2011年5月20日金曜日

トロッタ13通信(32/5月17日分)

(其の五十五)
*フェデリコ=ガルシア・ロルカ採譜、今井重幸編曲による『ロルカのカンシオネス』の練習を、編曲者立ち合いの元、ギター奏者萩野谷英成とともに行う。練習場は、荻窪駅南口にある、ヤマハ音楽教室。
 編曲者が強調するのは、歌として、歌ってほしいということ。言葉は大切にするが、それに加えてメロディとリズムを重視してもらいたい。
 スペイン語で歌うから、歌っている私にも、言葉から実感するものはない。しかし意味を持つ言葉には違いない。大学を出て数年後のこと。独り芝居として『東海道四谷怪談』の連続上演を続けた。共同作業をしている人々からしきりにいわれたことは、言葉を大切にしてほしいということだった。今から思えば、違ったニュアンスでいったことかもしれないが、私には、意味を大切にしてほしいと聞こえた。聞く者に誤解を与えないためには、言葉を続けていうのではなく、ていねいに、切りながらいう方が間違いない。しかし歌は、レガートで、言葉を切らず、つなげて歌う。意味を誤解されないようにと思うが、ただ話している時でさえ誤解を生むのに、歌で意味を伝えるのは難しい。聴いている人が歌詞を聴き間違うことはよくある。アクセントも、話し言葉のものとは違ってくる。調子で聴いてしまう。
 芝居のように、意味を伝えようとしても駄目だろう。言葉を歌うのだから、正確な意味は伝わらないと思った方がいい(それでもなお伝える工夫は、歌い手がすべきかもしれない)。

(其の五十六)
*前日、今井重幸作曲『草迷宮』の合わせがある。雑司が谷地域文化創造館の多目的ホールにて。バリトン・ソロの根岸一郎に注文が出る。今井の楽譜には、sprechgesangと書かれている。音程はない。リズムだけが書かれている。語るように歌うということで、シェーンベルクらが用いた奏法である。今井は、きれいに歌おうとしないで、もっと粗野にというのだが、これがなかなか難しい。
 泉鏡花の『草迷宮』から得たイメージを、今井が自由に詩として表現した。母親が歌っていた、通りゃんせ、通りゃんせというわらべ歌を追い求める青年が主人公が物語る(歌う)。「空が落ちる 海が燃える ほう、火の玉も来い! 黄泉(よみ)の帳(とばり)も降りて来い!」と。
 思い出せば、田中修一の『MOVEMENT No.3』にはdeclamando risoluto ma espr. 物語るように、決然と、しかし表情豊かに、と書かれていた。「世の終わりの儀式 千万年が過ぎてゆく」と。
 今井の曲にせよ、田中の曲にせよ、きれいに歌おうとするだけでは表現できないのである。実は、先のロルカの曲でも、私に対し、きれいに歌おうとしないで粗野に歌ってほしいという注文が出されていた。きれいに歌うことも難しいが、表現のレベルは落さず粗野に歌うことは、なお難しい。私でさえ、歌のレッスンでは粗野に歌ってとはいわれていない。誰もいわれてないだろう。きれいに歌うことも粗野に歌うことも表現である。おおまかにいえば、前者は、どの曲でも心がけること。後者は、ある曲によって心がけること。前者は歌手としての表現。後者は、歌う曲に応じての表現といえるだろうか。

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