(2月3日Fri.)
田中修一氏の実質的な処女作、『漂泊者の歌』を聴く。1991年11月25日、ルーテル市ヶ谷での初演。メゾソプラノ嶋田美佐子、ピアノ加藤悦子。
プログラムに掲載された作曲者の言葉を抜粋する。
「私が、この詩に初めて接したのは十四才の時でした。丁度その頃ニイチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を愛読していた私はこの詩に深い共感を覚えました。その時以来何度か旋律化を考えたのですが、思うようにならず歳月が過ぎてしまいました」
脱稿は1987年。1996年生まれの作曲家として、21歳での作曲、25歳での初演ということになる。
曲は、このように歌い始められる。
「日は断崖の上に登り/憂ひは陸橋の下を低く歩めり。/無限に遠き空の彼方/続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に/一つの寂しき影は漂ふ。」
歌に添うように、時に歌を離れて独自に動き出すピアノが印象的。歌のつとめ、ピアノのつとめということを、よく意識した作曲だ。ピアノは“漂泊者”ではない。漂泊者の影である。影として、漂泊者と共に歩むかと思えば、そばを離れて勝手に遊ぶような動きもする。少年時より約10年、作曲家の心にあり、それがある時、歌の形になる。ピアノを影と解することが、作曲者の意にかなうかどうか疑問だが、仮にそうだとして、そうすれば歌になると、若い作曲家が発見するまでの過程に興味を覚えた。
できるなら、違う歌い方でも聴いてみたい。歌う、のではなく、語るように歌う。作曲者の意図はそこにあるはずだが、歌唱者には至難。歌うと、語るは、まったく別の発声を要するから。作家の処女作に、原点を見る。原点に、すべてがある。田中氏は作曲家としての人生を、歌うように語る曲の創作に向けるだろうと想像させる。萩原朔太郎から始まったことが、彼の作曲家人生を決定づけているように思う。
(付記)録音したカセットテープは田中修一氏に送ってもらったが、彼の手元にはテープの再生機がなく、私の手元にもない。ある所で再生機を借用したところ、テープがからまってしまい、引き出すのに苦労した。録音をしたT氏をわずらわせ、テープの修復と、CD-Rへのダビングをお願いした。時間をさかのぼるのは、容易なことではない。
この文章は、何やら20年前に『漂泊者の歌』初演に立ち会って、その印象を記しているような、不思議な感慨を覚えながら書いた。録音を聴いただけだが、初めて聴いたことには違いがない。
歌うことと、歌うように語ることの困難さについて、記している。初演者の苦労を想像しながら書いた。田中氏からは、そのような指示が与えられていたに違いないのだ。しかし、難しい。習ってきたことと、基本的に違う。歌い手は語りについて学んでいない。逆もしかり。それを語るように歌うなど、どうすればいいというのだ。
田中修一氏がトロッタに出品して来たMOVEMENTシリーズ全6曲を通して聴く。MOVEMENT1には、2台ピアノ版と、電子オルガン+ピアノ+打楽器版がある。6曲の中には、ソプラノのみの曲と、私の詩唱が入る曲がある。歌と語りは、分けるしかないのか。
田中氏の『遺傳』では、私が歌い、語った。歌と語りの声の質が、いや、声質は同じだから発声の質か、それが違うように思う。自分で、声の出し方が違うと思う。それを一緒にできないのか。さらに、語るように、歌えないのか。歌えないなら、歌い方を見つければいいのか。これまで無反省に詩唱をしてきたという、反省。
雑誌「ギターの友」が、もうすぐできるだろう。そこに、目下の、萩原朔太郎への考えを書いている。論考ではない。私にはまだ、論考はできない。ただの報告だ。田中修一氏と萩原朔太郎について。また、世田谷文学館の朔太郎展で行われたマンドリン&ギター・コンサートの。しかし、そこから始まる。朔太郎を研究するなら、それは、詩と音楽への、新たなアプローチになるだろうか。
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