2010年1月18日月曜日

「トロッタ通信 11-6」

更科源蔵は、摩周湖がある、弟子屈の生まれです。青年になってからは、東京と北海道を行ったり来たりしながら、生活に、詩作に明け暮れていました。更科にとって、その二つは決して分けて考えられず、生活しながら詩を書き、詩を書きながら生活していたと、私は考えます。そうした中で、約10歳の年下である、伊福部昭と知り合ったのです。

そのきっかけは、札幌における文化人の集まりで、更科も伊福部先生も参加した、「五の日の会」だったでしょう。1940(昭和15)年のことです。更科が編集した雑誌「北方文藝」第三号には、1942(昭和17)年、伊福部先生も寄稿しています。当時の伊福部先生は、1935(昭和10)年に『日本狂詩曲』でチェレプニン賞を受け、『日本組曲』がヴェネチア国際現代音楽祭に入選し、『土俗的三連画』や『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』を書いて、新進作曲家として、その名を知られていました。まだ歌曲は書いていませんが、更科源蔵という詩人と出会い、いずれは詩のある音楽を、と思ったでしょう。事実、1942(昭和17)年の「東京日日新聞」北海道版には、伊福部先生が更科源蔵の詩にもとづいて、『オホツクの海』(新聞表記のママ)を書く予定であると、報道されている。「詩は『北方文藝』の更科源蔵氏に依頼」ともある。とすれば、伊福部先生が、更科に、詩を書いてほしいと頼んだことになります。これが事実とすれば、私の認識が、いささか足りなかったようです。伊福部先生は、既成の詩を、ただ選んだだけではなかった。詩人に、詩を依頼して、曲を書こうとしたことになります。詩人と作曲家による双方向の交流が、はっきりとあったのです。

実際に、オーケストラと合唱による『オホーツクの海』が演奏されるのは、1958(昭和33)年です。伊福部先生自身が指揮をした、北海道放送による放送初演でした。そして更科源蔵は、死が間近い晩年の日々をまとめた詩集『如月日記』1984(昭和59)年221日の一篇に、『オホーツクの海』が舞台初演された日のことを記しているのです。

こうした事柄を、私は、『音楽家の誕生』以下の三部作に、できる限り詳しく、共感をこめて書きました。今、読みますと、いささか共感の度が過ぎたのではないかと思うほどです。

「11へ」;24

何とか、「詩の通信IV」第12号を印刷し、宛名書きをしました。
下の花は、12号に載せた花です。

その前に、昨夜から書き始めた詩を、完成させました。いきなりだったのですが、何とか書きました。



ただいま、遅れていました「トロッタ通信 11」を、第6回、1月17日分までアップしました。実際の日付に追いつかせるための更新作業を続けます。



夜の花


木部与巴仁



「あなた お仕事は?」

思わず答えていた

「夜です」


「あなた ご家族は?」

答えたくなかったが答えた

「夜です」


「あなた おすまいは?」

答えはひとつしかなかった

「夜です」


恋人は夜だし

着るものは夜だし

食べるものは夜だし

趣味だって夜


裏庭に

夜の花が咲いた

夜の鳥が

種を運んでくれたのだろう

一緒に眺めて遊ばないか

友だちに声をかけた

彼は翻訳家だ

夜の本を出したばかりである

恋人が夜の料理を作ってくれるという

友だちは夜の酒を買ってきた

夜の花を眺め

三人で時間を忘れて過ごした


夜の花は

ぽっかり咲く

いつまで見ていても飽きない

花の芯を覗きこむと

吸いこまれそうになった

美しいとかきれいとか

言葉は役に立たない

「言葉にできないものを表わす言葉ってあるんだよ」

友人はいった

翻訳していて見つけたそうだ

必死になって思い出そうとしたが

できなかった

わかったらすぐ教えるから

手を振りながら

気持ちよさそうに帰っていった


恋人が

台所で洗いものをしている

花を見ていたいでしょう

見ていていいよ

さっさと食器を流しに運び

勢いよく水音をさせながら洗い始めた

私は彼女の後ろ姿が好きだ

スカートから伸びた足も

束ねた長い黒髪も

きれいだった

言葉にできないものを表わす言葉

それがわかっていれば

彼女のためにも使いたいと思う


電話が鳴った

出てみたが声がしない

ああ また夜の電話だと思う

最近よくかかってくる

耳をあてるが人の声も物の音もせず

夜の気配だけがした

(誰?)

