(其の十九)
橘川琢が第十三回で初演する『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》のための詩を書こうとしている。それは、橘川との共同作業では初めての、曲が先にあり、詩を後から書く手法による。たった今、楽譜を広げている。この曲にはソプラノのパートがあるが、歌はヴォカリーズである。詩は、歌のためにあるのではなく、詩唱パートのためにある。
先に、田中修一が女声合唱組曲を作曲しようとしていることを書いた。その依頼メールに、こんなことが書かれてあった。
曲は、中国唐代の塡詞、詩余の手法で作りたい。先に曲を作り、後から音楽に合せて歌詞をつける。旋律はすでに完成しているから、いずれ楽譜を送りたい、と。果たして、全四曲のうち、二曲の詩を、塡詞、詩余の手法で書いた。
そしてはからずも、橘川との作業も、曲が先行し、詩が後から作られることになった。こちらは、厳密には塡詞、詩余といえないだろう。私にとってのみ、曲が先にある点で共通する。
次のように思うのは、私の力不足ゆえだが、実はその手法は、あまり採りたいと思ってこなかった。甲田潤との作業で、『くるみ割り人形』を合唱曲とした。続いて『シェヘラザード』も合唱曲にした。当然だが、先に曲がある。言葉を、メロディとリズムにあてはめることになる。替え歌と同じ方法である。誰でもできる、と思った。事実、替え歌は誰もがすることだ。非常な制限も感じた。メロディに導かれて言葉が生まれる。よりどころがあるわけで、それ自体は助けになることだが、逆に自由が束縛される思いがしたのである(作曲家が詩を再構成することは可能だが、詩人は、曲を再構成できない。できなくはないだろうが、そうすると、一続きになっている曲が壊れる。詩も壊れるはずだが、私は拘泥しない。詩の生命を考えれば拘泥すべきだろうが。詩の生命の方が軽いのか?)
だが、田中修一から曲を先にしてと依頼され、橘川とも同じ順番で詩を書くとなれば、替え歌などといっていられない。果たして、田中修一のために書いた詩は、替え歌と思わなかった。橘川との作業は、メロディがないので、さらに自由に書けると思っている。書かなくてもいい自由さえある。詩唱のための音はないのだから。
(其の二十)
作品を完成する過程で、橘川と私の間に考え方の違いがあった。
私は、彼との共同作品として、演奏者の手に渡る前に詩を書き、それで完成作とするつもりであった。しかし橘川は、曲は自分の手元で完成させて、詩はそれから書かれるものと考えていた。
行き違いといえばそれまでだが、その差は大きい。どんな曲も演奏されて初めて人の耳に届くが、完成ということでいえば、その前の段階をさす。演奏された時に完成するといえないこともないが、通常、それは表現されたと考えるものだ。
ただ、音楽の場合は演奏されて完成する、芝居なら戯曲は上演されて完成するという考えに、私は非常な魅力を感じる。
橘川は、演奏する前、練習前に完成させるのは自分だと考えていた。
私も、とりあえずは練習前に完成させたいと思い、そこに彼との共同作業があると認識していた。
しかし、そうではなく、楽譜が演奏家の手に渡るタイミングと、私の手に渡るタイミングは同じになった。
演奏家には演奏する手がかりがあるが、私にはない。私はこれから詩を書く。橘川は、詩が上野雄次による花いけと同じと考えていたようだ。確かに、そういう考えもあるだろう。ただそれならば、私の詩は、一か月後の本番にできて、詩唱されればよい。
いつまでも齟齬について書いていても仕方がない。私の手元には、何の言葉も書かれていない楽譜がある。
手がかり、その一。曲の標題。全体は《首都彷徨 硝子の祈り》であり、曲ごとに「東京地下創世記」「摩天楼彷徨」「硝子の祈り」となる。始めの二曲は東京の風景だろうが、終わりの「硝子」は何だろう? かつて場をともにした、ガラスの造形作家、扇田克也を思い出す。
手がかり、その二。私の考えだが、意味のない声音は、ソプラノが発する。となると詩唱者は、意味のある言葉を口にするか。やはり意味のない声を口にするか。男女の二重唱とも考えられる。やはり橘川との共同作品『冬の鳥』が想像された。感情を女声に、理性を男声に受け持たせる?
手がかり、その三。「地下創世記」と「硝子」は、震災の後で書いたという。鎮魂の思いもこめているという。それは大きな手がかりだが、鎮魂の音楽に鎮魂の詩では、直接的過ぎる。鎮魂は大切だが、震災を受けた詩は、田中修一の合唱曲と、トロッタのアンコール曲『たびだち・北の町』に書いた。いつまでも同じ気持ちではいけないとも思う。雲や風を詠む方が、鎮魂になると思う。
手がかりには、四も五も、その先もあるだろう。楽譜を製本して、持ち歩くことにしよう。ちらし配りの途上に携帯する。
2011年4月30日土曜日
2011年4月29日金曜日
トロッタ13通信(14/4月29日分の2)
(其の十七)
2.トロッタ13 プログラムより
(本番一か月前である。段々と、現在形の話題になって来よう。曲の締切から半月は、これまでのことに重点を置き、一か月前からは、第十三回で演奏する曲に重点を移す予定にしていた。トロッタの根本については、変わらずに考えてゆく)
今井重幸のもとに、譜面を受け取りに行った。『ロルカのカンシオネス』の四曲目、『ラ・タララ』の編曲ができたのである。これで、ロルカの曲はすべて揃った。出演者の都合さえつけば、いつでも練習ができる。
もともとが民謡だから、テンポは自由だし、解釈も自由だし、歌いたいように歌えばよい、といわれた。『アンダ・ハレオ』は、フラメンコ好きが集まる小劇場風の居酒屋、タブラオで最もよく取り上げられる曲の一つで、自由さと奔放さ、それにかけ声が特徴。『トランプの王様』は、ロココやバロックを思わせる、古い感覚で歌ってほしい、エレガントに、との要請である。これは予想外だった。『18世紀のセビジャーナス』は、スペインを代表するセビージャの春祭、そこで踊られる舞踊“セビジャーナス”を歌う。あえて18世紀のといっているので、やはり古風に歌ってほしいとのこと。やはり、予想外だ。『ラ・タララ』は、『アンダ・ハレオ』と同様、素朴なアンダルシアの歌。これは速くてもよい。三番まであるが、それぞれ速さを変えてもよい。
ロルカが採譜して楽譜として残っている古謡は全13曲。今井重幸が心がけたのは、今回は4曲であり、13曲を通しても曲ごとの個性が出るよう編曲したとのことである。『トランプの王様』では、ギタリストは持ち替えでトライアングルか鈴を使う。『ラ・タララ』でも、ギタリストは持ち替えでタンバリンを使う。歌い方も、その工夫に応えて違わなければいけない。
予想外と書いたとおり、これまでレッスンを通じて作ってきた歌い方を、変える必要がある。特に、古風に、エレガントにという考えはなかったので、どうするか。今井によれば、現代のフラメンコは速い。しかし一時代前のフラメンコは悠然としたものである。それにふさわしい歌い方が、特に18世紀のと時代を限っている場合には求められる。むしろ望むところといえるが、すぐにできるかどうか。しかしレッスンは無駄ではない。何とかレッスンは土台と考えて、取り組みたい。(こうなってくると理論ではないので、歌いこむことが必要となる)
(其の十八)
*『ロルカのカンシオネス』より(1番)
「アンダ、ハレオ」
Yo me alivié a un pino verde
俺は緑の松の木に登った、
por ver si la divisaba.
あの娘が遠くに見えはしないかと。
y solo divisé el polvo
でも、見えたのは、ただ砂煙だけ、
del coche que la llevaba.
あの娘を連れていく車の。
Anda jaleo,jaleo;
もう、こうなったら、やけっぱち。
ya se acabó el alboroto
お祭り騒ぎはお仕舞いだ。
y vamos al tiroteo.
今度は銃で撃ち合いだ。
素朴な詩である。古謡には、そのあまりの素朴さゆえに、かえって超現実的な印象を与える詩がある。(日本語詩は、現代ギター社版『ガルシーア・ロルカのスペインの歌(歌とギターのための)』所収の、田尻陽一「歌詞対訳」を引用させていただいている。詞は、牧羊社版『フェデリコ・ガルシーア・ロルカ』全三巻も参照した)
「トランプの王様」
Si tu madre quiere un rey,
もしも、お前の母さんが、王様、ほしけりゃ、
la baraja tiene cuatro:
トランプには四人もいるよ。
rey de oros,rey de copas,
金貨の王様、聖杯の王様、
rey de espadas,rey de bastos.
剣の王様、棍棒の王様。
Corre que te pillo,
逃げろよ、ひっとらえるぞ。
corre que te agarro,
逃げろよ、ひっつかまえるぞ。
mira que te lleno
ほら、お前の顔を
la cara de barro.
泥んこにしてやるよ。
De olive me retiro,
オリーブの樹からオリルとしよう。
del esparto yo me aparto,
イグサからもうイクサ。
del sarmiento me arrepiento
残念無念のブドウのツルは
de haberte querido tando.
3年6年、お前にどうやらツルミすぎ。
特に二連に明らかだが、スペイン語の音を楽しんで作られた歌だ。素朴さもそうだが、このような詩は、私が書くと、かえってわざとらしくなる。詩は人生が生むものだから、わざとらしい素朴さとか、わざとらしい華美は、最も避けなければならない。
「18世紀のセビジャーナス」より(1番)
¡Viva Sevilla!
セビージャ、万歳!
Llevan las sevillanas
セビージャの女たちは
en la mantilla
マンティージャに
un letrero que dice:
こう縫い取りをする、
¡Viva Sevilla!
セビージャ、万歳!
¡Viva Triana!
トゥリアーナ、万歳!
¡Vivan los trianeros,
トゥリアーナの人、万歳!
los de Triana!
トゥリアーナに住む人、万歳!
¡Vivan los sevillanos
セビージャの男も
y sevillanas!
女も万歳!
ひと月前、田中修一からメールが届いた。すでにある私の詩をもとに、女声合唱組曲を作りたい。ついては、三篇の詩を書いてもらえないか、と。それらは、東日本大震災の後で、初めて書いた詩になった。これらの古謡の歌詞に見るような、素朴な詩ではない。といって難しい詩を書いたつもりもない。ありのままの気持ちを書いた。
「ラ・タララ」より(1番)
La Tarara,sí;
ラ・タララ、シ、
La Tarara,no;
ラ・タララ、ノ。
La Tarara,niña,
ラ・タララ、ニーニャ、
que la he visto yo.
he僕は見たよ。
Lleva mi Tarara
僕のタララは
un vestido verde
緑の服に
lleno de volantes
フリルと鈴を
y de cascabeles.
いっぱい付けてる。
La Tarara,sí;
ラ・タララ、シ、
la Tarara,no;
ラ・タララ、ノ。
la Tarara,niña,
ラ・タララ、ニーニャ、
que la he visto yo.
僕は見たよ。
これは皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、仮にロルカの古謡に使われたような詩を“素朴”だとして、その反対の生活実感を抱くような毎日を過ごしている者は、“素朴”ではない詩を書くのが正直な態度だろう。
夜になって、吉祥寺、西荻窪方面に、チラシを置かせてもらいに行く。明日はできれば、谷中、千駄木方面に行きたい。
チラシ配りもトロッタの活動の大切なことには違いない。ただ、詩を書くこととは違うし、歌うこととも違う。練習にあてるべき時間にチラシを配っている。一度にはできない。効率よく、必要な数の人にだけチケットを買ってもらえばいいのかもしれない。しかし、私自身、馴染みのない店でふと手にしたチラシにひかれ、その公演に足を運ぶことがあるので、チラシを配ることは必要だと思っている。だが、実際問題として、ひとつのことをしていると、するべき他のことができない。最近、その傾向が強まりつつある。(基本的には、歌うこと、詩を書くこと、チラシを配ること、演奏会の製作、それにこうした原稿を書くこと、全部別だと思う。別にしなければ、じゅうぶんにできない。それを何とか、ひとつの、まとまったこととして行なおうとしている)
2.トロッタ13 プログラムより
(本番一か月前である。段々と、現在形の話題になって来よう。曲の締切から半月は、これまでのことに重点を置き、一か月前からは、第十三回で演奏する曲に重点を移す予定にしていた。トロッタの根本については、変わらずに考えてゆく)
今井重幸のもとに、譜面を受け取りに行った。『ロルカのカンシオネス』の四曲目、『ラ・タララ』の編曲ができたのである。これで、ロルカの曲はすべて揃った。出演者の都合さえつけば、いつでも練習ができる。
もともとが民謡だから、テンポは自由だし、解釈も自由だし、歌いたいように歌えばよい、といわれた。『アンダ・ハレオ』は、フラメンコ好きが集まる小劇場風の居酒屋、タブラオで最もよく取り上げられる曲の一つで、自由さと奔放さ、それにかけ声が特徴。『トランプの王様』は、ロココやバロックを思わせる、古い感覚で歌ってほしい、エレガントに、との要請である。これは予想外だった。『18世紀のセビジャーナス』は、スペインを代表するセビージャの春祭、そこで踊られる舞踊“セビジャーナス”を歌う。あえて18世紀のといっているので、やはり古風に歌ってほしいとのこと。やはり、予想外だ。『ラ・タララ』は、『アンダ・ハレオ』と同様、素朴なアンダルシアの歌。これは速くてもよい。三番まであるが、それぞれ速さを変えてもよい。
ロルカが採譜して楽譜として残っている古謡は全13曲。今井重幸が心がけたのは、今回は4曲であり、13曲を通しても曲ごとの個性が出るよう編曲したとのことである。『トランプの王様』では、ギタリストは持ち替えでトライアングルか鈴を使う。『ラ・タララ』でも、ギタリストは持ち替えでタンバリンを使う。歌い方も、その工夫に応えて違わなければいけない。
予想外と書いたとおり、これまでレッスンを通じて作ってきた歌い方を、変える必要がある。特に、古風に、エレガントにという考えはなかったので、どうするか。今井によれば、現代のフラメンコは速い。しかし一時代前のフラメンコは悠然としたものである。それにふさわしい歌い方が、特に18世紀のと時代を限っている場合には求められる。むしろ望むところといえるが、すぐにできるかどうか。しかしレッスンは無駄ではない。何とかレッスンは土台と考えて、取り組みたい。(こうなってくると理論ではないので、歌いこむことが必要となる)
(其の十八)
*『ロルカのカンシオネス』より(1番)
「アンダ、ハレオ」
Yo me alivié a un pino verde
俺は緑の松の木に登った、
por ver si la divisaba.
あの娘が遠くに見えはしないかと。
y solo divisé el polvo
でも、見えたのは、ただ砂煙だけ、
del coche que la llevaba.
あの娘を連れていく車の。
Anda jaleo,jaleo;
もう、こうなったら、やけっぱち。
ya se acabó el alboroto
お祭り騒ぎはお仕舞いだ。
y vamos al tiroteo.
今度は銃で撃ち合いだ。
素朴な詩である。古謡には、そのあまりの素朴さゆえに、かえって超現実的な印象を与える詩がある。(日本語詩は、現代ギター社版『ガルシーア・ロルカのスペインの歌(歌とギターのための)』所収の、田尻陽一「歌詞対訳」を引用させていただいている。詞は、牧羊社版『フェデリコ・ガルシーア・ロルカ』全三巻も参照した)
「トランプの王様」
Si tu madre quiere un rey,
もしも、お前の母さんが、王様、ほしけりゃ、
la baraja tiene cuatro:
トランプには四人もいるよ。
rey de oros,rey de copas,
金貨の王様、聖杯の王様、
rey de espadas,rey de bastos.
剣の王様、棍棒の王様。
Corre que te pillo,
逃げろよ、ひっとらえるぞ。
corre que te agarro,
逃げろよ、ひっつかまえるぞ。
mira que te lleno
ほら、お前の顔を
la cara de barro.
泥んこにしてやるよ。
De olive me retiro,
オリーブの樹からオリルとしよう。
del esparto yo me aparto,
イグサからもうイクサ。
del sarmiento me arrepiento
残念無念のブドウのツルは
de haberte querido tando.
3年6年、お前にどうやらツルミすぎ。
特に二連に明らかだが、スペイン語の音を楽しんで作られた歌だ。素朴さもそうだが、このような詩は、私が書くと、かえってわざとらしくなる。詩は人生が生むものだから、わざとらしい素朴さとか、わざとらしい華美は、最も避けなければならない。
「18世紀のセビジャーナス」より(1番)
¡Viva Sevilla!
セビージャ、万歳!
Llevan las sevillanas
セビージャの女たちは
en la mantilla
マンティージャに
un letrero que dice:
こう縫い取りをする、
¡Viva Sevilla!
セビージャ、万歳!
¡Viva Triana!
トゥリアーナ、万歳!
¡Vivan los trianeros,
トゥリアーナの人、万歳!
los de Triana!
トゥリアーナに住む人、万歳!
¡Vivan los sevillanos
セビージャの男も
y sevillanas!
女も万歳!
ひと月前、田中修一からメールが届いた。すでにある私の詩をもとに、女声合唱組曲を作りたい。ついては、三篇の詩を書いてもらえないか、と。それらは、東日本大震災の後で、初めて書いた詩になった。これらの古謡の歌詞に見るような、素朴な詩ではない。といって難しい詩を書いたつもりもない。ありのままの気持ちを書いた。
「ラ・タララ」より(1番)
La Tarara,sí;
ラ・タララ、シ、
La Tarara,no;
ラ・タララ、ノ。
La Tarara,niña,
ラ・タララ、ニーニャ、
que la he visto yo.
he僕は見たよ。
Lleva mi Tarara
僕のタララは
un vestido verde
緑の服に
lleno de volantes
フリルと鈴を
y de cascabeles.
いっぱい付けてる。
La Tarara,sí;
ラ・タララ、シ、
la Tarara,no;
ラ・タララ、ノ。
la Tarara,niña,
ラ・タララ、ニーニャ、
que la he visto yo.
