2011年4月23日土曜日

トロッタ13通信(7)

(其の十三)
 個人的な、朗読への思いを記しておく。それが私にとっては、トロッタの始まり、音楽の始まりだと思うから。
 学生時代だから1970年代の末、新宿駅の地下通路でしばしば天本英世を見かけた。マントを来て白い帽子をかぶり、近寄りがたい雰囲気で歩いていた。ご本人には、近寄らせまいとする意図はなかったと思う。1980年、天本は『スペイン巡礼』を刊行した。1979年3月から10月まで、七か月をかけてスペイン全土を巡った記録である。続いて1982年に、“『スペイン巡礼』を補遺する”として『スペイン回想』を出した。天本は、フェデリコ=ガルシア・ロルカの詩を朗唱した。何度も聴いた。独特のしわがれ声で、一度聴いたら忘れられない。ギターの伴奏を得て、天本は役者だから、音楽というより演劇的な印象が強かった。椅子に座り、天を指さす独特の所作が際立っていた。(これがどうなれば、どうすれば音楽になるのか? 天本には音楽という意識は、おそらくなかった。朗唱だったと思う。しかし大きくとらえれば、音楽や朗唱の区別はなく、時に語られ時に歌われ、時にギターが伴奏し時には無伴奏になる、ということでよかったのではないだろうか。天本英世が、ではなく、スペインでも。トロッタの詩唱についても、その考え方で、おそらく間違っていない)
『回想』には、繰り返してフラメンコについての記述がある。つまり−−、
〈フラメンコの始まりはギターでも踊りでもなく無伴奏の唄であった〉
 貧しいジプシーが楽器もなしに自分の苦しみを歌う。それがフラメンコの源にある。さまざまある歌の中、とりわけ深い歌をカンテ・ホンドという。フェデリコ=ガルシア・ロルカはこれを愛し、その衰退を憂えてマヌエル・デ・ファリャらと「カンテ・ホンド祭」を催し、さらに『カンテ・ホンドの詩集』を編んだ。天本によれば、フラメンコのメロディはとっつきにくく、甘さがなく、覚えることができない。しかし、それは飽きないということで、いったん体の中、心の中に入ると決して離れていくことがない。余分なもののない、魂だけの音楽だというのだ。天本の朗唱も、そのようなものであったかもしれない。
 天本は、『回想』で「ロルカの13の民謡」にも触れている。カンテ・ホンドへの思いと並行して、ロルカはスペイン各地の民謡を集めており、そのうちの十三曲が、今日、ロルカによってピアノ伴奏の歌として残されている。天本英世は、フラメンコの歌は難しくてとても歌えないが、「民謡」は何とか全部歌えるようになったと書いている。読んだ瞬間、私も歌いたい……、と思った。その思いがずっと続き、楽譜は購入していたが歌う機会はなく、第13回のトロッタからやっと、四回シリーズで歌うことになった。それも、スペインをよく知る今井重幸に編曲をしてもらい、ロルカのカンシオネス『スペインの歌』という題名で。
 自信などない。スペイン人のようにも歌えまい。しかし、やっと機会を得た。歌いたかったのだから、まず歌ってみることだと思っている。

(其の十四)
 これは結論など出ていることではないので、私の勝手な考えとして受け取っていただいていい。
 朗読(詩唱とはいわない)の場合、詠めば、誰でもそれらしく聴こえてしまう点に、抵抗感がある。歌なら、例えば音程をはずしてはいけないとか、リズムを守って歌うとか、伴奏楽器と合わせて歌うなど、決まりがある。しかし朗読だけだと、そんなことはない。自由だ。音程は朗読者の音程でよく、リズムも同様、伴奏のあるなしは自由で、伴奏があっても、BGMのように扱われることが多い。重ねていう、自由なのだが、よくも悪くもということで、自由過ぎることへの抵抗がある。
 朗読教室というものがある。滑舌や気持ちのこめ方などを指導されて、おそらく、難しいのだろうと思う。あるいは、自由に詠ませてくれるのか。いずれにせよ、私は行ったことがない。しかしその指導も、教室の先生固有の指導で、歌のようには、決まり事はないだろうと想像している。その根拠は、決まり事がなくても、朗読はできるから。朗読は、誰でもできる。敷居が非常に低い。これはいいことだが、そこに抵抗感があると書けば、反発を買うだろうか。(ただし、すばらしい朗読をする人はまれにいる。それが教室で教わった成果か、本人の個性によるかは別に、歌と同じで誰もが印象的な朗読をできるわけではない。歌がうまいから朗読もうまいとは、さらにいえないことである。これまでの体験では、発声の方法が異なる)
 天本英世は、役者だ。私も演劇に携わっていた。続けることはできなかったが。だから基盤にある感覚は、音楽というより演劇で、演劇には文学的要素も強いから、詩を書いて、それがトロッタの詩唱曲(便宜的な言い方である)や歌曲につながっている。音楽と演劇、音楽と文学は決定的な違いがある。まだ演劇と文学の方に結びつきは強い。しかし大きくとらえれば、ここでも歴史的に見て、音楽と演劇に違いはなく、いずれの基盤にも文学はある、ということになるのではないか? オペラは音楽だが演劇的要素が強く、古今の文学作品をもとに作曲されることが多いのは周知の事実だ。なぜ、オペラが演劇の一形態として扱われないのか? 演劇ではないとしても、非常に近い性格を持つことは、聴いていれば、観ていればわかる。ミュージカルは、どちらかといえば音楽より演劇として分類されている。この違いはどこにあるのか? 私は結論を出そうとしていない。分類にこだわってもいない。境界はあいまいでいいと思っている。人のすることに、もともと分類などないと思う者である。トロッタでは、朗読といわず、詩唱という。私はこれに、通常の朗読表現と、歌唱表現を含ませている。だからロルカの民謡を、私は詩唱者として歌う。

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