2011年5月21日土曜日

トロッタ13通信(33/5月18日分)

(其の五十七)
*同じ場所で、フェデリコ・ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲の『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]I - IV』、清道洋一の『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』、堀井友徳の『北方譚詩 第二番』を合わせ、さらに場所を移動して橘川琢の『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》を合わせた。
 すべて声をともなう曲である。作曲家ごとに聴こえてくるものが違う。
●『ロルカのカンシオネス[スペインの歌]』
 楽器アンサンブルと合わせるのは難しい。しかし、音の世界が広がっていることは間違いない。ピアノなりギターなり、ひとりの楽器で演奏するより、音の豊饒さが出るかもしれない。スペインの雰囲気を醸し出せるかもしれない。雑誌「ギターの友」の連載『ギターとランプ』に、前後篇構成で書く予定。
●『《ヒトの謝肉祭》第一番のために』
 指揮がなければ難しい。演奏者は合わせるのに苦労している。それ以上に、私は何をするのか、見えて来ない。演者の中川博正とともに、声を出すふたりは何をするのか。清道洋一の頭の中、心のうちを表現することになるのだと思うのだが。
●『北方譚詩 第二番』
 男女の声が重なっただけでも、豊かな気持ちになる。テノールの根岸一郎と、バスの白岩洵の、低く落ち着いた声の重なりがよい。もちろん、ソプラノの柳珠里、アルトの青木希衣子の透明感もよい。言葉がどこまで聴こえるか。さんざん、ここで書いてきたことだ。意味を、どこまで伝えられるか(やはり、意味が伝わってほしいとは思っている)。
●『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》
 大久保雅代による声について、書いておく。詩『ぼくたちはどこまでも河をくだる』は、子どもの物語である。私はできるだけ優しく、やわらかく詠みたい。ここで聴こえる女声は、天の声であり(街が水没してしまった世界の物語である)、母の声であり(女の子は河をくだりながら母を求めている)、水の妖女セイレーン(人を水にひきこんで殺してしまう)の声でもある。その大きさと深みが出ればいい。詩唱の課題は自分で克服したい。

(其の五十八)
 5月18日(水)、第三水曜日なので、西荻窪のライヴハウス「奇聞屋」にてオープンマイクの朗読会に出る。トロッタの直前には、トロッタ関係の詩を詠むことにしている。三篇、『たびだち・北の町』『森と海のある土地(*曲名は「森と海への頌歌」となる。詩の題もそうするかもしれない)』『ぼくたちは河をくだる』を詠んだ。『北の町』は私の声と、ピアノの吉川正夫によるデュオ。後の二篇は、声は簑和田慶子、ピアノは吉川正夫とのトリオ。
 音楽とともに詩を詠む、最終的にそれは音楽になる。というスタイルは、奇聞屋で模索してきた。一か月に一回、そのような機会を得ているのだから、貴重である。この日は、音楽と一緒にではなく、自作の詩をひとりで詠む参加者もいて、新鮮だった。トロッタでも、私はひとりで詠んだことがある。ひとりでも、詩唱にはなるのである。それを音楽として人が聴いてくれるかどうかは別なので、その点、私は工夫をしたい。しかし、朗読者ひとりでも聴かせられることは、再確認した。私もそこから出発している。
 奇聞屋の前に、八木ちはるのフルートを聴いた。ヤマハホールで、彼女は尾高尚忠の『フルート協奏曲』を吹いた。熱演だったと思う。そこでしか聴けない、ライヴの印象が強かった。生きている証明。その音楽的印象を大切にしたい。

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