2011年4月20日水曜日

トロッタ13通信(5)

(其の九)
 第三回から、作曲家に橘川琢が加わった。この時は二曲を出品している。ピアノ独奏曲『叙情組曲 日本の小径(こみち)』と、詩歌曲『時の岬・雨のぬくもり〜木部与巴仁「夜」 橘川琢「幻灯機」の詩に依る』である。この時、詩人と作曲家のあり方について、考えを新たにすることがあった。『日本の小径』で、橘川が、自作の詩『幻灯機』を『雨のぬくもり』として、曲に生かしたのである。また、私の詩『夜』も、曲名としては『時の岬』になった。自分の詩と他人の詩が組み合わされるのは、初めての体験であった。詩として、曲としては順序立てられているものの、二曲で一作品だから、組み合わせれたことには違いない。そうしたいと思った理由をはっきりとは聞いていないが、それが橘川なりの詩との取り組み方、自分も詩を書いて楽曲化する、その一手法であったろう。
 橘川の台詞で忘れられないものがある。曲の題を決める時、図書館に一日中こもって、本を目の前に積み上げ、広げて、言葉を探す−−。
 なるほど。そのようにする人がいるのかと思った。人にはそれぞれの方法があるが、図書館を使うとは思わなかった。私など、机に向かい、天井を向いているだけである。言葉が宙に浮いているわけではない。天井から垂れてくるわけでもない。他人の目には、漂う言葉を見つめているとも、天井から降って来るのを待っているとも映るだろう。しかしそんなことはないので、ぼんやりしているだけだ。粟粒のように言葉が浮かぶのを期待しているのだ。浮かばなければ頭の中をかきまぜる。それでも浮かばなければ、コンピュータではなく、ノートか原稿用紙に言葉を書きつけてゆく。気分転換に喫茶店に行くこともある。そうしているうちに、ぱっと言葉が浮かぶので、さっと書きつける。そして、コンピュータの画面上で整理する。
 酒井健吉、田中修一とは何度かやりとりしてきたが、ふたりとは違う、橘川琢という個性に出会った。私以外の詩がトロッタに現れた、初めての機会であった。

(其の十)
 第三回まで、トロッタは渋谷の松濤サロンで開催された。
 その後、西荻窪の松庵や、早稲田大学に近い西早稲田でも行なった。第13回は、12回から続く、早稲田奉仕園で行なう。すばらしい会場だが、渋谷で始まったということ自体に、私は意味を見出している。人がおおぜいいる、ごった煮のような場所、アスファルトとコンクリートに囲まれた場所、静寂より騒音、落ち着きより慌ただしさのある場所を、私は好んでいる。都会がいいという、単純な理由ではない。例えば、コンクリートにへばりつくように生えている、見向きもされない雑草に共感している。『ひよどりが見たもの』で書いた、ビルの谷間を縫って飛ぶ鳥たちに共感している。土の感触を知らずに生まれて死ぬ、都会の鼠たちにも共感している。生きにくい場所で生き抜くたくましさを、私は好きだ。(予算や集客の関係で小さな会場になったという実際面の理由があるにせよ)渋谷という大都会の片隅で生まれる珠玉の音楽を、私は望んだ。そんな場所でも音楽は、詩は生まれると思いたかった。だから小松史明のデザインにも、ひよどりの絵、花や木の絵の背景に、ビルやアスファルト道路の写真が組み合わされている。
 第三回公演には、別の思い出もある。池田康が編集する雑誌「洪水」(洪水企画)が、トロッタをとりあげてくれた。第三回公演の本番前と、本番の後、さらに翌日と、池田のはからいによって話し合いの場が設けられ、特に翌日は会議室を借り切っての座談会を行って、その記録が、第一号(2007年冬号)に掲載されたのだ。開催三回を数えたばかりのトロッタにとって、過分な扱いだと感謝している。「洪水」も、その副題が「詩と音楽のための」で、トロッタと共通点がある。記事に名前と発言が乗ったのは、橘川琢、酒井健吉、田中修一、戸塚ふみ代、そして、私。この取材と座談会も、すべて渋谷で行なわれた。トロッタと渋谷の縁は深かったのである。

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