafeが、20日(金)で閉店するという。東日本大震災の影響だという。夜の客足が落ちたこと、イベントやパーティのキャンセルが相次いだこと、そして、このお店に多かった外国人が帰国していなくなってしまったことで、収益の減少を招いた。
何の気なしに立ち寄っただけだが、偶然、閉店間際に足を運べたわけで、不幸中の幸いだった。今は行っていないし、長く足を運んだわけでもないのだが、「奇聞屋」同様、ここは私が、朗読の力を鍛える場だった。何年も通っている人は、もちろん、私の比ではなく、鍛え続けている。私は音楽を意識してトロッタを始めたので、そちらに重心が移り、Ben's Cafeには行かなくなった。朗読の基本は、音楽もそうだが、たったひとりで詠むことだと思う(音楽は、発生の初期から、合奏があっただろう。必ずしもひとりではないが、合奏にせよひとりの集まりから集団に発展するので、基本はやはり、ソロだと思う)。Ben's Cafeの舞台は、覚悟して舞台に立ち、詩を詠むことを意識させてくれた。がやがやとした状態で、多くの人が聴いていないのに詠むことの厳しさをも体験させてくれた。残念だ。詩を詠む場としてだけでなく、カフェとしても理想の店だった。残されたトロッタを続けていかなければと思う。
(其の六十)
*夜は「ギターの友」の原稿を書き続ける。翌20日(金)が締切である。参考資料を見ながら、民謡の詩を訳す。CDや楽譜に詩が日本語訳詩が添えられているから、それでいいわけだが、少しでも自分の言葉にしたい。本番までにはすべて翻訳して、プログラムに載せたい。今井重幸にも質問をし、とにかくまとめる。ロルカについて、なぜ『ロルカのカンシオネス』を演奏したいと思ったかについて、いろいろ説明することがあるので、なかなか曲の解説に入れない。明朝、今井の確認を経て、提出する予定。
週末から来週にかけてのスケジュール調整がなかなか進まない。原稿を書くこと、スケジュールを調整すること。すべて別のものだから。
本番まで十日を切り、まだプログラムも作っていない状態で、さらに仕事などもあるので、このブログの書き方が、トロッタ論ではなく日々の報告になっている。ご容赦いただきたい。何とか書き続けたいと思いながら、時間が取れない。しかし、つぶやきにはしたくない。報告を、したい。
トロッタ13通信(33/5月18日分)
(其の五十七)
*同じ場所で、フェデリコ・ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲の『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]I - IV』、清道洋一の『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』、堀井友徳の『北方譚詩 第二番』を合わせ、さらに場所を移動して橘川琢の『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》を合わせた。
すべて声をともなう曲である。作曲家ごとに聴こえてくるものが違う。
●『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]』
楽器アンサンブルと合わせるのは難しい。しかし、音の世界が広がっていることは間違いない。ピアノなりギターなり、ひとりの楽器で演奏するより、音の豊饒さが出るかもしれない。スペインの雰囲気を醸し出せるかもしれない。雑誌「ギターの友」の連載『ギターとランプ』に、前後篇構成で書く予定。
●『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』
指揮がなければ難しい。演奏者は合わせるのに苦労している。それ以上に、私は何をするのか、見えて来ない。演者の中川博正とともに、声を出すふたりは何をするのか。清道洋一の頭の中、心のうちを表現することになるのだと思うのだが。
●『北方譚詩 第二番』
男女の声が重なっただけでも、豊かな気持ちになる。テノールの根岸一郎と、バスの白岩洵の、低く落ち着いた声の重なりがよい。もちろん、ソプラノの柳珠里、アルトの青木希衣子の透明感もよい。言葉がどこまで聴こえるか。さんざん、ここで書いてきたことだ。意味を、どこまで伝えられるか(やはり、意味が伝わってほしいとは思っている)。
●『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》
