一見、音楽とは関係のない話からーー。ここ数日、野上弥生子の長編小説『迷路』を読み進めている。直截の理由は、山本薩夫が晩年に映画化を構想していた作品だから。『戦争と人間』論を書くため、山本が何を考えていたか、知らなければと思って買っておいたまま読んでいなかった。
『戦争と人間』の映画作家が関心を持ったにふさわしい、世界大戦に突入する時代を背景にした知識人の物語。本能だけで生きている、美しく気持ちの強い女性も出る。五味川純平とは別の、“戦争と人間”である。あの小さな野上弥生子の、どこからこんな大きな世界が生まれるのか。
身体の大小をいうのは失礼だが、作家の想像力、構想力を思う。余勢をかって、秋元松代の初期戯曲集と後期戯曲集がYahoo!オークションに出ていたので落札(この文章を書きながら、円地文子との共著『女舞』を落札)。秋元松代は、私が日本で一番に好きな戯曲家のひとりだ。
日本の民俗を背景にしながら、千年単位で人の歴史とエロスをからめて描いた『常陸坊海尊』や『かさぶた式部考』は掛け値なしの傑作。私の中での最高傑作は『七人みさき』である。もちろん、他人のことをすごいとばかりいっていてはいけないので、自分の作品年について考えてみた。
後鳥羽上皇を主人公にした私の「隠岐のバラッド」が、音楽作品だが演劇性を帯びている意味で、秋元作品に匹敵すればと思う。野上弥生子、秋元松代という二人の女性作家について考えるうち、田中修一氏の作品年表を作った影響も大きいだろう、自分の詩をまとめる必要にかられた。
書き放しにするのではなく、自分を見直したい(自分が何を書いたか思い出せない状態なのだ)。昨日は、全6期にまたがって進行中の「詩の通信」を整理。トロッタで発表した詩や、他の主要作についても整理しておこうと思う。繰り返すが、詩集を作りたいとはまったく思っていない。
〈私が詩集に関心を持たない理由〉出版社との交渉には、これまでの体験でうんざりしている。しかし仕事では必要だから、これ以上、心労を増やしたくない。詩集は、どんな著名な詩人でも、自費出版となることは明らか。そして、トロッタこそ私にとっては詩集であると考えている。
詩集がいらない理由は特に最後の点が大きい。昨日書いた、他人の言葉を素直に、心から詠めるのかという点を具体的に考えなければならない問題に直面している。一昨日、日本音楽舞踊会議が3月12日(月)に開催する演奏会のチラシが、橘川琢氏から送られてきたのである(続く)。
「動き、舞踊、所作と音楽」と題された演奏会である。清道氏の『革命幻想歌2』も演奏され、私が出る。橘川氏とは、多少のやりとりがあったが、彼の叙情組曲《日本の小径(こみち)補遺より「春告花(はるつげばな)・三景」》で、詩唱をすることになった。つまり2曲に出る。
詩は私の作品ではなく、橘川氏が書くという。こういう展開になったかと、正直驚いた。橘川氏の詩は、これまでニ度詠んでいる。2007年5月、彼がトロッタに初めて参加した時の「幻灯機」、昨年に谷中ボッサで行った橘川氏個展での「1997年 秋からの呼び声」である。
聴いてくれた人からは、自分の詩よりも他人の詩を詠んでいる方が、妙な力みがなくてよかったという声を聞いた。本当かな? と思う。正直なところ、橘川氏の詩が楽しみ、というよりも不安だ。詩の出来具合とか、そういう失礼な話ではなく、私はどう詠めるのか、という意味で。
2012年1月31日火曜日
2012年1月30日月曜日
トロッタ日記120130
言葉には何らかの抵抗感が生じる。清道洋一氏への反抗ではない。抵抗感を、意識のある受け止め方と言い換えてもいい。この点が詩と音楽をテーマにする場合の大切な点だろう。彼と話し合いたいというのは、反論するのではなく、詩と音楽にとって肝心な点を話し合いたいということ。昨年のトロッタ13で初演された、清道氏の『ヒトの謝肉祭』でも、似たようなことがあった。テキストは私の詩(だとは、今は思っていない)がそのまま使われたものの、清道氏の意図がつかめず、結局、『ヒトの謝肉祭』は、心から納得のゆく演奏にならなかった。私にも責任がある。繰り返すが清道氏への異論を述べているのではない。互いの齟齬でも抵抗感でもいいが、ここを見つめていかないと、気持ちのいい歌を歌ってそれでおしまい、ということになってしまう。気持ちよくなることは大事でも、無反省になる。互いの相違点こそ、本質に触れる手がかりなのだ。唐突だが、昨日から田中修一氏の作品一覧を作り始め、今朝ほど完成させた。雑誌「ギターの友」で萩原朔太郎について書くうち、朔太郎の詩に依る歌を作り続ける彼の作品を整理する必要を感じたのである。なぜ他人のことで一生懸命になっているのか?結局は私自身のことなのである。田中氏の作品一覧を作りながら感じた。伊福部先生を始め、トロッタで一緒に活動している作曲家にはそれぞれの歴史がある。田中氏の始まりは1987年。2007年に至り、ここからトロッタを始めたのだなと思う。音楽が人生に、人生が音楽になっている。その事実と向き合いたい。
トロッタ日記120129
清道洋一さんから、3月12日(月)に開催される、日本音楽舞踊会議演奏会の楽譜が届いている(10日土曜夜の送信)。『革命幻想歌2』である。2010年12月12日(日)、谷中ボッサで開催した「隠岐のバラッド」にて初演された『革命幻想歌』の続編、とでもいうべき作品。私は後鳥羽上皇、ギターの萩野谷英成さんは楽士英成、それに役者の堀江麗奈さんが、隠岐局麗子役で出演。私は『革命幻想歌2』の詩を書き、彼はそれを構成する形で楽譜に生かした。従って、詩と曲には大きな違いがある。彼の楽譜は、戯曲のように見える。萩野谷さんにはギターのための五線譜が渡されるだろうが、私や堀江さんの楽譜に音符はない。文字があるだけ。それに、いつものことだが、私の詩に加えて彼の言葉も、音楽として加えられている。同じ言葉であるだけに、これをどう詠むかが難しい。清道氏と話し合いたい思いである。これを詠んでくれと、指示されただけでは心から詠めないのが、音符と違う点だ。言葉には、どうしても考え方や感情が入ってくる。まるで他人の作品ではない、私の詩が清道氏のテキストと融合している点も問題である。音の連なりにも、これは自分の感情と合わない場合があるだろう。伊福部先生の『日本狂詩曲』には日本の民謡が生かされているが、それを演奏者が抵抗しながら弾いた、などというエピソードがそれにあたる。日本人だから抵抗してしまう場合がある。私にせよ、心から日本民謡を歌えるだろうか? ロルカが採譜したスペインの民謡を歌っているのに。
2012年1月29日日曜日
トロッタ日記120128
ギターの長谷部二郎先生が編集する「ギターの友」2月号のための校正を行っている。私の連載「ギターとランプ」は今回が11回目。〈田中修一と萩原朔太郎〉と題し、詩と音楽を追究した萩原朔太郎と、その詩に依る曲を作っているトロッタの作曲家、田中修一について書いた。
「ギターとランプ」9回は田中修一の『鳥ならで』について書き、10回は『遺傳』について書いた(3、4回で『ムーヴメントNo.3』についても書いた)。田中修一が続いている。ギター曲を書く作曲家であり、朔太郎の詩で曲を書いているのだから、自然と取り上げることになる。
