2011年4月21日木曜日

トロッタ13通信(6)

(其の十一)
 西川直美(ソプラノ/一回、二回)
 成富智佳子(ソプラノ/三回)
 かのうよしこ(アルト/二回)
 今泉藍子(ピアノ/一回、二回)
 仲村真貴子(ピアノ/三回)
 三浦永美子(ピアノ/三回)
 戸塚ふみ代(ヴァイオリン/一回、二回、三回)
 木部与巴仁(朗読/一回、二回、三回)

 以上が、三回にわたった「トロッタの会」松濤サロン公演の演奏者である。当然のことだが、演奏者があって初めて、曲は形になる。彼女たちの存在には、感謝し過ぎることはない。戸塚と私以外について書く。
 西川直美は、当初より人選や練習場の提供などで協力をしてくれた作曲家、甲田潤に紹介された。甲田が関わる演奏会などで、ソリストとして、あるいは合唱の一員としても活躍している。『立つ鳥は』の初演者として、田中修一が西川の声を気に入っていたことを強く記憶している。
 今泉藍子は、戸塚ふみ代の知人の紹介で参加してくれた。ピアニストらしく、楽譜の入った鞄を大切そうに提げて現れた姿が印象に残った。ヴァイオリン、詩唱との共演もあったが、第二回の、酒井健吉の独奏ピアノ曲『ピアノのための舞踊的狂詩曲』を独り弾く横顔を覚えている。
 成富智佳子、仲村真貴子、三浦永美子とは、新宿の喫茶店で初めて会った。全員が、友人同士であった。そのような、個別の面談を全員と行なってきた(地道な作業を、地道にする。誰もがしていることだ。本来はもうひとり、ソプラノの参加者があったが、本番直前に病気となり、出演不可能となった。辛い思い出である)。心がけていることがある。初めての出会いは喫茶店だが、それ以前の歴史をどこまで受けとめられるか。たとえ学生でも、二十年ほどの歴史がある。だから演奏者として私と会ってくれている。そこに想いを至らせず、ただ歌ってください、ピアノを弾いてくださいではいけない。三十年、ずっと言い聞かせてきたことだ。
 かのうよしこには、カフェ・谷中ボッサで出会った。私がボッサで行なった「ボッサ 声と歌の会」の第一回を聴いてくれた。彼女がボッサで行なったライヴに、私は偶然、足を運んでいる。朗読も試み、アルトの歌い手であるかのうが参加してくれたことで、作曲家の可能性も広がった。
 彼女らのひとりも、第十三回への参加者はない。基本的に、関わりのあった人とは、私はずっと関係を持っていたいと思う。しかし、ひとりの思いだけではどうにもならない。先に書いたが、記録映像を撮り続けてくれた映像集団ゴールデンシットとも、十回で関係が終わった。ひとえに、私の力が足りないのだと思っている。また出たい、と思ってくれるようなトロッタにしたい。理想は、トロッタは自分の会だと、ひとりひとりが思ってくれること。矛盾した表現に読めるかもしれないが、逆に私は、トロッタを自分の会だと思っていない。トロッタに参加する全員の会にしたいと思っている。

(其の十二)
 名前が出たので書いておく。カフェ・谷中ボッサで行なっている「ボッサ 声と音の会」のことである。第一回を開いたのはトロッタより一年早い。二〇〇六年二月にスタート。同年に三回を開き、(トロッタが始まったこともあり二〇〇七年は休み)、二〇〇八年にトロッタのメンバーで再会して、以後毎年一回ずつ行なってきた。
 題名どおり、声と音の会である。基本的な姿勢は、トロッタと変わらない(何をするにも、生きることと同義で行なっているので変わらないはずだが、例えば詩を歌うことと書くことは、同じ詩に関することでも、身体行為として異なるので、その点は変わる)。初期は、第一回のピエール・バルーをはじめとしてゲストを招き、彼や彼女らとのコラボレーションを行なった(第二回の出演者だった内藤修央には、打楽器奏者として、後にトロッタに参加してもらった)。二〇〇八年からは、作曲者、演奏者とも、トロッタのメンバーに参加していただいている。
 書きながら思い出した。私は詩が歌に、音楽になってゆく過程に最大の関心を持っている。例えば二〇〇六年十二月六日に書いたトロッタの企画書に、こんな文章があった。
「詩の朗読会は世界各地で行われていますが、朗読を楽器演奏とともに行うことで、歌が歌として成立する以前の形、詩と音楽の出会い、朗読者固有の声の力など、さまざまなテーマを浮き上がらせてまいります。私たちはこの形式を、音楽であると考えます。朗読を伴わない器楽曲、声楽曲も採り上げ、音楽性を充分に満たす会にいたします。/これは、木部与巴仁が、2005年11月から2006年10月まで、隔週刊で発行してきた個人紙「詩の通信」の新版であり、舞台版です。/会のメンバー、スタッフにとっては、それぞれの考えがあることでしょう。異なる考えがあってよく、それは会を続けていく上で、互いの関係を活性化させるものとなるはずです。「詩と音楽」の会を念頭に置きますが、形は変化してかまいません。変化させたいという欲求が起こるくらいの会を望んでいます」
 朗読者固有の声の力はともかく−−、
〈歌が歌として成立する以前の形〉
〈詩と音楽の出会い〉
 この二点が、私個人が思う、大切な点だ。これらがなければ、一般に受け容れられている歌も、そもそも成立しない。
 先の一文は、「ボッサ 声と音の会」第三回の直後に書いている。第三回は、アイルランドに先祖を持つカナダ人作家、アリステア・マクラウドの作品を取り上げて朗読した。代々伝わるアイルランドの歌や音楽が、時代とともに変化してゆく。それでも守らなければならないものがあると心を尽くす男たち。私はそこに、〈歌が歌として成立する以前の形〉〈詩と音楽の出会い〉を見た。トロッタの礎には、そうした思いがある。あくまで個人的な思いだ。作曲者、演奏者全員に、それぞれの思いがあるだろう。そのことを、わからないまでも想像できるかどうか。人の歴史を想うとは、そういうことだ。だからトロッタを、思いの集まった会だと、私は認識している。

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