2010年2月2日火曜日

「トロッタ通信 11-23」

「トロッタ通信 11-20」


『うつろい』は、とてもわかりやすい詩です。

物語を書くのか、心の風景を書くのか。私の詩はふたつに大別され、物語の方に比重があると思います。『うつろい』は、幻想的な詩なので、物語と心象風景と、いずれの要素もあるのではないでしょうか。詩の先生なら、違うことをいうと思いますが。

トロッタは、“詩と音楽を歌い、奏でる”会です。詩と音楽の関係については、様々な考えがあると思います。考えの中身はさておき、『うつろい』をめぐる詩と音楽の関係について、見てみましょう。

詩は、「古ぼけた柱時計が 満開の桜の枝に掛かっていたらおもしろい/カウンターの向こうから 浜辺の歓声が聞こえてきたらおもしろい」という言葉で始まります。喫茶店の椅子に座る人物が、このようになったらおもしろいという、四季折々の幻想を風景として見ています。

しかし音楽としての『うつろい』は、回想から始まります。詩のいちばん最後の連、「今はない 街角の喫茶店/いつの間にか 消えていた/ぼくは今も この町にいる/でも あの人は いない/うつろう季節に連れられて/どこかへ行ってしまった」を曲の始めに持ってきて、詩唱者に詠ませました。その後に、詩の始まりである四季の幻想を、やはり詩唱者に詠ませました。譜面には、こんな指示があります。

「鮮やかに思い出がよみがえるように」「軽やかに、しかしさびしげに」「少し、かげりをもって」「思い出をいつくしむように」。そして[春]の歌が始まると「思い出の場面に、歌が重なるように。自分の深く、なつかしく、さびしい思い出に語りかけるように」

『うつろい』は過去に寄り添おうとする詩ですが、橘川さんの手によって、懐古性が強まりました。私は、言葉を持って、最後に懐古の気持ちを強調しました。橘川さんは、言葉を前に移動させ、同じ言葉「今はない 街角の喫茶店/いつの間にか 消えていた」以下を、最後は歌手に歌わせることで、より強調してみせたのです。(20回/1.30分 2.2アップ)



「トロッタ通信 11-21」


以下は、橘川さんに取材などせずに書くことです。橘川さんには、まったく別の考えがあるはずです。

橘川さんとした初めての共同作業は、『時の岬・雨のぬくもり』でした。私の詩「夜」が『時の岬』となり、橘川さんの詩「幻灯機」が『雨のぬくもり』となり、初めての「詩歌曲」が生まれたのです。「詩歌曲」という言葉自体に、トロッタのテーマである“詩と音楽”が入っています。また橘川さんは、曲だけでなく、詩も書きました。2009年3月22日(日)に行われた第3回個展「花の嵐」のプログラムに、詩「幻灯機」の意味が書かれています。

「先の『夜』の詩中、『どこへ向かおうとしているのか』を受けて創られた。言うなら木部さんへの私なりの返歌である。『夜』が厳しく心が凍えるような世界であるのに対し、『幻灯機』はその世界を歩く人の心を描きたいと思ったのだ」

橘川さんは、「詩歌曲」という音楽のスタイルを掲げ、さらに詩を書き、もちろん音楽も書くことで、トロッタの世界をまるごと引き受け、体現してみせようとしたのではないでしょうか。『時の岬・雨のぬくもり』以降、彼の詩は表現されていません。詩作は、すべて私にまかせ、自分は作曲に専念しようとしていると思われます。

いや、実のところ、トロッタ9で『1997年 秋からの呼び声』が初演される予定で、これはすべて橘川さんの詩による曲だったのですが、残念ながら事情があり、演奏はされないまま別の曲に差し替えられました。

