酒井健吉氏の表現ジャンルに、“室内楽劇”がある。酒井氏によると、それは「物語性が強い内容を持ち、詩唱とともに歌唱が非常に重要な作品」である。
2008年8月22日(金)に『海の幸 青木繁に捧ぐ』を長崎で初演した折り、私が書いた文章があるので掲載する。トロッタ15の『美粒子』は室内楽劇ではないようだが、酒井氏の作曲態度を知る手がかりにはなるだろう。(8月22日に配布した文章のうち、作曲一覧に手を加えて最新版とした。8月22日以降の作品も掲載してある)
室内楽劇の歩み 詩作者の視点
木部与巴仁
八篇で構成される詩『海の幸 青木繁に捧ぐ』を完成させたのは、ほぼ一年前である。2007年8月17日(金)に第一篇「放浪 *『大穴牟知命』に寄せて」を、8月24日(金)に最終篇「終 *『女の顔』」を書いた。一日一篇の進行であった。『海の幸』が“室内楽劇”として初演されるのは、詩の完成からほぼ一年を経てのこととなる。
“室内楽劇”。作曲の酒井健吉氏が命名した、音楽の様式である。『海の幸』初演のチラシに、酒井氏の言葉がある。
室内楽劇について 。
「名前だけ見るとただの室内オペラではないかと思われるだろう。しかし通常のオペラと決定的に違う点がある。それは全編に朗読が入っていて非常に重要な役割を担っていることである。(中略)私や詩を書いた木部さんは朗読も音楽の一部、朗読者は楽器と考える。この歌手と朗読、器楽アンサンブルのスタイルは私にとって物語性のあるものを表現するのにとても自然体に作曲ができるものになった」
酒井氏が初めて“室内楽劇”という言葉を用いたのは、2007年7月22日(日)、名古屋市音楽プラザで行なわれた名フィル・サロンコンサート「詩と音楽2007」において、『天の川』を初演した時である。現在に至るまでの、私と酒井氏の共同作業を見よう。大幅な改訂を施さない再演は省略した。
朗読を伴う作品は10曲、歌を伴う作品は5曲になる。
東京を舞台に、作曲家や演奏家と、「トロッタの会」を共同で運営している。“詩と音楽を歌い、奏でる”と銘打つもので、酒井氏の他、これまでに橘川琢、清道洋一、田中修一、松木敏晃、宮﨑文香、Fabrizio FESTAの各作曲家が参加した。そのどなたもが、朗読か歌を伴う曲を創っている。2007年2月25日(日)、第一回演奏会のチラシに記しておいた。
「詩は、歌うものでしょうか? 奏でるものでしょうか? 答えは出ませんが、ただ読むだけのものにはしたくありません。少なくとも黙読には終わらせたくない。声に出して詠むうち、詠み手だけのリズムが生まれ、原初のリズムが生じる。そして楽器とともに詠み、あるいは他の声と重ねることで、ハーモニーもまた生まれる。それは音楽と呼べないのでしょうか、と問いたいのです」
この答えは出ていない。しかし、問う前から出ているともいえる。音楽と呼べるのだ。酒井氏との実践、「トロッタの会」を通じた作曲家たちとの実践が、すでに答えである。演奏会を開いているのだから。その過程で、酒井氏は“室内楽劇”という言葉を発想し、他にも橘川琢氏は“詩歌曲”という言葉を用い、自身の様式とした。さらにいえば、そうした言葉を用いないことが、ある作曲家にとっては答え。様式化するまでもない、ということになる。
厳密にいえば、トロッタの問いに答えは出ているものの、言葉による裏づけ、こうだから詩は音楽になるという他者への説得性は、いまだ持ちえていないと感じる。しかし、それは必要だろうか。私や作曲家、演奏家が考えるものだろうか。時間が回答するに違いない。また、裏づけに時間を費やすくらいなら、私は一つでも多くの曲で詠み、詠(うた)いたい。酒井氏との新たな共同作品として、9月には『水にかえる女』の、演奏を弦楽四重奏にした改訂版。11月には朗読を伴う新曲『庭鳥、飛んだ』。2009年1月には『祈り 鳥になったら』のオーケストラによる改訂版を演奏する。さらに『海の幸』は、2009年の夏、東京での演奏を予定している。
この原稿を書いている間、酒井健吉氏は“室内楽劇”の作曲を行なっている。私もまた、いつかは音楽になるための詩を構想し、書いている。そのための紙上の舞台、「詩の通信III」の、今日は発行日である。これから先、どんな“室内楽劇”が生まれるか。私も知らない私自身の心に、まだ見たことのない形がある。
2008.8.18(月)
0 件のコメント:
コメントを投稿