2009年11月12日木曜日

「トロッタ通信 10-4」

酒井健吉さんとの共同作業は、私にとって、まさに“詩と音楽を歌い、奏でる”ことでした。東京、名古屋、長崎と、演奏する場所もさまざまでした。

『トロッタで見た夢』を音楽にしたころ、私がまず考えていたのは、意味を伝えることではなかったかと思います。正確に発音する、正確に言葉を届かせる、正確に聴いていただく。それは大前提として、最近は、ちょっと考えることが違ってきています。大切なのは、意味だけではないと思う私がいます。酒井さんと一緒に音楽を創り、他の方々とも音楽を創っていくうち、意味が伝わらなくてもいいと思うようになってきました。意味を、聴く方々にまかせようとしています。私はただ、音を出すだけでいいのではないか、と。楽器が出す音に、意味はありません。


ただ、ここに書いていることは思考の過程であり、結論ではないと、お断りしておきます。言葉に意味があることは、当たり前だからです。

甲田潤さんと創った合唱曲『くるみ割り人形』の詩には、意味が多かったと思います。意味だけで成立している詩だといってもいいようです。しかし、そのような行き方も、当然、あるでしょう。


作曲家・藤枝守氏の『響きの生態系 ディープ・リスニングのために』(フィルムアート社)に、こんな一節があります。詩人ジェローム・ローゼンバーグは、ネイティブ・アメリカンのナバホ族に伝わる「夜の歌」をもとに音響詩を創りました。


「なぜ、このナバホのテキストにこだわったのか。それは、その言葉ひとつひとつに具体的な意味がないからである。意味がない言葉。それは、このローゼンバーグの音響詩を紹介した金関寿夫によると、『魔法のコトバ』ともいわれ、呪術的でマジカルな力をもっていると古来から考えられてきた。ところが、言葉に意味や概念を与えることによって、言葉は、解釈や理解のための道具となり、かつての言葉がもっていた霊的な作用や呪術的なパワーが失われてしまったという」


意味が伝わらなくていいかどうかはともかく、言葉そのものの力を、私は発したいと思っているようです。金関寿夫さんの指摘が正しいなら、言葉の意味と、言葉本来のパワーは相容れないものです。意味を伝えながらパワーを発するという考えは、矛盾しています。力のない正確さ、力がある不正確さ。どちらを取るかといわれれば、私は迷わずに後者です。


これは実現せずに終わった企画でしたが、藤枝氏の曲とともに、私が言葉を発していこうとしたことがありました。楽器はヴァイオリンとピアノ。声は、私と、ある女性詩人でした。実現していたら、どうなったでしょう。藤枝氏との作業が続いたでしょうか。トロッタはなかったかもしれません。これが実現しなかったので、私はトロッタの会を始めたのかもしれません。


思い出しましたが、藤枝氏が行ったワークショップで、詩を詠んだこともありました。暗闇でした。二階にいる人々に向かって、一階から詠み始め、螺旋階段を上りながら詠み続けました。小さな声で詠めばよかったと思います。声を張って詠みました。聴こえなくてもよかったと思います。言葉を、意味を、届かせようとしていたのです。聴こえるか聴こえないかという分水嶺に立てばよかったのに。当時の私は、そこに思いが至りませんでした。“詩と音楽を歌い、奏でる”境地に立っていませんでした。ナバホ族の足下に至っていませんでした。


ただ、難しさはあります。酒井健吉さんの『庭鳥、飛んだ』がそうでした。小編成のオーケストラと共に詠んだのでしたが、この時の楽器編成が、これまでで最大のものでした。音の圧力が、後ろから迫ってきます。対抗するのではなく、融け合おうとするのですが、こちらはメロディに乗っていきませんので、融合はなかなか困難です。音に負けまい、あるいは音の間隙を縫ってという、何だか対抗意識の方が先に立ってしまいます。詩唱者が自在になるためには、大きな楽器編成は、逆効果かもしれません。挑戦したい気持ちはもちろんあります。バランスを、作曲者と見極めることが大事です。


もう一度、藤枝守氏の『響きの生態系』を引用しましょう。

私は、小冊子ではありますが、『藤枝守・音の光景』という一冊を著しています。それを書くことは、伊福部昭氏の『音楽家の誕生』以下三冊の本には、分量として比較すべくもありませんが、大切な体験でありました。私の立場からのアプローチなので、藤枝氏の人生を追おうとか、そういうことではありませんが、誰かについて総合的に考えようとしたことは事実です。


「意味のない言葉が並ぶ『夜の歌』による音響詩。『魔法のコトバ』ともいえるテキストを何度も繰り返しながら声に出して読んでみると、ローゼンバーグが言うように、言葉は意味から解放され、言葉自体がもつ『音、呼吸、儀礼などの力』を、僅かではあるが感じることができる。そして、ネイティブ・アメリカンの身体に刷り込まれた感性や記憶に、ほんの少しだけふれたような気がしてくる」


藤枝さんの言葉を、長く引いてしまいました。私自身の言葉で語らなければと思います。しかし、彼の言葉を通ってきたことは事実なので、あえて引かせていただきました。私がトロッタの会で発したいのは、力のある言葉です。そこに意味を持たせるかどうか。伊福部昭氏と更科源蔵氏の、作曲家と詩人としての関係はどのようであったろうと思いながら、ひとまず、その議論は後回しにします。

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