2011年4月29日金曜日

トロッタ13通信(14/4月29日分の2)

(其の十七)
2.トロッタ13 プログラムより

(本番一か月前である。段々と、現在形の話題になって来よう。曲の締切から半月は、これまでのことに重点を置き、一か月前からは、第十三回で演奏する曲に重点を移す予定にしていた。トロッタの根本については、変わらずに考えてゆく)
 今井重幸のもとに、譜面を受け取りに行った。『ロルカのカンシオネス』の四曲目、『ラ・タララ』の編曲ができたのである。これで、ロルカの曲はすべて揃った。出演者の都合さえつけば、いつでも練習ができる。
 もともとが民謡だから、テンポは自由だし、解釈も自由だし、歌いたいように歌えばよい、といわれた。『アンダ・ハレオ』は、フラメンコ好きが集まる小劇場風の居酒屋、タブラオで最もよく取り上げられる曲の一つで、自由さと奔放さ、それにかけ声が特徴。『トランプの王様』は、ロココやバロックを思わせる、古い感覚で歌ってほしい、エレガントに、との要請である。これは予想外だった。『18世紀のセビジャーナス』は、スペインを代表するセビージャの春祭、そこで踊られる舞踊“セビジャーナス”を歌う。あえて18世紀のといっているので、やはり古風に歌ってほしいとのこと。やはり、予想外だ。『ラ・タララ』は、『アンダ・ハレオ』と同様、素朴なアンダルシアの歌。これは速くてもよい。三番まであるが、それぞれ速さを変えてもよい。
 ロルカが採譜して楽譜として残っている古謡は全13曲。今井重幸が心がけたのは、今回は4曲であり、13曲を通しても曲ごとの個性が出るよう編曲したとのことである。『トランプの王様』では、ギタリストは持ち替えでトライアングルか鈴を使う。『ラ・タララ』でも、ギタリストは持ち替えでタンバリンを使う。歌い方も、その工夫に応えて違わなければいけない。
 予想外と書いたとおり、これまでレッスンを通じて作ってきた歌い方を、変える必要がある。特に、古風に、エレガントにという考えはなかったので、どうするか。今井によれば、現代のフラメンコは速い。しかし一時代前のフラメンコは悠然としたものである。それにふさわしい歌い方が、特に18世紀のと時代を限っている場合には求められる。むしろ望むところといえるが、すぐにできるかどうか。しかしレッスンは無駄ではない。何とかレッスンは土台と考えて、取り組みたい。(こうなってくると理論ではないので、歌いこむことが必要となる)

(其の十八)
*『ロルカのカンシオネス』より(1番)

「アンダ、ハレオ」

Yo me alivié a un pino verde
俺は緑の松の木に登った、
por ver si la divisaba.
あの娘が遠くに見えはしないかと。
y solo divisé el polvo
でも、見えたのは、ただ砂煙だけ、
del coche que la llevaba.
あの娘を連れていく車の。

Anda jaleo,jaleo;
もう、こうなったら、やけっぱち。
ya se acabó el alboroto
お祭り騒ぎはお仕舞いだ。
y vamos al tiroteo.
今度は銃で撃ち合いだ。

 素朴な詩である。古謡には、そのあまりの素朴さゆえに、かえって超現実的な印象を与える詩がある。(日本語詩は、現代ギター社版『ガルシーア・ロルカのスペインの歌(歌とギターのための)』所収の、田尻陽一「歌詞対訳」を引用させていただいている。詞は、牧羊社版『フェデリコ・ガルシーア・ロルカ』全三巻も参照した)

「トランプの王様」

Si tu madre quiere un rey,
もしも、お前の母さんが、王様、ほしけりゃ、
la baraja tiene cuatro:
トランプには四人もいるよ。
rey de oros,rey de copas,
金貨の王様、聖杯の王様、
rey de espadas,rey de bastos.
剣の王様、棍棒の王様。

Corre que te pillo,
逃げろよ、ひっとらえるぞ。
corre que te agarro,
逃げろよ、ひっつかまえるぞ。
mira que te lleno
ほら、お前の顔を
la cara de barro.
泥んこにしてやるよ。

De olive me retiro,
オリーブの樹からオリルとしよう。
del esparto yo me aparto,
イグサからもうイクサ。
del sarmiento me arrepiento
残念無念のブドウのツルは
de haberte querido tando.
3年6年、お前にどうやらツルミすぎ。

 特に二連に明らかだが、スペイン語の音を楽しんで作られた歌だ。素朴さもそうだが、このような詩は、私が書くと、かえってわざとらしくなる。詩は人生が生むものだから、わざとらしい素朴さとか、わざとらしい華美は、最も避けなければならない。

「18世紀のセビジャーナス」より(1番)

¡Viva Sevilla!
セビージャ、万歳!
Llevan las sevillanas
セビージャの女たちは
en la mantilla
マンティージャに
un letrero que dice:
こう縫い取りをする、
¡Viva Sevilla!
セビージャ、万歳!

¡Viva Triana!
トゥリアーナ、万歳!
¡Vivan los trianeros,
トゥリアーナの人、万歳!
los de Triana!
トゥリアーナに住む人、万歳!
¡Vivan los sevillanos
セビージャの男も
y sevillanas!
女も万歳!

 ひと月前、田中修一からメールが届いた。すでにある私の詩をもとに、女声合唱組曲を作りたい。ついては、三篇の詩を書いてもらえないか、と。それらは、東日本大震災の後で、初めて書いた詩になった。これらの古謡の歌詞に見るような、素朴な詩ではない。といって難しい詩を書いたつもりもない。ありのままの気持ちを書いた。

「ラ・タララ」より(1番)

La Tarara,sí;
ラ・タララ、シ、
La Tarara,no;
ラ・タララ、ノ。
La Tarara,niña,
ラ・タララ、ニーニャ、
que la he visto yo.
he僕は見たよ。

Lleva mi Tarara
僕のタララは
un vestido verde
緑の服に
lleno de volantes
フリルと鈴を
y de cascabeles.
いっぱい付けてる。

La Tarara,sí;
ラ・タララ、シ、
la Tarara,no;
ラ・タララ、ノ。
la Tarara,niña,
ラ・タララ、ニーニャ、
que la he visto yo.
僕は見たよ。

 これは皮肉な言い方に聞こえるかもしれないが、仮にロルカの古謡に使われたような詩を“素朴”だとして、その反対の生活実感を抱くような毎日を過ごしている者は、“素朴”ではない詩を書くのが正直な態度だろう。

 夜になって、吉祥寺、西荻窪方面に、チラシを置かせてもらいに行く。明日はできれば、谷中、千駄木方面に行きたい。
 チラシ配りもトロッタの活動の大切なことには違いない。ただ、詩を書くこととは違うし、歌うこととも違う。練習にあてるべき時間にチラシを配っている。一度にはできない。効率よく、必要な数の人にだけチケットを買ってもらえばいいのかもしれない。しかし、私自身、馴染みのない店でふと手にしたチラシにひかれ、その公演に足を運ぶことがあるので、チラシを配ることは必要だと思っている。だが、実際問題として、ひとつのことをしていると、するべき他のことができない。最近、その傾向が強まりつつある。(基本的には、歌うこと、詩を書くこと、チラシを配ること、演奏会の製作、それにこうした原稿を書くこと、全部別だと思う。別にしなければ、じゅうぶんにできない。それを何とか、ひとつの、まとまったこととして行なおうとしている)

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