気になるのだろう

手をふきながら現われた恋人が

目で問いかけている

(夜だよ ほら例の夜の電話だよ)

この世界は夜とつながっている

どこまでも深くどこまでも広くて大きい

夜そのものだと思う


恋人は縁側に腰をおろし

お茶を飲みながら夜の花に見入っていた

真っ暗なのに

花は浮かんで見えた

電話を切って彼女に並んだ

手を添えるとひやりとして冷たい

細く柔らかな手

私たちは幸せなのだろうか

これを幸せというなら

夜はあまりにも永いと思う

終わることなく

いつまでも続いている

2010年1月16日土曜日

「トロッタ通信 11-5」

(そろそろ、過去にさかのぼって書けるかなという気になっています。/1月18日にアップしました)

『原野彷徨 更科源蔵書誌』という、小野寺克己氏の労作があります。更科源蔵の著作、文献、年譜をまとめたものです。これ一冊を持っていれば、更科源蔵の一生は、ほぼつかめます。伊藤整や小林多喜二の名も見えます。『知床半島の漁夫の歌』のもとになった詩、『昏れるシレトコ』を書くきっかけになった、知床半島への旅のことなども記されています。

ただ、1983(昭和60)年、若かった私も記憶している事柄、年譜に「アイヌ女性より第一法規刊『アイヌ民族誌』に掲載の写真について肖像権侵害、と東京地裁に訴えられる」と書かれた点は、詳細がわかりません。更科の死後、1988(昭和63)年に「和解」したと、短く書かれているだけです。もちろん、事実を伝えるのが『原野彷徨』のテーマなので、より深い内容については、知りたいと思う読者ひとりひとりが、探ればいいのです。更科の晩年に起こった、残念なできごとですが、裁判になった以上、残念なのは更科、アイヌ女性か、周囲の者が軽々しく判断することはできません。しかし、見過ごせない重要なことではあります。

私は『原野彷徨 更科源蔵書誌』を、札幌の古書店で買い求めました。発売元である古書店、サッポロ堂書店のご主人、石原誠さんのご好意によるものでした。石原さんには、たいへんお世話になりました。『伊福部昭 音楽家の誕生』は、石原さんを始め、多くの方々のご好意がなければ完成しませんでした。となると、そうした方の存在は、トロッタの会の遠い出発点にもなっているわけです。トロッタの会をスタートさせてから、その事実を、私は一度も自覚しませんでした。伊福部先生のことは、常に思っていましたが。たいへん、失礼なことでした。申し訳ありません。

「11へ」;23

朝早く起きて、チラシの原稿を作成・整理し、昼前に、デザイナーの小松史明さんに送りました。

甲田潤さんが音楽を担当している芝居を、池袋の東京芸術劇場にて拝見しました。
夕方は、画家の佐藤善勇さんが参加しているグループ展を見に、新橋へ行きました。
夜は、昨日と同じ、田中隆司さんが原作の芝居を見に、神楽坂へ行きました。

チラシを作ったりして、準備をしている段階は、「トロッタ通信 11」は書けないのかと感じています。

「11へ」;22

チラシを作成中です。「挨拶文」を書きました。


*ご挨拶

2010年、新しい十年のトロッタが始まりました。どこまで行けるだろう? という思いはありますが、気負いなく続けます。詩と音楽は、特別なものではありません。生活とともにあるのですから。第11回公演は、東京・大久保のスタジオヴィルトゥオージを舞台に、春を迎えるトロッタとなりました。チラシに引用しましたのは、田中修一さん作曲『ムーヴメントNo.2』の一部です。詩は『亂譜 瓦礫の王』ですが、いち早く届いた楽譜を手に、あ、これはシリーズになるのかな? という思いを得ました。『ムーヴメント』の“第一番”は二度、トロッタで演奏しています。“二番”が生まれたことで、詩と音楽の生命感に触れた思いがいたしました。さて、ギターは詩と音楽に親しい楽器です。今回、長谷部二郎さんに『人形の夜』でご参加いただき、トロッタの可能性が広がりました。橘川琢さんの『うつろい』は、移り変わる季節を情熱的に表現した、好評の曲。今井重幸さんの『神々の履歴書』は、評価の高い映画音楽を、室内楽版として初演するものです。久しぶりでトロッタに登場する酒井健吉さんの『ソナチネ』や、前回に続く伊福部昭さんの歌曲『摩周湖』、実験精神旺盛な清道洋一さんの詩唱のための曲『いのち』と、意欲作が並びます。アンコール曲としておなじみ、宮﨑文香さん作曲の『めぐりあい』が、今回の「春」篇で完結しますのも楽しみです。お誘い合わせの上、トロッタ11に、お越しくださいませ。

