2011年5月14日土曜日

トロッタ13通信(27/5月12日分)

(其の四十五)
 橘川琢について、一言、付け加えておこう。彼だけの課題ではないが、叙情性とどう向き合うかを、私は共同製作者として、一緒に考えたいと思っている。感情をどう発露させるか。芸術表現を支えるのは感情だ。もちろん理性も支えているが、理性的な態度に終始するなら、わざわざ芸術活動はしなくてよい。理性的芸術というものがあったとしても、私に限っていえば、おそらく、ひかれない。ただ感情というものに、人は溺れがちだから、それを芸術表現の力とする以上はコントロールしなければならない(いや、コントロールできないのが感情だろうか。コントロールすべきは、感情ではなく、表現のスタイル、形式、方法か)。橘川琢の音楽は、叙情的だ。曲名からして、『日本の小径(こみち)』『古い署名』『小さな手記』『秋からの呼び声』といったものがあげられ、『都市の肖像』もある。自分の叙情性を発露させる手だてとして、彼は詩、あるいは物語を欲したのだと思う(『日本の小径』『古い署名』『小さな手記』『秋からの呼び声』といった曲名に、すでに私は物語性を感じている)。『1997年 秋からの呼び声』が演奏できなかったのは、彼が自分の感情をコントロールできず、その結果、表現スタイルと方法のコントロールが不足したからだろう。第十三回の『都市の肖像』第四集《硝子の祈り》がどんな作品になるか、叙情性の新たな形に期待している。(さらに付け加えるなら、彼の作品一覧を見ると、2007年から詩歌曲の割合が増え、曲名は『うつろい』『恋歌』『鼠戦記』『花の記憶』『冬の鳥』『夏の國』といったものである。私との共同作品で、詩の題名でもある。これら自体、すでに叙情的であり物語性があるとわかっている。橘川の課題は、私の課題でもある)

(其の四十六)
■ 清道洋一
 清道洋一の談話を構成してみた。
「トロッタに参加して、自分自身がテーマとすること。それは、領域の拡大です。領域を広げる試みをしているのです。映画やオペラは、総合芸術と呼ばれて来ました。自分がめざす形は、映画やオペラのようなものかも知れないし、芝居に近いかも知れない。そうした既成の言葉で表現できないものかも知れません。音楽劇、演劇音楽といってしまうとおもしろくなくて、詩と音楽をすべて含め、音楽として作っていこうとしているのです。現代は、あらゆる分野で境界や様式が細分化しています。しかし境界がない時代に成立した表現は、技術が今ほど発達していなくても、その時代なりの先端技術が集積していたでしょう。照明でも、音響でも、装置でも、美術でも。トロッタにおいて私は、未分化な表現、あるいは領域を広げた表現を試みていますが、その意味で、初のトロッタとなった第六回で初演した『椅子のない映画館』は、私にとって重要な作品となりました。美術、工芸が、圧倒的な比重を占めるものとして作ったのです。舞台の外に置かれた、新聞紙が梱包された椅子を始め、情報がとてもたくさん乗っている音楽です。第九回の『アルメイダ』は、演劇に接近した音楽で、エレクトーンシティの広い会場を全体に使って、したいことをさせていただきました。第七回の『ナホトカ音楽院』も重要です。捏造による音楽世界が始まった曲です。トロッタでは演奏されていませんが、私が参加するグループ『蒼』の第26回公演で初演した、詩唱と木管四重奏による『風乙女』も、シンプルな形で、私のテーマを音楽にできた作品だと思います。谷中ボッサの「声と音の会」第四回公演で初演し、トロッタの第十回で演奏した『主題と変奏、或いはBGMの効用について』は、音が言葉に接近していく、あるいは音楽が音に接近していく、そうしたことを確認するために、作曲した音楽だったのです……」

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