また「ギターの友」では、「コンサートの余韻」ページにも書いた。昨年の世田谷文学館「生誕125年 萩原朔太郎」展のマンドリン&ギター・コンサート、高柳未来と鈴木大介の演奏について。時間の都合で後半しか聴けなかったが、朔太郎と音楽の関わりを考える、よい機会となった。
朔太郎は通常の詩人ではなかった。音楽家でもある詩人だった。彼なりの言い方だと、音楽家になりたいのになれなかった詩人、ということになるかもしれない。詩人として楽器を弾けた重要性を想う。私は研究者ではないと肝に銘じつつ、音楽面から朔太郎について考える重要性を思う。
先に、伊福部昭先生と更科源蔵氏をめぐって考え、今は朔太郎に行き着いた。将来は、前橋で朔太郎に関係した演奏会を開きたいと思う。私に力があれば、昨年、すでに世田谷文学館で開けたはずなのだ。焦ることはない。これらを考えの根本に置いて、トロッタなどで実践していきたい。
「ギターとランプ」9回は田中修一の『鳥ならで』について書き、10回は『遺傳』について書いた(3、4回で『ムーヴメントNo.3』についても書いた)。田中修一が続いている。ギター曲を書く作曲家であり、朔太郎の詩で曲を書いているのだから、自然と取り上げることになる。
また「ギターの友」では、「コンサートの余韻」ページにも書いた。昨年の世田谷文学館「生誕125年 萩原朔太郎」展のマンドリン&ギター・コンサート、高柳未来と鈴木大介の演奏について。時間の都合で後半しか聴けなかったが、朔太郎と音楽の関わりを考える、よい機会となった。
朔太郎は通常の詩人ではなかった。音楽家でもある詩人だった。彼なりの言い方だと、音楽家になりたいのになれなかった詩人、ということになるかもしれない。詩人として楽器を弾けた重要性を想う。私は研究者ではないと肝に銘じつつ、音楽面から朔太郎について考える重要性を思う。
先に、伊福部昭先生と更科源蔵氏をめぐって考え、今は朔太郎に行き着いた。将来は、前橋で朔太郎に関係した演奏会を開きたいと思う。私に力があれば、昨年、すでに世田谷文学館で開けたはずなのだ。焦ることはない。これらを考えの根本に置いて、トロッタなどで実践していきたい。
2012年1月27日金曜日
トロッタ日記120127
今井重幸先生を久しぶりに訪問。トロッタ15の打ち合わせ。トロッタ16の出品曲、さらに運営面についてなど、今後のことも含めて話し合う。トロッタ14に出品されたフルートとチェロのための『対話と変容』のモティーフを、ロルカの民謡13曲のうち、どの曲から得たかをうかがう。『ソロンゴ』であった。ちょうど、トロッタ15で歌うことになっている。すでに歌ったか、いずれは歌うことになる曲から得られたのは明らかだったが、それが次回の曲である偶然を不思議に思う。『対話と変容』を受けた対話、ということになるからだ。
今井先生と確認をしたことで、トロッタ15に出品する作曲家全員と、最終的な確認ができたことになる。今井先生とも電話では打ち合わせしていたが、顔を合わせての確認はまだだったから。電話だけでは不足だ。これで曲は決まった。残りは演奏者を、最終的に決定しなければならない。出演者によっては、すぐ返事をいただけない方もある。5月だから先のことであるが、人によってはもう前後の予定が決まってしまっている人がいる。早いか遅いかは人によって違う。3月には、仮チラシを使った宣伝を始めたいと思っている。ブログでの宣伝はすぐにも始めたい。
今井先生と確認をしたことで、トロッタ15に出品する作曲家全員と、最終的な確認ができたことになる。今井先生とも電話では打ち合わせしていたが、顔を合わせての確認はまだだったから。電話だけでは不足だ。これで曲は決まった。残りは演奏者を、最終的に決定しなければならない。出演者によっては、すぐ返事をいただけない方もある。5月だから先のことであるが、人によってはもう前後の予定が決まってしまっている人がいる。早いか遅いかは人によって違う。3月には、仮チラシを使った宣伝を始めたいと思っている。ブログでの宣伝はすぐにも始めたい。
2012年1月26日木曜日
トロッタ日記120126
草月ホールの「日本の音楽展XXXIV」にて、甲田潤さんの、ピアノのための『変容』が演奏される。いつ聴いてもクールな、都会的な曲である。このような曲を、というと甲田さんに失礼で、自分のコピーを、ということではないが、甲田さんには『変容』のような新曲をお願いしたいものだ。奏者は、野田昌子さん。トロッタでは、並木桂子さんに演奏していただいた。
ルーテル市ヶ谷センターホールの「虹"KOU"二十五絃箏コンサートVOL.1」にて、田中修一さんの、二十五絃箏五重奏のための小組曲『PETIT SUITE pour Quintour a Kotos』(a にアクサン)が初演される。伊福部先生の二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』『ヨカナーンの首級(みしるし)を得て、乱れるサロメ』に続いての演奏だった。
可能性として、しばしば考えていること。『音楽家の誕生』に始まる伊福部昭先生に関する、4作目の原稿を書き継ぎたい、ということ。トロッタがそれだと開き直ることもできるのだが。田中氏の曲に先立って演奏された、伊福部先生のバレエ曲『サロメ』に依る2曲を聴いていて、またそのことを思った。
長谷部二郎先生編集の雑誌「ギターの友」に、連載原稿「ギターとランプ」、演奏会ルポとして「コンサートの余韻」を書いた。その初校が、今夜、出る予定。「ギターとランプ」は、引き続いての田中修一論だが、世田谷文学館の萩原朔太郎展コンサートを報告した「余韻」と合わせて、朔太郎について論じたもの。何度となく、研究者ではないが、と断ってはいるものの、書きたい気持ちがあることは事実である。
ルーテル市ヶ谷センターホールの「虹"KOU"二十五絃箏コンサートVOL.1」にて、田中修一さんの、二十五絃箏五重奏のための小組曲『PETIT SUITE pour Quintour a Kotos』(a にアクサン)が初演される。伊福部先生の二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』『ヨカナーンの首級(みしるし)を得て、乱れるサロメ』に続いての演奏だった。
可能性として、しばしば考えていること。『音楽家の誕生』に始まる伊福部昭先生に関する、4作目の原稿を書き継ぎたい、ということ。トロッタがそれだと開き直ることもできるのだが。田中氏の曲に先立って演奏された、伊福部先生のバレエ曲『サロメ』に依る2曲を聴いていて、またそのことを思った。
長谷部二郎先生編集の雑誌「ギターの友」に、連載原稿「ギターとランプ」、演奏会ルポとして「コンサートの余韻」を書いた。その初校が、今夜、出る予定。「ギターとランプ」は、引き続いての田中修一論だが、世田谷文学館の萩原朔太郎展コンサートを報告した「余韻」と合わせて、朔太郎について論じたもの。何度となく、研究者ではないが、と断ってはいるものの、書きたい気持ちがあることは事実である。
2012年1月20日金曜日
トロッタ15通信.48
トロッタ14通信〈記録〉.10
Concerto da camera
