2012年8月20日月曜日

8.25、伊福部昭作曲『交響頌偈 釈迦』演奏されます

「トロッタの会」の大きな精神的支柱と申し上げたい伊福部昭先生が作曲された『交響頌偈 釈迦』が、来る8月25日(土)、すみだトリフォニー・大ホールにて演奏されます。
「すみだ区民音楽祭2012」の第4ステージで、19時開演(18時30分開場)です。
内容は以下になりますが、2曲とも、指揮は甲田潤さんです。
入場無料ですので、ぜひお越しください。

第1部
松村禎三 作曲/甲田潤 編曲/林貫一 訳
『暁の讃歌』“Hymn to Aurora”〈リグ・ヴェーダ〉より(女声合唱版)

第2部
伊福部昭 作曲
『交響頌偈 釈迦』

*私がチラシに書きました曲解説です。

 第二次大戦後、今ほど日本に平和が求められている時はない。長引く経済不況、近隣諸国との関係悪化、そこへ地震、津波、原発事故が加わった。何かが起こるより、何も起こらないことのありがたさを、今ほど噛みしめたことはない。そんな時代にこそ、伊福部昭の『交響頌偈 釈迦』を演奏し、歌いたい。
 もともとは、釈迦の生涯を描く舞踊作品『人間釈迦』の伴奏音楽として、1953(昭和28)年、石井漠の振付によって発表された。そこから音楽を抽出し、オーケストラと混声四部合唱のための作品に編曲されたのが『交響頌偈 釈迦』である。初演は1988(昭和53)年。
 舞踊作品は全三幕で、第一幕『迦毘羅(かびら)城の饗宴』、第二幕『菩提樹の森』、第三幕『世尊太子の帰城』に分かれた。それを音楽作品は、第一楽章『カピラバスツの悉達多』、第二楽章『ブダガヤの降魔』、第三楽章『頌偈』としている。
 王の子として生まれたゆえ、貧しさとも飢えとも無縁に育つ釈迦。これでよいのかと悩み、旅に出て苦しい修業の末に悟りを開く。その境地が、第三楽章で、こう歌われている。
「諸仏は思議を超えたるものなり(数々の仏は、人の思いを超越したものである)」
「諸仏の法も亦思惟を超えたるものなり(数々の仏の教えもまた、人の考えを超えたものである)」
「それ故、是等思議・思惟を超えたるものを尊信するの境地は(だからこそ、こうした思いや考えを超えたものを尊び信じる境地は)」
「篤き信仰によりて甫[はじ]めて得られむ(篤い信仰によって、初めて求めることができるのだ)」
 原典は『南伝大蔵経』第六十五巻大王統史十七章五十六節。合唱譜の扉に伊福部本人が記した意訳を、さらに括弧内で平易にした。
 伊福部は、『人間釈迦』作曲の経緯をこう語っている。
「石井漠さんとは、1948(昭和23)年の『さまよえる群像』で初めてご一緒しました。敗戦後、日本人の価値観が崩れてしまい、欧米、特にアメリカのものなら何でもいいということになってしまった。これではいけないというので『さまよえる群像』を発表しました。その後、さらにスケールの大きなものをというので取り組んだのが『人間釈迦』だったのです。パーリ語の専門家に教えを請い、アクセントにも注意して作曲いたしました」
 戦後の伊福部は、石井漠との『人間釈迦』の他、貝谷八百子との『サロメ』(1948)、江口隆哉・宮操子との『プロメテの火』(1950)、『日本の太鼓〈鹿踊り〉』(1951)など、舞踊のための大曲を続けざまに発表していた。さらに、1963(昭和38)年の三隅研次監督作品『釈迦』でも音楽を担当し、舞踊曲に共通する主題を用いた。オーケストラ作品と合わせ、これら三曲の“釈迦”は、伊福部昭だから表せた、独自の宗教的音楽世界といえよう。
 世界の平和、永遠の平和を求めた釈迦。その一生を音楽で描いた伊福部昭。敗戦後とは異なるにせよ、渾沌として迷う人々の多い現代にこそ求めたい曲といえるだろう。
木部与巴仁(詩人/「トロッタの会」同人)

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