大久保雅代による声について、書いておく。詩『ぼくたちはどこまでも河をくだる』は、子どもの物語である。私はできるだけ優しく、やわらかく詠みたい。ここで聴こえる女声は、天の声であり(街が水没してしまった世界の物語である)、母の声であり(女の子は河をくだりながら母を求めている)、水の妖女セイレーン(人を水にひきこんで殺してしまう)の声でもある。その大きさと深みが出ればいい。詩唱の課題は自分で克服したい。
(其の五十八)
5月18日(水)、第三水曜日なので、西荻窪のライヴハウス「奇聞屋」にてオープンマイクの朗読会に出る。トロッタの直前には、トロッタ関係の詩を詠むことにしている。三篇、『たびだち・北の町』『森と海のある土地(*曲名は「森と海への頌歌」となる。詩の題もそうするかもしれない)』『ぼくたちは河をくだる』を詠んだ。『北の町』は私の声と、ピアノの吉川正夫によるデュオ。後の二篇は、声は簑和田慶子、ピアノは吉川正夫とのトリオ。
音楽とともに詩を詠む、最終的にそれは音楽になる。というスタイルは、奇聞屋で模索してきた。一か月に一回、そのような機会を得ているのだから、貴重である。この日は、音楽と一緒にではなく、自作の詩をひとりで詠む参加者もいて、新鮮だった。トロッタでも、私はひとりで詠んだことがある。ひとりでも、詩唱にはなるのである。それを音楽として人が聴いてくれるかどうかは別なので、その点、私は工夫をしたい。しかし、朗読者ひとりでも聴かせられることは、再確認した。私もそこから出発している。
奇聞屋の前に、八木ちはるのフルートを聴いた。ヤマハホールで、彼女は尾高尚忠の『フルート協奏曲』を吹いた。熱演だったと思う。そこでしか聴けない、ライヴの印象が強かった。生きている証明。その音楽的印象を大切にしたい。
*同じ場所で、フェデリコ・ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲の『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]I - IV』、清道洋一の『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』、堀井友徳の『北方譚詩 第二番』を合わせ、さらに場所を移動して橘川琢の『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》を合わせた。
すべて声をともなう曲である。作曲家ごとに聴こえてくるものが違う。
●『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]』
楽器アンサンブルと合わせるのは難しい。しかし、音の世界が広がっていることは間違いない。ピアノなりギターなり、ひとりの楽器で演奏するより、音の豊饒さが出るかもしれない。スペインの雰囲気を醸し出せるかもしれない。雑誌「ギターの友」の連載『ギターとランプ』に、前後篇構成で書く予定。
●『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』
指揮がなければ難しい。演奏者は合わせるのに苦労している。それ以上に、私は何をするのか、見えて来ない。演者の中川博正とともに、声を出すふたりは何をするのか。清道洋一の頭の中、心のうちを表現することになるのだと思うのだが。
●『北方譚詩 第二番』
男女の声が重なっただけでも、豊かな気持ちになる。テノールの根岸一郎と、バスの白岩洵の、低く落ち着いた声の重なりがよい。もちろん、ソプラノの柳珠里、アルトの青木希衣子の透明感もよい。言葉がどこまで聴こえるか。さんざん、ここで書いてきたことだ。意味を、どこまで伝えられるか(やはり、意味が伝わってほしいとは思っている)。
●『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》
大久保雅代による声について、書いておく。詩『ぼくたちはどこまでも河をくだる』は、子どもの物語である。私はできるだけ優しく、やわらかく詠みたい。ここで聴こえる女声は、天の声であり(街が水没してしまった世界の物語である)、母の声であり(女の子は河をくだりながら母を求めている)、水の妖女セイレーン(人を水にひきこんで殺してしまう)の声でもある。その大きさと深みが出ればいい。詩唱の課題は自分で克服したい。
(其の五十八)