*陽が少しずつ長くなってゆく1月の朝 木部与巴仁


2010年1月15日金曜日

「トロッタ通信 11-4」

(今日もまた書けません。材料の「原野彷徨 更科源蔵書誌」は手元にあるので、時間さえできれば、すぐに書けます/1月18日にアップしました)

いささか、筆が走ったかもしれません。

私は、作曲家に詩を渡す時、いや、詩を書いている時、音楽を聴いているでしょうか?

トロッタ11では、田中修一氏が、『亂譜 瓦礫の王』を用いて『ムーヴメント2』を発表し、橘川琢氏が『うつろい』を用いて『詩歌曲「うつろい」』を発表し、清道洋一氏が『いのち』を用いて『いのち』を、長谷部二郎氏が『人形の夜』を用いて『人形の夜』を、それぞれ発表します。しかし、私は何の音楽も聴いていません。こういう音楽が、こういうスタイルで生まれればいいということも考えません。仮に音が聴こえるとしても、積極的に、私は聴かないでしょう。聴こえるのは私の音楽だからで、詩を託そうとする作曲家の音楽ではないからです。他人と共同作業するのですから、自分の音楽だけ聴いていては、おもしろくありません。何が生まれるかわからないからおもしろいので、むしろ自分と正反対の感性を持つ作曲家にこそ、詩を預けたいと思います。

その意味で、更科源蔵は、まず、詩人として詩を完成させました。そして伊福部先生は、1943(昭和18)年に発行された更科の詩集『凍原の歌』を手にして、熟読し、その中から四篇を選んで、音楽にしようと思った。結果、更科は四曲を聴くことなく亡くなりましたが、伊福部先生の曲を通して、更科源蔵という詩人の存在は、音楽の世界で永遠のものとなりました。『若い詩人の肖像』に登場するとはいえ、伊福部先生の歌がなければ、私は更科を意識しないままに終わったと思います。

「11へ」;21

ただいま、チラシの原稿を整理、作成しています。
今日もまた、「トロッタ通信 11」は書けないでしょうか。

田中隆司さんが戯曲を書きました、萬國四季教會公演『鬼沢』を、神楽坂のシアターイワトにて拝見しました。一度では私の理解が及ばなかったので、できれば、もう一度、行こうと思っています。何とか、時間を作らなければなりません。

朝はギターのレッスンでした。その後、今井重幸先生宅にお邪魔をし、トロッタ11で発表される『室内楽のための「神々の履歴書」』について、お話しをうかがいました。

2010年1月14日木曜日

「トロッタ通信 11-3」

(今夜中にアップします。前回分が未完成です。ご勘弁ください。/1月18日にアップしました)

伊藤整、小林多喜二、更科源蔵と名前を書き並べると、彼らが文学者であったことに、思い至ります。当然の話ですが、音楽家ではありません。私の出発点は、やはり、文学にありました。これについては、トロッタの会に参加している今、非常な悔しさを伴って自覚するのですが、私という人間の人生を考える上で、否定しようのない事実です。文学から出発せざるを得ません。まず、言葉の人間であったということ。音符の人間ではない。しかし、だからこそ、音楽のみではない、詩と音楽というテーマを設定できました。これを特徴、個性であると、思います。音で考えない、言葉で考えることが欠点だと自覚していますが、何ごとによらず、欠点もまた個性であると思えば、長所になり得ます。詩と音楽を、どう結びつけるか。融合するか。大袈裟ではなく、そのことを継続して考えている音楽の集団は、トロッタしかないと思います。作曲家、詩人、演奏家などに、個々の断片的営みはあるでしょうが、おそらく、トロッタだけが、詩と音楽を歌い、奏でる作業を継続しています。トロッタは未完成です。いろいろと、批判されて当然です。永遠に未完成なことをしていると、私は思っています。完成してしまったら、次の回を開く意味はないでしょう。

これは批判の意味ではないのですが、伊福部先生と更科源蔵の間で、詩と音楽を共同で作り続けて行こうとする考えはなかったと思います。別になくてかまいません。伊福部先生は、更科の詩を四篇用いて、四つの歌を創作しました。トロッタ11で演奏される『摩周湖』、トロッタ10で演奏した『知床半島の漁夫の歌』、いずれは演奏したい『オホーツクの海』、そして『蒼鷺』です。

