2011年5月8日日曜日

トロッタ13通信(23/5月8日分)

(其の三十五)
3.トロッタの人々がいる風景

 しばしば、あなたが好きな音楽は? 好きな作曲家は? 好きな演奏家は? と訊かれる。話題として、誰もが交わすことである。私は、好きな音楽はトロッタのそれだと答える。好きな作曲家はトロッタの、好きな演奏家はトロッタの彼ら、彼女らであると答える。当然だ。手を携えているのだから。質問者は、もう少し一般的な、理想とする音楽とか、誰にとっても普遍の存在の名を期待して訊くのかもしれない。つまり、私と会話するために。ドビュッシーだと答えれば、ドビュッシーについての話が弾む。私を知る手だてにもなる。そういうことだろう。
 私の理想はトロッタで演奏される音楽であり、普遍の存在はトロッタに集う人々である。(好きな詩は? と訊かれた時、トロッタの詩です、というのだろうか。用いられる詩は、私の作品が最も多いのだが。そこまでうぬぼれてはいない。しかし、その時に、これしか書けないという詩を書いている。それを作曲家が、音楽にしてくれる。好きな、と自己愛的にはいえないが大切な詩、とはいえるだろう。かつてある詩人に、今まで書いた詩は捨てなさい、習作的なものだから、といわれた。お断りする)
 ただ、本当にトロッタ以外の作曲家と曲をあげてほしいといわれれば、私はメシアンの『世の終わりのための四重奏曲』をあげるだろう(先達の、ということなら伊福部昭の人と作品をあげるのは当然だが、それはすでに書いたことだし、トロッタで取り上げている)。『世の終わりのための四重奏曲』は、メシアンが捕虜収容所で作曲し、初演した作品である。ありあわせの、状態の非常によくない楽器をかき集め、それで演奏できる曲を、そこで創った。編成は、ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノ。やむにやまれず生まれた音楽である。聴衆は、収容された人々と、収容する人々であった。音楽が生まれた、最も劇的な状況がそこにあった。どんな曲にもドラマはある。平穏と見える生活を送っている作曲家にも、内側は劇的だろう。しかしメシアンは、内的にも外的にも劇的な状況下で、音楽を作った。私は共感している。トロッタは暇にあかせて趣味でする活動ではない。新曲で臨んでいる点が、何よりもそれを証明している。トロッタの作曲家、演奏家と、メシアン自身、その周囲の演奏家、さらには聴衆まで、私は同じだと信じ、そのような場を作りたい。いずれはメシアンを、トロッタで演奏できればと思っている。
 トロッタの人々との交流の仕方において、私には足りない点がいくつもあって、例えば、一度しか出演しなかった方々に、その後もきちんと連絡をとっているかといえば、そうではない。身の周りのことをしようとすると、たった今、第十三回の準備に追われていてまったく余裕がないように、つまり目先のことに追われてしまってきめ細かいやりとりができなくなる。小ささを思うしかない。しかし私は、一度しか関われなかった人々に、仮に不足感を抱かれ、不信すら抱かれても、それを恨みに思うようなことはまったくない。私が、(もう少しこうしてくれたらな)と、その人々に対して思い、そうしたことを口にしたとしよう。それは単なる愚痴であり、気持ちを晴らすためのつぶやきであって、心からの、未来にわたる決定的な思いではないことを誓っていう。たった一度の出品でも出演でも、トロッタを支えてくれた。彼らや彼女らがいなければトロッタは成立しなかった。感謝する以外にない。

(其の三十六)
■ 酒井健吉
 彼は、私が書いた『伊福部昭 音楽家の誕生』を読んでくれていた。酒井は長崎県諫早市に暮らしているが、伊福部の曲が演奏された、池袋芸術劇場の演奏会後、私に声をかけてくれた(2002年9月4日、東京芸術劇場での都響スペシャル「日本音楽の探訪」だったと思う。伊福部の曲は『日本狂詩曲』)。そうして交流が始まり、私が長崎に出向いて彼が主催する演奏会に出演し、彼はトロッタ第一回から参加する作曲家となり、そうしてさまざまな交流を続けた。
 最も記憶に新しいのは、彼が昨年秋の第十二回で、私の詩による『ガラスの歌』を出品できなかったことである。チラシに掲載された曲を発表できなかったのは残念である。春に初演されていた曲だから、秋の演奏には問題なく出品できると計算した。初演時が邦楽器による編成であり、トロッタでは洋楽器による編成であったとしても、だ。ところができなかった。さまざまな事情があるだろう。私も迷ったが、彼も迷った。出品取りやめは、本番一週間前の申し出であったろうか。結局、『ガラスの歌』のために招いたアルトの青木希衣子には、彼女がしばしば演奏会で歌う、シューマンの
『女の愛と生涯』を、抜粋して歌ってもらった。私は詩の大意を舞台で詠んだ。青木の歌は見事であり、詩と音楽を考え続けたシューマンを取り上げることにも、トロッタならではの必然を感じた。それでも、新作歌曲を歌うから来てほしいと招いたお客様もいたので、そうした点で、心残りとなった出品の取りやめであった(結局、そのお客様は、迷ったあげくに足を運んでくださり−表現が難しいが、足の悪い方で、車椅子での来場だった。しかし、トロッタの試みに共感を示し、励ましてくださった。ありがたいことである−)。
 書けなかった、という事実を前提にして、酒井と私の関係は、たった今の段階を踏んでいると思う。彼はつい先日、電話をかけてきた。青木繁の絵をモティーフに作曲した室内楽劇『海の幸』を見直したいという。これは私が、夏の十日間、毎日書き続けた詩をもとにしている。初演は、2008年8月22日、長崎市で行なわれたkitara音楽研究所の第5回演奏会だった。最近、雑誌の「サライ」で、青木繁の小特集が組まれた。酒井にいわれて私も読んだが、今年は青木の没後百年にあたる。青木の地元、久留米の石橋美術館はもちろん、東京のブリヂストン美術館でも、企画展示会が開かれる。青木も酒井も、九州の人間である。『海の幸』は、九州のために創られた音楽といってもいい。石橋美術館で、酒井健吉の曲を演奏できないかという思いすらあったのだ。石橋美術館の敷地には、演奏のためのホールも建っている。演奏の可能性は消えていない。可能性を消すのは、自分自身である。
 酒井健吉は、第十四回トロッタに参加する予定だ。

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