(其の七)
考えは今も変わらないが、敢て口にすることはなくなった−−「トロッタ」が始まった当時、スケールの大きさを心がけていた。田中修一に、よくいわれる。第三回で初演した田中の曲、『声と2台ピアノのためのムーヴメント』を書くにあたって、私は2台ピアノの曲をすすめ、それができなければ手抜きとみなすといったという。手抜きという言葉を使ったかどうかは不確かだが、それくらい気持ちをこめた曲をお願いしたいといったことは事実だ。2台ピアノだからスケールが出るかといえば、それは別の話である。田中も曲解説で書いた。「独唱歌曲の伴奏を2台ピアノとしたのは、危険な冒険であり、些かの不安を禁じ得ない」。確かに「危険な冒険」だ。スケールの大きさは1台でも表現できる。私は冒険がしてみたかったのだろうか。そうかもしれない。だが冒険というなら、「トロッタの会」自体が冒険ではないか? 初めは、毎月行おうと考えていた。会の規模が膨らむにつれて不可能になって来たが、それでも、毎回、柱になるのは新曲である。詩はもちろんだが曲を書かなければいけない。また、トロッタは詩と音楽の会だと、方向性をうたっている。詩の会はあるし、歌曲の演奏会もあるが、詩と音楽の会というのは、あまりない。しかも、朗読のための曲、後に詩唱という言葉に置き換えられるが、歌ではない詩唱のための曲が柱にある会は、やはり、ほとんどないと思われる。
話を戻して、今もスケールを求めている。音楽のスケールとは何か? オーケストラだから大きいわけではなく、ピアノ1台だから小さいわけではない。それは訴え、生ずる感情の大きさだろう。楽器を伴わない詩唱だけでも、スケール感は出せるはずだ。当初は毎月行なおうと考えていた。大きな会場は無理だから、小さなサロン、スタジオでいい。そのために、いろいろな会場を探した。普段は練習に使われるような場所を見て回った。サロンでもスタジオでも、スケールは出せると思った。2台ピアノは「危険な冒険」だったが、挑んでよかったと思う。田中の『ムーヴメント』は断続的に発表され、第13回で四作目となる。用いられた詩は、順に『亂譜』(3回、8回)、『瓦礫の王』(11回)、『未來の神話』(12回)、そして『儀式』(13回)である。トロッタで生まれた、シリーズ作品になっている。
(其の八)
第三回で演奏した酒井健吉の歌曲に、『唄う』がある。作曲は2005年で、ソプラノとピアノのための曲だった。2007年3月の演奏は、これにヴァイオリンを加えた改訂版である。詩の始まりを抜粋する。
*
誰のためでもなく
何かのためでもない
私はただ
音楽の神を想って唄う
どこかにきっといる
音楽の神に
頭を垂れ
素直な心をもって唄う
*
誤解もあると思うが、これは私の、正直な思いだ。トロッタを、詩を書く者としての自己表現の場として考えていない。自分を含めて誰のためでも何かのためでもない、抽象的だが、「音楽の神」を想って開催している。「神」に聴いてもらえればいい。私は、空(うつ)。だから、初めは主催者とも主宰者ともいわなかった。偉そうになるのは嫌だ。今は、便宜上、そう書くことがある。金銭の支払いや、会場や物品を借用する際に、責任の所在をはっきりさせなければならない場合があるから。だが、心のうちはやはり、トロッタは自己表現の場と思っておらず、主催者、主宰者でもないことを明記しておきたい。詩を書いて詠んでいるのだから自己表現なのでは? そういわれるだろう。反論しない。何もいわないことに決めている。考えないでいいことだ。詩『唄う』は、このように続く。
*
きっと聴いてくれる
聴いてほしいと願い
それが唯一
私が素直になれる時
素直になりたくて
唄うのだ
心を開き 身をあずけ
よこしまさのつけいる隙もなく
夢中になって
唄いたい だから
*
酒井健吉らしい、記憶に残る旋律が生まれた。素直になるのは難しい。だが、素直でいられれば、それがいちばん強い。誘惑に心を惑わすことなく、常に心を開いて過ごす。疑心は必要ない。思うことがあれば、気負いも遠慮もなく、口にできればいい。トロッタは、そのような、素直な会でありたい。
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