更科源蔵は、詩を詩として書き、音楽にすることは考えなかったでしょう。伊福部先生からの申し出はあったでしょうが、詩を書いた結果として音楽ができたので、共同作業の意識はなかった。詩を書いている時に、音楽は、おそらく聞こえていなかったと思います。

「11へ」;20

トロッタ11の出演者と曲がすべて決まりました。
明日が、チラシ原稿の締切日です。デザイナーの小松史明さんに送らなければなりません。

かつて共演したことがあり、トロッタ10にもお越しいただいたギタリストの方が、脳梗塞で左半身麻痺になりました。ショックを受け、お見舞いにうかがいました。健康であることのありがたさを思います。しかし、その方は私の顔を見るなり、力強く、「元気になります」といいました。こちらの方が元気づけられました。
しかし、ショック自体は癒えず、落ち着かない気持ちのまま、新宿に出て、ギターのCDを買いました。本当なら、観に行く予定の芝居が二本、同じく絵画展がひとつあるのですが、その気持ちになれませんでした。

懸案の書評原稿を書き上げ、送稿しました。ここのところ、書評のために、一冊の本を二度、三度と読むことが続いています。本当は、一度読んで内容をつかみ、書きたいところです。時間がありませんので。しかし、一度で理解できないものは、わかるまで読む必要があります。それが書き手と作品への礼儀だと思うからです。ただ、それが時間を圧迫していることは事実です。「詩の通信IV」も滞っています。ただいま、書いています。

2010年1月13日水曜日

「トロッタ通信 11-2」

(今夜中にアップします。お待ちください。/1月18日付けでアップしました)

『伊福部昭 音楽家の誕生』に結びついた、伊福部先生への取材を始めた時、私は更科源蔵を知りませんでした。1983年だったと思います。詩と音楽というテーマなど、私の頭にはかけらもありませんでした。伊福部昭ファンであるというだけの理由で、取材を始めたのです。何の予備知識もないまま始めた。伊福部先生についての資料が、今ほどなかったとはいえ、無鉄砲もいいところです。しかし、それが今のトロッタに結びつき、作曲家や演奏家の方々との結びつきにつながっているのですから、人生の不思議さを思わざるを得ません。

ただ、更科源蔵の周辺については、知ろうとしていました。間接的に知っていました。それは、伊藤整が実名を生かしながら書いた小説『若い詩人の肖像』を通してです。高校一年か二年の時、今井正監督の映画『小林多喜二』を観ました。そこに、『若い詩人の肖像』の一場面を映像化する形で、多喜二が登場します。小樽中学生だった、伊藤整少年の目を通した、多喜二少年が描かれています。伊藤整は1905年生まれ。多喜二は1903年生まれ。伊福部先生は1914年生まれですから、ふたりは約10歳の年長です。小説『若い詩人の肖像』や映画『小林多喜二』には、北海道が描かれます。それは伊福部先生が生活していたよりも10年前の風景なのです。そして『若い詩人の肖像』に、更科源蔵が登場します。更科は、1904年生まれ。伊藤整、小林多喜二と、同じ世代です。

「11へ」;19

ほとんどの出演者が決まりました。これで、作曲の方々には、作業を進めていただけます。

午前中、ギターと声楽のレッスンでした。このふたつが続くと、音楽漬けになります。本当は、もっと、と思います。なかなかそれができないのが、悩ましい点です。

『原野彷徨 更科源蔵書誌』と、天本英世著『スペイン回想 「スペイン巡礼」を補遺する』が届きました。また、ザ・バンド解散コンサートのドキュメント映画である『ラスト・ワルツ』のDVDを購入しました。このDVDもまた、四度目くらいの購入です。

「詩の通信IV」最新号ができないので、非常に気になっています。何とかしたいと思うのですが、なかなかできません。

2010年1月12日火曜日

「トロッタ通信 11-1」

 前回の「トロッタ通信 10」は、伊福部昭先生の歌曲『知床半島の漁夫の歌』から書き始めました。今回もまた、伊福部昭先生の作品から、始めます。

 バリトンの根岸一郎さんは、伊福部先生の曲を歌いたいというご希望で、前回から、トロッタに参加してくださいました。作曲家がまず曲を書いて、という印象のトロッタですが、演奏家の側から、こういう曲をという希望が、もっとたくさんあっていいと思います。トロッタ8では、山田令子さんも、伊福部先生の『日本組曲』を演奏してくださいました。*運営システムともかかわる問題なので、それが増えた場合、システムの見直しが必要とは思いますが。