〈作曲 酒井健吉〉
この作品はデュエアゴースト国際作曲コンクールの依頼により作曲したものです。2009年7月7日に脱稿し翌2010年2月26日にナポリで行われた国際音楽祭“モーツァルトボックス2010”においてリッカルド・ケニー指揮アンサンブル・デュエアゴーストで初演されました。その後も同アンサンブルのレパートリーとして各地で演奏されています。今回の演奏は日本初演となります。短い作品ですがお楽しみいただけたら幸いです。〈酒井健吉〉
フルート*八木ちはる クラリネット*藤本彩花 〈弦楽四重奏〉Vn.戸塚ふみ代 Vn.田口 薫 Va.仁科拓也 Vc.小島遼子 ピアノ*森川あづさ
【記録】酒井健吉が、久々にトロッタの舞台に立ってくれた。曲の出品はトロッタ11以来。トロッタ12に出品予定だったが、事情があって取りやめとなっていた。この曲に詩唱パートはないので、私の筆では書きにくい(曲はYouTubeでお聴きいただきたい)。詩唱のない、音楽の純粋性を味わえる曲であろう。
Concerto da cameraとは、“室内協奏曲”ということ。独奏楽器的な役割は、ピアノが受け持ったといえる。トロッタ6、トロッタ7にイタリアから出品してくれたファブリチオ・フェスタから、アンサンブルのための曲を創ってくれないかと、酒井に要請があった。モーツァルトの曲をモティーフに、全体をコラージュのようにして仕上げた。イタリアではすでに何度も演奏されて好評だという。そして、過去にいくつかの例があることだが、人名のアルファベット表記から音名を取り、それを曲の主題に生かした。その人物は酒井健吉にとって忘れがたい大切な存在だ。人の記憶、自分の記憶、互いの思いといったもので曲を作ったといえるだろう。即興演奏の個所もいくつかある。奏者の自由にまかせる。譜面どおりに演奏することも大事だが、曲の時間を生きる中で、思いのまま振る舞ってもらおうとしたのだろう。酒井は長崎から本番当日に来たのだが、あわただしく、ただでさえ時間のない中、よく息を合わせてくれたと思う。
トロッタ15では、酒井健吉に依頼して、『トロッタ、七年の夢』を演奏予定だ。もともとは、中川博正の詩唱を生かそうと、『トロッタで見た夢』の短いバージョンを酒井に依頼した。それを、せっかくの機会だからと、新曲を作ることになったのである。酒井健吉とは、これまで多くの曲を共同製作してきたが、彼が主宰する長崎の演奏会に出るなどしたことが、トロッタに結びついていることは間違いない。トロッタの初回から出品してくれて、トロッタの土台、スタイルを作ることに力を尽くしてくれたことも間違いない。出品に関しては途中で空白期間があったが、酒井の作った歴史は少しも損なわれない。トロッタに、比較的大きな楽器編成が取り入れられるようになったのも、トロッタ4の酒井の曲『夜が吊るした命』以来のことなのである。
思うこと−−。トロッタでは、詩唱が入る曲、歌が入る曲、『Concerto da camera』のように楽器のみの曲がある。無伴奏の詩唱曲、歌曲があってもいいだろう。それぞれ違うのだが、音楽として、分けたくない気持ちがある。それはしたくないと思うものに、よくいうことだが、朗読の背景に曲を流す、音楽にはBGMの役割を求めるスタイルがある。私はそれを安易だと思っている。バックではない、同一線上に朗読と音楽があってほしい。五線譜を使うなら、そこに詩唱のパートを作ってほしいし、上下の楽器パートと厳密な関わりを持たせてほしい。それが私の考える詩唱曲だ。表現は違うが、歌と同じである。それなら−−、例えば酒井健吉の『Concerto da camera』の中に詩があると考えられないだろうか。酒井は、大切な人への思いを、名前に通じる音名を使うことで、曲にこめた。心情の反映だ。文学的な行為だと受け取れる。器楽曲にも心情がある。詩唱曲と歌曲にはもちろんある。三者を共通したものとして、私は受け取っている。『Concerto da camera』作曲の背景を知らない場合でも、聴いているのは人だから、人それぞれの詩がある、詩情がある、詩の心で音楽を受け止めているといえまいか。音楽の心で受け止める。詩の心で受け止めている。表現が文学的に過ぎるといって、ただ音響がそこにあるだけだと、即物的には思いたくないのである。ただし、何かを連想するのは違うかも知れない。連想してもいいかも知れないし、何も思うなというのは生きた人間に対して無理だろうが、まず音響に身をゆだねたい。先入観を持って聴くのではない。音響が生み出すものを感じる。そこからだろう、音楽としての詩が始まるのは。
Concerto da camera
〈作曲 酒井健吉〉
この作品はデュエアゴースト国際作曲コンクールの依頼により作曲したものです。2009年7月7日に脱稿し翌2010年2月26日にナポリで行われた国際音楽祭“モーツァルトボックス2010”においてリッカルド・ケニー指揮アンサンブル・デュエアゴーストで初演されました。その後も同アンサンブルのレパートリーとして各地で演奏されています。今回の演奏は日本初演となります。短い作品ですがお楽しみいただけたら幸いです。〈酒井健吉〉
フルート*八木ちはる クラリネット*藤本彩花 〈弦楽四重奏〉Vn.戸塚ふみ代 Vn.田口 薫 Va.仁科拓也 Vc.小島遼子 ピアノ*森川あづさ
【記録】酒井健吉が、久々にトロッタの舞台に立ってくれた。曲の出品はトロッタ11以来。トロッタ12に出品予定だったが、事情があって取りやめとなっていた。この曲に詩唱パートはないので、私の筆では書きにくい(曲はYouTubeでお聴きいただきたい)。詩唱のない、音楽の純粋性を味わえる曲であろう。
Concerto da cameraとは、“室内協奏曲”ということ。独奏楽器的な役割は、ピアノが受け持ったといえる。トロッタ6、トロッタ7にイタリアから出品してくれたファブリチオ・フェスタから、アンサンブルのための曲を創ってくれないかと、酒井に要請があった。モーツァルトの曲をモティーフに、全体をコラージュのようにして仕上げた。イタリアではすでに何度も演奏されて好評だという。そして、過去にいくつかの例があることだが、人名のアルファベット表記から音名を取り、それを曲の主題に生かした。その人物は酒井健吉にとって忘れがたい大切な存在だ。人の記憶、自分の記憶、互いの思いといったもので曲を作ったといえるだろう。即興演奏の個所もいくつかある。奏者の自由にまかせる。譜面どおりに演奏することも大事だが、曲の時間を生きる中で、思いのまま振る舞ってもらおうとしたのだろう。酒井は長崎から本番当日に来たのだが、あわただしく、ただでさえ時間のない中、よく息を合わせてくれたと思う。
トロッタ15では、酒井健吉に依頼して、『トロッタ、七年の夢』を演奏予定だ。もともとは、中川博正の詩唱を生かそうと、『トロッタで見た夢』の短いバージョンを酒井に依頼した。それを、せっかくの機会だからと、新曲を作ることになったのである。酒井健吉とは、これまで多くの曲を共同製作してきたが、彼が主宰する長崎の演奏会に出るなどしたことが、トロッタに結びついていることは間違いない。トロッタの初回から出品してくれて、トロッタの土台、スタイルを作ることに力を尽くしてくれたことも間違いない。出品に関しては途中で空白期間があったが、酒井の作った歴史は少しも損なわれない。トロッタに、比較的大きな楽器編成が取り入れられるようになったのも、トロッタ4の酒井の曲『夜が吊るした命』以来のことなのである。
