部屋の片づけ。トロッタが近くなり、いろいろと作業するうち部屋が乱れて来た。一度に見渡せるようにしておかないと見えるものも見えない。本当は何もない部屋が理想だが、それは無理。最近は倹約しているが、久しぶりに喫茶店でモーニングを食べた。起きてすぐ机に向かうだけだとリズムが単調になる。
正午、根岸一郎さんと新宿で会い。チラシを渡す。根岸さん、北海道の帯広に行くとか。帰宅後、『狂想的変容〈プロメテの火〉初演の思い出に』に特化した仮チラシを作ってコピー。踊りの方々に使っていただくため。これに時間がかかった。18時、池袋で徳田絵里子さんにチラシを渡す。
日暮里駅前の古書店、信天翁にチラシ置き。お礼に南米ギターの教則本購入。千駄木の古書店、古書ほうろうにチラシ置き。お礼に、「ユリイカ」1972年12月号のエズラ・パウンド特集を買う。西荻窪の古書店、音羽館にチラシ置き。お礼に山崎豊子の文庫版エッセイ集を買う。なぜ?
朝、清道洋一氏から『霧に歌っていた』の楽譜届く。宮﨑文香さんは今日、速達で『宇宙でなくした恋』の楽譜を発送。夜、酒井健吉さんから『トロッタ、七年の夢』の楽譜が届く。『美粒子』の一部はメールで。今日がトロッタ15の締切日である。今井重幸先生の曲は明日の朝、いただく。
『新幹線大爆破』のシナリオが載った「キネマ旬報」が届く(結末を初めは伏せたので二号にわたった。脚本・小野竜之介)。『金環蝕』のシナリオが載った号も(脚本・田坂啓)。当然だが、映画はシナリオまずありき。その意味で、馬渕薫を論じた視点は間違っていない。何とかK社で原稿を復活させたい。
それはやはり、書き手への共感が私にあるから。映画は監督=演出家のものだろうが、書き手がいなければ始まらない。脚本家は作家なのだから、もっと注目されていいはず。五味康祐が気になるのも、同じ理由から。彼のオーディオ趣味を理解できないのも、やはり書き手の見解で演奏家のものではないから。
五味康祐は、そうはなりたくなかったが、剣豪小説と呼ばれた。人を斬ることについても音楽同様、書き手の見方で、実際の武芸者のそれではない。音楽も武芸も、彼は文学として行った。そこがわからない。というか、私がそうなりかねないので、なってはいけないという警戒心から、わからないのだと思う。
だが、そこが文学の本質に通じると思う。どんな人生を書いても空想のものだ。実人生を書くのであれ、書く段階では過去になっている。評論をしても、評論した対象については素人だろう。素人だから客観視して書けるとはいえ、感想になってしまう恐れがある。文学は危うい。文章表現は怖い。自戒せねば。
雨だが、寒さはだいぶやわらいだ。もう、足袋をはかなくてよい。濡れても裸足に下駄ならむしろ気持ちよい。このような実感が大事だと思う。頭だけで考えるのではなく。それが詩と音楽に現われればいい。「詩と音楽VI」がまたも滞っている。これはトロッタの別ヴァージョンだから、トロッタが佳境に入ると「詩の通信VI」が遅れるのもやむを得ない。しかし、数人でも待ってくれている人がいるのだし、別ヴァージョンだからこそ、「詩の通信VI」をきちんと出さないとトロッタもいい加減になってしまう、といえよう。明日は絶対に作る。そして可能なら発送しよう。
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