演劇、音楽など、芸術全般に造詣が深かった評論家、長尾一雄氏の奥様、之子(ゆきこ)さんが、去る7月24日、お亡くなりになりました。葬儀等、ご親族だけで済まされて、本日、その訃報が届きました(個人の訃報であり、またトロッタのサイトなので、書いていいものかどうか迷いましたが、後に記すような事情があり、書くことにします。問題が生じたら削除します)。
長尾一雄さんは1998年4月27日にお亡くなりになりました。66歳でした。奥様は80歳でした。長尾一雄さんとは、私が23歳ごろから面識を得ていたと記憶します。いま、ここに書くにはあまりに多すぎる事柄を、長尾一雄さんとは共有しました。年齢差、経験の差、教養の差があり、「共有」という表現はおこがましいのですが、同じ舞台に接し、それについて語り合い、私の芝居にもゲスト出演されてお話をなさり、また長尾さんの本を二冊、『能の時間』『現代能楽士論』を、私は編集させていただいたので、共有としか表現できないのですが、やはりおこがましいかと、今になって思います。
奥様とは、長尾さん亡き後、おつきあいをさせていただき、近くは、上野雄次さんの花いけ教室にご一緒し、食事をご馳走になり、トロッタには何度か足を運んでいただき、トロッタ15にもお招きしたのですが、今は体調がすぐれないので、いずれ改めてと、お話をしたところでした(しかし痛恨なのは、それが5月のことで、原稿書きに忙しい思いをしている最中、緊急に入院をされ、お亡くなりになったのでした。お使いになっておられたiPadの調子はどうですか? と、お便りしたことを思い出します)。奥様の希望もあり、長尾一雄さんの蔵書の一部、邦楽関係、演劇関係などは、東京音楽大学に寄贈させていただきました。先日まで民族音楽研究所にあり、今は図書館に収められています。伊福部先生のお弟子であった故・三木稔氏とも交流があり、今、目の前にLP「二十絃箏の世界」の解説書がありますが、長尾さんはそこに「野坂惠子と二十絃箏」という文章を寄せておられます(奥様は岡山県出身ですが、同じ岡山の旧制高校生であった三木氏を、当時からご存知であったそうです)。
掲載紙「日本読書新聞」が発行をやめたため、二回で終わった長尾さんの連載に、「奈落への招待席 遊びの批評学」がありました。第一回は、歌舞伎舞踊『五斗三番叟』とアンダーグラウンド演劇としての『東海道四谷怪談』を論じ、第二回は 夢の遊眠社『回転人魚』と、バッハの『ブランデンブルク協奏曲第五番』を論じるといった具合で、このように並べると古典から前衛までと形容できそうですが、長尾さんにとっては、古典も前衛も同じなのではなかったかと思います。私がそう思っていることを長尾さんに重ねて論じてしまいそうな危うさがありますが、つまり長尾さんにとっては、古典も前衛も、まず現代人によって演奏され演じられる20世紀芸術であったということではなかったかと思います。
奥様は、そのような長尾さんをよく理解しておられ、それは当然ともいえますが、長尾さんの仕事がもっと世間に広まればいいと思っていました。朝日新聞の能楽評も、長尾さんの病で中断したのは惜しいことでした。
私の手元に、長尾さんが書きためた批評のためのメモがたくさんあります。トレーニングといっていいのか、その日に観たり聴いたりしたことを、毎日、レポート用紙に3行書くとか、原稿用紙に一枚書くとか、そうした行為を続けておられました。ビートたけしという芸人の名を初めて知ったのも、長尾さんの口を通してでした。私はまったくテレビを観ませんが、長尾さんは熱心で、そこに現代の芸能(芸能番組とか芸能人といった意味を含みながら、それよりもっと本来の意味を持つ、民俗学としての芸能) のあり方を見ておられました。長尾さんも奥様も、折口信夫の系統を引く、慶応義塾大学文学部のご出身です。
長尾さんがお亡くなりになった後、私は奥様から、横尾忠則氏がデザインをした、唐十郎演出、状況劇場公演『腰巻きお仙 忘却篇』の招待状を託されました。私が初めて出した本『横尾忠則365日の伝説』は贈らせていただいていました。招待状といってもB全判の大きなもので、よく横尾氏の作品集や唐十郎氏関係の書物などに紹介されている、もはや美術品というべきものです。長尾家に額装して飾られていました。今夜、私はそれを部屋の壁に飾りました。飾りつつ、長尾一雄さんのこと、之子さんのことを想っています。