もしかすると、私は意識して、橘川さんへの“返歌”を書くべきかもしれません。前だけを見ず、時には橘川さんという存在を顧みて、彼の音楽を心で思い返しながら、彼のための詩をと思って、新作を書いていいかもしれません。それが、いずれ開かれるだろう、第四回個展で初演されればと思います。(21回/1.31分 2.2アップ)



「トロッタ通信 11-22」


感情のほとばしりを感じます。ほとばしりが、音楽になるのだなと思います。

「今はない 街角の喫茶店/いつの間にか 消えていた」以下、曲の始めでは、詩唱で表現されました。その同じ言葉が、感情のほとばしりを得て、「今はない 街角の喫茶店/いつの間にか 消えていた」以下の歌になりました。

言葉に感情が伴うと、メロディが生まれ、リズムが生まれるという推測。その通りのことを、橘川さんの曲は実践しています。だからこそ、彼の音楽は、トロッタのあり方そのもの、典型だと思いました。他の方の曲がそうではないということではありません。他の方は他の方なりに、トロッタの可能性を実践しています。ただ、橘川さんは、初めに詩を書いて来ました。それが興味深いことと、私は記憶するわけです。“返歌”だといった点に、橘川さんの生真面目さ、創作意欲を感じます。

それならば、音楽になった詩を、もう一度、私の手で詩に戻すことも、興味深いと思われます。彼と共同作業をしていれば、詩が生まれて音楽になって、また詩が生まれて音楽になるという繰り返しです。結果的に、音楽の次に詩を書いているのですが、そのことの意味を意識し、方法として行ってはどうかと思うのです。

まだ、抽象的な話です。音楽を詩に戻すといっても、すぐにはできません。どうすればいいかもわかりません。それを、考えるわけです。『時の岬・雨のぬくもり』の先にある世界を、今度は音楽への返歌として書いてもいいでしょう。『うつろい』のその後を、続篇として書いてもいいでしょう。先に音楽があって、それに詩をつけることも、本来はあまり好きな方法ではないのですが、納得のゆく形にして行ってもいいかのでしょう。他にも、いろいろな形が考えられるはずです。彼は、模索しています。共同作業者の一方にだけ模索させて、私という他方は、あいもかわらず詩を書くだけでは怠慢というものです。トロッタにおける詩人は、従来の方法論に安住してはいません。(22回/2.1分 2.2アップ)



「トロッタ通信 11-23」


先に、中川博正さんと、詩唱を追究していきたいと書きました。その形が少しでも見えれば、橘川さんに取り入れてもらい、新曲の演奏形態としていいでしょう。例えば、こんな楽器があるから、それを生かして作曲しませんかと働きかけるのです。

折しも、今日、中川さんと、トロッタ11で試演する詩が決まりました。私の、『夜が来て去ってゆく』です。デュオらしく、ひとりではできない形を試みますが、例えばそれを、橘川さんの新曲に取り入れてもらうということです。

このようなことは、橘川さんにとどまりません。他の作曲家との作業も同様です。

詩も音楽も、完成形にしがみつかないこと。もちろん、詩作も作曲も、完成させるために行うのですが、できたからといって安心しません。一回の演奏で満足したくないのです。何度でも演奏を重ね、そのたびに模索をしたいと思います。よりよい変化なら、私は積極的に受け入れます。編曲だとも思いません。一回一回、創作であるべきです。

『うつろい』にせよ、演奏するたびに、演奏者の変化がありました。一度はオーボエを入れたヴァージョンをつくりました。トロッタ11では、オーボエはなく、上野雄次さんによる花いけが入り、『うつろい 花の姿』というタイトルになります。生きた人がしている音楽なのですから、ひとつの形にこだわる必要はありません。

だからこそ、私は橘川さんとの共同作業に、新しいスタイルを持ちこみたいのです。『うつろい』は、以前と同じ譜面を使って演奏するのですが、少しでも前と違う新しさを、『うつろい 花の姿』として、お聴かせできないものでしょうか。(23回/2.2分 2.3アップ)

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