田中修一氏の『ムーヴメント6 海猫』について、書く。この曲が、6曲目となる「ムーヴメント」シリーズの最新作だと思うと、どうしても過去を振り返っておく必要にかられる。昨年来、田中氏の作品を整理したり、「ムーヴメント」全曲を収めたDVDを創るなどしたことも、その全体性を考えようとする態度につながっているのだろう。「ムーヴメント」の歩みを、田中氏の作品一覧から抜粋する(酒井健吉氏の表と同じく、クリックすると拡大される)。
誰にとっても同じだが、作曲をする風景、場所というものがある。
私は「ギターの友」の連載原稿のため、田中修一氏の家を訪れた。
書斎に通された。
彼は引っ越しをしたから、二か所を訪ねたのだが、どちらの部屋も似ていた。
大きな窓に面して机がある。
見晴らしがよく、実に整然と片づけられている。
余分なものがひとつもない。
散らかっていて余分なものだらけの私の部屋とはまるで異なる。
うらやましいと思ったが、私が田中氏の部屋に住めば、たちまち散らかってしまうだろうから同じだ。
その感銘を書いた詩が、『樂園』である。
ここに描写した、ある男の部屋の風景は、そのまま田中氏の書斎だ。
「詩の通信V」第10号に掲載した。
田中氏はその詩を使って、『MOVEMENT ムーヴメントNo.5-木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る』を書いた。
田中氏の手法によって、南海の島を描いた詩と音楽になったが、もとの詩は、横浜にある彼の書斎を描写している。
このような極端な違いを、私はおもしろいと思っている。
詩はもはや詩人のものではない。
作曲家によって彼自身のもの、聴く人のものになる。
解釈の違いというより、作曲家が自由になるための、詩は力なのだと思う。
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