初めに記しましたが、長尾さんがお亡くなりになった日と、奥様がお亡くなりになった日は、数字の配列がまったく逆です。そして長尾さんの命日は、私の誕生日でもあります。いつの日にか、改めて、長尾一雄さんについて、書きたいと思っています。
長尾一雄さんは1998年4月27日にお亡くなりになりました。66歳でした。奥様は80歳でした。長尾一雄さんとは、私が23歳ごろから面識を得ていたと記憶します。いま、ここに書くにはあまりに多すぎる事柄を、長尾一雄さんとは共有しました。年齢差、経験の差、教養の差があり、「共有」という表現はおこがましいのですが、同じ舞台に接し、それについて語り合い、私の芝居にもゲスト出演されてお話をなさり、また長尾さんの本を二冊、『能の時間』『現代能楽士論』を、私は編集させていただいたので、共有としか表現できないのですが、やはりおこがましいかと、今になって思います。
奥様とは、長尾さん亡き後、おつきあいをさせていただき、近くは、上野雄次さんの花いけ教室にご一緒し、食事をご馳走になり、トロッタには何度か足を運んでいただき、トロッタ15にもお招きしたのですが、今は体調がすぐれないので、いずれ改めてと、お話をしたところでした(しかし痛恨なのは、それが5月のことで、原稿書きに忙しい思いをしている最中、緊急に入院をされ、お亡くなりになったのでした。お使いになっておられたiPadの調子はどうですか? と、お便りしたことを思い出します)。奥様の希望もあり、長尾一雄さんの蔵書の一部、邦楽関係、演劇関係などは、東京音楽大学に寄贈させていただきました。先日まで民族音楽研究所にあり、今は図書館に収められています。伊福部先生のお弟子であった故・三木稔氏とも交流があり、今、目の前にLP「二十絃箏の世界」の解説書がありますが、長尾さんはそこに「野坂惠子と二十絃箏」という文章を寄せておられます(奥様は岡山県出身ですが、同じ岡山の旧制高校生であった三木氏を、当時からご存知であったそうです)。
掲載紙「日本読書新聞」が発行をやめたため、二回で終わった長尾さんの連載に、「奈落への招待席 遊びの批評学」がありました。第一回は、歌舞伎舞踊『五斗三番叟』とアンダーグラウンド演劇としての『東海道四谷怪談』を論じ、第二回は 夢の遊眠社『回転人魚』と、バッハの『ブランデンブルク協奏曲第五番』を論じるといった具合で、このように並べると古典から前衛までと形容できそうですが、長尾さんにとっては、古典も前衛も同じなのではなかったかと思います。私がそう思っていることを長尾さんに重ねて論じてしまいそうな危うさがありますが、つまり長尾さんにとっては、古典も前衛も、まず現代人によって演奏され演じられる20世紀芸術であったということではなかったかと思います。
奥様は、そのような長尾さんをよく理解しておられ、それは当然ともいえますが、長尾さんの仕事がもっと世間に広まればいいと思っていました。朝日新聞の能楽評も、長尾さんの病で中断したのは惜しいことでした。
私の手元に、長尾さんが書きためた批評のためのメモがたくさんあります。トレーニングといっていいのか、その日に観たり聴いたりしたことを、毎日、レポート用紙に3行書くとか、原稿用紙に一枚書くとか、そうした行為を続けておられました。ビートたけしという芸人の名を初めて知ったのも、長尾さんの口を通してでした。私はまったくテレビを観ませんが、長尾さんは熱心で、そこに現代の芸能(芸能番組とか芸能人といった意味を含みながら、それよりもっと本来の意味を持つ、民俗学としての芸能) のあり方を見ておられました。長尾さんも奥様も、折口信夫の系統を引く、慶応義塾大学文学部のご出身です。
長尾さんがお亡くなりになった後、私は奥様から、横尾忠則氏がデザインをした、唐十郎演出、状況劇場公演『腰巻きお仙 忘却篇』の招待状を託されました。私が初めて出した本『横尾忠則365日の伝説』は贈らせていただいていました。招待状といってもB全判の大きなもので、よく横尾氏の作品集や唐十郎氏関係の書物などに紹介されている、もはや美術品というべきものです。長尾家に額装して飾られていました。今夜、私はそれを部屋の壁に飾りました。飾りつつ、長尾一雄さんのこと、之子さんのことを想っています。
初めに記しましたが、長尾さんがお亡くなりになった日と、奥様がお亡くなりになった日は、数字の配列がまったく逆です。そして長尾さんの命日は、私の誕生日でもあります。いつの日にか、改めて、長尾一雄さんについて、書きたいと思っています。
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