 私にとって、伊福部先生の歌曲について考えることは、詩と音楽を歌い、奏でるトロッタのあり方について、考えることです。作曲家が、詩と出会い、詩をどのように音楽にするか。あるいは、していこうとするか。その心の動きが、私には共感できます。つまり、作品を創るということ。何もないところに何かが生まれる。何かを生む。これが、私の気持ちをかき立てます。

「11へ」;18

今井重幸先生から電話があり、トロッタ11のために編曲される『神々の履歴書』の打ち合わせを行いました。


1月20日(水)の午前中、伊福部昭先生の『摩周湖』の、初の合わせを行います。翌週には、甲田潤氏の立ち会いで、ご感想をいただきながらの合わせを行う予定です。

長崎の酒井健吉さんから、1月16日(土)に、私の詩と酒井さんの曲による『庭鳥、飛んだ』が演奏される、その会のためのプロフィールを求められましたので、さっそく送りました。以下がその全文です。酒井さんは、トロッタ11で、久しぶりにご一緒します。空白があり、また共同作業ができること。そうしたことへの思いをこめました。

(木部与巴仁プロフィール)
作曲家、演奏家と共に、詩と音楽を歌い、奏でる「トロッタの会」を、2007年より開始。3月5日(金)、第11回公演をスタジオ・ヴィルトゥオージ(東京)にて開催予定。■酒井健吉さんへのメッセージ「酒井さんとは、トロッタ1からご一緒してきました。kitaraの演奏会に、私も何度か出演させていただきました。私の詩に作曲してくださり、『トロッタで見た夢』『天の川』『祈り-鳥になったら』など、忘れ難い“室内楽曲”が生まれました。『庭鳥、飛んだ』もその一曲です。初演の詩唱者は私でしたが、今回は森川あづささんをご指名になりました。まったく新しい音楽世界が生まれることを期待します」www.kibegraphy.com/

「11へ」;17

今日から、「トロッタ通信 11」を始めます。昨日の「11へ」などは、断片的に「トロッタ通信」として書いていい内容でした。断片を整理して、「トロッタ通信 11」の書き出しとします。前回の「トロッタ通信 10」を改めて読みまして、これの続きとします。
6月に行われる扇田克也さんの個展についての原稿は、扇田さんのページ「遠い森」に書いていきます。
いずれは書き始めなければいけない原稿ですが、ひとつには、今日あたり、『原野彷徨 更科源蔵書誌』が古書店から届くだろうという計算があり、これを書き出しのきっかけにしたいと思います。ついでに書けば、以下のものを、ここ数日のうちに注文しました。すべて、詩と音楽について考えたい、その資料です。どの本も、何度目かの購入です。

『原野彷徨 更科源蔵書誌』
『ユリイカ 特集:カエターノ・ヴェローゾ 進化する音楽 奇跡の詩(2003年2月号)』
『スペイン巡礼 スペイン全土を廻る』天本英世
『スペイン回想 「スペイン巡礼」を補遺する』天本英世

トロッタの会は、反省会のようなことを、していません。これ自体が反省といえますが、気持ちの中では、個々が反省すればよいという思いが常にあります。反省会をするなら、トロッタが完全に終わってからすればいい、それまでは走り続けたいと思います。この考えへの反論はあるでしょう。あくまで私個人の思いです。総意ではありません。反省会を望んでいる方もあると思います。申し訳ないことです。
個々の反省という意味で、私は、「トロッタ通信 11」を書くつもりです。前回の反省を踏まえて、トロッタ11に向かおうと思います。

1月16日(土)に、長崎にて、私の詩による酒井健吉さんの曲『庭鳥、飛んだ』が再演されます。ただ、私は出演しません。曲のさしかえで、急遽、演奏されることになりました。別の曲の演奏者として長崎に行きます、森川あづささんが詩唱します。大切な詩であり、大切な曲です。酒井さんたちの演奏会であり、すべて、作曲者におまかせしています。森川さんの健闘を祈ります。
このようなことは、「11へ」の原稿として書き、「トロッタ通信 11」とは区別してまいります。

