(其の十九)
橘川琢が第十三回で初演する『都市の肖像』第四集《首都彷徨〜硝子の祈り》のための詩を書こうとしている。それは、橘川との共同作業では初めての、曲が先にあり、詩を後から書く手法による。たった今、楽譜を広げている。この曲にはソプラノのパートがあるが、歌はヴォカリーズである。詩は、歌のためにあるのではなく、詩唱パートのためにある。
先に、田中修一が女声合唱組曲を作曲しようとしていることを書いた。その依頼メールに、こんなことが書かれてあった。
曲は、中国唐代の塡詞、詩余の手法で作りたい。先に曲を作り、後から音楽に合せて歌詞をつける。旋律はすでに完成しているから、いずれ楽譜を送りたい、と。果たして、全四曲のうち、二曲の詩を、塡詞、詩余の手法で書いた。
そしてはからずも、橘川との作業も、曲が先行し、詩が後から作られることになった。こちらは、厳密には塡詞、詩余といえないだろう。私にとってのみ、曲が先にある点で共通する。
次のように思うのは、私の力不足ゆえだが、実はその手法は、あまり採りたいと思ってこなかった。甲田潤との作業で、『くるみ割り人形』を合唱曲とした。続いて『シェヘラザード』も合唱曲にした。当然だが、先に曲がある。言葉を、メロディとリズムにあてはめることになる。替え歌と同じ方法である。誰でもできる、と思った。事実、替え歌は誰もがすることだ。非常な制限も感じた。メロディに導かれて言葉が生まれる。よりどころがあるわけで、それ自体は助けになることだが、逆に自由が束縛される思いがしたのである(作曲家が詩を再構成することは可能だが、詩人は、曲を再構成できない。できなくはないだろうが、そうすると、一続きになっている曲が壊れる。詩も壊れるはずだが、私は拘泥しない。詩の生命を考えれば拘泥すべきだろうが。詩の生命の方が軽いのか?)
だが、田中修一から曲を先にしてと依頼され、橘川とも同じ順番で詩を書くとなれば、替え歌などといっていられない。果たして、田中修一のために書いた詩は、替え歌と思わなかった。橘川との作業は、メロディがないので、さらに自由に書けると思っている。書かなくてもいい自由さえある。詩唱のための音はないのだから。
(其の二十)
作品を完成する過程で、橘川と私の間に考え方の違いがあった。
私は、彼との共同作品として、演奏者の手に渡る前に詩を書き、それで完成作とするつもりであった。しかし橘川は、曲は自分の手元で完成させて、詩はそれから書かれるものと考えていた。
行き違いといえばそれまでだが、その差は大きい。どんな曲も演奏されて初めて人の耳に届くが、完成ということでいえば、その前の段階をさす。演奏された時に完成するといえないこともないが、通常、それは表現されたと考えるものだ。
ただ、音楽の場合は演奏されて完成する、芝居なら戯曲は上演されて完成するという考えに、私は非常な魅力を感じる。
橘川は、演奏する前、練習前に完成させるのは自分だと考えていた。
私も、とりあえずは練習前に完成させたいと思い、そこに彼との共同作業があると認識していた。
しかし、そうではなく、楽譜が演奏家の手に渡るタイミングと、私の手に渡るタイミングは同じになった。
演奏家には演奏する手がかりがあるが、私にはない。私はこれから詩を書く。橘川は、詩が上野雄次による花いけと同じと考えていたようだ。確かに、そういう考えもあるだろう。ただそれならば、私の詩は、一か月後の本番にできて、詩唱されればよい。
いつまでも齟齬について書いていても仕方がない。私の手元には、何の言葉も書かれていない楽譜がある。
手がかり、その一。曲の標題。全体は《首都彷徨 硝子の祈り》であり、曲ごとに「東京地下創世記」「摩天楼彷徨」「硝子の祈り」となる。始めの二曲は東京の風景だろうが、終わりの「硝子」は何だろう? かつて場をともにした、ガラスの造形作家、扇田克也を思い出す。
手がかり、その二。私の考えだが、意味のない声音は、ソプラノが発する。となると詩唱者は、意味のある言葉を口にするか。やはり意味のない声を口にするか。男女の二重唱とも考えられる。やはり橘川との共同作品『冬の鳥』が想像された。感情を女声に、理性を男声に受け持たせる?
手がかり、その三。「地下創世記」と「硝子」は、震災の後で書いたという。鎮魂の思いもこめているという。それは大きな手がかりだが、鎮魂の音楽に鎮魂の詩では、直接的過ぎる。鎮魂は大切だが、震災を受けた詩は、田中修一の合唱曲と、トロッタのアンコール曲『たびだち・北の町』に書いた。いつまでも同じ気持ちではいけないとも思う。雲や風を詠む方が、鎮魂になると思う。
手がかりには、四も五も、その先もあるだろう。楽譜を製本して、持ち歩くことにしよう。ちらし配りの途上に携帯する。
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