2009年11月21日土曜日

「トロッタ通信 10-13」

トロッタ10に、花いけの上野雄次さんは出演しません。毎回のご出演には無理があるので、今回はお休みです。『花の記憶』も、初めは、上野さんの出演はありませんでした。途中でお話しをして、出ていただくことになったのです。今回は逆です。上野さんが出演していい曲ですが、花いけは、ない。詩唱を含め、音だけで作らなければなりません。

上野雄次さんが常に問題にしている一つに、聴覚と視覚の問題があります。音楽というなら、本来は音だけで表現されるものですが、そこに資格の要素が加わった場合、添え物になってしまうのではないか。あるいは聴覚的感興をゆがめる、余分な要素となってしまうのではないか。


『死の花』の第三連。


花は血

飛沫となって地面に散る

私はそれを

すくいあげて活ける

手を血に染め

命で濡らしながら

終わりも知らず活けている


これはまったく、上野雄次さんが花を生けている姿です。

『花の記憶』を書いている最中は意識しなかったのですが、この詩は上野雄次の物語だと思いました。舞台に立つ時、私は上野さんになりきって詩唱しよう、彼になりきって言葉で花を生けようと思います。もちろん、上野さんと私は違いますから、なりきるということはナンセンスです。心構え、ということでしょうか。

ですから、上野さんが『死の花』に登場する必然性は、じゅうぶんにありました。しかし、トロッタ10ではお出になりません。いずれ、再演の時にと思っています。


上野さんは、視覚と聴覚の問題について、もう少し違ったことをいっているのかもしれません。私の受け取り方それ自体がゆがんでいるかもしれませんので、その点は追究しないことにします。

私の態度は、橘川さんの言葉にあったように、「ひとつの芸術の分野だけで時間を作るのではなくていろんな芸術の分野が同時進行的にある面白い場というか空間を作り上げているという感覚」を、大切にしたいということです。ただ、何があってもいいわけではなく、舞踊や演劇の要素は、どう共同作業していっていいかわかりませんので、今すぐの共同作業は、考えられません。そういいながら、私の詩唱に演劇性を感じるお客様が多いのは、私の意識していないことで、芝居をかつてしていましたから、出自はぬぐえないものだと実感しています。いずれにせよ、上野さんと一緒に舞台を創りたいというのは、私なりの直感に支えられた願いなのです。


橘川さんと初めて話をした時。新宿のデパートにある喫茶店でした。その場で、資料として持参した記録DVDをコンピュータで再生し、観ていただきました。曲は、名古屋で演奏しました、酒井健吉さんの『天の川』でした。彼はすぐ、これはおもしろい、こういうことをしたかったんですと、言下に断言しました。橘川さんの希望に沿った舞台が、成功不成功はあれ、これまでずっと創られてきたと思います。橘川さんと一緒にできて、詩と音楽の関係は、極めて密接になりました。「詩歌曲」と、橘川さんは、ご自身の詩と音楽による表現を呼んでおられます。酒井健吉さんは、「室内楽劇」と呼んでおられます。私は「詩唱」と呼びます。


死にに行く者が見るという

彼岸の花

さっきも見てきた

駅前で

泥になってベンチで眠る

男たちの周りに花が咲いていた

ここはもう彼岸かもしれない

『死の花』の第一連です。

阿佐ケ谷駅前の風景を描き、花につなげました。私の詩は常に、どこにでもある、日常の風景から始めたいと思っています。

トロッタ10の二日後、12月7日(月)には、橘川さんは、やはり私の詩による詩歌曲『冬の鳥』を初演します。彼が所属する、日本音楽舞踊会議の作曲部会公演です。どのような曲になるか、楽しみです。


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