思うこと−−。トロッタでは、詩唱が入る曲、歌が入る曲、『Concerto da camera』のように楽器のみの曲がある。無伴奏の詩唱曲、歌曲があってもいいだろう。それぞれ違うのだが、音楽として、分けたくない気持ちがある。それはしたくないと思うものに、よくいうことだが、朗読の背景に曲を流す、音楽にはBGMの役割を求めるスタイルがある。私はそれを安易だと思っている。バックではない、同一線上に朗読と音楽があってほしい。五線譜を使うなら、そこに詩唱のパートを作ってほしいし、上下の楽器パートと厳密な関わりを持たせてほしい。それが私の考える詩唱曲だ。表現は違うが、歌と同じである。それなら−−、例えば酒井健吉の『Concerto da camera』の中に詩があると考えられないだろうか。酒井は、大切な人への思いを、名前に通じる音名を使うことで、曲にこめた。心情の反映だ。文学的な行為だと受け取れる。器楽曲にも心情がある。詩唱曲と歌曲にはもちろんある。三者を共通したものとして、私は受け取っている。『Concerto da camera』作曲の背景を知らない場合でも、聴いているのは人だから、人それぞれの詩がある、詩情がある、詩の心で音楽を受け止めているといえまいか。音楽の心で受け止める。詩の心で受け止めている。表現が文学的に過ぎるといって、ただ音響がそこにあるだけだと、即物的には思いたくないのである。ただし、何かを連想するのは違うかも知れない。連想してもいいかも知れないし、何も思うなというのは生きた人間に対して無理だろうが、まず音響に身をゆだねたい。先入観を持って聴くのではない。音響が生み出すものを感じる。そこからだろう、音楽としての詩が始まるのは。
トロッタ15通信.47
トロッタ14通信〈記録〉.9
「朗読と室内楽のためのポエジー 蝶の記憶」【2011】
“Memory of Butterfly” POESY for Narration and Chamber Ensemble
本作は前回「トロッタ13」終了後、翌月から着手、本年2011年夏に脱稿、今夜が初演である。作者としては初の、朗読と器楽のための作品であり、器楽編成は木管四重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット)、さらに曲の作風も、これまでメインで書いてきた「調性&メロディ路線」とは180度異なる世界で、コンテンポラリーを意識した抽象的なものをねらっている。ゆえに本作は作者にとって、かなりの意を決した冒険作となった。本作のテキストになる木部氏の詩「蝶の記憶」は、実は昨年「トロッタ12」で初演された女声合唱曲「北方譚詩」の候補として書かれたものであったが今回、新たな形態でそれが生きることを期待する。〈堀井友徳〉
フルート*八木ちはる オーボエ*三浦 舞 クラリネット*藤本彩花 チェロ*香月圭佑
【記録】『祝いの花』と同じく、この曲も事情があってファゴットがチェロに代わった。その影響は、もともと木管四重奏曲として構想された『蝶の記憶』の方が大きかった。しかし、チェリスト香月圭佑の努力によって、お聴ききいただく側に大きな違和感はなかったはずである。
私が詩唱を務めた。堀井友徳はこれまで、トロッタ12で女声三部とピアノのための「北方譚詩」 1.北都七星 2.凍歌 、トロッタ13で混声四部とピアノのための「北方譚詩 第二番」1.運河の町 2.森と海への頌歌を発表してきた。堀井自身が書いている、調性とメロディの路線を続けてきたが、この作品は180度違うもので、コンテンポラリーを意識した抽象的なものを狙った。自身にとっての冒険作だ、と。
私もまた、詩唱が入ることで、調性とメロディの路線を踏み外すものになるだろう思った。これまでがそうなら問題ないが、180度違うとどうなるのか、と。結果は、危惧にはあたらない。杞憂であった。『蝶の記憶』は、詩唱が入る曲として出色の作品になった。
演奏はともかく、歌ではない詩唱で、調性とメロディを維持するのは無理である。詩唱は宿命的に、伝統的な音楽の路線からはずれている。それをすすんで引き受けようとした点に、堀井の意気込みがあった。私は別に、前衛的であろうとも、クラシックの伝統を守ろうとも、どちらも思っていない。伝統があるから前衛があるのだし、前衛があるから伝統にも意味があると思っている。両者は切り離せないのだ。したいことをすればよい。ただし、する側に、作曲者であれ演奏者であれ、必然がなければならない。他人が何といおうと、これをしたいのだという決意があれば、何をしてもかまわない。その意味で、堀井友徳の決意に、私は向き合おうと思った。
詩唱について。どうであろう、私の声でよかったのだろうか? 仮に女声であればどうなったか、男声でももっと優しい、澄んだ声ならどうなったか? 堀井から、声の質(明るく、暗くなど)や詠み方(緩急の使い分け、声量の調整など)への注文は、特になかった。となると、あの詠み方でよかったのか。歌のレッスンをしていて、常にいわれること。私はバス・バリトンの声域だが、声の質は明るく保ちたい、と。いきなりだが、テノールだったらどうだったか。女声でアルトだったらどうか? それを最も知りたいのは私である。他の人の声で聴いてみたい。−『蝶の記憶』を、詩唱・木部から切り離して独立させたい。木部がいないと演奏できない、のではもったいない。それは『蝶の記憶』に限らず、酒井健吉の『天の川』や橘川琢の『花の記憶』についてもいえることだ−
「朗読と室内楽のためのポエジー 蝶の記憶」【2011】
“Memory of Butterfly” POESY for Narration and Chamber Ensemble
本作は前回「トロッタ13」終了後、翌月から着手、本年2011年夏に脱稿、今夜が初演である。作者としては初の、朗読と器楽のための作品であり、器楽編成は木管四重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット)、さらに曲の作風も、これまでメインで書いてきた「調性&メロディ路線」とは180度異なる世界で、コンテンポラリーを意識した抽象的なものをねらっている。ゆえに本作は作者にとって、かなりの意を決した冒険作となった。本作のテキストになる木部氏の詩「蝶の記憶」は、実は昨年「トロッタ12」で初演された女声合唱曲「北方譚詩」の候補として書かれたものであったが今回、新たな形態でそれが生きることを期待する。〈堀井友徳〉
フルート*八木ちはる オーボエ*三浦 舞 クラリネット*藤本彩花 チェロ*香月圭佑
【記録】『祝いの花』と同じく、この曲も事情があってファゴットがチェロに代わった。その影響は、もともと木管四重奏曲として構想された『蝶の記憶』の方が大きかった。しかし、チェリスト香月圭佑の努力によって、お聴ききいただく側に大きな違和感はなかったはずである。