僕は見たよ。
これは皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、仮にロルカの古謡に使われたような詩を“素朴”だとして、その反対の生活実感を抱くような毎日を過ごしている者は、“素朴”ではない詩を書くのが正直な態度だろう。
夜になって、吉祥寺、西荻窪方面に、チラシを置かせてもらいに行く。明日はできれば、谷中、千駄木方面に行きたい。
チラシ配りもトロッタの活動の大切なことには違いない。ただ、詩を書くこととは違うし、歌うこととも違う。練習にあてるべき時間にチラシを配っている。一度にはできない。効率よく、必要な数の人にだけチケットを買ってもらえばいいのかもしれない。しかし、私自身、馴染みのない店でふと手にしたチラシにひかれ、その公演に足を運ぶことがあるので、チラシを配ることは必要だと思っている。だが、実際問題として、ひとつのことをしていると、するべき他のことができない。最近、その傾向が強まりつつある。(基本的には、歌うこと、詩を書くこと、チラシを配ること、演奏会の製作、それにこうした原稿を書くこと、全部別だと思う。別にしなければ、じゅうぶんにできない。それを何とか、ひとつの、まとまったこととして行なおうとしている)
トロッタ13通信(13/4月29日分)
(其の十五)
このように書くと、清道が歌を作らないのではないかと誤解されるが、そうではない。歌曲のための詩を、彼は私に求めた。その発表はまだだが、すでに完成している曲もある。さらに第七回『ナホトカ音楽院』、第八回『蛇』、第九回『アルメイダ』などで、彼は非常に印象的な旋律の歌を披露している。特に『ナホトカ音楽院』は、作曲家クルト・バイルが、劇作家で演出家ベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』のために書いた劇中歌といった趣であった。だから、歌そのものを聴かせるというより、演劇的な枠の中、スタイルの中で、音楽を聴かせることに、彼は長けていよう。
歌に至るまでの物語の積み重ねがあって、感情が高まったところで歌を聴かせる。
語りや所作で聴かせ、見せるよりも、歌にすることで、より直接的に、まとまって理解させる。
劇中歌には、このような効用があろう。だから『革命幻想歌』のように、積み重ねの上での高まりではなく突然の発露、直接にとかまとまって理解させたくない場合は、彼は歌を採らずに語りを採用する、と私は解釈している。しかし、誰もがそうだろうが、そんな解釈など追いつかないほどに、人は変化してゆくものだ。当初の構想はあったが、3月11日の東日本大震災以降、清道の心境は変化して、第十三回で初演される『ヒトの謝肉祭』の構想、それまでの作業は“解体”されたという。そう、スコアに書かれている。どんな曲になるのか、まだわからない。まだ一音も発していない。清道にもわかるまい。清道の変化が、新曲から感じ取れるだろうか。
人は刻一刻、変化してゆくものだ。私もまた、トロッタを始めた時に、いきなり『ロルカのカンシオネス』を歌う考えはなかった。歌えればいいと思い、楽譜は十年以上前に買っていたものの、ずっと眠らせていた。変化しているのである。
途中だが、書き添えておく。特に清道について書いていることの延長に、演劇や映画のための音楽全般の話題がのぼってきていい。根岸一郎と話した際にも、伊福部が手がけた“釈迦”の音楽の話が出た。石井漠振付の舞踊『人間釈迦』、三隅研次監督の映画『釈迦』、そして交響頌偈『釈迦』と、伊福部は三つのジャンルで釈迦の音楽を書いた。なおざりにしていい事実ではない。文章に展開する余裕はないが、そうしたことも頭に置いて、書き進めている。
(其の十六)
何が来てもいい。これが私の基本的態度である。他の機会でも必ず書くことだが、清道の曲には、私が書いた以外の詩が、必ず用いられる。それも、私にとってみると、過剰なほどに。「作曲 清道洋一、詩 木部与巴仁」と並べず、清道の名を書くだけでいいと思わせるほどに。しかし、それもすべて受け容れたいと思っている。
もちろん、ピアノを弾いてくれなどという要求は受け容れられないが、しかし考え方によっては、可能かもしれない。直接に弾くのではなく、間接的に弾く方法だってあるかもしれない。他人の要求を受け容れなければ、詩の一字一句、変えてはいけないという考え方につながる。それは、最も避けたいことだ。
私には、少なくとも二つの側面がある。詩を書く者と、詩唱する者と。詩を書く立場からは受け容れがたくとも、詩唱する立場からは受け容れられる場合がある。その逆もあるだろう。これは詩唱できなくても、書ける、ということ。側面、基準がふたつあるから、どちらの基準でも判断できることになる。三つあるとも考えられる。それは製作者の側面だ(威張って書いているのではない、事実を書いている)。作曲家から寄せられる、こういう曲を書きたい、演奏家から寄せられる、こういう曲を演奏したい。そうした要求は、できるだけ受け容れたいと思っている。これにも裏表があって、私自身、あらゆる可能性を持って実現させたいから、誰の要求も呑みたいと思うのだ。実現のための手段と考え方は、局面ごと、さまざまにあるだろう。
だから、「何が来てもいい」は、「何があってもいい(トロッタには)」に置き換えられる。現実問題として無理でも、考え方を変えれば、初期の目的は達せられるのではないかとも思っている。
このように書くと、清道が歌を作らないのではないかと誤解されるが、そうではない。歌曲のための詩を、彼は私に求めた。その発表はまだだが、すでに完成している曲もある。さらに第七回『ナホトカ音楽院』、第八回『蛇』、第九回『アルメイダ』などで、彼は非常に印象的な旋律の歌を披露している。特に『ナホトカ音楽院』は、作曲家クルト・バイルが、劇作家で演出家ベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』のために書いた劇中歌といった趣であった。だから、歌そのものを聴かせるというより、演劇的な枠の中、スタイルの中で、音楽を聴かせることに、彼は長けていよう。
歌に至るまでの物語の積み重ねがあって、感情が高まったところで歌を聴かせる。
語りや所作で聴かせ、見せるよりも、歌にすることで、より直接的に、まとまって理解させる。
劇中歌には、このような効用があろう。だから『革命幻想歌』のように、積み重ねの上での高まりではなく突然の発露、直接にとかまとまって理解させたくない場合は、彼は歌を採らずに語りを採用する、と私は解釈している。しかし、誰もがそうだろうが、そんな解釈など追いつかないほどに、人は変化してゆくものだ。当初の構想はあったが、3月11日の東日本大震災以降、清道の心境は変化して、第十三回で初演される『ヒトの謝肉祭』の構想、それまでの作業は“解体”されたという。そう、スコアに書かれている。どんな曲になるのか、まだわからない。まだ一音も発していない。清道にもわかるまい。清道の変化が、新曲から感じ取れるだろうか。
人は刻一刻、変化してゆくものだ。私もまた、トロッタを始めた時に、いきなり『ロルカのカンシオネス』を歌う考えはなかった。歌えればいいと思い、楽譜は十年以上前に買っていたものの、ずっと眠らせていた。変化しているのである。
途中だが、書き添えておく。特に清道について書いていることの延長に、演劇や映画のための音楽全般の話題がのぼってきていい。根岸一郎と話した際にも、伊福部が手がけた“釈迦”の音楽の話が出た。石井漠振付の舞踊『人間釈迦』、三隅研次監督の映画『釈迦』、そして交響頌偈『釈迦』と、伊福部は三つのジャンルで釈迦の音楽を書いた。なおざりにしていい事実ではない。文章に展開する余裕はないが、そうしたことも頭に置いて、書き進めている。
(其の十六)
何が来てもいい。これが私の基本的態度である。他の機会でも必ず書くことだが、清道の曲には、私が書いた以外の詩が、必ず用いられる。それも、私にとってみると、過剰なほどに。「作曲 清道洋一、詩 木部与巴仁」と並べず、清道の名を書くだけでいいと思わせるほどに。しかし、それもすべて受け容れたいと思っている。
もちろん、ピアノを弾いてくれなどという要求は受け容れられないが、しかし考え方によっては、可能かもしれない。直接に弾くのではなく、間接的に弾く方法だってあるかもしれない。他人の要求を受け容れなければ、詩の一字一句、変えてはいけないという考え方につながる。それは、最も避けたいことだ。
私には、少なくとも二つの側面がある。詩を書く者と、詩唱する者と。詩を書く立場からは受け容れがたくとも、詩唱する立場からは受け容れられる場合がある。その逆もあるだろう。これは詩唱できなくても、書ける、ということ。側面、基準がふたつあるから、どちらの基準でも判断できることになる。三つあるとも考えられる。それは製作者の側面だ(威張って書いているのではない、事実を書いている)。作曲家から寄せられる、こういう曲を書きたい、演奏家から寄せられる、こういう曲を演奏したい。そうした要求は、できるだけ受け容れたいと思っている。これにも裏表があって、私自身、あらゆる可能性を持って実現させたいから、誰の要求も呑みたいと思うのだ。実現のための手段と考え方は、局面ごと、さまざまにあるだろう。
だから、「何が来てもいい」は、「何があってもいい(トロッタには)」に置き換えられる。現実問題として無理でも、考え方を変えれば、初期の目的は達せられるのではないかとも思っている。
トロッタ13通信(12/4月28日分)
(其の二十三)
田中修一から補足の説明が届いた。私がどう言葉を尽くしても、田中修一、あるいは伊福部昭の考えを完璧に説明することは無理だろう。また田中、伊福部、その他の作曲家にしても、理論は完璧でも作曲を始めると理論どおりにいかなくなってくる。理論までは、おそらく一緒で、いかないところをどうするかが、作曲家の特徴ともなってくるに違いない。
……アクセントの事に補足させていただければ、accentoには高低accentoと強弱accentoの国語があり、強弱accentoの国(英独とその系列、因みにロシアも)の詩は何拍子で作曲しても、その言語の強拍、弱拍は音楽の強拍、弱拍と常に一致するとされます。日本語は高低accentoなので、音楽の強拍、弱拍からの大きな自由、可能性を持っているといえますが、高低という旋律に関る部分では制約を免れないという事です。
この内容は、そのまま受け取っておきたい。
田中のメールを受け取った直後、バリトンの根岸一郎に会う用があった。トロッタのチラシを渡したのだが、新宿駅で四十分ほど立ち話をした。田中修一ら作曲する側の考えに対し、歌う側はどう思っているのか、考えを聞きたかった。捕捉について、私には判断する材料が少ないが、根岸は、よくわかるといった。Melismatic、Psalmodic、Recitativoについても、さまざまの例をあげてくれた。根岸はトロッタで、伊福部の歌曲を三曲、歌っている。『知床半島の漁夫の歌』『摩周湖』『ギリヤーク族の古き吟誦歌』である。伊福部の歌にも、日本語のアクセントどおりでない箇所がある。更科の詩をそのまま生かしたために、聴いただけでは意味をとりづらい箇所がある、などともいった。こうしたことは、やはり、永遠の課題だ。詩人が朗読すれば、もちろん、日本語話し言葉のアクセントを重視する(方言アクセントもかかわってくる。方言の問題は重要である。日本語の標準アクセントも方言が土台になっていよう)。また意味も重視する。朗読だから声を聞いてほしいといっても、意味がわからなくていいとは、さすがに書いた本人はいえない。しかし音楽家は、やはり音楽性が第一となる。
根岸の考えをそのまま記すことはできない(どうしても私の意見が入る)。ひとつだけ、印象に残った言葉を記そう。すでに歌った『知床半島の漁夫の歌』、これから歌いたい『オホーツクの海』などは、自分とは違う、太い声で押し通した方がいいのかもしれない、と。自分の声は太いものではないという認識のもとにいっている。太い声だから押し通せるものでもなく、細い(あるいは高く、繊細な)声だから歌えないものでもない。その人なりの歌い方がある。根岸は伊福部の歌を歌いたいと思っている。工夫するだろう。作曲家も工夫する。それでよいのだと思う。
(其の二十四)
トロッタには、朗読と楽器演奏のための曲がある。初期は、朗読だけの演目もあった。それを詩唱ということで、意識としては、より音楽に近づけていこうとしている。
私の中に、演劇を受け容れる素地があることは既に書いた(芝居に関する夢をよく見る。昨夜も、必要があってほしいと思いながら買えずにいる、雑誌「新劇」の1974年の号を見つける夢を見た。台詞を覚えていないまま舞台に立つはめになる夢は、定番である)。第六回から参加している作曲家、清道洋一に対して、私は演劇の面で受けとめている要素が強い。雑誌「ギターの友」に、私は「ギターとランプ」を連載している。これまで六回を数え、今井重幸、田中修一、清道洋一に登場してもらった。トロッタで、ギターを伴う曲を書いている作曲家たちである。清道の言葉として、次のようなものを紹介した。
「歌というのは、十円を拾っても百円を拾ったように歌いますから。そこに抵抗感があります。歌は、必ずしも詩をよくすることになっていないのではないか。あえて歌にすまいというところから出発したのです」
2010年12月、第六回「ボッサ 声と音の会」の「隠岐のバラッド」で、清道は『革命幻想歌』を発表している。同じ会で演奏した田中修一の曲、橘川琢の曲は、歌である。だから歌でよかったのだが、清道は歌にしなかった。
歌は、十円拾っても百円拾ったように歌う−−。
それは確かだろう。百円拾って十円拾ったようには歌わない。私なりにいえば、感情を発露させるのだから、大きくするわけだ。文章も同じである。これが何度も書いている、作曲家それぞれの、書き手それぞれのスタイルなのだが、どのように大きくするか。清道流にいえば、十五円にとどめておくか、百円にするか百五十円にもしてしまうか。どこにリアリズムを感じるかで違う。聴く人の共感を得られるかどうかも、そこで違って来る。
清道の意見は、彼が演劇のための曲を書き、演劇に携わる者たちと長くつきあってきた、彼の歴史に根ざすと解釈している。歌い手や演じ手の感情は、音楽の形ではなく、演技はあるにせよ生の形でそのまま発露させることを、彼はよしとしている。音楽も演劇ももとはひとつだから、それでよい。台詞も歌も源流は一致するからそれでよい。ひとりの人間が語りもするし歌いもするから、清道の作曲スタイルを、私は受け容れたい。田中修一が第十三回で発表する『MOVEMENT an EXTRA〜木部与巴仁「亂譜外傳・儀式」に依る』にも、語りがある。歌にならない言葉、歌にしない言葉を、どう聴かせるかに、作曲家の腐心がある。
田中修一から補足の説明が届いた。私がどう言葉を尽くしても、田中修一、あるいは伊福部昭の考えを完璧に説明することは無理だろう。また田中、伊福部、その他の作曲家にしても、理論は完璧でも作曲を始めると理論どおりにいかなくなってくる。理論までは、おそらく一緒で、いかないところをどうするかが、作曲家の特徴ともなってくるに違いない。
……アクセントの事に補足させていただければ、accentoには高低accentoと強弱accentoの国語があり、強弱accentoの国(英独とその系列、因みにロシアも)の詩は何拍子で作曲しても、その言語の強拍、弱拍は音楽の強拍、弱拍と常に一致するとされます。日本語は高低accentoなので、音楽の強拍、弱拍からの大きな自由、可能性を持っているといえますが、高低という旋律に関る部分では制約を免れないという事です。
この内容は、そのまま受け取っておきたい。
田中のメールを受け取った直後、バリトンの根岸一郎に会う用があった。トロッタのチラシを渡したのだが、新宿駅で四十分ほど立ち話をした。田中修一ら作曲する側の考えに対し、歌う側はどう思っているのか、考えを聞きたかった。捕捉について、私には判断する材料が少ないが、根岸は、よくわかるといった。Melismatic、Psalmodic、Recitativoについても、さまざまの例をあげてくれた。根岸はトロッタで、伊福部の歌曲を三曲、歌っている。『知床半島の漁夫の歌』『摩周湖』『ギリヤーク族の古き吟誦歌』である。伊福部の歌にも、日本語のアクセントどおりでない箇所がある。更科の詩をそのまま生かしたために、聴いただけでは意味をとりづらい箇所がある、などともいった。こうしたことは、やはり、永遠の課題だ。詩人が朗読すれば、もちろん、日本語話し言葉のアクセントを重視する(方言アクセントもかかわってくる。方言の問題は重要である。日本語の標準アクセントも方言が土台になっていよう)。また意味も重視する。朗読だから声を聞いてほしいといっても、意味がわからなくていいとは、さすがに書いた本人はいえない。しかし音楽家は、やはり音楽性が第一となる。
根岸の考えをそのまま記すことはできない(どうしても私の意見が入る)。ひとつだけ、印象に残った言葉を記そう。すでに歌った『知床半島の漁夫の歌』、これから歌いたい『オホーツクの海』などは、自分とは違う、太い声で押し通した方がいいのかもしれない、と。自分の声は太いものではないという認識のもとにいっている。太い声だから押し通せるものでもなく、細い(あるいは高く、繊細な)声だから歌えないものでもない。その人なりの歌い方がある。根岸は伊福部の歌を歌いたいと思っている。工夫するだろう。作曲家も工夫する。それでよいのだと思う。
(其の二十四)
トロッタには、朗読と楽器演奏のための曲がある。初期は、朗読だけの演目もあった。それを詩唱ということで、意識としては、より音楽に近づけていこうとしている。