5月18日(水)、第三水曜日なので、西荻窪のライヴハウス「奇聞屋」にてオープンマイクの朗読会に出る。トロッタの直前には、トロッタ関係の詩を詠むことにしている。三篇、『たびだち・北の町』『森と海のある土地(*曲名は「森と海への頌歌」となる。詩の題もそうするかもしれない)』『ぼくたちは河をくだる』を詠んだ。『北の町』は私の声と、ピアノの吉川正夫によるデュオ。後の二篇は、声は簑和田慶子、ピアノは吉川正夫とのトリオ。
音楽とともに詩を詠む、最終的にそれは音楽になる。というスタイルは、奇聞屋で模索してきた。一か月に一回、そのような機会を得ているのだから、貴重である。この日は、音楽と一緒にではなく、自作の詩をひとりで詠む参加者もいて、新鮮だった。トロッタでも、私はひとりで詠んだことがある。ひとりでも、詩唱にはなるのである。それを音楽として人が聴いてくれるかどうかは別なので、その点、私は工夫をしたい。しかし、朗読者ひとりでも聴かせられることは、再確認した。私もそこから出発している。
奇聞屋の前に、八木ちはるのフルートを聴いた。ヤマハホールで、彼女は尾高尚忠の『フルート協奏曲』を吹いた。熱演だったと思う。そこでしか聴けない、ライヴの印象が強かった。生きている証明。その音楽的印象を大切にしたい。
2011年5月20日金曜日
トロッタ13通信(32/5月17日分)
(其の五十五)
*フェデリコ=ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲による『ロルカのカンシオネス』の練習を、編曲者立ち合いの元、ギター奏者萩野谷英成とともに行う。練習場は、荻窪駅南口にある、ヤマハ音楽教室。
編曲者が強調するのは、歌として、歌ってほしいということ。言葉は大切にするが、それに加えてメロディとリズムを重視してもらいたい。
スペイン語で歌うから、歌っている私にも、言葉から実感するものはない。しかし意味を持つ言葉には違いない。大学を出て数年後のこと。独り芝居として『東海道四谷怪談』の連続上演を続けた。共同作業をしている人々からしきりにいわれたことは、言葉を大切にしてほしいということだった。今から思えば、違ったニュアンスでいったことかもしれないが、私には、意味を大切にしてほしいと聞こえた。聞く者に誤解を与えないためには、言葉を続けていうのではなく、ていねいに、切りながらいう方が間違いない。しかし歌は、レガートで、言葉を切らず、つなげて歌う。意味を誤解されないようにと思うが、ただ話している時でさえ誤解を生むのに、歌で意味を伝えるのは難しい。聴いている人が歌詞を聴き間違うことはよくある。アクセントも、話し言葉のものとは違ってくる。調子で聴いてしまう。
芝居のように、意味を伝えようとしても駄目だろう。言葉を歌うのだから、正確な意味は伝わらないと思った方がいい(それでもなお伝える工夫は、歌い手がすべきかもしれない)。
(其の五十六)
*前日、今井重幸作曲『草迷宮』の合わせがある。雑司が谷地域文化創造館の多目的ホールにて。バリトン・ソロの根岸一郎に注文が出る。今井の楽譜には、sprechgesangと書かれている。音程はない。リズムだけが書かれている。語るように歌うということで、シェーンベルクらが用いた奏法である。今井は、きれいに歌おうとしないで、もっと粗野にというのだが、これがなかなか難しい。
泉鏡花の『草迷宮』から得たイメージを、今井が自由に詩として表現した。母親が歌っていた、通りゃんせ、通りゃんせというわらべ歌を追い求める青年が主人公が物語る(歌う)。「空が落ちる 海が燃える ほう、火の玉も来い! 黄泉(よみ)の帳(とばり)も降りて来い!」と。
思い出せば、田中修一の『MOVEMENT No.3』にはdeclamando risoluto ma espr. 物語るように、決然と、しかし表情豊かに、と書かれていた。「世の終わりの儀式 千万年が過ぎてゆく」と。
今井の曲にせよ、田中の曲にせよ、きれいに歌おうとするだけでは表現できないのである。実は、先のロルカの曲でも、私に対し、きれいに歌おうとしないで粗野に歌ってほしいという注文が出されていた。きれいに歌うことも難しいが、表現のレベルは落さず粗野に歌うことは、なお難しい。私でさえ、歌のレッスンでは粗野に歌ってとはいわれていない。誰もいわれてないだろう。きれいに歌うことも粗野に歌うことも表現である。おおまかにいえば、前者は、どの曲でも心がけること。後者は、ある曲によって心がけること。前者は歌手としての表現。後者は、歌う曲に応じての表現といえるだろうか。
*フェデリコ=ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲による『ロルカのカンシオネス』の練習を、編曲者立ち合いの元、ギター奏者萩野谷英成とともに行う。練習場は、荻窪駅南口にある、ヤマハ音楽教室。
