“美粒子”という言葉は美しいが、木村恵多、小松史明の両氏と相談しながら考えたのである。少なくとも、私がすべて考えたわけではない。他の個性と出会い、この言葉に行き着いたことをありがたく思う。
トロッタの会を始めたころから、酒井健吉氏は『美粒子』を曲にする希望を述べてくれていた。トロッタ15での初演は、詩ができて7年目ということになる。その歳月を思っているうち、当時の私が何を考えていたか、振り返った(ほとんど振り返るということをしないが、意義は認めている。トロッタについては、それをしなければと痛感している)。思い至ったのが、アリステア・マクラウドの長編小説『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を書評したこと。2005年の3月、「サンデー毎日」の書評欄に掲載された。
マクラウドはカナダ人作家で、スコットランドからの移民の子孫。マクラウドは非常に寡作な人で、2005年の時点で、日本では短編集二冊、長編が一冊あるだけだった。今でも事情は変わっていないと思う。書評には、当時の私が、“詩と音楽”に対してどんな考えを持っていたか表われている。1997年の『音楽家の誕生』以来、伊福部昭先生と更科源蔵氏を通じて考えてきたことである。マクラウドの作品には、“詩と音楽”の切実な関係が記されている。芸術のためというより、生活のためにある“詩と音楽”である。生活の心配がない人がする音楽ではない。生活の心配がある人が、生きるために必要だとしてする音楽である。
それのみがいいわけではなく、生活の心配がない人もそれなりに、切実さを持って音楽をしていることだろう。それぞれの立場で切実であればよい。私にも私なりの理由があって『音楽家の誕生』を書き、書評に書いたようなことを思い、2006年に「ボッサ 声と音の会」を、2007年に「トロッタの会」を始めた。すべてが延長線上にあって、今は萩原朔太郎の“詩と音楽”について、考えている。
アリステア・マクラウド
中野恵津子/訳
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』
(新潮クレスト・ブックス)
「マクドナルドの一族は常とした、
苦難には豪胆に立ち向かい、
厳しく敵を追いつめ敗走させ、
逆境で信義に厚く勇猛果敢であることを」
物語が終わりに近づくころ、読者は一編の詩に出会う。歌われているのは、『彼方なる歌に耳を澄ませよ』の主人公、スコットランドからカナダに渡ったマクドナルド一族の姿である。
先祖代々が暮らしたスコットランドのハイランド地方を離れ、新世界が待っているという希望を抱いて、一族はカナダ東部のケープ・ブレトン島に移り住む。移住を指揮した族長キャラム・ルーアの身体的特徴ゆえに、“赤毛のキャラムの子供たち”と呼ばれた彼らは、高地人ハイランダーの誇りを持ち、移住に伴う苦難を心に刻み、さらにはゲール語で語り、歌い、思考することを忘れず、未知の土地で生き続けた。物語は、二〇世紀が幕を下ろそうとしていた時期の視点で書かれているが、一族がカナダに移り住んだのは一七七九年であり、作者は六代の歴史に筆を及ばせているから、およそ二百年という歳月を、『彼方なる歌に耳を澄ませよ』は背景にしていることになる。
長い、実に長い一族の歩み。それを書こうとした、作者アリステア・マクラウドの態度も息が長い。この長編には十三年をかけ、日本では二分冊して刊行された短編集は、三十一年間に書かれた十六編を収めている。目先のことにとらわれ、汲々とした日々を送っている人間には、とてものこと、そんな辛抱強さはない。しかし、物語に登場する“赤毛のキャラムの子供たち”は、ほとんどの移民がそうであろうが、耐え、闘い、待ち、そして闘うことでしか生き延びてゆけなかった。作者マクラウドもまた、耐え、書き、待ち、そして書くという態度を貫いて、この長編を完成させたのである。
「音楽は貧乏人の潤滑油だ。世界中どこでも、いろんな言葉で」
印象的な言葉があった。冒頭にマクドナルド一族の歌を引いたが、軽くなく、明るくもないこの物語を読み進める上で、私たち読者を導いてくれるのは、各所に現れる歌であり、詩だ。金や名誉や地位ではない、歌こそが、どんなに苦しくても人間を生かしてくれるという確信を、ページを繰りながら、読者は持つだろう。あえて言うなら、金や名誉や地位を失った人が最後にすがるものこそ歌なのだという、これも確信。
「わたしははるか彼方を見つめる。
時の流れのはるか彼方を見つめる。
わたしが見つめるのは、
海のはるか彼方の、
愛するケープ・ブレトン」
物語中、哀歌、エレジーとして歌われる歌だ。移住から二百年がたった現代、“赤毛のキャラムの子供たち”も日常会話の多くは英語で行うのかもしれないが、一族に伝わるこのような歌には、ゲール語を用いる。一人でも歌い、大勢でも歌う。その場の人々だけで歌詞がおぼつかなくなると、夜遅くても詩を記憶している人を呼び出して歌い切る。歌うということは心を豊かにする遊びなのだが、祖先の魂と結びあう行為でもある。だからこそ、現世の金や名誉や地位を失っても、人は歌にすがれる。拠りどころにできると思うのだ。
生きる上で、これこそが自分の歌だといえるものを、私たちは持っているのか? 本を閉じた後、我が身を省みずにはいられなかった。 *「サンデー毎日」2005年3月27日
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