私の中に、演劇を受け容れる素地があることは既に書いた(芝居に関する夢をよく見る。昨夜も、必要があってほしいと思いながら買えずにいる、雑誌「新劇」の1974年の号を見つける夢を見た。台詞を覚えていないまま舞台に立つはめになる夢は、定番である)。第六回から参加している作曲家、清道洋一に対して、私は演劇の面で受けとめている要素が強い。雑誌「ギターの友」に、私は「ギターとランプ」を連載している。これまで六回を数え、今井重幸、田中修一、清道洋一に登場してもらった。トロッタで、ギターを伴う曲を書いている作曲家たちである。清道の言葉として、次のようなものを紹介した。
「歌というのは、十円を拾っても百円を拾ったように歌いますから。そこに抵抗感があります。歌は、必ずしも詩をよくすることになっていないのではないか。あえて歌にすまいというところから出発したのです」
2010年12月、第六回「ボッサ 声と音の会」の「隠岐のバラッド」で、清道は『革命幻想歌』を発表している。同じ会で演奏した田中修一の曲、橘川琢の曲は、歌である。だから歌でよかったのだが、清道は歌にしなかった。
歌は、十円拾っても百円拾ったように歌う−−。
それは確かだろう。百円拾って十円拾ったようには歌わない。私なりにいえば、感情を発露させるのだから、大きくするわけだ。文章も同じである。これが何度も書いている、作曲家それぞれの、書き手それぞれのスタイルなのだが、どのように大きくするか。清道流にいえば、十五円にとどめておくか、百円にするか百五十円にもしてしまうか。どこにリアリズムを感じるかで違う。聴く人の共感を得られるかどうかも、そこで違って来る。
清道の意見は、彼が演劇のための曲を書き、演劇に携わる者たちと長くつきあってきた、彼の歴史に根ざすと解釈している。歌い手や演じ手の感情は、音楽の形ではなく、演技はあるにせよ生の形でそのまま発露させることを、彼はよしとしている。音楽も演劇ももとはひとつだから、それでよい。台詞も歌も源流は一致するからそれでよい。ひとりの人間が語りもするし歌いもするから、清道の作曲スタイルを、私は受け容れたい。田中修一が第十三回で発表する『MOVEMENT an EXTRA〜木部与巴仁「亂譜外傳・儀式」に依る』にも、語りがある。歌にならない言葉、歌にしない言葉を、どう聴かせるかに、作曲家の腐心がある。
2011年4月28日木曜日
トロッタ13通信(11/4月27日分)
(其の二十一)
田中修一は、続けて知らせてくれた。伊福部昭は、次のように、歌のスタイルを分けた。田中の文面をそのまま引く。
1.Melismatic
一個の綴音に依って多くの装飾的音符に亘るもの。
2.Psalmodic
音符が変わる毎に綴音も変わる歌曲の様式。
3.Recitativo
声楽にあって、其の本来の詠唱性又は音楽性よりも、言葉の調子、即ち会話性を重視した声楽様式。
そして、田中は次のように付け加えた。
日本の歌曲はPsalmodicによるものが多い。
近代、現代の歌曲は、Recitativo化の方向に進んで来ている。
伊福部は田中に対し、Melismaticを重要視するように指導した。
この分類は、伊福部の『管絃楽法』にも書かれている。「人声」の項である。
一曲の中に全部の要素はあって、例えば、私が第十三回で歌う『ロルカのカンシオネス』の四曲、「アンダ・ハレオ」「トランプの王様」「十八世紀のセビジャーナス」「ラ・タララ」。もともと民謡だから、作曲家が考え抜いたというようなものではないはずだが、その素朴な歌の中に、三つの歌い方はすでにある。民謡だから、というべきか。そして、すべての歌い方が、私には難しい。難しさに直面している時だ。
何事もそうだが、分類や解釈は後から生まれる。現象が先だ。無意識のうちに、民謡の作者は、すべての様式を駆使した。そして、民謡にはひとりの作者などいないはずだ。どこかの時代で、ロルカが採譜したように形としてとどめられるが、それまでは自由な形で、そのへんにただよっていた。放っておいたら、その後もただよっていたはずだ。今でもスペインでは、民謡として、ロルカが採譜したのとは違う形で歌われているかもしれない。あるいはもう、なくなっているかもしれない。
書きながら、詩もまた、自由に形を変えるだろうと思った。すべてが朗読される必要はなく、また朗読されて音楽にもなって、あるいはひとつの詩も複数の作曲者によって形を変えて音楽になっていい。何事も固定化されるわけではない(例えば私の詩も、酒井健吉によって作曲されたものが、後に田中修一の歌曲になっている。これは決して、酒井の仕事を無視する行いではない)
(其の二十二)
田中修一は、こんなことも教えてくれた。要約してニュアンスが違ってしまうといけないので、彼の文面を引用する。
ストラビンスキーは「ロシアの民衆詩の一つの重要な特徴は、話される詩のアクセントが歌われる時に無視されることにある。この事実のなかには音楽的可能性が含まれている。」というような事を云っているが、先生はどうお考えになりますか、と問うた所、「日本語の詩は言葉がきちんと聞こえて、伝わった方がよろしい。」と仰せになりました。
誰も頭に浮かぶ、どんな歌にも、これはいえることである。一曲か二曲、頭で歌えば、歌と話し言葉のアクセントは違うと思い当たる。田中と伊福部の会話を読むと、田中の質問に、伊福部は答えていないなと思う。アクセントのを無視したところに音楽的可能性がありますか? という質問には、可能性があるかないかで答えられるべきだが、そうなっていない。実際は、もう少し細かなやりとりがあったのだろう。そして、仮にこのままの会話であったとしても、伊福部は、田中に対し、きちんと答えているかもしれない。つまり、以下のように。
(−−日本語の詩は、と断っているから−−、ロシアではそうでも、日本においては、アクセントが重視され、意味が伝わった方がよく、むしろそちらの方に、音楽的可能性はある)
もちろん、伊福部の歌曲とて、アクセントは話し言葉とすべて一致するわけではない。私がかつて愛唱し、今は気軽に歌えない歌に、『知床半島の漁夫の歌』がある。歌い出しは、「死滅した朱羅期の岩に」である。「死滅した」は話し言葉どおりのアクセント、しかし「朱羅期」は異なり、歌は「羅」に強いアクセントを置いている。話し言葉の「羅」にもアクセントがあるが、さほどではない。伊福部は、「羅」の音にひかれたのだと思う。ひかれない作曲家もあるだろう。そしてひかれたことで、そこにストラヴィンスキーがいったという、「音楽的可能性」が生まれた。「死滅した」は語りに近いが、「朱羅期の」は歌である、そして「岩に」でまた語りになる。音楽家の本能が、「朱羅期の」を歌わせたのではないか。だから、田中修一に対する伊福部の答えは、「日本語の詩は言葉がきちんと聞こえて伝わった方がよろしい。その上でなお音楽的可能性を引き出す作曲様式をとる。そこに作曲家個々の可能性もまたある」ということだったと解している(これに対する意見などがあれば聞きたい)。
田中修一は、続けて知らせてくれた。伊福部昭は、次のように、歌のスタイルを分けた。田中の文面をそのまま引く。
1.Melismatic
一個の綴音に依って多くの装飾的音符に亘るもの。
2.Psalmodic
音符が変わる毎に綴音も変わる歌曲の様式。
3.Recitativo
声楽にあって、其の本来の詠唱性又は音楽性よりも、言葉の調子、即ち会話性を重視した声楽様式。
そして、田中は次のように付け加えた。
日本の歌曲はPsalmodicによるものが多い。
近代、現代の歌曲は、Recitativo化の方向に進んで来ている。
伊福部は田中に対し、Melismaticを重要視するように指導した。
この分類は、伊福部の『管絃楽法』にも書かれている。「人声」の項である。
一曲の中に全部の要素はあって、例えば、私が第十三回で歌う『ロルカのカンシオネス』の四曲、「アンダ・ハレオ」「トランプの王様」「十八世紀のセビジャーナス」「ラ・タララ」。もともと民謡だから、作曲家が考え抜いたというようなものではないはずだが、その素朴な歌の中に、三つの歌い方はすでにある。民謡だから、というべきか。そして、すべての歌い方が、私には難しい。難しさに直面している時だ。
何事もそうだが、分類や解釈は後から生まれる。現象が先だ。無意識のうちに、民謡の作者は、すべての様式を駆使した。そして、民謡にはひとりの作者などいないはずだ。どこかの時代で、ロルカが採譜したように形としてとどめられるが、それまでは自由な形で、そのへんにただよっていた。放っておいたら、その後もただよっていたはずだ。今でもスペインでは、民謡として、ロルカが採譜したのとは違う形で歌われているかもしれない。あるいはもう、なくなっているかもしれない。
書きながら、詩もまた、自由に形を変えるだろうと思った。すべてが朗読される必要はなく、また朗読されて音楽にもなって、あるいはひとつの詩も複数の作曲者によって形を変えて音楽になっていい。何事も固定化されるわけではない(例えば私の詩も、酒井健吉によって作曲されたものが、後に田中修一の歌曲になっている。これは決して、酒井の仕事を無視する行いではない)
(其の二十二)
田中修一は、こんなことも教えてくれた。要約してニュアンスが違ってしまうといけないので、彼の文面を引用する。
ストラビンスキーは「ロシアの民衆詩の一つの重要な特徴は、話される詩のアクセントが歌われる時に無視されることにある。この事実のなかには音楽的可能性が含まれている。」というような事を云っているが、先生はどうお考えになりますか、と問うた所、「日本語の詩は言葉がきちんと聞こえて、伝わった方がよろしい。」と仰せになりました。
誰も頭に浮かぶ、どんな歌にも、これはいえることである。一曲か二曲、頭で歌えば、歌と話し言葉のアクセントは違うと思い当たる。田中と伊福部の会話を読むと、田中の質問に、伊福部は答えていないなと思う。アクセントのを無視したところに音楽的可能性がありますか? という質問には、可能性があるかないかで答えられるべきだが、そうなっていない。実際は、もう少し細かなやりとりがあったのだろう。そして、仮にこのままの会話であったとしても、伊福部は、田中に対し、きちんと答えているかもしれない。つまり、以下のように。
(−−日本語の詩は、と断っているから−−、ロシアではそうでも、日本においては、アクセントが重視され、意味が伝わった方がよく、むしろそちらの方に、音楽的可能性はある)
もちろん、伊福部の歌曲とて、アクセントは話し言葉とすべて一致するわけではない。私がかつて愛唱し、今は気軽に歌えない歌に、『知床半島の漁夫の歌』がある。歌い出しは、「死滅した朱羅期の岩に」である。「死滅した」は話し言葉どおりのアクセント、しかし「朱羅期」は異なり、歌は「羅」に強いアクセントを置いている。話し言葉の「羅」にもアクセントがあるが、さほどではない。伊福部は、「羅」の音にひかれたのだと思う。ひかれない作曲家もあるだろう。そしてひかれたことで、そこにストラヴィンスキーがいったという、「音楽的可能性」が生まれた。「死滅した」は語りに近いが、「朱羅期の」は歌である、そして「岩に」でまた語りになる。音楽家の本能が、「朱羅期の」を歌わせたのではないか。だから、田中修一に対する伊福部の答えは、「日本語の詩は言葉がきちんと聞こえて伝わった方がよろしい。その上でなお音楽的可能性を引き出す作曲様式をとる。そこに作曲家個々の可能性もまたある」ということだったと解している(これに対する意見などがあれば聞きたい)。
トロッタ13通信(10/4月26日分)
(其の十九)
田中修一に、尋ねた。歌を作曲する時の心構えについて、伊福部昭からどんな教えを受けたのか、と。夢の世界で歌唱指導された私とは違う。彼は実際的なことを教わっているはずだ。果たして、次のような返事が届いた。
伊福部と田中の間で、歌曲に関する話題が交わされた時。どちらからともなく、近現代の日本の詩には、よいものが少ないという結論になった。私が直接に聞いていた会話ではないので、どんな理由があって、よいものが少ないという話になったたかはわからない。私は(申し訳ないことながら)他人の詩をどんどん読んでゆく人間ではない。いや、先生、田中さん、いいものはありますよといえればいいが、提出できる材料がない(それよりもいいものを自分で書いて示したいとうのが私の態度だ)。
詩の数はあまたある。よいものは少しくらいあるだろうと思う。本当に詩についてよく知っている人はいて、この人は研究者としてすごいなと思わせる詩人の名を、私は何人かあげることができる。彼は詩について調べている。現代詩の本を書いてほしいと頼めばたちどころに書くだろうし、現に書いてもいる。そのような人に、すぐれた近現代詩を推薦してくれないかといえば、何篇かあげてくれるだろう。しかし、それは詩としてすぐれているかどうかで、音楽になるかどうかは、彼には判断できないはずだ(判断できるかもしれないが、今は、できないはずといっておく。この詩は歌になると判断できるのは、詩人ではなく、音楽家だろう)。
結局は、作曲家が詩に共感するかどうかだと思う。詩のスタイルでか、詩人の思想でか、それは作曲家それぞれ。韻文形式を取るか、散文形式を取るかでも違ってくるが、それは決定的なことではないように思う。共感できる詩人がいるかいないか。いれば、彼に詩を書いてくれといえばいい。伊福部が、あるいは田中が共感できる詩人が、今はすくない(はっきりいえば、いない)ということだと私は解釈する。その点で、更科源蔵の詩は伊福部の心にかなったのである。それにしても、一冊の詩集から、わずか四篇。更科は生涯に何冊も詩集を出しているが、他からは採らず、わずか一冊から、わずかに四篇である。結果論として、(これは意地の悪い表現になるかもしれないが、その意図はない)更科の長い人生で、伊福部が共感できたのは、伊福部と北海道で交流した時代に刊行した詩集『凍原の歌』の世界だった。作曲家が伊福部でなければ、他の作曲家なら、他の詩を、他の詩集から選んだだろうし、事実、他の作曲家が更科の詩を楽曲化しており、他の詩人まで広げれば、歌になった近・現代詩の数は、それこそ、あまたある。だから、作曲家として、詩人の、世界のつかまえ方に共感できるかどうかだと、私は、伊福部と田中の会話を解釈する。共感できなければ、共感できるような詩を、詩人に書いてもらえばいいと私は思う。
(其の二十)
詩をよく知る人に、すぐれた詩をあげてほしいといえば可能だろうと書いた。しかしそれは、詩としてであって、音楽になるすぐれた詩かどうかは別だとも書いた。作曲は、作曲家にしかできない。一部の選ばれた人だけ、というのではない、作曲したいと思えば、作曲家になればいい。歌いたいと思えば歌手に……、難しいことだ。弾きたいといって、作曲家も自分では弾けないのである。ショパンやリストはすぐれたピアノ曲を書いてすぐれた演奏を聴かせたが、すべての楽器ですぐれた演奏をできるわけではない(ピアノだけでよかったのかもしれないが)。
しかし、作曲はできなくても、作曲家と一緒に、音楽を作ることはできる。私は、自分の詩を、詩だけに終わらせたくない。声に出して生きる詩を望んでいる。ということは、歌になる。朗読でもいいのでは? と思われるかもしれないが、(其の十四)に書いたとおりで、朗読表現が、朗読者の自由にゆだねられ過ぎていて、それはもちろんそれでいいが、時として自分勝手、自己満足に終わってしまうことへの危惧がある。人間の基本は、コミュニケーションにあるという、私の楽天的な人生観がある。人と人が意志を疎通する。そうして社会はできている。ジャンルとジャンルが、意志を疎通し合ってもいい。天本英世がいうように、フラメンコはそうだった。詩と音楽と踊りが通じあっている。もともとは世界のどこでも同じだった。詩と音楽を通じ合わせれば、今の詩によいものは少ない、と判断されることはなくなると思う。なければ創ればよい。音楽と踊りはもちろん、詩と踊りに一足飛びしてもいいだろう。すべて、人がすることである。垣根などどこにもないはずだ。(これがトロッタの基本姿勢である)
田中修一に、尋ねた。歌を作曲する時の心構えについて、伊福部昭からどんな教えを受けたのか、と。夢の世界で歌唱指導された私とは違う。彼は実際的なことを教わっているはずだ。果たして、次のような返事が届いた。
伊福部と田中の間で、歌曲に関する話題が交わされた時。どちらからともなく、近現代の日本の詩には、よいものが少ないという結論になった。私が直接に聞いていた会話ではないので、どんな理由があって、よいものが少ないという話になったたかはわからない。私は(申し訳ないことながら)他人の詩をどんどん読んでゆく人間ではない。いや、先生、田中さん、いいものはありますよといえればいいが、提出できる材料がない(それよりもいいものを自分で書いて示したいとうのが私の態度だ)。
詩の数はあまたある。よいものは少しくらいあるだろうと思う。本当に詩についてよく知っている人はいて、この人は研究者としてすごいなと思わせる詩人の名を、私は何人かあげることができる。彼は詩について調べている。現代詩の本を書いてほしいと頼めばたちどころに書くだろうし、現に書いてもいる。そのような人に、すぐれた近現代詩を推薦してくれないかといえば、何篇かあげてくれるだろう。しかし、それは詩としてすぐれているかどうかで、音楽になるかどうかは、彼には判断できないはずだ(判断できるかもしれないが、今は、できないはずといっておく。この詩は歌になると判断できるのは、詩人ではなく、音楽家だろう)。