編曲者が強調するのは、歌として、歌ってほしいということ。言葉は大切にするが、それに加えてメロディとリズムを重視してもらいたい。
スペイン語で歌うから、歌っている私にも、言葉から実感するものはない。しかし意味を持つ言葉には違いない。大学を出て数年後のこと。独り芝居として『東海道四谷怪談』の連続上演を続けた。共同作業をしている人々からしきりにいわれたことは、言葉を大切にしてほしいということだった。今から思えば、違ったニュアンスでいったことかもしれないが、私には、意味を大切にしてほしいと聞こえた。聞く者に誤解を与えないためには、言葉を続けていうのではなく、ていねいに、切りながらいう方が間違いない。しかし歌は、レガートで、言葉を切らず、つなげて歌う。意味を誤解されないようにと思うが、ただ話している時でさえ誤解を生むのに、歌で意味を伝えるのは難しい。聴いている人が歌詞を聴き間違うことはよくある。アクセントも、話し言葉のものとは違ってくる。調子で聴いてしまう。
芝居のように、意味を伝えようとしても駄目だろう。言葉を歌うのだから、正確な意味は伝わらないと思った方がいい(それでもなお伝える工夫は、歌い手がすべきかもしれない)。
(其の五十六)
*前日、今井重幸作曲『草迷宮』の合わせがある。雑司が谷地域文化創造館の多目的ホールにて。バリトン・ソロの根岸一郎に注文が出る。今井の楽譜には、sprechgesangと書かれている。音程はない。リズムだけが書かれている。語るように歌うということで、シェーンベルクらが用いた奏法である。今井は、きれいに歌おうとしないで、もっと粗野にというのだが、これがなかなか難しい。
泉鏡花の『草迷宮』から得たイメージを、今井が自由に詩として表現した。母親が歌っていた、通りゃんせ、通りゃんせというわらべ歌を追い求める青年が主人公が物語る(歌う)。「空が落ちる 海が燃える ほう、火の玉も来い! 黄泉(よみ)の帳(とばり)も降りて来い!」と。
思い出せば、田中修一の『MOVEMENT No.3』にはdeclamando risoluto ma espr. 物語るように、決然と、しかし表情豊かに、と書かれていた。「世の終わりの儀式 千万年が過ぎてゆく」と。
今井の曲にせよ、田中の曲にせよ、きれいに歌おうとするだけでは表現できないのである。実は、先のロルカの曲でも、私に対し、きれいに歌おうとしないで粗野に歌ってほしいという注文が出されていた。きれいに歌うことも難しいが、表現のレベルは落さず粗野に歌うことは、なお難しい。私でさえ、歌のレッスンでは粗野に歌ってとはいわれていない。誰もいわれてないだろう。きれいに歌うことも粗野に歌うことも表現である。おおまかにいえば、前者は、どの曲でも心がけること。後者は、ある曲によって心がけること。前者は歌手としての表現。後者は、歌う曲に応じての表現といえるだろうか。
2011年5月16日月曜日
トロッタ13通信(31/5月16日分)
(其の五十三)
■ 甲田潤
彼とのつきあいは、約20年以上になる。『伊福部昭 音楽家の誕生』を書いていたころ、東京音楽大学の民族音楽研究所員として常駐する彼には、さまざまな便宜をはかってもらた。1995年ごろに出会ったと思う。トロッタを始めるにあたって、甲田潤にも出品を依頼した。いや、もっと広く、協力してほしいと思った。できれば、一緒にトロッタを作っていこうとした。
甲田潤とは、1999年3月初演の、合唱曲『くるみ割り人形』を共同製作した。チャイコフスキーの原曲を彼が編曲し、私が日本語の詩を書いたのである。ピアノ伴奏のためだけでなく、オーケストラ伴奏の合唱曲にもなっている。そして去る2011年3月には、地震のために正式の形ではなかったが、新たな合唱曲『シェヘラザード』を発表した。こちらも、オーケストラ伴奏版が間もなく作られる。夏に演奏されるだろうか。
2005年には、甲田潤の依頼を受けて、合唱のための詩『ひよどりが見たもの』全七篇を書き下ろしている。しかし曲がなかなかできない間に、2007年には酒井健吉が詩唱と器楽のための曲とし、2010年には田中修一が、七篇から二篇を選んでソプラノとピアノのための歌曲にした。甲田潤による『ひよどり』の前奏を聴かせてもらったが(まだ歌が始まるまで行っていない)、彼らしい厚みのある音の重ね方であった。詩に対しては異論がないはずなので、合唱曲として完成される日を楽しみにしている。
その、始まりの一篇を掲げよう。
*
「夜あけ」
