『釈迦』最後の練習中、甲田潤氏より、演奏前にトークをしたらいいと思うのだがと打診あり。自分は準備のため出られないが、と。相談中、二、三の人の名前を上げるが、トークの実施は最終決定ではない。私はいつ喋ってもいいといっておく。ただし、演奏会第四部のトークなので、『釈迦』だけではない、松村禎三先生の『暁の讃歌』についても喋る必要あり。最終決定はまだだが、準備だけはしておかないと間に合わないので、8月23日(木)からメモを作り始める。
伊福部昭「交響頌偈 釈迦」
●1989年4月8日、五反田のゆうぽうとで行われた「釈尊降誕会(はなまつり)コンサート」で、小松一彦指揮、東京交響楽団、東京オラトリオ研究会、大正大学音楽部混声合唱団等によって初演。
●チラシにも書いたが、敗戦直前、混乱してしまった日本人の価値観を問い直そうという強い思いがあった。1948(昭和23)年の『さまよえる群像』から、1953年(昭和28)年の『人間釈迦』へ。
●石井漠は、『人間釈迦』300回記念公演の後に行われた徳川夢声との対談で、こう語っている。
バレエ『人間釈迦』として創作されたきっかけ。石井漠に、文部省の芸術祭関係者から打診があった。「日本のバレーは、外国のバレーのまねをしてるわけだが、そうでなくて、東洋人の感覚でつくったバレーをやってくれないか」そこで考えたのが釈迦の物語だった。「ぼくの胸を打ったのはなにかというと、キリストは死んだとき天にのぼったが、お釈迦さまという人は、死んでからも、われわれと親しみの深い地のなかにうまってるというんだ」(引用個所〈週刊朝日〉1958年11月23日号)
●煩悩との闘いの果てに平和があるという歌、か。本当の平和とは? 戦後の混乱期に発想されたもの。今もまた混乱期。甲田氏は『釈迦』を毎年演奏したいと考えている。「第九」に対抗して?
●第二楽章、言葉がたたみかけられる場面がある。釈迦が瞑想しているとたくさんの悪魔がやって来て、さまざまな煩悩を投げかける。それに耐えられるか、という場面。
貪欲、食欲、性欲、生存欲、自己顕示欲、妬(そね)み、怒り、争い、愚痴、愚かしい事、など(*甲田氏が以上を紹介)
歌の詩は以下の通り(*Chor JuneのOさんのご教示をいただきました)。
*第二楽章
Gantha 繋 ケ しばる・とらえる 煩悩が離れない
Nivarana 蓋 ガイ おおう・かくす 煩悩を閉じこめている
Ussada 増成 ゾウセイ 地獄
Ohga 暴流 ボウル 欲と見と有と無明の煩悩を流し出す
Jata 結縛 ケツバク 解脱のさまたげ
Anuyasa 随眠 ズイミン 悪への傾向
Asava 漏 ロ 煩悩が漏れ出る
Vanatha 稠林 チューリン 業欲、願望が繁茂している
Kilesa 惑 ワク 欲念、罪、穢れ
Pariyuthana 纏 テン 煩悩の異名 煩悩が働いている
Samuyojana 結 ケツ Jataと同じ、枷、束縛
Akusala 不善 フゼン よかざること
Yoga 軛 ヤク 煩悩の異名 くびきのように拘束する
*第三楽章
Acintiya(不思議なもの)
buddha(仏)
buddhadhamma(仏法 仏+法)
acintiyo(acintiya?) acintiyesu(acintiyaの変化形)
Pasannanamu(喜べる 満足)
vipakohati(熟する 果報)
acintiyo(acintiyaの変化形)
チラシに伊福部先生の訳を書いたが、本当のところは、論理性のある文章ではなく、第二楽章のように、言葉を並べているだけ。これは不思議な詩だと思う。詩というより呪文だろう。Acintiya(不思議なもの)を繰り返しているうちに、いつの間にか、不思議なものが見えてくる、感じてくる、自分も不思議なものになってゆく、といったようなことか。
●84年『日本の太鼓〈ジャコモコ・ジャンコ〉』、87年『舞踊曲「サロメ」』、89年『交響頌偈 釈迦』と舞踊のために書かれた音楽がオーケストラ曲になった。これはどういうことだったのか?