結局は、作曲家が詩に共感するかどうかだと思う。詩のスタイルでか、詩人の思想でか、それは作曲家それぞれ。韻文形式を取るか、散文形式を取るかでも違ってくるが、それは決定的なことではないように思う。共感できる詩人がいるかいないか。いれば、彼に詩を書いてくれといえばいい。伊福部が、あるいは田中が共感できる詩人が、今はすくない(はっきりいえば、いない)ということだと私は解釈する。その点で、更科源蔵の詩は伊福部の心にかなったのである。それにしても、一冊の詩集から、わずか四篇。更科は生涯に何冊も詩集を出しているが、他からは採らず、わずか一冊から、わずかに四篇である。結果論として、(これは意地の悪い表現になるかもしれないが、その意図はない)更科の長い人生で、伊福部が共感できたのは、伊福部と北海道で交流した時代に刊行した詩集『凍原の歌』の世界だった。作曲家が伊福部でなければ、他の作曲家なら、他の詩を、他の詩集から選んだだろうし、事実、他の作曲家が更科の詩を楽曲化しており、他の詩人まで広げれば、歌になった近・現代詩の数は、それこそ、あまたある。だから、作曲家として、詩人の、世界のつかまえ方に共感できるかどうかだと、私は、伊福部と田中の会話を解釈する。共感できなければ、共感できるような詩を、詩人に書いてもらえばいいと私は思う。
(其の二十)
詩をよく知る人に、すぐれた詩をあげてほしいといえば可能だろうと書いた。しかしそれは、詩としてであって、音楽になるすぐれた詩かどうかは別だとも書いた。作曲は、作曲家にしかできない。一部の選ばれた人だけ、というのではない、作曲したいと思えば、作曲家になればいい。歌いたいと思えば歌手に……、難しいことだ。弾きたいといって、作曲家も自分では弾けないのである。ショパンやリストはすぐれたピアノ曲を書いてすぐれた演奏を聴かせたが、すべての楽器ですぐれた演奏をできるわけではない(ピアノだけでよかったのかもしれないが)。
しかし、作曲はできなくても、作曲家と一緒に、音楽を作ることはできる。私は、自分の詩を、詩だけに終わらせたくない。声に出して生きる詩を望んでいる。ということは、歌になる。朗読でもいいのでは? と思われるかもしれないが、(其の十四)に書いたとおりで、朗読表現が、朗読者の自由にゆだねられ過ぎていて、それはもちろんそれでいいが、時として自分勝手、自己満足に終わってしまうことへの危惧がある。人間の基本は、コミュニケーションにあるという、私の楽天的な人生観がある。人と人が意志を疎通する。そうして社会はできている。ジャンルとジャンルが、意志を疎通し合ってもいい。天本英世がいうように、フラメンコはそうだった。詩と音楽と踊りが通じあっている。もともとは世界のどこでも同じだった。詩と音楽を通じ合わせれば、今の詩によいものは少ない、と判断されることはなくなると思う。なければ創ればよい。音楽と踊りはもちろん、詩と踊りに一足飛びしてもいいだろう。すべて、人がすることである。垣根などどこにもないはずだ。(これがトロッタの基本姿勢である)
チラシの配布中(4月27日)
なかなか手がかかります。出演者にはすべて発送。作曲者には明日、発送します。
今日は歌のレッスンでした。ロルカの歌で、編曲された曲について、克服しなければならない点が見つかりました。
今日は歌のレッスンでした。ロルカの歌で、編曲された曲について、克服しなければならない点が見つかりました。
2011年4月27日水曜日
2011年4月25日月曜日
トロッタ13通信(9)
(其の十七)
第四回の最後に演奏された曲は、酒井健吉の『夜が吊るした命』だった。
*
日輪落ちて
世界が闇に向かうころ
夕焼け空に浮かび上がった黒い影
逆さになった三角形が
真っ赤な雲を背景に
宙吊りされてもがいている
逃れたくて逃れたくて身をよじる 影
影の姿にとらわれて釘づけられた
私の眼
*
2005年4月、私は神田駅に停った山手線から、ビルの屋上で逆さ吊りになった鴉を見た。鴉は、アンテナの電線に足をからませてしまったのだ。もがいていたが、どうしようもなかった。今から思えば、電車を降りてビルに駆けこめばよかったと思う。しかし、それが頭に浮かばなかった。浮かんだが逃げていたのかもしれない。数日後、鴉の命に捧げる詩として書いたのが、『夜が吊るした命』である。(息絶えた鴉の姿を見たように思うが、そんな勇気があっただろうか。錯覚だと思う。何か月も経った時、間違いなく鴉の姿を探した。しかし、なかった)
酒井の曲は、彼にしかないスタイルを示したものだと思う。速いテンポに合わせて詠むのがたいへんではあった。しかし、音楽として詠んでいるので、作曲者の意図に私が合わせるのは当然である。通常の朗読は、詠み手の表現として、詠み手が詠みたいように詠む。しかし私は、作曲者の作品に自分を添わせて詠んでいる。自分の詩だが、音楽としては私の作品ではない(朗読の部分は、私の表現ではある。ちなみに、このころはまだ詩唱という言葉を用いていない)。初演は、 2006年2月5日。酒井の地元、長崎県諫早市で行なわれたkitara音楽研究所 第三回演奏会「私たちの音を求めて」である。三日後の2月8日に、伊福部昭逝去の知らせを受け取っている。
この詩を初めて詠んだのは、ある詩の雑誌が主催する、詩の講座であった。自作の詩を詠み、それに講師が意見をいう仕組みであった。講師は、旧知の詩人、柴田千明さんであった。私にすれば当然だが、朗読という表現を意識して詠んだ。雑誌の編集長が、講評を目的にした場なのだから、そこまで意識しなくていい、というようなことをいった。講座の後、お酒を飲む機会があった。忘れ難い機会となった。およそ一年が経つころ、編集長は死んだのだ。私より若い人で、急死だったのか。講座の時は、とても亡くなるような感じは受けなかった。機会があれば、あの講座にもう一度、出たいと思う(編集長は死んでいるから現実的には不可能だろうが、現実でなければ可能ではないか?)。
詩には、鎮魂の役目があると思う。魂は、誰かが鎮めなければ、この世をさまよい続ける。講師をしてくれた柴田千明さんに、いわゆる東電OL殺人事件で死んだ女性をモデルにした詩集『空室』がある。柴田さんがその詩を詠んだ時、二度、私は女性主人公の父親として、参加したことがある。殺人犯とされた外国人は、冤罪ではないかといわれている。また東電といえば、今は原発問題で世間の非難を浴びている。いろいろなことを思ってしまうが、そうしたことをすべて含めて、柴田さんの詩集『空室』には、鎮魂の役目が強いのではないか。
(其の十八)
『夜が吊るした命』は、より具体的な、鴉の命への鎮魂歌である。一般的に、鎮魂の行いに欠かせないのが、音楽だろう。声だけでもよい。楽器の演奏が加えられれば、魂はさらに鎮まるに違いない。(宗教儀式に音楽が、歌が、楽器の演奏がつきものなのは、いうまでもないことだ)
田中修一のために書いた『亂譜』は、街の鎮魂歌として書いている。
*
街 焼き尽くさば
瓦礫なす 荒れ野なり
見たし と思へど
街のさま すでに
瓦礫なりや
*
橘川琢のために書いた『夜』は、夜という時間への鎮魂歌である。
*
午前三時の路上をゆく
私たちの葬列
この街に 砦はいらない
*
ことさら鎮魂を意識して書いたのではない。しかし後になって振り返ると、詩自体に鎮魂の気配がただよっている。私にはことさら宗教的な意識はない。しかし書き手の態度に関係なく、詩それ自体が、鎮魂の役を担おうとするようだ。
「北海道新聞」に、伊福部昭と更科源蔵の関わりについて書いた。伊福部は、更科の四つの詩をもとに、歌を作った。
『怒るオホーツク』が『オホーツクの海』になり、『昏れるシレトコ』が『知床半島の漁夫の歌』になり、『摩周湖』と『蒼鷺』は同じ題名の曲になった。すべて、鎮魂の曲と受け取れる。オホーツク海、知床半島、摩周湖、蒼鷺。北海道という土地、その生命に捧げた詩であり、音楽なのだ。
暴風雨(あらし)は遠い軍談(サゴロペ)を語り
敗北の酋長(オッテナ)が眠る森蔭の砦(チャシ)に
穴居の恋を伝えて咲く浜薔薇(はまなす)は赤く
濡れた海鳥の歌うのは何の挽歌だ
オホーツクは怒る(『怒るオホーツク』より)
死滅した前世紀の岩層に
冷却永劫の波はどよめき
落日もなく蒼茫と海は暮て
雲波に沈む北日本列島(『昏れるシレトコ』より)
大洋(わだつみ)は霞て見えず釧路大原
銅(あかがね)の萩の高原(たかはら) 牧場(まき)の果
すぎ行くは牧馬の群か雲の影か
又はかのさすらひて行く暗き種族か(『摩周湖』より)
風は吹き過ぎる
季節は移る
だが蒼鷺は動かぬ
奥の底から魂が羽搏くまで
痩せほそり風にけづられ
許さぬ枯骨となり
凍った青い影となり
動かぬ(『蒼鷺』より)
第十三回で初演される堀井友徳の『北方譚詩 第二番』は、「運河の町」と「森と海への頌歌」である。これは第十二回で初演された「北都七星」「凍歌」に続くものだ。これらの曲のために書いた詩は、ことさら死者とか、亡き何者かの面影を想って書いたのではない。しかし、すべて北の、生きとし生ける者を想って詩作に向かった。魂に思いを寄せることは、相手が死んでいなくても、鎮魂に通じると思う。生と死は隣り合わせである。死があるから生がある。死んだ者たちがあるから、生きる者たちもある。生と死の絶えることない循環。先達の行いに、私たちの行いが続くものとなっていればうれしい。
第四回の最後に演奏された曲は、酒井健吉の『夜が吊るした命』だった。
*
日輪落ちて
世界が闇に向かうころ
夕焼け空に浮かび上がった黒い影
逆さになった三角形が
真っ赤な雲を背景に
宙吊りされてもがいている
逃れたくて逃れたくて身をよじる 影
影の姿にとらわれて釘づけられた
私の眼
*
2005年4月、私は神田駅に停った山手線から、ビルの屋上で逆さ吊りになった鴉を見た。鴉は、アンテナの電線に足をからませてしまったのだ。もがいていたが、どうしようもなかった。今から思えば、電車を降りてビルに駆けこめばよかったと思う。しかし、それが頭に浮かばなかった。浮かんだが逃げていたのかもしれない。数日後、鴉の命に捧げる詩として書いたのが、『夜が吊るした命』である。(息絶えた鴉の姿を見たように思うが、そんな勇気があっただろうか。錯覚だと思う。何か月も経った時、間違いなく鴉の姿を探した。しかし、なかった)
酒井の曲は、彼にしかないスタイルを示したものだと思う。速いテンポに合わせて詠むのがたいへんではあった。しかし、音楽として詠んでいるので、作曲者の意図に私が合わせるのは当然である。通常の朗読は、詠み手の表現として、詠み手が詠みたいように詠む。しかし私は、作曲者の作品に自分を添わせて詠んでいる。自分の詩だが、音楽としては私の作品ではない(朗読の部分は、私の表現ではある。ちなみに、このころはまだ詩唱という言葉を用いていない)。初演は、 2006年2月5日。酒井の地元、長崎県諫早市で行なわれたkitara音楽研究所 第三回演奏会「私たちの音を求めて」である。三日後の2月8日に、伊福部昭逝去の知らせを受け取っている。
この詩を初めて詠んだのは、ある詩の雑誌が主催する、詩の講座であった。自作の詩を詠み、それに講師が意見をいう仕組みであった。講師は、旧知の詩人、柴田千明さんであった。私にすれば当然だが、朗読という表現を意識して詠んだ。雑誌の編集長が、講評を目的にした場なのだから、そこまで意識しなくていい、というようなことをいった。講座の後、お酒を飲む機会があった。忘れ難い機会となった。およそ一年が経つころ、編集長は死んだのだ。私より若い人で、急死だったのか。講座の時は、とても亡くなるような感じは受けなかった。機会があれば、あの講座にもう一度、出たいと思う(編集長は死んでいるから現実的には不可能だろうが、現実でなければ可能ではないか?)。
詩には、鎮魂の役目があると思う。魂は、誰かが鎮めなければ、この世をさまよい続ける。講師をしてくれた柴田千明さんに、いわゆる東電OL殺人事件で死んだ女性をモデルにした詩集『空室』がある。柴田さんがその詩を詠んだ時、二度、私は女性主人公の父親として、参加したことがある。殺人犯とされた外国人は、冤罪ではないかといわれている。また東電といえば、今は原発問題で世間の非難を浴びている。いろいろなことを思ってしまうが、そうしたことをすべて含めて、柴田さんの詩集『空室』には、鎮魂の役目が強いのではないか。
(其の十八)
『夜が吊るした命』は、より具体的な、鴉の命への鎮魂歌である。一般的に、鎮魂の行いに欠かせないのが、音楽だろう。声だけでもよい。楽器の演奏が加えられれば、魂はさらに鎮まるに違いない。(宗教儀式に音楽が、歌が、楽器の演奏がつきものなのは、いうまでもないことだ)
田中修一のために書いた『亂譜』は、街の鎮魂歌として書いている。
*
街 焼き尽くさば
瓦礫なす 荒れ野なり
見たし と思へど
街のさま すでに
瓦礫なりや
*
橘川琢のために書いた『夜』は、夜という時間への鎮魂歌である。
*
午前三時の路上をゆく
私たちの葬列
この街に 砦はいらない
*
ことさら鎮魂を意識して書いたのではない。しかし後になって振り返ると、詩自体に鎮魂の気配がただよっている。私にはことさら宗教的な意識はない。しかし書き手の態度に関係なく、詩それ自体が、鎮魂の役を担おうとするようだ。
「北海道新聞」に、伊福部昭と更科源蔵の関わりについて書いた。伊福部は、更科の四つの詩をもとに、歌を作った。
『怒るオホーツク』が『オホーツクの海』になり、『昏れるシレトコ』が『知床半島の漁夫の歌』になり、『摩周湖』と『蒼鷺』は同じ題名の曲になった。すべて、鎮魂の曲と受け取れる。オホーツク海、知床半島、摩周湖、蒼鷺。北海道という土地、その生命に捧げた詩であり、音楽なのだ。
暴風雨(あらし)は遠い軍談(サゴロペ)を語り
敗北の酋長(オッテナ)が眠る森蔭の砦(チャシ)に
穴居の恋を伝えて咲く浜薔薇(はまなす)は赤く
濡れた海鳥の歌うのは何の挽歌だ
オホーツクは怒る(『怒るオホーツク』より)
死滅した前世紀の岩層に
冷却永劫の波はどよめき
落日もなく蒼茫と海は暮て
雲波に沈む北日本列島(『昏れるシレトコ』より)
大洋(わだつみ)は霞て見えず釧路大原
銅(あかがね)の萩の高原(たかはら) 牧場(まき)の果
すぎ行くは牧馬の群か雲の影か
又はかのさすらひて行く暗き種族か(『摩周湖』より)
風は吹き過ぎる
季節は移る
だが蒼鷺は動かぬ
奥の底から魂が羽搏くまで
痩せほそり風にけづられ
許さぬ枯骨となり
凍った青い影となり
動かぬ(『蒼鷺』より)
第十三回で初演される堀井友徳の『北方譚詩 第二番』は、「運河の町」と「森と海への頌歌」である。これは第十二回で初演された「北都七星」「凍歌」に続くものだ。これらの曲のために書いた詩は、ことさら死者とか、亡き何者かの面影を想って書いたのではない。しかし、すべて北の、生きとし生ける者を想って詩作に向かった。魂に思いを寄せることは、相手が死んでいなくても、鎮魂に通じると思う。生と死は隣り合わせである。死があるから生がある。死んだ者たちがあるから、生きる者たちもある。生と死の絶えることない循環。先達の行いに、私たちの行いが続くものとなっていればうれしい。
トロッタ13通信(8)
(其の十五)
トロッタは第四回を、西荻窪のスタジオベルカントで開催した。この時の作曲家は、橘川琢、酒井健吉、田中修一の三人である。全九曲のうち、三人すべてに、声による曲があった。橘川は『冷たいくちづけ』、酒井は『みみず』『兎が月にいたこと』『夜が吊るした命』、田中は『こころ』である。
第四回は、それまでにない楽器が入った。酒井の『夜が吊るした命』の編成が、ヴァイオリンが二人、オーボエとフルート、チェロ、ピアノ、それに朗読だったので、新しい楽器演奏者のための曲を創ろうということになった。それで生まれたのが、橘川の『冷たいくちづけ』である。オーボエとピアノ、朗読による。詩を書いて詠んだ者がいうと自画自賛だが、この曲はよくできたと思う。詩も悩まずに書けた。今なら使わない言葉がある。
「世界が終わろうとする日に/くちづけをしたい」
「世界が終わろうとする日/心には何も 残っていなかった」
「四本の脚が 世界を支える」
「雨が 降り続いている/世界の終わりに向けて」
「世界が終わろうとする日に/身を覆う 底なしの冷たさ」
これら「世界」という言葉。一篇の詩に、五回も使っている。臆面もなく、といいたい。今なら、「世界」というだけで、態度が大きくなり過ぎると思うだろう。大きな広げた反面、こぼれ落ちるものがありそうだと思い、おそらく「世界」は使わない。しかし、この時は使わなければならないと思ったし、使わなければ詩が書けないと思った。今は書かないとしても、今、『冷たいくちづけ』を書くわけではない。あの時とは何もかも違うわけである。書いた時の自分を大切にしたいと思う(過去を反省して、今ならこんなことをしないというなら、過去の自分は全否定されなければならなくなってしまう)。言い方を変えよう。今は「世界」と書かない。しかし、「世界」に向き合うのをやめたのではない。別の言葉で「世界」を表わす。だが詩唱者として『冷たいくちづけ』を、今、演奏する時は別だ。堂々と、「世界」と詠むであろう。
(其の十六)
田中修一の『こころ』は、かつてシャンソン歌手のために書いたが、事情があって初演されず、トロッタが初演となった。田中は萩原朔太郎の詩を選んだ。どういう理由かは知らない。シャンソン歌手とのやりとりがあったかも知れない。それとは関係なく、田中の意思で朔太郎が選ばれたのかも知れない。次の第五回で、田中は朔太郎の詩による『遺傳』を発表することになる。田中は、朔太郎の詩を愛している。もちろんすべてではないだろうが、歌になると思い、自分の心境を重ねられると思っている。朔太郎が見ていたものを、田中修一も見ているのであろう。それは何か? 「さびしさ」だろうか。消え行くような寂しさではない。田中は音感と色彩感を読み取る。「こころ」を「あぢさゐの花」にたとえ、そこに「うすむらさきの/思ひ出」を見、さらに「音なき音のあゆむひびき」を聴き、「わがこころはいつもかくさびしきなり」という最後の一行まで、音楽を展開してゆく。音楽で、詩を演出しているといえようか。詩を使い、音楽という絵筆で、画布に絵を描くようでもある。
