(其の三十三)
先に書いたが、橘川琢の『都市の肖像 第四集』のために、詩を書かなければならない。それを、5月6日(日)に書いた。書きながら、演奏形態も考えた。まだ変わるかもしれない。しかし、『たびだち』の項でも書いたことだが、書きながら生きる、生きながら書いているのなら、この詩は、私は生きた証となる。トロッタの準備はたいへんだ。練習の調整をしているだけで一日はたちまち過ぎる。自分の練習もしたいし、詩も書きたいし、まったく滞っている原稿を書きたいし、仕事もしなければならない。そうした中で書いた詩だから、「トロッタ通信」というなら、掲げるものは詩しかないわけだ。「詩の通信V」の第20号にも、この詩を載せるつもり予定である。今はまだ、無題である。
I.
雨が降っていました。
灰色の重たい雲が、空を覆っています。
桟橋に、傘をさした男の子と女の子がいました。
小さな舟が、風と波に揺れています。
二人はこれから、大きな大きな、河をくだるのです。
「舟が出るよお」
誰かの声が、風に千切れて飛びました。
男の子と女の子は、手をつないで舟に乗りました。
その時、大きな波が押し寄せて、ふたりを揺さぶりました。
黒い合羽を着た、顔の見えない人が立ち上がりました。
長い竿を使って舟を押し出します。
波にもまれながら、舟はゆっくりと岸を離れてゆきました。
II.
空と河しか見えません。
陸(おか)はどこにもないのです。
海のように広い河でした。
男の子も女の子も口をききませんでした。
波しぶきを上げる魚の群れが見えました。
「あれは、海豚だよ」
舟を漕ぐ人が教えてくれました。
ものすごい数の海豚が、鳴きながら泳いで行きます。
緑色の光が見えました。
「灯台だよ。舟がぶつからないように」
風に乗って歌声が聴こえて来ます。
たくさんの人を乗せた舟が、波の合間に現れました。
小さな舟から、人がこぼれそうになっています。
「巡礼さんだよ、お参りの帰り道だよ」
何をお参りしたのだろう。
男の子は思いながら、女の子を見ました。
女の子は黙ったまま、巡礼を見送っていました。
III.
大きな波や小さな波が渦を巻いています。
波はあちこちでぶつかり合い、身を寄せ合っていました。
隙を見て追い越したり、身じろぎしています。
取り澄ましたかと思うと、恥ずかしがりもします。
こんなにたくさんの波を見たのは初めてでした。
「気をつけて。もうすぐ潜るから」
舟を漕ぐ人がいいました。
こんな広い河の、どこに潜るというのだろう。
ぼくは溺れてしまう。
男の子は心配になって、女の子を見ました。
「お母さんに会えるの、お母さんに会えるの」
女の子はそうつぶやくだけでした。
「御覧、三角島だよ」
何本もの塔が波の上に突き出ていました。
「水の底に町がある。大きな町が沈んでいる」
舟を漕ぐ人は合羽の頭巾を取りました。
それは髪の長い、女の人でした
IV.
ごおごおと音がして舟が揺れ始めました。
男の子と女の子も頭から合羽をかぶりました。
「しっかりつかまって!」
女の人が叫びました。
あたりの波が空を隠すほど盛り上がっていきます。
呑みこまれると思い、ふたりはぎゅっと目を閉じました。
でも、そうではなかったのです。
目を開けると、舟はぐんぐん河の坂道を下りていました。
合羽も役には立ちません。
ものすごい風と波飛沫で二人ともびしょ濡れです。
舟は木の葉のようにもみくちゃになりました。
ぬらりとした魚の背中を超えました。
大きな瀧が落ちていました。
遠くで火の手が上がっていました。
暗い空からたくさんの流れ星が河に落ちていきました。
この坂道はどこまで続くのだろう。
ぼくたちはどこまで落ちてゆくのだろう。
そばを見ると、女の子はもういませんでした。
後ろを見ると舟を漕ぐ女の人もいませんでした。
目を開けていられませんでした。
男の子は舟底にうずくまったままでした。
そうして、何もわからなくなりました。
気がつくと、あたりは一面の星空でした。
何の音もしません。
男の子は舟に乗ったまま、夜の空に浮かんでいました。
(其の三十四)
子どもの話を書きたいと思った。
近ごろ読んだ、ある作家の評伝に、あなたは子どもに向けた物語を書かなければいけない(ニュアンスは正確ではない)と諭される場面があった。発言者の意図ははっきりしないが、その人物は教育者だから、子どもに向けた物語の大切さを、よく意識しているのだろう。私は、ことさら子ども向けの物語を書きたいとは思っていない。大人の物語ばかり書いている。それでも、子ども向けとされる物語で、感銘を受けたものは多い。『赤毛のアン』や『ノンちゃん雲に乗る』などには泣いた(何をもって子ども向けとするかの線引きは難しい。『アン』や『ノンちゃん』を、作者が子ども向けに書いたのかどうかは知らない。ただ、年若い人々に読まれることは事実だろう)。ただ、子どもの世界は五里霧中であり、右も左もわからず、混沌としている。自分の意思でものごとが決定できないから、何とも頼りない。感受性はあるが、判断力に乏しい。そうした頼りなさが嫌なのだが、それでも(頼りなさを描写しつつ)書くとしたら、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』が指標となる。
トロッタのチラシをもって渋谷の古書店を訪れ、置かせてもらった御礼に、「ユリイカ」の賢治特集を買った。これも何度目かの購入だが、1975年7月号で、入沢康夫と天沢退二郎の「徹底討議 『銀河鉄道の夜』とは何か」が載っている。初めて読んだ時、銀河鉄道の地図に感銘を受けた。このように物語を図解して解読する方法があるのかと思った。その少し前から、ある理由があって賢治関係の雑誌を買ってもいた。こうしたことから、子どもが登場する詩を、『銀河鉄道』にならって書こうとしたのが、先に掲げた無題の詩である(子どもが出るから子ども向けというわけではない。子どもが出る大人向けの物語もある。ただ、作家は書きたいから書くので、特定の誰かに向けて書く、相手をしぼるというのは、広告の仕事をしているわけでもなし、おかしな話である。私が書いたのは、子どもが出る話だ)。
ただ、トロッタの、それも橘川琢の曲のために書いたのは間違いない。この詩がそのまま生かされるかどうかはわからない。橘川との打ち合わせが、まだ行なわれないから。ソプラノの大久保雅代、ヴァイオリンの戸塚ふみ代、ヴィオラの仁科拓也、ピアノの森川あづさ、さらに花いけの上野雄次も出演する。そうした人々との共演に生きる詩であるかどうか。生かされない可能性もあるのだ。
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