「トロッタ通信 11-29」
田中修一さんにとっての“歌と詩唱の違い”ですが、もちろん、私に答えはありません。ただ、一曲にあるものとしては、違いはない、というのがひとつの答えだと思います。それは、田中さんの『遺傳』を、初演させていただいた時でした。
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる
このように歌い出します。「のをあある とをあある やわあ」という、犬の遠吠えまで旋律が与えられています。途中に、旋律のない個所があります。
お聴き! しずかにして
これはリズムだけで詠みます。次は歌。
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠えだよ。
のをあある とをあある やわあ
そして次の個所には旋律もリズムもありません。
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供 犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた……
この曲には、歌と朗読があります。音楽と詩がある、と言い換えてもいいかもしれません。そして、歌と朗読、音楽と詩は、分たれず、ひとつになっています。田中さんの、“詩と音楽を歌い、奏でる”トロッタへの、トロッタでの、テーマに対するひとつの回答といっていい曲です。これもいずれ、再演させていただければと思っています。(29回/2.8分 2.10アップ)
「トロッタ通信 11-30」
目下、ある作曲家の方と、メールでやりとりをしています。トロッタ12へのご参加を前提にして、私のどんな詩がいいか、検討中なのです。すでに二篇ほど送らせていただき、さらに別の詩をお送りする予定です。これは当然のことで、初めての顔合わせですから、私の詩を使っていただく以上、そうした生のやりとりがあっていいわけです。詩人は、詩が書ければ楽しいわけですから。
トロッタの作曲家の皆さん、本当によく努めてくださっていると思います。詩と音楽の関係といえば、歌があり、朗読があり、というところが基本で、あとは独唱か合唱か、女声と男声の歌い分けか、さらにひとりで詠むか群読のように大勢で詠むかなど、歌い方や詠み方を工夫するくらいしかないのではないでしょうか。朗読は、所作を交えて芝居のようになるかもしれません。言葉が喚起するものが、音楽のような聴覚表現だけでなく、映像や、上野雄次さんの花いけのような、視覚表現になるかもしれません。他にもあるでしょうが、少なくとも現段階では、トロッタは詩と音楽の可能性を、できる限り指し示していると思います。
ただいま続けているという作曲家とのやりとりもまた、トロッタの歴史でしょう。すでに11回目を迎えようとしているトロッタの歴史を、彼と私で1から始めているのか、すでに10までの歴史がその方との間にはあって、その上でやりとりしているのか、その捉え方はさまざまです。田中修一さんのように、すでに典型に到達している方もいます。田中さんが、さらに思いもよらない形を出すか、新たな形を出すのは演奏家なのか、どちらの可能性もはらみつつ、田中さんには、これからも書き続けていってほしいと思います。
付け加えるなら、無駄な努力と他人には映ろうとも、スケールの大きな曲を志向していただきたいのです。(30回/2.9分 2.10アップ)
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