“恋”を詠んでいると解釈できる詩だが、先の『冷たいくちづけ』で、「世界が」と書く私のような態度は、朔太郎にはない。私なら、「愛が」とか「恋は」というだろうか。詩は、言葉は、意味の制限を受ける。あいまいではいけないわけだが、「世界」といえば世界以外の何ものでもないので、それを嫌う場合がある、ということだろう。「愛」も「恋」も同様。詩的であるために(詩に詩的というのは変だが)。「世界」でしかない場合、それは詩ではなく、散文になってしまう、か。
トロッタは第四回を、西荻窪のスタジオベルカントで開催した。この時の作曲家は、橘川琢、酒井健吉、田中修一の三人である。全九曲のうち、三人すべてに、声による曲があった。橘川は『冷たいくちづけ』、酒井は『みみず』『兎が月にいたこと』『夜が吊るした命』、田中は『こころ』である。
第四回は、それまでにない楽器が入った。酒井の『夜が吊るした命』の編成が、ヴァイオリンが二人、オーボエとフルート、チェロ、ピアノ、それに朗読だったので、新しい楽器演奏者のための曲を創ろうということになった。それで生まれたのが、橘川の『冷たいくちづけ』である。オーボエとピアノ、朗読による。詩を書いて詠んだ者がいうと自画自賛だが、この曲はよくできたと思う。詩も悩まずに書けた。今なら使わない言葉がある。
「世界が終わろうとする日に/くちづけをしたい」
「世界が終わろうとする日/心には何も 残っていなかった」
「四本の脚が 世界を支える」
「雨が 降り続いている/世界の終わりに向けて」
「世界が終わろうとする日に/身を覆う 底なしの冷たさ」
これら「世界」という言葉。一篇の詩に、五回も使っている。臆面もなく、といいたい。今なら、「世界」というだけで、態度が大きくなり過ぎると思うだろう。大きな広げた反面、こぼれ落ちるものがありそうだと思い、おそらく「世界」は使わない。しかし、この時は使わなければならないと思ったし、使わなければ詩が書けないと思った。今は書かないとしても、今、『冷たいくちづけ』を書くわけではない。あの時とは何もかも違うわけである。書いた時の自分を大切にしたいと思う(過去を反省して、今ならこんなことをしないというなら、過去の自分は全否定されなければならなくなってしまう)。言い方を変えよう。今は「世界」と書かない。しかし、「世界」に向き合うのをやめたのではない。別の言葉で「世界」を表わす。だが詩唱者として『冷たいくちづけ』を、今、演奏する時は別だ。堂々と、「世界」と詠むであろう。
(其の十六)
田中修一の『こころ』は、かつてシャンソン歌手のために書いたが、事情があって初演されず、トロッタが初演となった。田中は萩原朔太郎の詩を選んだ。どういう理由かは知らない。シャンソン歌手とのやりとりがあったかも知れない。それとは関係なく、田中の意思で朔太郎が選ばれたのかも知れない。次の第五回で、田中は朔太郎の詩による『遺傳』を発表することになる。田中は、朔太郎の詩を愛している。もちろんすべてではないだろうが、歌になると思い、自分の心境を重ねられると思っている。朔太郎が見ていたものを、田中修一も見ているのであろう。それは何か? 「さびしさ」だろうか。消え行くような寂しさではない。田中は音感と色彩感を読み取る。「こころ」を「あぢさゐの花」にたとえ、そこに「うすむらさきの/思ひ出」を見、さらに「音なき音のあゆむひびき」を聴き、「わがこころはいつもかくさびしきなり」という最後の一行まで、音楽を展開してゆく。音楽で、詩を演出しているといえようか。詩を使い、音楽という絵筆で、画布に絵を描くようでもある。
“恋”を詠んでいると解釈できる詩だが、先の『冷たいくちづけ』で、「世界が」と書く私のような態度は、朔太郎にはない。私なら、「愛が」とか「恋は」というだろうか。詩は、言葉は、意味の制限を受ける。あいまいではいけないわけだが、「世界」といえば世界以外の何ものでもないので、それを嫌う場合がある、ということだろう。「愛」も「恋」も同様。詩的であるために(詩に詩的というのは変だが)。「世界」でしかない場合、それは詩ではなく、散文になってしまう、か。
2011年4月23日土曜日
トロッタ13通信(7)
(其の十三)
個人的な、朗読への思いを記しておく。それが私にとっては、トロッタの始まり、音楽の始まりだと思うから。
学生時代だから1970年代の末、新宿駅の地下通路でしばしば天本英世を見かけた。マントを来て白い帽子をかぶり、近寄りがたい雰囲気で歩いていた。ご本人には、近寄らせまいとする意図はなかったと思う。1980年、天本は『スペイン巡礼』を刊行した。1979年3月から10月まで、七か月をかけてスペイン全土を巡った記録である。続いて1982年に、“『スペイン巡礼』を補遺する”として『スペイン回想』を出した。天本は、フェデリコ=ガルシア・ロルカの詩を朗唱した。何度も聴いた。独特のしわがれ声で、一度聴いたら忘れられない。ギターの伴奏を得て、天本は役者だから、音楽というより演劇的な印象が強かった。椅子に座り、天を指さす独特の所作が際立っていた。(これがどうなれば、どうすれば音楽になるのか? 天本には音楽という意識は、おそらくなかった。朗唱だったと思う。しかし大きくとらえれば、音楽や朗唱の区別はなく、時に語られ時に歌われ、時にギターが伴奏し時には無伴奏になる、ということでよかったのではないだろうか。天本英世が、ではなく、スペインでも。トロッタの詩唱についても、その考え方で、おそらく間違っていない)
『回想』には、繰り返してフラメンコについての記述がある。つまり−−、
〈フラメンコの始まりはギターでも踊りでもなく無伴奏の唄であった〉
貧しいジプシーが楽器もなしに自分の苦しみを歌う。それがフラメンコの源にある。さまざまある歌の中、とりわけ深い歌をカンテ・ホンドという。フェデリコ=ガルシア・ロルカはこれを愛し、その衰退を憂えてマヌエル・デ・ファリャらと「カンテ・ホンド祭」を催し、さらに『カンテ・ホンドの詩集』を編んだ。天本によれば、フラメンコのメロディはとっつきにくく、甘さがなく、覚えることができない。しかし、それは飽きないということで、いったん体の中、心の中に入ると決して離れていくことがない。余分なもののない、魂だけの音楽だというのだ。天本の朗唱も、そのようなものであったかもしれない。
天本は、『回想』で「ロルカの13の民謡」にも触れている。カンテ・ホンドへの思いと並行して、ロルカはスペイン各地の民謡を集めており、そのうちの十三曲が、今日、ロルカによってピアノ伴奏の歌として残されている。天本英世は、フラメンコの歌は難しくてとても歌えないが、「民謡」は何とか全部歌えるようになったと書いている。読んだ瞬間、私も歌いたい……、と思った。その思いがずっと続き、楽譜は購入していたが歌う機会はなく、第13回のトロッタからやっと、四回シリーズで歌うことになった。それも、スペインをよく知る今井重幸に編曲をしてもらい、ロルカのカンシオネス『スペインの歌』という題名で。
自信などない。スペイン人のようにも歌えまい。しかし、やっと機会を得た。歌いたかったのだから、まず歌ってみることだと思っている。
(其の十四)
これは結論など出ていることではないので、私の勝手な考えとして受け取っていただいていい。
朗読(詩唱とはいわない)の場合、詠めば、誰でもそれらしく聴こえてしまう点に、抵抗感がある。歌なら、例えば音程をはずしてはいけないとか、リズムを守って歌うとか、伴奏楽器と合わせて歌うなど、決まりがある。しかし朗読だけだと、そんなことはない。自由だ。音程は朗読者の音程でよく、リズムも同様、伴奏のあるなしは自由で、伴奏があっても、BGMのように扱われることが多い。重ねていう、自由なのだが、よくも悪くもということで、自由過ぎることへの抵抗がある。
朗読教室というものがある。滑舌や気持ちのこめ方などを指導されて、おそらく、難しいのだろうと思う。あるいは、自由に詠ませてくれるのか。いずれにせよ、私は行ったことがない。しかしその指導も、教室の先生固有の指導で、歌のようには、決まり事はないだろうと想像している。その根拠は、決まり事がなくても、朗読はできるから。朗読は、誰でもできる。敷居が非常に低い。これはいいことだが、そこに抵抗感があると書けば、反発を買うだろうか。(ただし、すばらしい朗読をする人はまれにいる。それが教室で教わった成果か、本人の個性によるかは別に、歌と同じで誰もが印象的な朗読をできるわけではない。歌がうまいから朗読もうまいとは、さらにいえないことである。これまでの体験では、発声の方法が異なる)
天本英世は、役者だ。私も演劇に携わっていた。続けることはできなかったが。だから基盤にある感覚は、音楽というより演劇で、演劇には文学的要素も強いから、詩を書いて、それがトロッタの詩唱曲(便宜的な言い方である)や歌曲につながっている。音楽と演劇、音楽と文学は決定的な違いがある。まだ演劇と文学の方に結びつきは強い。しかし大きくとらえれば、ここでも歴史的に見て、音楽と演劇に違いはなく、いずれの基盤にも文学はある、ということになるのではないか? オペラは音楽だが演劇的要素が強く、古今の文学作品をもとに作曲されることが多いのは周知の事実だ。なぜ、オペラが演劇の一形態として扱われないのか? 演劇ではないとしても、非常に近い性格を持つことは、聴いていれば、観ていればわかる。ミュージカルは、どちらかといえば音楽より演劇として分類されている。この違いはどこにあるのか? 私は結論を出そうとしていない。分類にこだわってもいない。境界はあいまいでいいと思っている。人のすることに、もともと分類などないと思う者である。トロッタでは、朗読といわず、詩唱という。私はこれに、通常の朗読表現と、歌唱表現を含ませている。だからロルカの民謡を、私は詩唱者として歌う。
個人的な、朗読への思いを記しておく。それが私にとっては、トロッタの始まり、音楽の始まりだと思うから。
学生時代だから1970年代の末、新宿駅の地下通路でしばしば天本英世を見かけた。マントを来て白い帽子をかぶり、近寄りがたい雰囲気で歩いていた。ご本人には、近寄らせまいとする意図はなかったと思う。1980年、天本は『スペイン巡礼』を刊行した。1979年3月から10月まで、七か月をかけてスペイン全土を巡った記録である。続いて1982年に、“『スペイン巡礼』を補遺する”として『スペイン回想』を出した。天本は、フェデリコ=ガルシア・ロルカの詩を朗唱した。何度も聴いた。独特のしわがれ声で、一度聴いたら忘れられない。ギターの伴奏を得て、天本は役者だから、音楽というより演劇的な印象が強かった。椅子に座り、天を指さす独特の所作が際立っていた。(これがどうなれば、どうすれば音楽になるのか? 天本には音楽という意識は、おそらくなかった。朗唱だったと思う。しかし大きくとらえれば、音楽や朗唱の区別はなく、時に語られ時に歌われ、時にギターが伴奏し時には無伴奏になる、ということでよかったのではないだろうか。天本英世が、ではなく、スペインでも。トロッタの詩唱についても、その考え方で、おそらく間違っていない)
『回想』には、繰り返してフラメンコについての記述がある。つまり−−、
〈フラメンコの始まりはギターでも踊りでもなく無伴奏の唄であった〉
貧しいジプシーが楽器もなしに自分の苦しみを歌う。それがフラメンコの源にある。さまざまある歌の中、とりわけ深い歌をカンテ・ホンドという。フェデリコ=ガルシア・ロルカはこれを愛し、その衰退を憂えてマヌエル・デ・ファリャらと「カンテ・ホンド祭」を催し、さらに『カンテ・ホンドの詩集』を編んだ。天本によれば、フラメンコのメロディはとっつきにくく、甘さがなく、覚えることができない。しかし、それは飽きないということで、いったん体の中、心の中に入ると決して離れていくことがない。余分なもののない、魂だけの音楽だというのだ。天本の朗唱も、そのようなものであったかもしれない。
天本は、『回想』で「ロルカの13の民謡」にも触れている。カンテ・ホンドへの思いと並行して、ロルカはスペイン各地の民謡を集めており、そのうちの十三曲が、今日、ロルカによってピアノ伴奏の歌として残されている。天本英世は、フラメンコの歌は難しくてとても歌えないが、「民謡」は何とか全部歌えるようになったと書いている。読んだ瞬間、私も歌いたい……、と思った。その思いがずっと続き、楽譜は購入していたが歌う機会はなく、第13回のトロッタからやっと、四回シリーズで歌うことになった。それも、スペインをよく知る今井重幸に編曲をしてもらい、ロルカのカンシオネス『スペインの歌』という題名で。
自信などない。スペイン人のようにも歌えまい。しかし、やっと機会を得た。歌いたかったのだから、まず歌ってみることだと思っている。
(其の十四)
これは結論など出ていることではないので、私の勝手な考えとして受け取っていただいていい。
朗読(詩唱とはいわない)の場合、詠めば、誰でもそれらしく聴こえてしまう点に、抵抗感がある。歌なら、例えば音程をはずしてはいけないとか、リズムを守って歌うとか、伴奏楽器と合わせて歌うなど、決まりがある。しかし朗読だけだと、そんなことはない。自由だ。音程は朗読者の音程でよく、リズムも同様、伴奏のあるなしは自由で、伴奏があっても、BGMのように扱われることが多い。重ねていう、自由なのだが、よくも悪くもということで、自由過ぎることへの抵抗がある。
朗読教室というものがある。滑舌や気持ちのこめ方などを指導されて、おそらく、難しいのだろうと思う。あるいは、自由に詠ませてくれるのか。いずれにせよ、私は行ったことがない。しかしその指導も、教室の先生固有の指導で、歌のようには、決まり事はないだろうと想像している。その根拠は、決まり事がなくても、朗読はできるから。朗読は、誰でもできる。敷居が非常に低い。これはいいことだが、そこに抵抗感があると書けば、反発を買うだろうか。(ただし、すばらしい朗読をする人はまれにいる。それが教室で教わった成果か、本人の個性によるかは別に、歌と同じで誰もが印象的な朗読をできるわけではない。歌がうまいから朗読もうまいとは、さらにいえないことである。これまでの体験では、発声の方法が異なる)
天本英世は、役者だ。私も演劇に携わっていた。続けることはできなかったが。だから基盤にある感覚は、音楽というより演劇で、演劇には文学的要素も強いから、詩を書いて、それがトロッタの詩唱曲(便宜的な言い方である)や歌曲につながっている。音楽と演劇、音楽と文学は決定的な違いがある。まだ演劇と文学の方に結びつきは強い。しかし大きくとらえれば、ここでも歴史的に見て、音楽と演劇に違いはなく、いずれの基盤にも文学はある、ということになるのではないか? オペラは音楽だが演劇的要素が強く、古今の文学作品をもとに作曲されることが多いのは周知の事実だ。なぜ、オペラが演劇の一形態として扱われないのか? 演劇ではないとしても、非常に近い性格を持つことは、聴いていれば、観ていればわかる。ミュージカルは、どちらかといえば音楽より演劇として分類されている。この違いはどこにあるのか? 私は結論を出そうとしていない。分類にこだわってもいない。境界はあいまいでいいと思っている。人のすることに、もともと分類などないと思う者である。トロッタでは、朗読といわず、詩唱という。私はこれに、通常の朗読表現と、歌唱表現を含ませている。だからロルカの民謡を、私は詩唱者として歌う。
2011年4月22日金曜日
2011年4月21日木曜日
トロッタ13通信(6)
(其の十一)
西川直美(ソプラノ/一回、二回)
成富智佳子(ソプラノ/三回)
かのうよしこ(アルト/二回)
今泉藍子(ピアノ/一回、二回)
仲村真貴子(ピアノ/三回)
三浦永美子(ピアノ/三回)
戸塚ふみ代(ヴァイオリン/一回、二回、三回)
木部与巴仁(朗読/一回、二回、三回)
以上が、三回にわたった「トロッタの会」松濤サロン公演の演奏者である。当然のことだが、演奏者があって初めて、曲は形になる。彼女たちの存在には、感謝し過ぎることはない。戸塚と私以外について書く。
西川直美は、当初より人選や練習場の提供などで協力をしてくれた作曲家、甲田潤に紹介された。甲田が関わる演奏会などで、ソリストとして、あるいは合唱の一員としても活躍している。『立つ鳥は』の初演者として、田中修一が西川の声を気に入っていたことを強く記憶している。
今泉藍子は、戸塚ふみ代の知人の紹介で参加してくれた。ピアニストらしく、楽譜の入った鞄を大切そうに提げて現れた姿が印象に残った。ヴァイオリン、詩唱との共演もあったが、第二回の、酒井健吉の独奏ピアノ曲『ピアノのための舞踊的狂詩曲』を独り弾く横顔を覚えている。
成富智佳子、仲村真貴子、三浦永美子とは、新宿の喫茶店で初めて会った。全員が、友人同士であった。そのような、個別の面談を全員と行なってきた(地道な作業を、地道にする。誰もがしていることだ。本来はもうひとり、ソプラノの参加者があったが、本番直前に病気となり、出演不可能となった。辛い思い出である)。心がけていることがある。初めての出会いは喫茶店だが、それ以前の歴史をどこまで受けとめられるか。たとえ学生でも、二十年ほどの歴史がある。だから演奏者として私と会ってくれている。そこに想いを至らせず、ただ歌ってください、ピアノを弾いてくださいではいけない。三十年、ずっと言い聞かせてきたことだ。
かのうよしこには、カフェ・谷中ボッサで出会った。私がボッサで行なった「ボッサ 声と歌の会」の第一回を聴いてくれた。彼女がボッサで行なったライヴに、私は偶然、足を運んでいる。朗読も試み、アルトの歌い手であるかのうが参加してくれたことで、作曲家の可能性も広がった。
