2009年11月18日水曜日

「トロッタ通信 10-10」

「詩唱ということ」


■ 詩唱と朗読


毎月第三水曜日、西荻窪にありますライヴハウス、奇聞屋で朗読をしています。誰もが参加していい舞台です。この形式をオープンマイクといいますが、都内のあちこちに、またいろいろな機会に、オープンマイクの朗読会があります。私にとって、奇聞屋は大切な場所です。大袈裟にいえば、舞台でどう振る舞うかを、奇聞屋で確認しています。上手な朗読を聴かせようとはまったく思っていません。もとより上手ではないのです。そこで生きようと思っています。初めは客席にいて、舞台に出て、朗読をして、また客席に帰る。人生の中の、この短い時間を、やはり人生として、生きられればいいと思っています。生きて帰って来られればいいと思います。トロッタも同じです。


ばかばかしい話です。写真うつりが悪いと嘆きはしますが、その悪い顔と姿を、他人は皆さん、見ているわけです。今更嘆くことはないと思います。もちろん、どう見られるかを意識するのは大切な話です。美しい振る舞いは心がけなければいけないでしょうが、それよりも、舞台でも日常でも、正直に生きることの方が、私には大事です。上手にできなければできないでいいと思っています。


ところで、私は自分の表現を詩唱といっています。一般には朗読といいますし、トロッタなどでも初めは朗読といっていましたが、ある時、音楽評論の西耕一さんが詩唱という表現をされたので、それを使わせていただいています。

私は、朗読ではなく、歌いたいと思っています。「うたう」という言葉には、歌う、唄う、詠う、謳う、謡うという具合に、いろいろな表記があります。どれも「うたう」で、そうである以上、根本の意味は同じだと思います。基本は、節をつけて発声することでしょう。朗読だと節はいりません。通常、これから詩を読みます、という場合は朗読でしょう。詩唱の場合は、私は基本的に、楽器と一緒に行うことを意識し、全体として音楽だと受け止めていただきたい。私を一人だけ取り出せば、朗読と変わらないかもしれませんが、どんな交響曲でもヴァイオリンだけ取り出しては考えないので、詩唱の舞台でも、総合的な表現として受け取っていただければと思います。また私も、そのように心がけています。


朗読に節はいらないと書きましたが、その人だけの節はあります。もしかすると、節が目立たないように教える朗読の先生がいるかもしれませんが、私は節を意識しています。節を際立たせようというのではなく、それだと悪く目立ってしまいますから逆効果で、詩が生きる節を探っているということです。

また、リズムもあります。句読点をどこで打つかは、大きな問題です。小説を朗読する時も、印刷された句読点のとおりに読むことはありません。句読点は声に出さないのですから、好きなところで切って、止まって、いいわけです。といっていますが、作者の呼吸を無視したいわけではありません。作者に忠実でありたいと、私は常に思っています。


詩を意識して書き始めたころ、ラップ詩という言葉を使っていました。自分に言い聞かせるために使ったことで、今は、いいません。いわなくてもそうなのですから。ラップという、もともとの意味からは離れています。私は繰り返しを多用したり、韻を踏んだりしません。喋るように歌うという、その点を意識したのです。また、言葉と音楽の関係も考えていました。初めから歌として完成されていると、あとはもう歌うか聴くかしかありませんが、ラップには、完成されていない自由さと可能性を感じたのです。喋ることが音楽になる。新鮮でした。もちろん、ラップをしようとする彼らは、完成度を探っていると思います。その努力はたいへんなものだと思います。私は私の完成度、可能性を探りたいと思い、ラップという言葉は使わなくていいと思ったのです。


歌うな、語れという、小山内薫の言葉を覚えています。実は、その前後は知りません。リアリズムを追究した言葉だと受け取っていますが、違うでしょうか。朗読だと、歌うな、語れという言葉が当てはまりそうです。詩唱は歌えと、私は思っています。歌って、語れ、でしょうか。


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