2010年1月11日月曜日

「11へ」;16

やはり、このあたりから、話を始めることになります。
トロッタ11では、伊福部昭先生の『摩周湖』を演奏します。詩は、更科源蔵によるものです。

1月7日(金)の夜、阿佐ヶ谷の古書店にて、伊藤整の『若い詩人の肖像』を買いました。何度目かの購入です。何かあるたびに売っていますから。ダブって買うこともあったので、もしかすると20回目くらいの買い物かもしれません。伊藤整は、最近は、さほど好きな作家とはいえなくなっていますが、この『若い詩人の肖像』は、高校生の時から繰り返し読んでいたこともあり、思い入れがあります。特に高校生のころは、伊藤整の上級生だった小林多喜二の描写に強くひかれました。ここに、更科源蔵が登場します。昭和3年の話です。

更科源蔵については、『原野彷徨 更科源蔵書誌』という資料があり、ここに詳しい年譜が掲載されています。『伊福部昭 音楽家の誕生』を始めとした三部作を書く際、ずいぶん参考にさせていただきました。これも、今は手放しましたが、ただいま注文をしており、明日あたり、届く予定です。四度目の買い物になるはずです。

2010年1月10日日曜日

「11へ」;15

新しい詩を、作曲家に提出しました。なかなかタイトルが決まりませんでしたが、決定をし、気持ちが落ち着きました。

トロッタのブログに、関係のないことばかり書いてもいけません。関係ないとはいいながら、無縁ではありませんので、改めて、何がどう関係あるか、書きます。
「11へ」の9回で、「夜が来て去ってゆく」について書きました。今日の詩は、「北へ、アカシアへ」です。「夜」と同じく、6月5日(土)から、金沢のギャラリー点で行われます「扇田克也展 遠い森」で、私が、ギターを弾きながら詩唱します。作曲は、清道洋一さんにお願いしています。

トロッタに、10回、出演しました。詩唱表現が完成したわけではありません。まだ未開拓の要素が多くありますが、今年は、楽器を加えようと思いました。ギターを用いて詩唱することで、表現の幅が広がると確信しました。短い詩を、練習曲を弾きながら、詩唱しています。なかなかうまくいきません。メロディがついていればまだしもと思います。ギターだけなら少し弾けても、詩を詠み出すと、とたんに手がばらばらになります。毎日毎日、練習です。

金沢でトロッタを開催できればと思いますが、これは無理でしょう。森岡書店で、扇田さんとの展覧会に合わせ、小さな演奏会を開きました。東京だから、可能だったと思います。東京以外で、気軽に詩唱する機会が、今後も生じると思います。ソロの詩唱も、なるほど結構ですが、変化と幅を持たせたいと思うのです。やはり、音楽として表現したいと思います。詩唱だけでは、なかなか音楽と受け止めていただけません。ギターが入れば、誰が何といおうと音楽です。それでも、純粋な音楽ではないという意見が出たとすれば、これはもう、噛み合ないというしかありません。

その一方で、中川博正さんと、デュオを組もうと思います。中川さんとは、トロッタ9にて、橘川琢さん作曲の『花骸-はなむくろ-』で共演しました。ソロではなく、デュオの詩唱。人と一緒にすることで、思いもよらない自分の力を発見します。『花骸』では、物語りの大部分を、中川さんに担当していただきました。私は、意味のない声、つまり音楽的な発声に力を注ぐことができました。ソロですと、物語りも音楽も、全部、ひとりでこなさなければなりません。結果、『花骸』は好評でした。

今後、詳述しますが、今年はふたつの新しいことをします。ギターを用いての詩唱、中川さんとの詩唱デュオ。手応えのある課題ができました。



2010年1月9日土曜日

「11へ」;14

昨夜から書いていた、少し長い詩を書き上げました。まだ完成とはいえませんが、旅の詩です。トロッタ関係のものではありません。しかし、いずれ演奏することになるかもしれません。

2010年1月8日金曜日

「11へ」;13

懸案だったチェリストが決まりました。これで弦楽カルテットは成立しました。後ほど、ご報告します。

田中修一さんから、新曲「ムーヴメント2 亂譜 瓦礫の王」の楽譜が送られてきました。トロッタ11で発表いたします。

2010年1月7日木曜日

「11へ」;12

トロッタ11の準備状況を関係の皆さんにお知らせしました。
未決定の部分はありますが、以下のような曲を予定しています。

伊福部昭 「摩周湖」
今井重幸 「神々の履歴書」
橘川琢 「うつろい」
清道洋一
「いのち」
酒井健吉
「ピアノとヴァイオリンのためのソナチネ」
田中修一
「ムーブメント2 瓦礫の王」
長谷部二郎
「人形の夜」
宮崎文香
「めぐりあい-春-」