夜がささやく
もう行くから また明日
朝がささやき返す
おはよう 元気だったかい
時が去り、時が来(きた)る
移りゆく時のはざまで
羽の衣に包まれ
じっと 目を閉じている
一羽のひよどり
朝露にしっとり濡れた私の翼
もう少し眠っていたい
誰にも邪魔されない ねぐらの中で
静かだな
風はもう 吹いていない
静かだな
雨ももう やんだみたい
怖かった 昨夜の嵐
何もかもが吹き飛んで
この世の終わりが来たかのような
春の嵐だった
羽の音が聞こえた
誰かが飛び立った
また羽の音が聞こえた
誰かがどこかへ飛んでゆく
まだ暗いよね 暗いはずなのに
きらきら星がとけてゆく
黄金色(こがねいろ)の光が
夜のとばりを押し上げて
朝の訪れを告げている
さあ 起きなさい
新しい一日の始まりだよ
どこかで聞こえる 朝の声
まだいいでしょう まだいいよね
私はもう少し 眠っていたい
この木の上で じっとしていたい
でも また誰かのはばたきが
もう 夜が明けるのかな
(其の五十四)
甲田潤は、女声合唱団コール・ジューンの指導を続けている。彼女らの演奏会は、四百人規模の会場がもう満席になるほどで、その点はトロッタが見習わなければならないと、常に思っている。コール・ジューンの演奏会を聴いた時、女声合唱の透明感に心をうたれ、涙が流れて止まらなかった。伊福部昭追悼演奏会が、代々木上原のけやきホールで行われた時、私とコールジューンは前後して舞台に上っている。伊福部の『オホーツクの海』について書かれた更科の詩を私が詠み、その後で、コール・ジューンが『オホーツクの海』を演奏した。トロッタにも、合唱団として出てほしい。早稲田奉仕園スコットホールで女声合唱が聴ければいい。自分たちの演奏会を作ってゆく彼女らの思いもあり、なかなか、難しいことではあるが。
声の力。人が発する声の力は、それ自体に価値がある。それは肉体そのもの力。肉体は、生きている証である。
私にとって、詩と音楽の出発点に、甲田潤がいる。だから、トロッタを始めるにあたって、私は彼と手を携えたかった。現実には、そうなっていない。理由はさまざまある。しかし、甲田潤は二度、第七回にソプラノとヴァイオリン、ピアノによる『嗟嘆(といき)』を、第八回に独奏曲『ピアノのための〈変容〉』、縁山流声明と絃楽のための『四智讚(しちさん)』を出品してくれた。特に『四智讚』は、声明のたに三人の僧侶に出演してもらうという、通常では考えられないトロッタとなった。甲田潤の音楽は、トロッタに近いところにあると思う。彼が容易に参加できないのは、私の力が不足しているからだ。
私は彼のため、2007年に、こんな詩を書いている。具体的には、甲田潤が作曲し、甲田潤と音楽活動をする、ソプラノの弓田真理子に歌ってもらえたらと思っていた。目下、甲田潤の心はこの詩にないと思うが、いつか、実現できればいい。
*
うたいたくて
木部与巴仁
あなたは うたおうとする
立っている うたおうとして
歌は 何もないところに
生まれる
すり切れた日常に 求める
すりへった心に 求める
こわれかけた風景に 求める
そんな あなたの歌
ちぎれかけた時間を つなぎとめたくて
あなたがうたうまで
何もなかった
あなたがうたうまで
見えなかった
聴こえる 声が
見えてくる 心が
はっきりと
目を閉じれば 思い出せる
安らぎとともに
眠っていた 忘れかけていた
あの時のこと じっと
耳をすましている
聴きたい
あなたの声
見たい
あなたの姿
味わいたい
あなたが作り出す
作り出さなければ なかった
風景
覚えていてほしい ずっと
忘れないでほしい いつまでも
刻みつけて 深く深く
見てごらん ここにある
見えるだろう 目を凝らせば
歌が あらわしたもの
あなたがうたってくれたもの
光っている
そっと
■ 甲田潤
彼とのつきあいは、約20年以上になる。『伊福部昭 音楽家の誕生』を書いていたころ、東京音楽大学の民族音楽研究所員として常駐する彼には、さまざまな便宜をはかってもらた。1995年ごろに出会ったと思う。トロッタを始めるにあたって、甲田潤にも出品を依頼した。いや、もっと広く、協力してほしいと思った。できれば、一緒にトロッタを作っていこうとした。
甲田潤とは、1999年3月初演の、合唱曲『くるみ割り人形』を共同製作した。チャイコフスキーの原曲を彼が編曲し、私が日本語の詩を書いたのである。ピアノ伴奏のためだけでなく、オーケストラ伴奏の合唱曲にもなっている。そして去る2011年3月には、地震のために正式の形ではなかったが、新たな合唱曲『シェヘラザード』を発表した。こちらも、オーケストラ伴奏版が間もなく作られる。夏に演奏されるだろうか。