●甲田氏説、チューブラベルの音に、ブッダが悟りを得た姿が重ねられている。西洋楽器としての意味は“最期の審判”。
伊福部昭「交響頌偈 釈迦」
●1989年4月8日、五反田のゆうぽうとで行われた「釈尊降誕会(はなまつり)コンサート」で、小松一彦指揮、東京交響楽団、東京オラトリオ研究会、大正大学音楽部混声合唱団等によって初演。
●チラシにも書いたが、敗戦直前、混乱してしまった日本人の価値観を問い直そうという強い思いがあった。1948(昭和23)年の『さまよえる群像』から、1953年(昭和28)年の『人間釈迦』へ。
●石井漠は、『人間釈迦』300回記念公演の後に行われた徳川夢声との対談で、こう語っている。
バレエ『人間釈迦』として創作されたきっかけ。石井漠に、文部省の芸術祭関係者から打診があった。「日本のバレーは、外国のバレーのまねをしてるわけだが、そうでなくて、東洋人の感覚でつくったバレーをやってくれないか」そこで考えたのが釈迦の物語だった。「ぼくの胸を打ったのはなにかというと、キリストは死んだとき天にのぼったが、お釈迦さまという人は、死んでからも、われわれと親しみの深い地のなかにうまってるというんだ」(引用個所〈週刊朝日〉1958年11月23日号)
●煩悩との闘いの果てに平和があるという歌、か。本当の平和とは? 戦後の混乱期に発想されたもの。今もまた混乱期。甲田氏は『釈迦』を毎年演奏したいと考えている。「第九」に対抗して?
●第二楽章、言葉がたたみかけられる場面がある。釈迦が瞑想しているとたくさんの悪魔がやって来て、さまざまな煩悩を投げかける。それに耐えられるか、という場面。
貪欲、食欲、性欲、生存欲、自己顕示欲、妬(そね)み、怒り、争い、愚痴、愚かしい事、など(*甲田氏が以上を紹介)
歌の詩は以下の通り(*Chor JuneのOさんのご教示をいただきました)。
*第二楽章
Gantha 繋 ケ しばる・とらえる 煩悩が離れない
Nivarana 蓋 ガイ おおう・かくす 煩悩を閉じこめている
Ussada 増成 ゾウセイ 地獄
Ohga 暴流 ボウル 欲と見と有と無明の煩悩を流し出す
Jata 結縛 ケツバク 解脱のさまたげ
Anuyasa 随眠 ズイミン 悪への傾向
Asava 漏 ロ 煩悩が漏れ出る
Vanatha 稠林 チューリン 業欲、願望が繁茂している
Kilesa 惑 ワク 欲念、罪、穢れ
Pariyuthana 纏 テン 煩悩の異名 煩悩が働いている
Samuyojana 結 ケツ Jataと同じ、枷、束縛
Akusala 不善 フゼン よかざること
Yoga 軛 ヤク 煩悩の異名 くびきのように拘束する
*第三楽章
Acintiya(不思議なもの)
buddha(仏)
buddhadhamma(仏法 仏+法)
acintiyo(acintiya?) acintiyesu(acintiyaの変化形)
Pasannanamu(喜べる 満足)
vipakohati(熟する 果報)
acintiyo(acintiyaの変化形)
チラシに伊福部先生の訳を書いたが、本当のところは、論理性のある文章ではなく、第二楽章のように、言葉を並べているだけ。これは不思議な詩だと思う。詩というより呪文だろう。Acintiya(不思議なもの)を繰り返しているうちに、いつの間にか、不思議なものが見えてくる、感じてくる、自分も不思議なものになってゆく、といったようなことか。
●84年『日本の太鼓〈ジャコモコ・ジャンコ〉』、87年『舞踊曲「サロメ」』、89年『交響頌偈 釈迦』と舞踊のために書かれた音楽がオーケストラ曲になった。これはどういうことだったのか?
●甲田氏説、チューブラベルの音に、ブッダが悟りを得た姿が重ねられている。西洋楽器としての意味は“最期の審判”。
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