2010年1月6日水曜日

「11へ」;11

昨日、会場費は払いこみました。少しずつ、進んでいます。トロッタ11へ向け、まだ、決まらないことが、多くあります。

2010年1月5日火曜日

「11へ」;10

田中修一さんから連絡があり、本日、新曲が完成したそうです。曲名は以下のとおりです。

ムーヴメントNo.2~木部与巴仁「亂譜 瓦礫の王」に依る
MOVEMENT No.2 (poem by Kibe Yohani “RAN-FU, Guwareki no Wau”)
for 2Voices, Marimba and Piano

トロッタ3で初演され、昨年のトロッタ9で再演されました「ムーヴメント」の続篇です。初演のタイトルは、『声と2台ピアノのためのムーヴメント〜木部与巴仁「亂譜」に依る』でした。再演時は、編作版初演として、2台ピアノをエレクトーンと打楽器、ピアノに置き換え、『ムーヴメント〜木部与巴仁「亂譜」に依る』と題されました。
早々と完成しましたので、トロッタ11にじゅうぶん間に合います。ただ、完成できるということが不確定でしたので、田中さんが想定する打楽器奏者に声をかけていません。トロッタ11での演奏は、奏者の日程次第、ということになります。しかし、いずれは演奏します。記念ということもないのですが、本番までの経過をお伝えする意味でも、詩を掲げておきます。
ちなみに、「瓦礫の王」というタイトルは、私が学生時代に考えついたもので、ある作家の論文のタイトルとしてあたためていたものです。もう、論文のようなものを書く気はありませんので、詩の題にいたしました。
ちなみに、「ムーブメント1」に用いられました詩「亂譜」は、サイト「トロッタの会」全記録と全詩篇に掲げてありますので、ご覧下さい。


瓦礫の王

瓦礫なり

天まで続く 瓦礫なり

眼(まなこ)を奪う

満月

人はなく

銀(しろがね)の光

瓦礫を照らす


舞えよ

月下に われひとり

歌えや

月下に 声をふるわせて

見る者はなし

聴く者はなし


夜は深し

どこまでも深し

落ちゆく先は 底なしの闇

風の音のみ聞いたという

死者の繰り言


舞い続け

舞い続けて月に向く

立ち木として死ね

心に残す

何ものもなし

明日(あした)に残す

一言もなし

瓦礫の王が

ただひとり舞う


2010年1月4日月曜日

「11へ」;9

間もなく演奏曲目が決まります。なお紆余曲折があると思いますが、決めるか決めないかの方向は見えてきました。早く決めなければ、チラシ作りなどにさしつかえる事情があります。
また、明日5日(火)には、会場のスタジオヴィルトゥオージに、使用料を払わなければなりません。忘れないためにも書いておきます。

先日の詩「夜が来て去ってゆく」は、どのようになるかわからないとあいまいな書き方をしてしまいました。このブログが、トロッタのためのものなので、明確にしませんでしたが、決まっていることがあります。6月5日(土)、金沢のギャラリー点で開催される扇田克也展にて、オープニングで演奏します。作曲は清道洋一さん、演奏は私です。楽器はギターです。そのための詩です。トロッタとは関係ありませんが、いずれトロッタでも演奏するかもしれませんので、お伝えしておきます。オープニングのために、もう一篇、詩を書く予定です。

ただ、トロッタ11のための報告を、最優先にしなければと思います。お待ちください。

2010年1月2日土曜日

「11へ」;8

トロッタ11の演奏曲を決めなければいけません。昨年中に決める予定でしたが、決まりませんでした。あと1曲か、2曲、決めればいいだけです。出演者にしてもあと一人か二人、曲目もあと一つか二つ、といった具合に、毎回、ぎりぎりまで決まらない要素が生じます。そういったものなのでしょう。しかし、三が日が明けた時にはと思います。本当は、大晦日とか正月とか、好きではないのです。いろいろな物事が停滞してしまいます。

2010年、最初の詩です

「夜が来て去ってゆく」を書きました。
この詩が、どのように使われるか、どのようになるか、お知らせは後日、いたします。
まだ、書いたばかりなのです。
トロッタ11のための詩ではありませんが、すべてはひとつの、大きな流れの中で生まれますので、掲げさせていただきました。