彼女らのひとりも、第十三回への参加者はない。基本的に、関わりのあった人とは、私はずっと関係を持っていたいと思う。しかし、ひとりの思いだけではどうにもならない。先に書いたが、記録映像を撮り続けてくれた映像集団ゴールデンシットとも、十回で関係が終わった。ひとえに、私の力が足りないのだと思っている。また出たい、と思ってくれるようなトロッタにしたい。理想は、トロッタは自分の会だと、ひとりひとりが思ってくれること。矛盾した表現に読めるかもしれないが、逆に私は、トロッタを自分の会だと思っていない。トロッタに参加する全員の会にしたいと思っている。
(其の十二)
名前が出たので書いておく。カフェ・谷中ボッサで行なっている「ボッサ 声と音の会」のことである。第一回を開いたのはトロッタより一年早い。二〇〇六年二月にスタート。同年に三回を開き、(トロッタが始まったこともあり二〇〇七年は休み)、二〇〇八年にトロッタのメンバーで再会して、以後毎年一回ずつ行なってきた。
題名どおり、声と音の会である。基本的な姿勢は、トロッタと変わらない(何をするにも、生きることと同義で行なっているので変わらないはずだが、例えば詩を歌うことと書くことは、同じ詩に関することでも、身体行為として異なるので、その点は変わる)。初期は、第一回のピエール・バルーをはじめとしてゲストを招き、彼や彼女らとのコラボレーションを行なった(第二回の出演者だった内藤修央には、打楽器奏者として、後にトロッタに参加してもらった)。二〇〇八年からは、作曲者、演奏者とも、トロッタのメンバーに参加していただいている。
書きながら思い出した。私は詩が歌に、音楽になってゆく過程に最大の関心を持っている。例えば二〇〇六年十二月六日に書いたトロッタの企画書に、こんな文章があった。
「詩の朗読会は世界各地で行われていますが、朗読を楽器演奏とともに行うことで、歌が歌として成立する以前の形、詩と音楽の出会い、朗読者固有の声の力など、さまざまなテーマを浮き上がらせてまいります。私たちはこの形式を、音楽であると考えます。朗読を伴わない器楽曲、声楽曲も採り上げ、音楽性を充分に満たす会にいたします。/これは、木部与巴仁が、2005年11月から2006年10月まで、隔週刊で発行してきた個人紙「詩の通信」の新版であり、舞台版です。/会のメンバー、スタッフにとっては、それぞれの考えがあることでしょう。異なる考えがあってよく、それは会を続けていく上で、互いの関係を活性化させるものとなるはずです。「詩と音楽」の会を念頭に置きますが、形は変化してかまいません。変化させたいという欲求が起こるくらいの会を望んでいます」
朗読者固有の声の力はともかく−−、
〈歌が歌として成立する以前の形〉
〈詩と音楽の出会い〉
この二点が、私個人が思う、大切な点だ。これらがなければ、一般に受け容れられている歌も、そもそも成立しない。
先の一文は、「ボッサ 声と音の会」第三回の直後に書いている。第三回は、アイルランドに先祖を持つカナダ人作家、アリステア・マクラウドの作品を取り上げて朗読した。代々伝わるアイルランドの歌や音楽が、時代とともに変化してゆく。それでも守らなければならないものがあると心を尽くす男たち。私はそこに、〈歌が歌として成立する以前の形〉〈詩と音楽の出会い〉を見た。トロッタの礎には、そうした思いがある。あくまで個人的な思いだ。作曲者、演奏者全員に、それぞれの思いがあるだろう。そのことを、わからないまでも想像できるかどうか。人の歴史を想うとは、そういうことだ。だからトロッタを、思いの集まった会だと、私は認識している。
西川直美(ソプラノ/一回、二回)
成富智佳子(ソプラノ/三回)
かのうよしこ(アルト/二回)
今泉藍子(ピアノ/一回、二回)
仲村真貴子(ピアノ/三回)
三浦永美子(ピアノ/三回)
戸塚ふみ代(ヴァイオリン/一回、二回、三回)
木部与巴仁(朗読/一回、二回、三回)
以上が、三回にわたった「トロッタの会」松濤サロン公演の演奏者である。当然のことだが、演奏者があって初めて、曲は形になる。彼女たちの存在には、感謝し過ぎることはない。戸塚と私以外について書く。
西川直美は、当初より人選や練習場の提供などで協力をしてくれた作曲家、甲田潤に紹介された。甲田が関わる演奏会などで、ソリストとして、あるいは合唱の一員としても活躍している。『立つ鳥は』の初演者として、田中修一が西川の声を気に入っていたことを強く記憶している。
今泉藍子は、戸塚ふみ代の知人の紹介で参加してくれた。ピアニストらしく、楽譜の入った鞄を大切そうに提げて現れた姿が印象に残った。ヴァイオリン、詩唱との共演もあったが、第二回の、酒井健吉の独奏ピアノ曲『ピアノのための舞踊的狂詩曲』を独り弾く横顔を覚えている。
成富智佳子、仲村真貴子、三浦永美子とは、新宿の喫茶店で初めて会った。全員が、友人同士であった。そのような、個別の面談を全員と行なってきた(地道な作業を、地道にする。誰もがしていることだ。本来はもうひとり、ソプラノの参加者があったが、本番直前に病気となり、出演不可能となった。辛い思い出である)。心がけていることがある。初めての出会いは喫茶店だが、それ以前の歴史をどこまで受けとめられるか。たとえ学生でも、二十年ほどの歴史がある。だから演奏者として私と会ってくれている。そこに想いを至らせず、ただ歌ってください、ピアノを弾いてくださいではいけない。三十年、ずっと言い聞かせてきたことだ。
かのうよしこには、カフェ・谷中ボッサで出会った。私がボッサで行なった「ボッサ 声と歌の会」の第一回を聴いてくれた。彼女がボッサで行なったライヴに、私は偶然、足を運んでいる。朗読も試み、アルトの歌い手であるかのうが参加してくれたことで、作曲家の可能性も広がった。
彼女らのひとりも、第十三回への参加者はない。基本的に、関わりのあった人とは、私はずっと関係を持っていたいと思う。しかし、ひとりの思いだけではどうにもならない。先に書いたが、記録映像を撮り続けてくれた映像集団ゴールデンシットとも、十回で関係が終わった。ひとえに、私の力が足りないのだと思っている。また出たい、と思ってくれるようなトロッタにしたい。理想は、トロッタは自分の会だと、ひとりひとりが思ってくれること。矛盾した表現に読めるかもしれないが、逆に私は、トロッタを自分の会だと思っていない。トロッタに参加する全員の会にしたいと思っている。
(其の十二)
名前が出たので書いておく。カフェ・谷中ボッサで行なっている「ボッサ 声と音の会」のことである。第一回を開いたのはトロッタより一年早い。二〇〇六年二月にスタート。同年に三回を開き、(トロッタが始まったこともあり二〇〇七年は休み)、二〇〇八年にトロッタのメンバーで再会して、以後毎年一回ずつ行なってきた。
題名どおり、声と音の会である。基本的な姿勢は、トロッタと変わらない(何をするにも、生きることと同義で行なっているので変わらないはずだが、例えば詩を歌うことと書くことは、同じ詩に関することでも、身体行為として異なるので、その点は変わる)。初期は、第一回のピエール・バルーをはじめとしてゲストを招き、彼や彼女らとのコラボレーションを行なった(第二回の出演者だった内藤修央には、打楽器奏者として、後にトロッタに参加してもらった)。二〇〇八年からは、作曲者、演奏者とも、トロッタのメンバーに参加していただいている。
書きながら思い出した。私は詩が歌に、音楽になってゆく過程に最大の関心を持っている。例えば二〇〇六年十二月六日に書いたトロッタの企画書に、こんな文章があった。
「詩の朗読会は世界各地で行われていますが、朗読を楽器演奏とともに行うことで、歌が歌として成立する以前の形、詩と音楽の出会い、朗読者固有の声の力など、さまざまなテーマを浮き上がらせてまいります。私たちはこの形式を、音楽であると考えます。朗読を伴わない器楽曲、声楽曲も採り上げ、音楽性を充分に満たす会にいたします。/これは、木部与巴仁が、2005年11月から2006年10月まで、隔週刊で発行してきた個人紙「詩の通信」の新版であり、舞台版です。/会のメンバー、スタッフにとっては、それぞれの考えがあることでしょう。異なる考えがあってよく、それは会を続けていく上で、互いの関係を活性化させるものとなるはずです。「詩と音楽」の会を念頭に置きますが、形は変化してかまいません。変化させたいという欲求が起こるくらいの会を望んでいます」
朗読者固有の声の力はともかく−−、
〈歌が歌として成立する以前の形〉
〈詩と音楽の出会い〉
この二点が、私個人が思う、大切な点だ。これらがなければ、一般に受け容れられている歌も、そもそも成立しない。
先の一文は、「ボッサ 声と音の会」第三回の直後に書いている。第三回は、アイルランドに先祖を持つカナダ人作家、アリステア・マクラウドの作品を取り上げて朗読した。代々伝わるアイルランドの歌や音楽が、時代とともに変化してゆく。それでも守らなければならないものがあると心を尽くす男たち。私はそこに、〈歌が歌として成立する以前の形〉〈詩と音楽の出会い〉を見た。トロッタの礎には、そうした思いがある。あくまで個人的な思いだ。作曲者、演奏者全員に、それぞれの思いがあるだろう。そのことを、わからないまでも想像できるかどうか。人の歴史を想うとは、そういうことだ。だからトロッタを、思いの集まった会だと、私は認識している。
2011年4月20日水曜日
トロッタ13通信(5)
(其の九)
第三回から、作曲家に橘川琢が加わった。この時は二曲を出品している。ピアノ独奏曲『叙情組曲 日本の小径(こみち)』と、詩歌曲『時の岬・雨のぬくもり〜木部与巴仁「夜」 橘川琢「幻灯機」の詩に依る』である。この時、詩人と作曲家のあり方について、考えを新たにすることがあった。『日本の小径』で、橘川が、自作の詩『幻灯機』を『雨のぬくもり』として、曲に生かしたのである。また、私の詩『夜』も、曲名としては『時の岬』になった。自分の詩と他人の詩が組み合わされるのは、初めての体験であった。詩として、曲としては順序立てられているものの、二曲で一作品だから、組み合わせれたことには違いない。そうしたいと思った理由をはっきりとは聞いていないが、それが橘川なりの詩との取り組み方、自分も詩を書いて楽曲化する、その一手法であったろう。
橘川の台詞で忘れられないものがある。曲の題を決める時、図書館に一日中こもって、本を目の前に積み上げ、広げて、言葉を探す−−。
なるほど。そのようにする人がいるのかと思った。人にはそれぞれの方法があるが、図書館を使うとは思わなかった。私など、机に向かい、天井を向いているだけである。言葉が宙に浮いているわけではない。天井から垂れてくるわけでもない。他人の目には、漂う言葉を見つめているとも、天井から降って来るのを待っているとも映るだろう。しかしそんなことはないので、ぼんやりしているだけだ。粟粒のように言葉が浮かぶのを期待しているのだ。浮かばなければ頭の中をかきまぜる。それでも浮かばなければ、コンピュータではなく、ノートか原稿用紙に言葉を書きつけてゆく。気分転換に喫茶店に行くこともある。そうしているうちに、ぱっと言葉が浮かぶので、さっと書きつける。そして、コンピュータの画面上で整理する。
酒井健吉、田中修一とは何度かやりとりしてきたが、ふたりとは違う、橘川琢という個性に出会った。私以外の詩がトロッタに現れた、初めての機会であった。
(其の十)
第三回まで、トロッタは渋谷の松濤サロンで開催された。
その後、西荻窪の松庵や、早稲田大学に近い西早稲田でも行なった。第13回は、12回から続く、早稲田奉仕園で行なう。すばらしい会場だが、渋谷で始まったということ自体に、私は意味を見出している。人がおおぜいいる、ごった煮のような場所、アスファルトとコンクリートに囲まれた場所、静寂より騒音、落ち着きより慌ただしさのある場所を、私は好んでいる。都会がいいという、単純な理由ではない。例えば、コンクリートにへばりつくように生えている、見向きもされない雑草に共感している。『ひよどりが見たもの』で書いた、ビルの谷間を縫って飛ぶ鳥たちに共感している。土の感触を知らずに生まれて死ぬ、都会の鼠たちにも共感している。生きにくい場所で生き抜くたくましさを、私は好きだ。(予算や集客の関係で小さな会場になったという実際面の理由があるにせよ)渋谷という大都会の片隅で生まれる珠玉の音楽を、私は望んだ。そんな場所でも音楽は、詩は生まれると思いたかった。だから小松史明のデザインにも、ひよどりの絵、花や木の絵の背景に、ビルやアスファルト道路の写真が組み合わされている。
第三回公演には、別の思い出もある。池田康が編集する雑誌「洪水」(洪水企画)が、トロッタをとりあげてくれた。第三回公演の本番前と、本番の後、さらに翌日と、池田のはからいによって話し合いの場が設けられ、特に翌日は会議室を借り切っての座談会を行って、その記録が、第一号(2007年冬号)に掲載されたのだ。開催三回を数えたばかりのトロッタにとって、過分な扱いだと感謝している。「洪水」も、その副題が「詩と音楽のための」で、トロッタと共通点がある。記事に名前と発言が乗ったのは、橘川琢、酒井健吉、田中修一、戸塚ふみ代、そして、私。この取材と座談会も、すべて渋谷で行なわれた。トロッタと渋谷の縁は深かったのである。
第三回から、作曲家に橘川琢が加わった。この時は二曲を出品している。ピアノ独奏曲『叙情組曲 日本の小径(こみち)』と、詩歌曲『時の岬・雨のぬくもり〜木部与巴仁「夜」 橘川琢「幻灯機」の詩に依る』である。この時、詩人と作曲家のあり方について、考えを新たにすることがあった。『日本の小径』で、橘川が、自作の詩『幻灯機』を『雨のぬくもり』として、曲に生かしたのである。また、私の詩『夜』も、曲名としては『時の岬』になった。自分の詩と他人の詩が組み合わされるのは、初めての体験であった。詩として、曲としては順序立てられているものの、二曲で一作品だから、組み合わせれたことには違いない。そうしたいと思った理由をはっきりとは聞いていないが、それが橘川なりの詩との取り組み方、自分も詩を書いて楽曲化する、その一手法であったろう。
橘川の台詞で忘れられないものがある。曲の題を決める時、図書館に一日中こもって、本を目の前に積み上げ、広げて、言葉を探す−−。
なるほど。そのようにする人がいるのかと思った。人にはそれぞれの方法があるが、図書館を使うとは思わなかった。私など、机に向かい、天井を向いているだけである。言葉が宙に浮いているわけではない。天井から垂れてくるわけでもない。他人の目には、漂う言葉を見つめているとも、天井から降って来るのを待っているとも映るだろう。しかしそんなことはないので、ぼんやりしているだけだ。粟粒のように言葉が浮かぶのを期待しているのだ。浮かばなければ頭の中をかきまぜる。それでも浮かばなければ、コンピュータではなく、ノートか原稿用紙に言葉を書きつけてゆく。気分転換に喫茶店に行くこともある。そうしているうちに、ぱっと言葉が浮かぶので、さっと書きつける。そして、コンピュータの画面上で整理する。
酒井健吉、田中修一とは何度かやりとりしてきたが、ふたりとは違う、橘川琢という個性に出会った。私以外の詩がトロッタに現れた、初めての機会であった。
(其の十)
第三回まで、トロッタは渋谷の松濤サロンで開催された。
その後、西荻窪の松庵や、早稲田大学に近い西早稲田でも行なった。第13回は、12回から続く、早稲田奉仕園で行なう。すばらしい会場だが、渋谷で始まったということ自体に、私は意味を見出している。人がおおぜいいる、ごった煮のような場所、アスファルトとコンクリートに囲まれた場所、静寂より騒音、落ち着きより慌ただしさのある場所を、私は好んでいる。都会がいいという、単純な理由ではない。例えば、コンクリートにへばりつくように生えている、見向きもされない雑草に共感している。『ひよどりが見たもの』で書いた、ビルの谷間を縫って飛ぶ鳥たちに共感している。土の感触を知らずに生まれて死ぬ、都会の鼠たちにも共感している。生きにくい場所で生き抜くたくましさを、私は好きだ。(予算や集客の関係で小さな会場になったという実際面の理由があるにせよ)渋谷という大都会の片隅で生まれる珠玉の音楽を、私は望んだ。そんな場所でも音楽は、詩は生まれると思いたかった。だから小松史明のデザインにも、ひよどりの絵、花や木の絵の背景に、ビルやアスファルト道路の写真が組み合わされている。
第三回公演には、別の思い出もある。池田康が編集する雑誌「洪水」(洪水企画)が、トロッタをとりあげてくれた。第三回公演の本番前と、本番の後、さらに翌日と、池田のはからいによって話し合いの場が設けられ、特に翌日は会議室を借り切っての座談会を行って、その記録が、第一号(2007年冬号)に掲載されたのだ。開催三回を数えたばかりのトロッタにとって、過分な扱いだと感謝している。「洪水」も、その副題が「詩と音楽のための」で、トロッタと共通点がある。記事に名前と発言が乗ったのは、橘川琢、酒井健吉、田中修一、戸塚ふみ代、そして、私。この取材と座談会も、すべて渋谷で行なわれた。トロッタと渋谷の縁は深かったのである。
トロッタ13通信(4)
(其の七)
考えは今も変わらないが、敢て口にすることはなくなった−−「トロッタ」が始まった当時、スケールの大きさを心がけていた。田中修一に、よくいわれる。第三回で初演した田中の曲、『声と2台ピアノのためのムーヴメント』を書くにあたって、私は2台ピアノの曲をすすめ、それができなければ手抜きとみなすといったという。手抜きという言葉を使ったかどうかは不確かだが、それくらい気持ちをこめた曲をお願いしたいといったことは事実だ。2台ピアノだからスケールが出るかといえば、それは別の話である。田中も曲解説で書いた。「独唱歌曲の伴奏を2台ピアノとしたのは、危険な冒険であり、些かの不安を禁じ得ない」。確かに「危険な冒険」だ。スケールの大きさは1台でも表現できる。私は冒険がしてみたかったのだろうか。そうかもしれない。だが冒険というなら、「トロッタの会」自体が冒険ではないか? 初めは、毎月行おうと考えていた。会の規模が膨らむにつれて不可能になって来たが、それでも、毎回、柱になるのは新曲である。詩はもちろんだが曲を書かなければいけない。また、トロッタは詩と音楽の会だと、方向性をうたっている。詩の会はあるし、歌曲の演奏会もあるが、詩と音楽の会というのは、あまりない。しかも、朗読のための曲、後に詩唱という言葉に置き換えられるが、歌ではない詩唱のための曲が柱にある会は、やはり、ほとんどないと思われる。