私が詩唱を務めた。堀井友徳はこれまで、トロッタ12で女声三部とピアノのための「北方譚詩」 1.北都七星 2.凍歌 、トロッタ13で混声四部とピアノのための「北方譚詩 第二番」1.運河の町 2.森と海への頌歌を発表してきた。堀井自身が書いている、調性とメロディの路線を続けてきたが、この作品は180度違うもので、コンテンポラリーを意識した抽象的なものを狙った。自身にとっての冒険作だ、と。
私もまた、詩唱が入ることで、調性とメロディの路線を踏み外すものになるだろう思った。これまでがそうなら問題ないが、180度違うとどうなるのか、と。結果は、危惧にはあたらない。杞憂であった。『蝶の記憶』は、詩唱が入る曲として出色の作品になった。
演奏はともかく、歌ではない詩唱で、調性とメロディを維持するのは無理である。詩唱は宿命的に、伝統的な音楽の路線からはずれている。それをすすんで引き受けようとした点に、堀井の意気込みがあった。私は別に、前衛的であろうとも、クラシックの伝統を守ろうとも、どちらも思っていない。伝統があるから前衛があるのだし、前衛があるから伝統にも意味があると思っている。両者は切り離せないのだ。したいことをすればよい。ただし、する側に、作曲者であれ演奏者であれ、必然がなければならない。他人が何といおうと、これをしたいのだという決意があれば、何をしてもかまわない。その意味で、堀井友徳の決意に、私は向き合おうと思った。
詩唱について。どうであろう、私の声でよかったのだろうか? 仮に女声であればどうなったか、男声でももっと優しい、澄んだ声ならどうなったか? 堀井から、声の質(明るく、暗くなど)や詠み方(緩急の使い分け、声量の調整など)への注文は、特になかった。となると、あの詠み方でよかったのか。歌のレッスンをしていて、常にいわれること。私はバス・バリトンの声域だが、声の質は明るく保ちたい、と。いきなりだが、テノールだったらどうだったか。女声でアルトだったらどうか? それを最も知りたいのは私である。他の人の声で聴いてみたい。−『蝶の記憶』を、詩唱・木部から切り離して独立させたい。木部がいないと演奏できない、のではもったいない。それは『蝶の記憶』に限らず、酒井健吉の『天の川』や橘川琢の『花の記憶』についてもいえることだ−
2012年1月19日木曜日
トロッタ15通信.46
トロッタ14通信〈記録〉.8
ムーヴメントNo.5~木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る
MOVEMENT No.5 (poem by KIBE Yohani “RAN-FU”, PARADISE)
for Solo Voice,Oboe,Piano and Contrabass
〈作曲 田中修一/詩 木部与巴仁〉
木部与巴仁氏がハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』(鼻行類は南太平洋のハイアイアイ群島に生息し、核実験の影響で島と共に沈んでしまったという哺乳類である。)に取材して2010年12月5日に詩「亂譜 楽園」を送ってくれたが、そのままになってしまっていた。後になって「樂園」という題名につよく惹かれて、新たに此の詩と向き合うと、別の意味を持って私に迫って来たのであった。一連の「MOVEMENT」はデフォルメされた音楽様式となっているが此の作品でもそれが顕著にあらわれている。〈田中修一〉
ソプラノ*赤羽佐東子 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】トロッタ3以来の『MOVEMENT』シリーズが、これで5曲目となった。曲は、やはりトロッタ14で演奏された、田中が師と仰ぐ伊福部昭先生の『蒼鷺』と同じ編成である。
田中修一とは、詩をめぐって話をすることが多い。トロッタ14を終えて以降は特に、田中が影響を受けた萩原朔太郎について、考えを聞かせてもらっている。直接の理由は、雑誌「ギターの友」に、田中修一と朔太郎に関する原稿を書くため。ただ、田中も私も研究者ではないから、限界はある。新事実に行き当たったり、未知の論を展開することはない。中学生のころから朔太郎に読みふけっていたという田中なら、あるいは、朔太郎研究の最先端にいるかもしれないが、私はそうではない(こんな風に比較的に書かれることを田中はよしとすまい)。少なくとも田中には、朔太郎同様、詩と音楽の関係に、確固とした思いがある。そして私は、彼の考えを全面的に受け容れるようにしている。詩句を変更することも、削除することも、順序を入れ替えることもかまわない。詩の言葉は私のものだから、田中の生理や感覚や理論に合わない場合が当然出てくる。また私は芝居をしていた経験から、戯曲を舞台にする場合、様々な事情で台詞などは書き換えるものだと思っている(書き換えをよしとしない作家も当然いる。私は書き換えてよい考えだ)。芝居も音楽も生き物なので、一言一句変えてはならないとは思えないのだ(音符はどうだろうか? 例えば、弾きやすいように変えてよいだろうか? 弾きにくくてもそのまま弾くことで、作曲家の思想が現れる、という考えはあるだろう)。ーーともかく、私の詩『樂園』は、楽曲化にあたり、田中の手で書き換えられた。どう違うのか検証する。掲げるのは原詩。括弧内に、田中による変更点を記した。なお、ここでは逐一記さなかったが、田中は「楽園」を「樂園」、「声」を「聲」、「会いに」を「會ひに」のように、文字表記をすべて正字体、歴史的仮名遣いにしていることを付け加えておく。
*
楽園
木部与巴仁
わたしの声が聞こえたら
返事をください
わたしの声が聞こえたら
海を越えて
会いに来てください
長く暗い闘いの果てに
残された者たちの
静かな営みがあった
何処から来て此処にいる
(*以下カット)見たことのない
不思議な仕草で
草を食(は)み
水をすくう(*ここまでカット)
閉ざされた島の
平和な時間(とき)は
知る者もなく流れてゆく
(*以下カット)いつからだろう
目覚まし時計の力を借りず
午前三時に目を醒ますようになったのは
孤独の荷を下ろした
ひとりの時間
窓から見える
あの山の向こうで
誰かが男を呼んでいた
妻と子は
何も知らない(*ここまでカット)
わたしの声が聞こえたら
あなたの目(*眼〈まなこ〉に変更)を閉じてください
わたしの声が聞こえたら
窓を開けて
ベランダに出てください(*「窓を開けてください」に変更)
美しいと
思う者もないのに美しい
(*以下カット)賞賛ではなく
感嘆でもなかった(*ここまでカット)
彼らの国はただ
青い海に浮かんでいた
見える
一羽の男が(*「一羽の鳥が」に変更)
気流に乗って飛んでゆく
海という海の
風を集めて
ただひとつ残された
楽園をめざし
千年(*「幾千年」に変更)
(*以下カット)なりたいのになれなかった
それは男の
理想の形(*ここまでカット)