夜が来て去ってゆく

木部与巴仁

ドアを開けると
町の灯(ひ)が見えた
星屑に似ていた
人が生きて死ぬ場所だ
そっとドアを閉めた

ドアを開けると
川が流れていた
黒く重たい川だった
浪漫川という名を思い出した
そっとドアを閉めた

ドアを開けると
花が咲いていた
赤い花だった
血の色に似ていた
手ですくおうとして止めた

ドアを開けると
男が身を投げた
私は男を知っていた
彼が見た最期の光景を想像した
それは青い空だった

ドアを開けると
子どもがいた
男の子だった
女の子もいた
ものもいわずに立っていた

ドアを開けると
風が吹いた
雲がちぎれて飛んでいった
心細かった
そっとドアを閉めた

ドアを開けると
夜だった
女が男を殺していた
生まれ変わりたかった
生まれ変わらなければならなかった

ドアを開けると
泣き声がした
人形たちが泣いていた
行き場がないのだ
そっとドアを閉めた

ドアを開けると
燃えていた
私の家だった
思い出した
あれは七つの時だった

ドアを開けると
私がいた
老いた眼で見つめていた
ひとりだった
そっとドアを閉めた

ドアを開けると
階段があった
上(のぼ)ろうと思った
下りようと思った
足をかけたまま動けなかった

2010年1月1日金曜日

「11へ」;7

トロッタ11にて、バリトンの根岸一郎さんが歌う予定の、伊福部昭先生の歌曲、『摩周湖』です。トロッタ10での、『知床半島の漁夫の歌』に続き、伊福部歌曲を取り上げることになりました。詩は、同じく更科源蔵氏です。1943年刊行の、更科氏の詩集『凍原の歌』から、引用します。


摩周湖


大洋(わだつみ)は霞て見えず釧路大原

銅(あかがね)の萩の高原(たかはら) 牧場(まき)の果

すぎ行くは牧馬の群か雲の影か

又はかのさすらひて行く暗き種族か


夢想の霧にまなことぢて

怒るカムイは何を思ふ

狩猟の民の火は消えて

ななかまど赤く実らず


晴るれば寒き永劫の蒼

まこと怒れる太古の神の血と涙は岩となつたか

心疲れし祖母は鳥となつたか

しみなき魂は何になつた


雲白くたち幾千歳

風雪荒れて孤高は磨かれ

ヤマ ヤマに遮り はて空となり

ただ

無量の風は天表を過ぎ行く


「11へ」;6

2010年が始まりました。皆様、今年もよろしくお願いします。

本日、書き上げました、「詩の通信IV」第11号のため詩を掲げます。この詩が曲になる保証はどこにもありません。しかし、曲になるならないを別にして、書きたいから詩を書くという自発的な生き方こそが根底にあります。そのような例として、お読みいただければ幸いです。


人生の花


木部与巴仁



恋愛とは

相手の人生を引き受けてもいい

そう思うことですよ


私はまだ

十二歳だった

語る僧侶は

五十代だったと思う

戦争中

静岡で米軍の空襲に遭い

好きな人を亡くした

僧侶は学校の教師だったが

戦争が終わると剃髪し

二度と教壇に戻らなかったという


Kくんが好きになった人は

どんな女性だろうか

せいぜい大切にしてあげてください


しかし

小学六年生の私に

言葉の真意がわかるはずはない

あの夏の

僧侶と変わらぬ年齢になった今も

わかってはいない

相手の人生を引き受ける

苦い思いとともに

時折り

その言葉を噛み締めることはある


あやめの花が

咲いているでしょう

死んだあの人が好きでした

寺のまわりにたくさん生えています

そんなことを

これからも

ずっと引き受けるのだと思います


家に帰った私は

僧侶の言葉を母に聞かせた

ふうんといったまま

母は言葉を継がなかった

その数日後である

僧侶が

行く先も告げず

姿を消したと聞いたのは


恋愛とは

相手の人生を引き受けてもいい

そう思うことですよ


あのころ

私は初めて女性を好きになった

同級生の女の子だった

胸が痛いと母にいい

心臓でも悪いのかと心配された

誰かに自慢したくて

顔見知りの僧侶に告げたのだ

町の歴史に詳しい

子どもの話し相手になってくれる

俳句をよく詠む人だった


夏蝉の

声ききながら

友を待つ


Kくん

あなたのことですよ

半紙に書いた句を見せながら

そこまでいってくれた

たった十二歳の私に向かって

四十年前である

もう生きてはいないだろう

私を置いて行ってしまった僧侶

今も

あやめを見るたび

彼の姿を思い出している