話を戻して、今もスケールを求めている。音楽のスケールとは何か? オーケストラだから大きいわけではなく、ピアノ1台だから小さいわけではない。それは訴え、生ずる感情の大きさだろう。楽器を伴わない詩唱だけでも、スケール感は出せるはずだ。当初は毎月行なおうと考えていた。大きな会場は無理だから、小さなサロン、スタジオでいい。そのために、いろいろな会場を探した。普段は練習に使われるような場所を見て回った。サロンでもスタジオでも、スケールは出せると思った。2台ピアノは「危険な冒険」だったが、挑んでよかったと思う。田中の『ムーヴメント』は断続的に発表され、第13回で四作目となる。用いられた詩は、順に『亂譜』(3回、8回)、『瓦礫の王』(11回)、『未來の神話』(12回)、そして『儀式』(13回)である。トロッタで生まれた、シリーズ作品になっている。
(其の八)
第三回で演奏した酒井健吉の歌曲に、『唄う』がある。作曲は2005年で、ソプラノとピアノのための曲だった。2007年3月の演奏は、これにヴァイオリンを加えた改訂版である。詩の始まりを抜粋する。
*
誰のためでもなく
何かのためでもない
私はただ
音楽の神を想って唄う
どこかにきっといる
音楽の神に
頭を垂れ
素直な心をもって唄う
*
誤解もあると思うが、これは私の、正直な思いだ。トロッタを、詩を書く者としての自己表現の場として考えていない。自分を含めて誰のためでも何かのためでもない、抽象的だが、「音楽の神」を想って開催している。「神」に聴いてもらえればいい。私は、空(うつ)。だから、初めは主催者とも主宰者ともいわなかった。偉そうになるのは嫌だ。今は、便宜上、そう書くことがある。金銭の支払いや、会場や物品を借用する際に、責任の所在をはっきりさせなければならない場合があるから。だが、心のうちはやはり、トロッタは自己表現の場と思っておらず、主催者、主宰者でもないことを明記しておきたい。詩を書いて詠んでいるのだから自己表現なのでは? そういわれるだろう。反論しない。何もいわないことに決めている。考えないでいいことだ。詩『唄う』は、このように続く。
*
きっと聴いてくれる
聴いてほしいと願い
それが唯一
私が素直になれる時
素直になりたくて
唄うのだ
心を開き 身をあずけ
よこしまさのつけいる隙もなく
夢中になって
唄いたい だから
*
酒井健吉らしい、記憶に残る旋律が生まれた。素直になるのは難しい。だが、素直でいられれば、それがいちばん強い。誘惑に心を惑わすことなく、常に心を開いて過ごす。疑心は必要ない。思うことがあれば、気負いも遠慮もなく、口にできればいい。トロッタは、そのような、素直な会でありたい。
考えは今も変わらないが、敢て口にすることはなくなった−−「トロッタ」が始まった当時、スケールの大きさを心がけていた。田中修一に、よくいわれる。第三回で初演した田中の曲、『声と2台ピアノのためのムーヴメント』を書くにあたって、私は2台ピアノの曲をすすめ、それができなければ手抜きとみなすといったという。手抜きという言葉を使ったかどうかは不確かだが、それくらい気持ちをこめた曲をお願いしたいといったことは事実だ。2台ピアノだからスケールが出るかといえば、それは別の話である。田中も曲解説で書いた。「独唱歌曲の伴奏を2台ピアノとしたのは、危険な冒険であり、些かの不安を禁じ得ない」。確かに「危険な冒険」だ。スケールの大きさは1台でも表現できる。私は冒険がしてみたかったのだろうか。そうかもしれない。だが冒険というなら、「トロッタの会」自体が冒険ではないか? 初めは、毎月行おうと考えていた。会の規模が膨らむにつれて不可能になって来たが、それでも、毎回、柱になるのは新曲である。詩はもちろんだが曲を書かなければいけない。また、トロッタは詩と音楽の会だと、方向性をうたっている。詩の会はあるし、歌曲の演奏会もあるが、詩と音楽の会というのは、あまりない。しかも、朗読のための曲、後に詩唱という言葉に置き換えられるが、歌ではない詩唱のための曲が柱にある会は、やはり、ほとんどないと思われる。
話を戻して、今もスケールを求めている。音楽のスケールとは何か? オーケストラだから大きいわけではなく、ピアノ1台だから小さいわけではない。それは訴え、生ずる感情の大きさだろう。楽器を伴わない詩唱だけでも、スケール感は出せるはずだ。当初は毎月行なおうと考えていた。大きな会場は無理だから、小さなサロン、スタジオでいい。そのために、いろいろな会場を探した。普段は練習に使われるような場所を見て回った。サロンでもスタジオでも、スケールは出せると思った。2台ピアノは「危険な冒険」だったが、挑んでよかったと思う。田中の『ムーヴメント』は断続的に発表され、第13回で四作目となる。用いられた詩は、順に『亂譜』(3回、8回)、『瓦礫の王』(11回)、『未來の神話』(12回)、そして『儀式』(13回)である。トロッタで生まれた、シリーズ作品になっている。
(其の八)
第三回で演奏した酒井健吉の歌曲に、『唄う』がある。作曲は2005年で、ソプラノとピアノのための曲だった。2007年3月の演奏は、これにヴァイオリンを加えた改訂版である。詩の始まりを抜粋する。
*
誰のためでもなく
何かのためでもない
私はただ
音楽の神を想って唄う
どこかにきっといる
音楽の神に
頭を垂れ
素直な心をもって唄う
*
誤解もあると思うが、これは私の、正直な思いだ。トロッタを、詩を書く者としての自己表現の場として考えていない。自分を含めて誰のためでも何かのためでもない、抽象的だが、「音楽の神」を想って開催している。「神」に聴いてもらえればいい。私は、空(うつ)。だから、初めは主催者とも主宰者ともいわなかった。偉そうになるのは嫌だ。今は、便宜上、そう書くことがある。金銭の支払いや、会場や物品を借用する際に、責任の所在をはっきりさせなければならない場合があるから。だが、心のうちはやはり、トロッタは自己表現の場と思っておらず、主催者、主宰者でもないことを明記しておきたい。詩を書いて詠んでいるのだから自己表現なのでは? そういわれるだろう。反論しない。何もいわないことに決めている。考えないでいいことだ。詩『唄う』は、このように続く。
*
きっと聴いてくれる
聴いてほしいと願い
それが唯一
私が素直になれる時
素直になりたくて
唄うのだ
心を開き 身をあずけ
よこしまさのつけいる隙もなく
夢中になって
唄いたい だから
*
酒井健吉らしい、記憶に残る旋律が生まれた。素直になるのは難しい。だが、素直でいられれば、それがいちばん強い。誘惑に心を惑わすことなく、常に心を開いて過ごす。疑心は必要ない。思うことがあれば、気負いも遠慮もなく、口にできればいい。トロッタは、そのような、素直な会でありたい。
2011年4月19日火曜日
トロッタ13通信(3)
(其の五)
“詩と音楽を歌い、奏でる”と、銘打ちました。音楽を歌い、奏でるには異論はないでしょうが、詩は、歌うものでしょうか? 奏でるものでしょうか? 答えは出ませんが、ただ読むだけのものにはしたくありません。少なくとも黙読には終わらせたくない。声に出して詠むうち、詠み手だけのリズムが生まれ、原初のメロディが生じる。そして楽器とともに詠み、あるいは他の声と重ねることで、ハーモニーもまた生まれる。それは音楽と呼べないのでしょうかと、問いたいのです。
私たちの歩みは、五里霧中です。しかし、まず行為ありきです。答えは行為の後についてくるでしょう。何度、会を開けるかもわかりません。まず、1回、そして次の、1回。少しずつ、歩んでまいります。(第1回チラシ・挨拶より/2007.2.25)
発会にあたり、まず2月・3月の松濤サロン公演に全力を傾注してまいりました。この先がどうなるか、継続を当然としながらも、予断は許されない状況です。皆様、「トロッタの会」を、よろしくお願いいたします。作曲者、演奏者だけで成り立つ会ではありません。お聴きいただき、ご来場いただけなくともお気にかけていただき、さらにはご批評をいただく皆様の支えがあって、初めて私どもは「トロッタの会」を催すことができます。舞台と客席が融け合う会場全体が、「トロッタの会」なのです。将来をご支援いただきますよう、お願い申し上げます。(第2回チラシ・挨拶より/2007.3.25)
……3月公演でお聴きいただきました酒井さん作曲の歌曲、『唄う』の詩を思い出します。
「誰のためでもなく 何かのためでもない 私はただ 音楽の神を想って唄う(中略)きっと聴いてくれる 聴いてほしいと願い それが唯一 私が素直になれる時」
基本は、ここにあります。この姿勢さえ忘れなければ、私たちにはどんな冒険心も実験精神も、許されると思います。何といっても、どの作品もオリジナルです。作曲者本人が、会場に身を置き、皆様と共に曲を聴いています。どんな批判をいただいても謙虚に受け止めます。演奏者については、同様のことをいうまでもありません。たった今、生きている姿を、彼らはご覧にいれているわけです。今後は、会のメンバー以外の曲、亡くなった方の曲、外国の方の曲も取り上げる機会があるでしょう。しかしその場合も、これは「トロッタの会」として演奏する、自分たちの曲だという気持ちを忘れません。(第3回チラシ・挨拶より/2007.5.27)
*
「トロッタの会」は、当初の3回を、渋谷区松濤にある、タカギクラヴィア 松濤サロンで開いた。当時のチラシから、部分を引用した。小さな会場だが、ほんの二、三十席を埋めるのでも大変である。ひとりの人にせよ、その方の時間とお金をいただくのだから、ほとんど無理に近いことだとさえ思う。生硬な文章だが、基本的な姿勢は今も変わっていない。感謝し過ぎてし過ぎることはない。しかし、その感謝に自分で潰されないことも大切であろう。
(其の六)
過去のチラシを見るたびに、小松史明の絵の見事さを実感する。小松によるチラシが配られた時、トロッタの幕は上がっている。第13回のチラシで初めて、出演者欄に、小松の名前とプロフィールを加えた。彼もまた、トロッタの第一回から欠かせないメンバーだから。(チラシをあまりぜいたくに作る必要はないのでは? とよくいわれる。決してぜいたくではない。チラシは小松史明の作品である。10円コピーでは作れないし、仮に10円コピーで作るとしても、そこに作品としての質を求めたい。白黒コピーが芸術の価値を持ったなら、それはすばらしいことだ)
同じチラシに書いたが、小松史明とは、2006年5月19日(金)、文京区小石川図書館で初演した『新宿に安土城が建つ』のチラシを作ってもらって以来のつきあいだ。崩壊する安土城のイメージがみごとであった。トロッタの初期は、鳥、それも鵯(ひよどり)の絵を連続して描いてもらった。第1回公演では、酒井健吉の『ひよどりが見た』と田中修一の『立つ鳥は』を初演している。トロッタは、鳥に縁が深かったのである。
小松は、私がかつて文章の実践的講座を担当していた、日本工学院専門学校の学生であった。私が彼を直接に教える機会はなかった。しかし、その時の人間関係が、小松との縁を作ってくれた。トロッタの記録映像を10回まで撮ってくれた映像集団、ゴールデンシットの名を記しておきたい。彼らがいたから、小松のトロッタ参加は実現した。『新宿に安土城が建つ』は、ゴールデンシットとのコラボレーション作品でもあったのだ。人と人の結びつきの大切さを思わずにはいられない。
“詩と音楽を歌い、奏でる”と、銘打ちました。音楽を歌い、奏でるには異論はないでしょうが、詩は、歌うものでしょうか? 奏でるものでしょうか? 答えは出ませんが、ただ読むだけのものにはしたくありません。少なくとも黙読には終わらせたくない。声に出して詠むうち、詠み手だけのリズムが生まれ、原初のメロディが生じる。そして楽器とともに詠み、あるいは他の声と重ねることで、ハーモニーもまた生まれる。それは音楽と呼べないのでしょうかと、問いたいのです。
私たちの歩みは、五里霧中です。しかし、まず行為ありきです。答えは行為の後についてくるでしょう。何度、会を開けるかもわかりません。まず、1回、そして次の、1回。少しずつ、歩んでまいります。(第1回チラシ・挨拶より/2007.2.25)
発会にあたり、まず2月・3月の松濤サロン公演に全力を傾注してまいりました。この先がどうなるか、継続を当然としながらも、予断は許されない状況です。皆様、「トロッタの会」を、よろしくお願いいたします。作曲者、演奏者だけで成り立つ会ではありません。お聴きいただき、ご来場いただけなくともお気にかけていただき、さらにはご批評をいただく皆様の支えがあって、初めて私どもは「トロッタの会」を催すことができます。舞台と客席が融け合う会場全体が、「トロッタの会」なのです。将来をご支援いただきますよう、お願い申し上げます。(第2回チラシ・挨拶より/2007.3.25)
……3月公演でお聴きいただきました酒井さん作曲の歌曲、『唄う』の詩を思い出します。
「誰のためでもなく 何かのためでもない 私はただ 音楽の神を想って唄う(中略)きっと聴いてくれる 聴いてほしいと願い それが唯一 私が素直になれる時」
基本は、ここにあります。この姿勢さえ忘れなければ、私たちにはどんな冒険心も実験精神も、許されると思います。何といっても、どの作品もオリジナルです。作曲者本人が、会場に身を置き、皆様と共に曲を聴いています。どんな批判をいただいても謙虚に受け止めます。演奏者については、同様のことをいうまでもありません。たった今、生きている姿を、彼らはご覧にいれているわけです。今後は、会のメンバー以外の曲、亡くなった方の曲、外国の方の曲も取り上げる機会があるでしょう。しかしその場合も、これは「トロッタの会」として演奏する、自分たちの曲だという気持ちを忘れません。(第3回チラシ・挨拶より/2007.5.27)
*
「トロッタの会」は、当初の3回を、渋谷区松濤にある、タカギクラヴィア 松濤サロンで開いた。当時のチラシから、部分を引用した。小さな会場だが、ほんの二、三十席を埋めるのでも大変である。ひとりの人にせよ、その方の時間とお金をいただくのだから、ほとんど無理に近いことだとさえ思う。生硬な文章だが、基本的な姿勢は今も変わっていない。感謝し過ぎてし過ぎることはない。しかし、その感謝に自分で潰されないことも大切であろう。
(其の六)
過去のチラシを見るたびに、小松史明の絵の見事さを実感する。小松によるチラシが配られた時、トロッタの幕は上がっている。第13回のチラシで初めて、出演者欄に、小松の名前とプロフィールを加えた。彼もまた、トロッタの第一回から欠かせないメンバーだから。(チラシをあまりぜいたくに作る必要はないのでは? とよくいわれる。決してぜいたくではない。チラシは小松史明の作品である。10円コピーでは作れないし、仮に10円コピーで作るとしても、そこに作品としての質を求めたい。白黒コピーが芸術の価値を持ったなら、それはすばらしいことだ)
同じチラシに書いたが、小松史明とは、2006年5月19日(金)、文京区小石川図書館で初演した『新宿に安土城が建つ』のチラシを作ってもらって以来のつきあいだ。崩壊する安土城のイメージがみごとであった。トロッタの初期は、鳥、それも鵯(ひよどり)の絵を連続して描いてもらった。第1回公演では、酒井健吉の『ひよどりが見た』と田中修一の『立つ鳥は』を初演している。トロッタは、鳥に縁が深かったのである。
小松は、私がかつて文章の実践的講座を担当していた、日本工学院専門学校の学生であった。私が彼を直接に教える機会はなかった。しかし、その時の人間関係が、小松との縁を作ってくれた。トロッタの記録映像を10回まで撮ってくれた映像集団、ゴールデンシットの名を記しておきたい。彼らがいたから、小松のトロッタ参加は実現した。『新宿に安土城が建つ』は、ゴールデンシットとのコラボレーション作品でもあったのだ。人と人の結びつきの大切さを思わずにはいられない。
チラシ画像をアップしました
チラシの入稿にともない、チラシの最終版をサイトにアップしました。ご覧ください。
間際の決定でしたが、新しく、ヴァイオリン奏者の中村征良さんに参加していただくことになりました。
間際の決定でしたが、新しく、ヴァイオリン奏者の中村征良さんに参加していただくことになりました。
2011年4月18日月曜日
トロッタ13通信(2)
(其の三)
演奏家としては、ヴァイオリンの戸塚ふみ代が最も古い。
戸塚は、名古屋フィルハーモニーの第一ヴァイオリン奏者である。
後に『タプカーラの彼方へ』となる原稿を書いて、インターネットで発表していたころ。文章を偶然に読んだ戸塚が電子メールを送ってくれ、交流が始まった。徳島県北島町の創世ホールで、伊福部昭の『ヴァイオリン・ソナタ』他の演奏が可能だったのも、彼女の存在による。酒井健吉の『トロッタで見た夢』も、田中修一の『立つ鳥は』も、戸塚がいたから初演できた。
トロッタ以前にも、戸塚の力は発揮されている。「伊福部昭追悼コンサート」として、2006年4月7日(金)、代々木上原のけやきホールにて、東京音楽大学付属民族音楽研究所主催の演奏会が開かれた。戸塚は『ヴァイオリン・ソナタ』を弾いた。ピアノは森浩司であった。「トロッタの会」を開こうとした時、戸塚と森のデュオを柱にと思い、打ち合わせを重ねたのだが実現しなかった。残念だが、これがトロッタの前史としてある。
