(其の四十七)
私はもともと芝居をしていたので、清道洋一の感覚にはわかるところがある。私がそう思っているだけかもしれない。しかし、それは措いて−−。
2010年12月12日(日)に、第6回「ボッサ 声と音の会」として、『隠岐のバラッド』を行なった。後鳥羽上皇が配流先の隠岐で、日本全国に向けてメッセージを送る、海賊放送を行なっている。マイクを前に語り、楽士の演奏で歌い、各地の配所を結んだ情報を交換しあったりもしている。
当初は、私のソロライヴとして、たったひとりで行なう予定だった。しかし、内容を吟味していくうちに変更が生じた。橘川琢、清道洋一、田中修一という三人の作曲家に協力を求めるたのは予定どおりだが、萩野谷英成にギター演奏を依頼し、チラシができた後に急遽、詩人で俳人の生野毅に対し、自作を詠んでもらいたいと頼んだ。語り、歌い、演じる。演劇の要素と音楽の要素を持った作品になった。これはトロッタを続けて来たからできたことである。
田中修一の『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』について、“エグログ”とは対話劇のスタイルを持った音楽だと書いた。音楽の要素が強い対話劇ともいえる。オペラもそうだが、演劇と音楽が未分化だ。一般にオペラは音楽の一ジャンルとみなされるが、演劇の要素が濃いことを無視する方がおかしい(日本の能や歌舞伎は、さらに舞踊の要素が加わっている)。『隠岐のバラッド』をオペラとはいわないし、いうつもりもない。しかし、自然と両方の要素が入った。やはりトロッタがあったから、『隠岐のバラッド』は実現したと、私は信じている。田中修一、橘川琢、萩野谷英成、生野毅。誰もが力を合わせてくれた。思いはそれぞれあるだろうが、清道洋一にとっては、彼が普段から意識している形式に、近い結果となったかもしれない。清道はもう15年、萬國四季教會という劇団のために音楽を書き続けて来ている。
繰り返すが、ライヴを企画した当初は、結果を予想していなかった。台本もなかった。後鳥羽上皇に扮することも決まっていない。共演者も初めはなかった。すべてが自然と、落ち着いていったのだ。落ち着いたということは、必然性があったということ。ひとりでギターを弾いて歌えるなら、あるいは作曲までできるなら、文字通りのソロライヴで、誰の力も借りなくていい。わざわざ芝居に近い形を取らなくても、淡々と歌っていくだけで、一晩の舞台は成立する。だがそれができないので、作曲家と演奏家の力を借りた。その結果、演劇と音楽、“詩と音楽”といってもいいが、そうした要素を持つ作品になった(この前段階に、花道家の上野雄次とともに、やはり谷中ボッサでのコラボレーション作品『花魂-HANADAMA-』を行なった。私にとっては初めての即興であった。芝居ではないが、台詞に頼らない身体表現である。いきなり『隠岐のバラッド』に行き着いたのではないことは記しておきたい。生傷の絶えない一週間公演であった)。
(其の四十八)
清道洋一と初めて言葉を交わしたのは、オーラJの演奏会場だ。評論家の西耕一が紹介してくれた。そして後日、改めて神田神保町の喫茶店、ミロンガで会った。清道は自作の演奏を収めたCDを持参した。そこには、彼の代表曲といっていい弦楽五重奏曲『蠍座アンタレスによせる二つの舞曲』もあった。そして私は、「詩の通信」第一期23号に掲載した『椅子のない映画館』を、仮に作曲してもらうならこれではないかと持参していた。一読した清道は、期待どおり、『椅子のない映画館』を楽曲化するとその場で約束した。会う前の私に計算があったわけではない。直感しかなかった。
『椅子のない映画館』は、不治の病に亡くなった演劇評論家、長尾一雄の言葉にヒントを得て書かれた。築地の方に、椅子のない、立ったまま映画を観る映画館があった、と。なさそうな話なのに、長尾はあったという。あったに違いない。しかし、なくてもいい(ある方が変だといえる)。芝居は、虚構と現実の境目に位置する。『椅子のない映画館』は、ありそうでなさそう、なさそうでありそうな世界を描いた詩だから、演劇の世界に居続けて来た清道にふさわしいと思った。彼は混沌とした世界にひかれている。領域を拡大したいと思っている。初演と再演の会場に、彼は椅子に関するオブジェを置いて、美術の方面にも領域を広げた。それは作曲者にとっては大切なことだが、私は仮にそれがなくても、曲自体(清道にとっては椅子も曲の大切な要素だが)で、じゅうぶんに領域は広がっていると思う。想像力の領域が広がっているのだ。聴こえるもの、見えるものにも増して、想像力が広がることこそ、芸術表現において大切だろう。
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