2005年には、甲田潤の依頼を受けて、合唱のための詩『ひよどりが見たもの』全七篇を書き下ろしている。しかし曲がなかなかできない間に、2007年には酒井健吉が詩唱と器楽のための曲とし、2010年には田中修一が、七篇から二篇を選んでソプラノとピアノのための歌曲にした。甲田潤による『ひよどり』の前奏を聴かせてもらったが(まだ歌が始まるまで行っていない)、彼らしい厚みのある音の重ね方であった。詩に対しては異論がないはずなので、合唱曲として完成される日を楽しみにしている。
その、始まりの一篇を掲げよう。
*
「夜あけ」
夜がささやく
もう行くから また明日
朝がささやき返す
おはよう 元気だったかい
時が去り、時が来(きた)る
移りゆく時のはざまで
羽の衣に包まれ
じっと 目を閉じている
一羽のひよどり
朝露にしっとり濡れた私の翼
もう少し眠っていたい
誰にも邪魔されない ねぐらの中で
静かだな
風はもう 吹いていない
静かだな
雨ももう やんだみたい
怖かった 昨夜の嵐
何もかもが吹き飛んで
この世の終わりが来たかのような
春の嵐だった
羽の音が聞こえた
誰かが飛び立った
また羽の音が聞こえた
誰かがどこかへ飛んでゆく
まだ暗いよね 暗いはずなのに
きらきら星がとけてゆく
黄金色(こがねいろ)の光が
夜のとばりを押し上げて
朝の訪れを告げている
さあ 起きなさい
新しい一日の始まりだよ
どこかで聞こえる 朝の声
まだいいでしょう まだいいよね
私はもう少し 眠っていたい
この木の上で じっとしていたい
でも また誰かのはばたきが
もう 夜が明けるのかな
(其の五十四)
甲田潤は、女声合唱団コール・ジューンの指導を続けている。彼女らの演奏会は、四百人規模の会場がもう満席になるほどで、その点はトロッタが見習わなければならないと、常に思っている。コール・ジューンの演奏会を聴いた時、女声合唱の透明感に心をうたれ、涙が流れて止まらなかった。伊福部昭追悼演奏会が、代々木上原のけやきホールで行われた時、私とコールジューンは前後して舞台に上っている。伊福部の『オホーツクの海』について書かれた更科の詩を私が詠み、その後で、コール・ジューンが『オホーツクの海』を演奏した。トロッタにも、合唱団として出てほしい。早稲田奉仕園スコットホールで女声合唱が聴ければいい。自分たちの演奏会を作ってゆく彼女らの思いもあり、なかなか、難しいことではあるが。
声の力。人が発する声の力は、それ自体に価値がある。それは肉体そのもの力。肉体は、生きている証である。
私にとって、詩と音楽の出発点に、甲田潤がいる。だから、トロッタを始めるにあたって、私は彼と手を携えたかった。現実には、そうなっていない。理由はさまざまある。しかし、甲田潤は二度、第七回にソプラノとヴァイオリン、ピアノによる『嗟嘆(といき)』を、第八回に独奏曲『ピアノのための〈変容〉』、縁山流声明と絃楽のための『四智讚(しちさん)』を出品してくれた。特に『四智讚』は、声明のたに三人の僧侶に出演してもらうという、通常では考えられないトロッタとなった。甲田潤の音楽は、トロッタに近いところにあると思う。彼が容易に参加できないのは、私の力が不足しているからだ。
私は彼のため、2007年に、こんな詩を書いている。具体的には、甲田潤が作曲し、甲田潤と音楽活動をする、ソプラノの弓田真理子に歌ってもらえたらと思っていた。目下、甲田潤の心はこの詩にないと思うが、いつか、実現できればいい。
*
うたいたくて
木部与巴仁
あなたは うたおうとする
立っている うたおうとして
歌は 何もないところに
生まれる
すり切れた日常に 求める
すりへった心に 求める
こわれかけた風景に 求める
そんな あなたの歌
ちぎれかけた時間を つなぎとめたくて
あなたがうたうまで
何もなかった
あなたがうたうまで
見えなかった
聴こえる 声が
見えてくる 心が
はっきりと
目を閉じれば 思い出せる
安らぎとともに
眠っていた 忘れかけていた
あの時のこと じっと
耳をすましている
聴きたい
あなたの声
見たい
あなたの姿
味わいたい
あなたが作り出す
作り出さなければ なかった
風景
覚えていてほしい ずっと
忘れないでほしい いつまでも
刻みつけて 深く深く
見てごらん ここにある
見えるだろう 目を凝らせば
歌が あらわしたもの
あなたがうたってくれたもの
光っている
そっと
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