第13回「トロッタの会」で、戸塚は、伊福部の『協奏風狂詩曲』を弾く。
もともとは独奏ヴァイオリンとオーケストラのための曲だが、伊福部自身の手で、ヴァイオリンとピアノのために編曲されている。これをもとに、伊福部には弟子である今井重幸が打楽器を加えた。伊福部の曲に寄せる、戸塚の思いが聴けるだろう。
(其の四)
先の追悼演奏会で、私は更科源蔵の詩を二篇、朗読した。
『昏れるシレトコ』と『オホーツク海』である。
前者は、後に『知床半島の漁夫の歌』として楽曲化された詩で、更科の第二詩集『凍原の歌』所収。後者は、頌詩『オホーツクの海』が初演された日のことを詠んでおり、最後の詩集『如月日記』所収。
『音楽家の誕生』から始まる三冊に、しつこいくらいに書いた。
作曲家・伊福部昭と、詩人・更科源蔵の交流に共感すると。
音楽と詩の出会い。その、最も幸福な形がここにある。
「トロッタの会」を発想した時、このふたりの先達の存在を、私は意識した。先の追悼演奏会でも、歌曲『知床半島の漁夫』を生む力になった詩として『昏れるシレトコ』を詠んだのだし、『オホーツクの海』を生んだ詩だから『オホーツク海』を詠んだ。私の朗読の後には、頌詩『オホーツクの海』の女声合唱版が演奏された。私なりに、詩と音楽の関わりを提示したつもりだ。
伊福部昭と更科源蔵。ふたりについては、まだまだ考えたい。「トロッタの会」を開催しながら考えている。実践しつつ考えている、ともいえる。
こうしたことを、「北海道新聞」に寄稿した。つい先日、2011年4月12日(火)の夕刊文化欄に掲載された。ひとりで書けた原稿とは思っていない。「トロッタの会」に関わった作曲家、演奏家、あるいはご来場いただいた方々、すべての力に後押しされて書けた原稿だと思っている。
演奏家としては、ヴァイオリンの戸塚ふみ代が最も古い。
戸塚は、名古屋フィルハーモニーの第一ヴァイオリン奏者である。
後に『タプカーラの彼方へ』となる原稿を書いて、インターネットで発表していたころ。文章を偶然に読んだ戸塚が電子メールを送ってくれ、交流が始まった。徳島県北島町の創世ホールで、伊福部昭の『ヴァイオリン・ソナタ』他の演奏が可能だったのも、彼女の存在による。酒井健吉の『トロッタで見た夢』も、田中修一の『立つ鳥は』も、戸塚がいたから初演できた。
トロッタ以前にも、戸塚の力は発揮されている。「伊福部昭追悼コンサート」として、2006年4月7日(金)、代々木上原のけやきホールにて、東京音楽大学付属民族音楽研究所主催の演奏会が開かれた。戸塚は『ヴァイオリン・ソナタ』を弾いた。ピアノは森浩司であった。「トロッタの会」を開こうとした時、戸塚と森のデュオを柱にと思い、打ち合わせを重ねたのだが実現しなかった。残念だが、これがトロッタの前史としてある。
第13回「トロッタの会」で、戸塚は、伊福部の『協奏風狂詩曲』を弾く。
もともとは独奏ヴァイオリンとオーケストラのための曲だが、伊福部自身の手で、ヴァイオリンとピアノのために編曲されている。これをもとに、伊福部には弟子である今井重幸が打楽器を加えた。伊福部の曲に寄せる、戸塚の思いが聴けるだろう。
(其の四)
先の追悼演奏会で、私は更科源蔵の詩を二篇、朗読した。
『昏れるシレトコ』と『オホーツク海』である。
前者は、後に『知床半島の漁夫の歌』として楽曲化された詩で、更科の第二詩集『凍原の歌』所収。後者は、頌詩『オホーツクの海』が初演された日のことを詠んでおり、最後の詩集『如月日記』所収。
『音楽家の誕生』から始まる三冊に、しつこいくらいに書いた。
作曲家・伊福部昭と、詩人・更科源蔵の交流に共感すると。
音楽と詩の出会い。その、最も幸福な形がここにある。
「トロッタの会」を発想した時、このふたりの先達の存在を、私は意識した。先の追悼演奏会でも、歌曲『知床半島の漁夫』を生む力になった詩として『昏れるシレトコ』を詠んだのだし、『オホーツクの海』を生んだ詩だから『オホーツク海』を詠んだ。私の朗読の後には、頌詩『オホーツクの海』の女声合唱版が演奏された。私なりに、詩と音楽の関わりを提示したつもりだ。
伊福部昭と更科源蔵。ふたりについては、まだまだ考えたい。「トロッタの会」を開催しながら考えている。実践しつつ考えている、ともいえる。
こうしたことを、「北海道新聞」に寄稿した。つい先日、2011年4月12日(火)の夕刊文化欄に掲載された。ひとりで書けた原稿とは思っていない。「トロッタの会」に関わった作曲家、演奏家、あるいはご来場いただいた方々、すべての力に後押しされて書けた原稿だと思っている。
トロッタ13通信(1)
1.トロッタをめぐる様々なこと
(其の一)
「トロッタ」とはどういう意味かと、よく訊かれる。
わからない。夢で見た、レストランの名前なのだ。
夢から覚めてすぐに、『トロッタで見た夢』という詩を書いた。
*
『もっとはやくあなたに会っていればよかった』
目の前の女がつぶやいた
若いとはいえない、それどころか母親のような年齢の
私に向き合った女のつぶやき
ガラス越しに見える、港の風景
錨を巻きあげた船が
白い航跡を描きながら、出ていこうとしている
女の言葉を思い返しながら
私はその風景を、ぼんやりと見ている
*
詩は、このように始まる。
これが新橋にあるレストラン、「トロッタ」でのこと。
長崎の作曲家、酒井健吉さんが、曲にしてくれた。
初演は長崎で、2005年8月13日(土)。酒井さんが主催する、kitara音楽研究所の第2回演奏会であった。編成は、朗読、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノ。
再演は、2007年2月25日(日)の、第1回「トロッタの会」において。
三演は、2007年7月22日(日)。改訂されて朗読がなくなり、ソプラノとヴァイオリン、チェロ、ピアノによる曲となった。
トロッタの始まりの、大切な場面がここにある。
(其の二)
『伊福部昭 音楽家の誕生』を、1997年4月25日付で発行した。
あとがきに、14年がかりの作だと書いてある。
『タプカーラの彼方へ』『時代を超えた音楽』を続く三部作の始まりだった。
やはり、そのあとがきに、詩の断片を記した。
*
わが立つ鳥はみずらに歌い
*
夢で、伊福部昭(*以下、敬称略します)に歌唱指導を受けた。伊福部の歌曲である。詩は歌の始まりである。旋律がわからない。すると伊福部がいった。
「歌には、歌われるべき旋律が自ずから決まっているんです。何も考えず、歌の通りに歌えばいいんです」
この曲を、田中修一さんが曲にしてくれ、第1回「トロッタの会」で初演した。編成は、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノ。
2006年2月8日、伊福部は逝去した。伊福部について私が講演をし、戸塚ふみ代らの演奏も行なった、徳島県北島町・創世ホールの「文化ジャーナル」に詩の全文を掲載した。
*
立つ鳥はみずらに歌いて
天たかく舞わんとす
その声 人に似て耳に懐かし
温もりもまた 人に似る
鳥 消ゆ
再び会う日の来ぬを われは知る
*
田中修一は、伊福部に教えを受けた。第1回「トロッタの会」は、彼にとっての師が亡くなって、ほぼ1年後の開催である。師を想う意味でも、『立つ鳥は』を出品したと解している。
再演は、2008年1月26日(土)の、第5回「トロッタの会」。
田中修一は、「トロッタの会」に第1回から途切れずに出品を続ける。作曲家では、最古参となっている。
伊福部昭に、「トロッタ」の大切な源がある。
(其の一)
「トロッタ」とはどういう意味かと、よく訊かれる。
わからない。夢で見た、レストランの名前なのだ。
夢から覚めてすぐに、『トロッタで見た夢』という詩を書いた。
*
『もっとはやくあなたに会っていればよかった』
目の前の女がつぶやいた
若いとはいえない、それどころか母親のような年齢の
私に向き合った女のつぶやき
ガラス越しに見える、港の風景
錨を巻きあげた船が
白い航跡を描きながら、出ていこうとしている
女の言葉を思い返しながら
私はその風景を、ぼんやりと見ている
*
詩は、このように始まる。
これが新橋にあるレストラン、「トロッタ」でのこと。
長崎の作曲家、酒井健吉さんが、曲にしてくれた。
初演は長崎で、2005年8月13日(土)。酒井さんが主催する、kitara音楽研究所の第2回演奏会であった。編成は、朗読、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノ。
再演は、2007年2月25日(日)の、第1回「トロッタの会」において。
三演は、2007年7月22日(日)。改訂されて朗読がなくなり、ソプラノとヴァイオリン、チェロ、ピアノによる曲となった。
トロッタの始まりの、大切な場面がここにある。
(其の二)
『伊福部昭 音楽家の誕生』を、1997年4月25日付で発行した。
あとがきに、14年がかりの作だと書いてある。
『タプカーラの彼方へ』『時代を超えた音楽』を続く三部作の始まりだった。
やはり、そのあとがきに、詩の断片を記した。
*
わが立つ鳥はみずらに歌い
*
夢で、伊福部昭(*以下、敬称略します)に歌唱指導を受けた。伊福部の歌曲である。詩は歌の始まりである。旋律がわからない。すると伊福部がいった。
「歌には、歌われるべき旋律が自ずから決まっているんです。何も考えず、歌の通りに歌えばいいんです」
この曲を、田中修一さんが曲にしてくれ、第1回「トロッタの会」で初演した。編成は、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノ。
2006年2月8日、伊福部は逝去した。伊福部について私が講演をし、戸塚ふみ代らの演奏も行なった、徳島県北島町・創世ホールの「文化ジャーナル」に詩の全文を掲載した。
*
立つ鳥はみずらに歌いて
天たかく舞わんとす
その声 人に似て耳に懐かし
温もりもまた 人に似る
鳥 消ゆ
再び会う日の来ぬを われは知る
*
田中修一は、伊福部に教えを受けた。第1回「トロッタの会」は、彼にとっての師が亡くなって、ほぼ1年後の開催である。師を想う意味でも、『立つ鳥は』を出品したと解している。
再演は、2008年1月26日(土)の、第5回「トロッタの会」。
田中修一は、「トロッタの会」に第1回から途切れずに出品を続ける。作曲家では、最古参となっている。
伊福部昭に、「トロッタ」の大切な源がある。
2011年4月17日日曜日
プログラム原稿入稿します
本日、オーケストラ・ニッポニカの演奏会で、トロッタの仮チラシを配りました。
昨日の締切を受け、プログラムが確定しましたので、本日、本チラシを印刷所に入稿します。
トロッタのサイトを更新しました。チラシの両面とトップページの画像を変えました。
昨日の締切を受け、プログラムが確定しましたので、本日、本チラシを印刷所に入稿します。
トロッタのサイトを更新しました。チラシの両面とトップページの画像を変えました。
プログラムが確定しました(4月16日分)
新曲の締切が来ました。確認用として、サイトに掲示してありますとおりのプログラムで進行いたします。
皆様、よろしくお願いします。
明日は、ニッポニカの演奏会場で、仮チラシを配布します。
皆様、よろしくお願いします。
明日は、ニッポニカの演奏会場で、仮チラシを配布します。
2011年4月15日金曜日
2011年4月14日木曜日
北海道新聞到着、など
伊福部昭、更科源蔵の両氏のこと、トロッタのことなどを書いた、北海道新聞の夕刊が届きました。後で整理します。
仮チラシが発送されました。明日、到着します。
ロルカの歌を、ピアノで音を確かめつつ歌いましたが、決定的に音を間違えている箇所があり、焦りました。
(書評が書けずにいて、どうも落ち着きません)
仮チラシが発送されました。明日、到着します。
ロルカの歌を、ピアノで音を確かめつつ歌いましたが、決定的に音を間違えている箇所があり、焦りました。
(書評が書けずにいて、どうも落ち着きません)
2011年4月13日水曜日
2011年4月12日火曜日
北海道新聞文化欄にトロッタの記事が載りました
紙面の半分ほどを使って掲載していただいたそうです。ありがたいことです。早く目にしたいものです。
仮チラシ、少しずつ間違いがあります。よく考えれば防げたものもあります。仮チラシですが、何とかしたかったと思います。訂正箇所はサイトに載せてあります。本チラシではミスがないようにしたいと思います。
仮チラシ、少しずつ間違いがあります。よく考えれば防げたものもあります。仮チラシですが、何とかしたかったと思います。訂正箇所はサイトに載せてあります。本チラシではミスがないようにしたいと思います。
2011年4月11日月曜日
萩野谷さんと練習(4月9日分)
ギターの萩野谷英成さんと、ロルカの古謡を4曲、三軒茶屋にて合わせました。後で聴くと、私の歌は駄目です。少しでも改善させます。
朝、今井重幸先生から、17日(日)のニッポニカ演奏会でチラシを配ってはどうかというおすすめ。昨日来の検討課題でしたが、そうすることにしました。問題は、何をどう配るかだったのです。結局、デザインの小松史明さんと相談し、作成中のA3判チラシをモノクロにして、別に刷ることにしました。500枚配ります。本当は本チラシを配るべきですが、トロッタ13は16日(日)を曲の締切にしてあるので、仮チラシになるのは致し方ありません。(締切もそうですが、出演者にも流動的部分が生じました)
夜は西耕一さんのお誘いで、旧奏楽堂の演奏会へ。仮チラシ作成の準備があったので、後半から聴かせていただきました。終了後、チラシの直し、など。
朝、今井重幸先生から、17日(日)のニッポニカ演奏会でチラシを配ってはどうかというおすすめ。昨日来の検討課題でしたが、そうすることにしました。問題は、何をどう配るかだったのです。結局、デザインの小松史明さんと相談し、作成中のA3判チラシをモノクロにして、別に刷ることにしました。500枚配ります。本当は本チラシを配るべきですが、トロッタ13は16日(日)を曲の締切にしてあるので、仮チラシになるのは致し方ありません。(締切もそうですが、出演者にも流動的部分が生じました)
夜は西耕一さんのお誘いで、旧奏楽堂の演奏会へ。仮チラシ作成の準備があったので、後半から聴かせていただきました。終了後、チラシの直し、など。
2011年4月9日土曜日
2011年4月8日金曜日
「たびだち」の詩を書きました
曲の締切が4月16日(土)に迫っているので、アンコール曲『たびだち』の新しい詩を、早く編作の田中修一さんに渡さなければなりません。朝から書きました。その結果、やはり地震災害を意識したものになりました。タイトルは『北の町』です。やはり、ここから出発することになりました。
夜は上野雄次さんが花を生ける会があったので、仮チラシを作って配りました。上野さんを取り上げたチラシです。
チラシ原稿の整理中です。
夜は上野雄次さんが花を生ける会があったので、仮チラシを作って配りました。上野さんを取り上げたチラシです。
チラシ原稿の整理中です。
2011年4月7日木曜日
練習場の確保など(4月6日)
5月29日(日)の、本番数日前からの練習場所を確定中です。公共施設の抽選に出かけましたが、はずれました。競争相手のいなかった場所は抑えました。それでも不十分なので、いろいろと探さなければなりません。
清道洋一さんの曲を紹介した原稿、第6回「ギターとランプ」が乗っている「ギターの友」最新号ができました。
チラシ原稿を整理し始めました。何とか今週末には、デザイナーの小松さんに、ひととおり、文章を入れてもらうつもりです。
清道洋一さんの曲を紹介した原稿、第6回「ギターとランプ」が乗っている「ギターの友」最新号ができました。
チラシ原稿を整理し始めました。何とか今週末には、デザイナーの小松さんに、ひととおり、文章を入れてもらうつもりです。
2011年4月5日火曜日
トロッタ13への準備
昨日、小松史明さんによるデザインがが届いた。未完成だが、美しく、迫力がある。
昨日、田中修一さんとの共同作業である、女声四部合唱組曲の詩をすべて渡した。ほぼ同時に、第三番の旋律と、完成した第一番の譜面を送ったとの連絡が入る。シンクロである。
明日は、前日練習の会場の抽選に行く予定。東京芸術劇場が長期の休みで使えないため。
一週間遅れたので、二号同時の発行となったが、「詩の通信 V」の17号と18号を発送。
昨日、田中修一さんとの共同作業である、女声四部合唱組曲の詩をすべて渡した。ほぼ同時に、第三番の旋律と、完成した第一番の譜面を送ったとの連絡が入る。シンクロである。
明日は、前日練習の会場の抽選に行く予定。東京芸術劇場が長期の休みで使えないため。
一週間遅れたので、二号同時の発行となったが、「詩の通信 V」の17号と18号を発送。
2011年4月2日土曜日
2011年4月1日金曜日
皆さんに連絡など(3月31日分)
(昨夜はなぜか疲れてしまい、ブログを更新できませんでした)
打楽器の方々、フルートの方々へ、連絡。今井先生の曲の編成が大きいので、その調整など。
堀井友徳さんから、曲が送られて来ました。
一昨日は、田中修一さんから、トロッタの曲ではないのですが、女声合唱組曲の一部が送られてきました。
打楽器の方々、フルートの方々へ、連絡。今井先生の曲の編成が大きいので、その調整など。
堀井友徳さんから、曲が送られて来ました。
一昨日は、田中修一さんから、トロッタの曲ではないのですが、女声合唱組曲の一部が送られてきました。
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