「見たことのない/不思議な仕草で/草を食(は)み/水をすくう」や「賞賛ではなく/感嘆でもなかった」「なりたいのになれなかった/それは男の/理想の形」のカットには、それぞれ個別の理由があるようだ。説明的にしない、細部にわたらない、聴き手の想像力を信頼し、ゆだねる、など。しかし、第三連「いつからだろう/目覚まし時計の力を借りず/午前三時に目を醒ますようになったのは/孤独の荷を下ろした/ひとりの時間/窓から見える/あの山の向こうで/誰かが男を呼んでいた/妻と子は/何も知らない」のカットは、事情が違うようだ。プライベートに関わる個所をカットしたのである。田中はいったことがある。日常的な描写は好まない、と。詩の書き手としては、プライベートを大切にしたい気持ちがある。文学なら、それは重要。しかし音楽としては、田中は音楽家だから、重要ではないと判断したのだろう。その違いを、しかし私は結び合わせたい。どうすれば結び合わせられるか。田中修一との共同作業では、常にそのテーマに直面する。
ムーヴメントNo.5~木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る
MOVEMENT No.5 (poem by KIBE Yohani “RAN-FU”, PARADISE)
for Solo Voice,Oboe,Piano and Contrabass
〈作曲 田中修一/詩 木部与巴仁〉
木部与巴仁氏がハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』(鼻行類は南太平洋のハイアイアイ群島に生息し、核実験の影響で島と共に沈んでしまったという哺乳類である。)に取材して2010年12月5日に詩「亂譜 楽園」を送ってくれたが、そのままになってしまっていた。後になって「樂園」という題名につよく惹かれて、新たに此の詩と向き合うと、別の意味を持って私に迫って来たのであった。一連の「MOVEMENT」はデフォルメされた音楽様式となっているが此の作品でもそれが顕著にあらわれている。〈田中修一〉
ソプラノ*赤羽佐東子 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】トロッタ3以来の『MOVEMENT』シリーズが、これで5曲目となった。曲は、やはりトロッタ14で演奏された、田中が師と仰ぐ伊福部昭先生の『蒼鷺』と同じ編成である。
田中修一とは、詩をめぐって話をすることが多い。トロッタ14を終えて以降は特に、田中が影響を受けた萩原朔太郎について、考えを聞かせてもらっている。直接の理由は、雑誌「ギターの友」に、田中修一と朔太郎に関する原稿を書くため。ただ、田中も私も研究者ではないから、限界はある。新事実に行き当たったり、未知の論を展開することはない。中学生のころから朔太郎に読みふけっていたという田中なら、あるいは、朔太郎研究の最先端にいるかもしれないが、私はそうではない(こんな風に比較的に書かれることを田中はよしとすまい)。少なくとも田中には、朔太郎同様、詩と音楽の関係に、確固とした思いがある。そして私は、彼の考えを全面的に受け容れるようにしている。詩句を変更することも、削除することも、順序を入れ替えることもかまわない。詩の言葉は私のものだから、田中の生理や感覚や理論に合わない場合が当然出てくる。また私は芝居をしていた経験から、戯曲を舞台にする場合、様々な事情で台詞などは書き換えるものだと思っている(書き換えをよしとしない作家も当然いる。私は書き換えてよい考えだ)。芝居も音楽も生き物なので、一言一句変えてはならないとは思えないのだ(音符はどうだろうか? 例えば、弾きやすいように変えてよいだろうか? 弾きにくくてもそのまま弾くことで、作曲家の思想が現れる、という考えはあるだろう)。ーーともかく、私の詩『樂園』は、楽曲化にあたり、田中の手で書き換えられた。どう違うのか検証する。掲げるのは原詩。括弧内に、田中による変更点を記した。なお、ここでは逐一記さなかったが、田中は「楽園」を「樂園」、「声」を「聲」、「会いに」を「會ひに」のように、文字表記をすべて正字体、歴史的仮名遣いにしていることを付け加えておく。
*
楽園
木部与巴仁
わたしの声が聞こえたら
返事をください
わたしの声が聞こえたら
海を越えて
会いに来てください
長く暗い闘いの果てに
残された者たちの
静かな営みがあった
何処から来て此処にいる
(*以下カット)見たことのない
不思議な仕草で
草を食(は)み
水をすくう(*ここまでカット)
閉ざされた島の
平和な時間(とき)は
知る者もなく流れてゆく
(*以下カット)いつからだろう
目覚まし時計の力を借りず
午前三時に目を醒ますようになったのは
孤独の荷を下ろした
ひとりの時間
窓から見える
あの山の向こうで
誰かが男を呼んでいた
妻と子は
何も知らない(*ここまでカット)
わたしの声が聞こえたら
あなたの目(*眼〈まなこ〉に変更)を閉じてください
わたしの声が聞こえたら
窓を開けて
ベランダに出てください(*「窓を開けてください」に変更)
美しいと
思う者もないのに美しい
(*以下カット)賞賛ではなく
感嘆でもなかった(*ここまでカット)
彼らの国はただ
青い海に浮かんでいた
見える
一羽の男が(*「一羽の鳥が」に変更)
気流に乗って飛んでゆく
海という海の
風を集めて
ただひとつ残された
楽園をめざし
千年(*「幾千年」に変更)
(*以下カット)なりたいのになれなかった
それは男の
理想の形(*ここまでカット)
「見たことのない/不思議な仕草で/草を食(は)み/水をすくう」や「賞賛ではなく/感嘆でもなかった」「なりたいのになれなかった/それは男の/理想の形」のカットには、それぞれ個別の理由があるようだ。説明的にしない、細部にわたらない、聴き手の想像力を信頼し、ゆだねる、など。しかし、第三連「いつからだろう/目覚まし時計の力を借りず/午前三時に目を醒ますようになったのは/孤独の荷を下ろした/ひとりの時間/窓から見える/あの山の向こうで/誰かが男を呼んでいた/妻と子は/何も知らない」のカットは、事情が違うようだ。プライベートに関わる個所をカットしたのである。田中はいったことがある。日常的な描写は好まない、と。詩の書き手としては、プライベートを大切にしたい気持ちがある。文学なら、それは重要。しかし音楽としては、田中は音楽家だから、重要ではないと判断したのだろう。その違いを、しかし私は結び合わせたい。どうすれば結び合わせられるか。田中修一との共同作業では、常にそのテーマに直面する。
2012年1月18日水曜日
トロッタ15通信.45
トロッタ14通信.7
ロルカのカンシオネス [スペインの歌] V - VII
〈採譜と曲 フェデリコ=ガルシア・ロルカ/編曲 今井重幸〉
V.「ハエンのムーア娘たち」VI.「三枚の葉」VII.「ドン・ボイソのロマンセ」
ガルシア・ロルカの『13のスペイン古謡』をトロッタの会として演奏する、シリーズ2回目。それが至難のことなのだが、現代ではなく古い味わいをどのようにして表現するか。前回の「18世紀のセビジャーナス」など、300年前の時代が明確に指定されている。今回の「ハエンのモーロ娘」など、15-16世紀の王宮歌曲であったというからさらに古い。今井重幸の編曲を得て、困難に挑戦してみたい。〈K〉
詩唱*木部与巴仁 ギター*萩野谷英成 〈弦楽四重奏〉ヴァイオリン*戸塚ふみ代 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子
【記録】土台、それが私には無理であることはわかっている……。詩人ピエール・バルーによるドキュメンタリー『SARAVAH』に描かれたブラジル人音楽家たちの姿が、理想のひとつである。街角でも、レストランでも、歌いたい、演奏したいと思った時に、彼らは音楽を形にできる。ロルカが採譜したスペインの民謡においても、その担い手たちは、やはり同様だろう。歌いたい時に歌える。そして形にできる。しかし、私は無理だった。練習しても無理だった。前回と今回、ほぼ半年ずつ、練習してきた。ひとりで練習しているのではない、先生に聴いてもらって練習しているのである。だが、その練習が本番で生きていないと感じる。スペインの民謡を私が歌うこと自体に無理があるのかも知れない。あるいは、今井重幸先生の編曲に、乗り切れていないのかもしれない。
志はよい。詩人ロルカが、詩と音楽の幸福な結びつきの形としてアンダルシアの民謡に着目し、それを採譜した。13曲、今に伝わっている。詩と音楽を志す者なら、その先達であるロルカに共感するのが当然で、私もそうだから、自らロルカの民謡を歌い、彼の思いを形にしてみせようとした。しかし、納得がいかない。役者の天本英世が、13曲を歌えるようになったとエッセイに書き(「フラメンコの歌となるとこれは難しくて私はとても歌えないが、この「ロルカの13の民謡」は何とか全部唄えるようになった。どれを唄ってみても、全く素晴らしい、これぞスペインの民謡という歌ばかりである」『スペイン回想』より)、彼に倣おうという気持ちもあった。しかし、倣うことができない。いったい天本英世は、どのように歌ったのか? 私の中に音楽がない、文学はあっても、音楽がない。文学もないのか? いや、私の中にスペインが根づいていない。
例えば純粋な歌の名手なら、声の響きだけで人を魅了することが可能だろう。何を歌っているかわからないが、すばらしい声だ! と思う。充分にあり得る。歌曲のリサイタルにせよオペラの大舞台にせよ、聴衆のほとんどは、イタリア語やドイツ語をわかっていないと思う。だが、心打たれている(のだろう。日本語歌曲のリサイタルでも、詩の全部はわからない。こうした想像が私のひとり合点で、多くの人がわかっているなら素晴らしいことだ)しかし、私は名手ではない。文章表現にも、その境地はある。技術だけで読ませてしまうというような。もちろん、私は文章の名手ではないといっておく。そして歌についていえば、私はさらに名手ではないし、純粋に人を魅了することなど不可能、それに、そもそも純粋性を志向していない。
詩だけではない、音楽としてありたい。音楽だけではない、詩とともにありたい。
これも理由があって、伊福部先生の言葉として、先生が少年時代に見て聴いたアイヌの芸能は、歌と踊りと詩(言葉)が分かちがたく結びついていた。それが芸能の、芸術といってもいいが、古い形であり、考え方を変えればそれこそ純粋な形といえるかもしれない。時代が新しくなるにつれて、詩は詩、音楽は音楽は、踊りは踊りという風に、純粋性を求めていったのだ。その考え方でいけば、踊れない役者、歌えない役者はない。芝居のできない歌手もない。歌手は当然、踊れる、ということになる。それが望ましいことはいうまでもない。
歌なら多少は純粋かもしれないが、詩唱という、あまり純粋ではない、そして他にあまり行われていない表現を、私は自分に求めている(詩唱表現には音程がない。通常、音楽では音程をやかましくいわれるのに。リズムも厳密ではない。ハーモニーは? 詩唱と楽器でハーモニーが作れるのだろうか? 作曲者の計算に頼るしかない。しかし、そうした曖昧さが詩唱表現の安易さに結びついてはいけない)。
詩を印刷物にして人に渡せば、純粋に読んでもらえるだろう。しかし、詩を声に出した段階で、純粋さはどんどん失われてゆく。そして私は、印刷するより声に出さなけれな意味がないと思っている(だから私は詩集を作りたいと思わない。私の詩集は、トロッタである)。楽器にも個性はあるが、声の場合は誰であれ、個性があり過ぎる(よく訓練された歌手に対して、あの声は嫌いだというような、救いようのない批判がしばしば下されるのだから、申し訳ないことだ。いわんや私においては! 歌は、その人の声を聴くしかないのである)
私の中に、いかにしてスペインを根づかせるか。
不純を、さらに志向したい。
私には芸術としての歌が歌えない。根岸一郎氏の真似をしても無理だ。だからチラシに、「バリトン」と書かずに「詩唱」と書いているのではないか。次回のロルカは、これまでと違う工夫をしたい。
ロルカのカンシオネス [スペインの歌] V - VII
〈採譜と曲 フェデリコ=ガルシア・ロルカ/編曲 今井重幸〉
V.「ハエンのムーア娘たち」VI.「三枚の葉」VII.「ドン・ボイソのロマンセ」
ガルシア・ロルカの『13のスペイン古謡』をトロッタの会として演奏する、シリーズ2回目。それが至難のことなのだが、現代ではなく古い味わいをどのようにして表現するか。前回の「18世紀のセビジャーナス」など、300年前の時代が明確に指定されている。今回の「ハエンのモーロ娘」など、15-16世紀の王宮歌曲であったというからさらに古い。今井重幸の編曲を得て、困難に挑戦してみたい。〈K〉
詩唱*木部与巴仁 ギター*萩野谷英成 〈弦楽四重奏〉ヴァイオリン*戸塚ふみ代 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子
【記録】土台、それが私には無理であることはわかっている……。詩人ピエール・バルーによるドキュメンタリー『SARAVAH』に描かれたブラジル人音楽家たちの姿が、理想のひとつである。街角でも、レストランでも、歌いたい、演奏したいと思った時に、彼らは音楽を形にできる。ロルカが採譜したスペインの民謡においても、その担い手たちは、やはり同様だろう。歌いたい時に歌える。そして形にできる。しかし、私は無理だった。練習しても無理だった。前回と今回、ほぼ半年ずつ、練習してきた。ひとりで練習しているのではない、先生に聴いてもらって練習しているのである。だが、その練習が本番で生きていないと感じる。スペインの民謡を私が歌うこと自体に無理があるのかも知れない。あるいは、今井重幸先生の編曲に、乗り切れていないのかもしれない。
志はよい。詩人ロルカが、詩と音楽の幸福な結びつきの形としてアンダルシアの民謡に着目し、それを採譜した。13曲、今に伝わっている。詩と音楽を志す者なら、その先達であるロルカに共感するのが当然で、私もそうだから、自らロルカの民謡を歌い、彼の思いを形にしてみせようとした。しかし、納得がいかない。役者の天本英世が、13曲を歌えるようになったとエッセイに書き(「フラメンコの歌となるとこれは難しくて私はとても歌えないが、この「ロルカの13の民謡」は何とか全部唄えるようになった。どれを唄ってみても、全く素晴らしい、これぞスペインの民謡という歌ばかりである」『スペイン回想』より)、彼に倣おうという気持ちもあった。しかし、倣うことができない。いったい天本英世は、どのように歌ったのか? 私の中に音楽がない、文学はあっても、音楽がない。文学もないのか? いや、私の中にスペインが根づいていない。
例えば純粋な歌の名手なら、声の響きだけで人を魅了することが可能だろう。何を歌っているかわからないが、すばらしい声だ! と思う。充分にあり得る。歌曲のリサイタルにせよオペラの大舞台にせよ、聴衆のほとんどは、イタリア語やドイツ語をわかっていないと思う。だが、心打たれている(のだろう。日本語歌曲のリサイタルでも、詩の全部はわからない。こうした想像が私のひとり合点で、多くの人がわかっているなら素晴らしいことだ)しかし、私は名手ではない。文章表現にも、その境地はある。技術だけで読ませてしまうというような。もちろん、私は文章の名手ではないといっておく。そして歌についていえば、私はさらに名手ではないし、純粋に人を魅了することなど不可能、それに、そもそも純粋性を志向していない。
詩だけではない、音楽としてありたい。音楽だけではない、詩とともにありたい。
これも理由があって、伊福部先生の言葉として、先生が少年時代に見て聴いたアイヌの芸能は、歌と踊りと詩(言葉)が分かちがたく結びついていた。それが芸能の、芸術といってもいいが、古い形であり、考え方を変えればそれこそ純粋な形といえるかもしれない。時代が新しくなるにつれて、詩は詩、音楽は音楽は、踊りは踊りという風に、純粋性を求めていったのだ。その考え方でいけば、踊れない役者、歌えない役者はない。芝居のできない歌手もない。歌手は当然、踊れる、ということになる。それが望ましいことはいうまでもない。
歌なら多少は純粋かもしれないが、詩唱という、あまり純粋ではない、そして他にあまり行われていない表現を、私は自分に求めている(詩唱表現には音程がない。通常、音楽では音程をやかましくいわれるのに。リズムも厳密ではない。ハーモニーは? 詩唱と楽器でハーモニーが作れるのだろうか? 作曲者の計算に頼るしかない。しかし、そうした曖昧さが詩唱表現の安易さに結びついてはいけない)。
詩を印刷物にして人に渡せば、純粋に読んでもらえるだろう。しかし、詩を声に出した段階で、純粋さはどんどん失われてゆく。そして私は、印刷するより声に出さなけれな意味がないと思っている(だから私は詩集を作りたいと思わない。私の詩集は、トロッタである)。楽器にも個性はあるが、声の場合は誰であれ、個性があり過ぎる(よく訓練された歌手に対して、あの声は嫌いだというような、救いようのない批判がしばしば下されるのだから、申し訳ないことだ。いわんや私においては! 歌は、その人の声を聴くしかないのである)
私の中に、いかにしてスペインを根づかせるか。
不純を、さらに志向したい。
私には芸術としての歌が歌えない。根岸一郎氏の真似をしても無理だ。だからチラシに、「バリトン」と書かずに「詩唱」と書いているのではないか。次回のロルカは、これまでと違う工夫をしたい。
2012年1月17日火曜日
トロッタ15通信.44
トロッタ14通信〈記録〉.6
オリヴィエ・メシアン『時の終わりへの四重奏曲』の記憶
〈作曲 オリヴィエ・メシアン〉
メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』初演は、現代音楽史の伝説である。ドイツ・ゲルリッツの第8A捕虜収容所に囚われていたメシアンは、同じ捕虜であった三人の演奏家と、彼らが所有する楽器で演奏できる曲を書いた。閉ざされた状況下でも音楽を創造した彼らを想いつつ、詩唱を交えて3(抜粋)、1、4、7各楽章を演奏する。テキストは木部与巴仁による。〈K〉
クラリネット*藤本彩花 ヴァイオリン*戸塚ふみ代 チェロ*香月圭佑 ピアノ*森川あづさ 詩唱*中川博正
【記録】メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』を初めて意識したのは、2006年、『新宿に安土城が建つ』に出演した時。捕虜収容所で作曲されたという経緯を詩ってたちまち惹かれた。音楽的に、ではなく文学的に、惹かれたのだろう。もちろん、曲を聴いて惹かれもしたが、曲ができる背景に、ドラマを感じたということ。演奏して惹かれたのではない点に問題があるかも知れないが、そのような音楽の出会いはあると思う。『新宿に安土城が建つ』にメシアンがふさわしいとは、今となっては定かではない。共演した戸塚ふみ代の提案だったか。これだけは間違いないが、BGMとして扱ったのではない。厳密に、詩を詠む位置を決め、曲に乗せて詠むようにした。戸塚にとっても、今回の演奏は、『新宿に安土城が建つ』以来で、その時に覚えた不満を、抜粋とはいえ演奏会なのだから、払拭する機会になったはずだ。
『時の終わりへの四重奏曲』をトロッタで取り上げたのは、私なりの必然があったから。音楽の始まりがそこにある。あらかじめわかった出発点ではなく、やむにやまれず音楽を創る。どんな不完全な状況でも。創りたいと思った時に、音楽はできる。収容所でも、だ。そこにならいたい。
トロッタが“詩と音楽を歌い、奏でる”会だというのは、私には必然がある。他の作曲者、演奏者にも、それぞれの必然があるだろう。私は詩を持ってして、初めて音楽ができる。詩がなければお手上げだ。私は文学をしたいと思っていない。文学には、もちろん計り知れない価値があるものの、私にとっては目下の急務ではない。それはやはり、伊福部先生の『音楽家の誕生』を書いたところからの始まりがあるから。音楽をわかって書いたのではなく、文学的に理解しようとしたのだと、自戒をこめて回顧するが、それでも、そこに出発点がある以上、詩を書いても文学として完結させようとは思っていない。音楽としての詩を、私は志向している(このへんに私の問題点があることは、じゅうぶんに理解している。文学として中途半端、音楽として中途半端。しかしそれが、私の道なのだろう。そして、それを本当に中途半端で終わらせるのかどうかは、私にかかっている。それは、トロッタが中途半端で終わるかどうかの問題でもある。終わらせるわけにはいかない)。
ところで、詩唱は中川博正にまかせた。通常なら、私が詠むところだ。この曲を演奏しようと思ったのは、私の必然だから。しかし、それでは当たり前過ぎる。中川にまかせることが挑戦である。彼にはメシアンになってもらおうと思った。メシアンの曲を聴く捕虜になってもらおうとも思った。死んで今では鳥になったメシアン、捕虜にもなってもらいたかった。スコットホールを、『時の終わりへの四重奏曲』が初演されたドイツの収容所に変える役目をも負ってもらいたかった。これはすべて、至難の業である。できただろうか? 中川は、彼なりに努力してくれた。稽古の段階で、役作りにおける、私と彼の違いが明らかになりもした。私がこれまでに詩唱した曲を、すべて彼にまかせてもよい。彼が詩唱したいというのなら。それでこそ、曲が生きるであろう。いつまでも私ひとりが詠むものではない。
オリヴィエ・メシアン『時の終わりへの四重奏曲』の記憶
〈作曲 オリヴィエ・メシアン〉
メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』初演は、現代音楽史の伝説である。ドイツ・ゲルリッツの第8A捕虜収容所に囚われていたメシアンは、同じ捕虜であった三人の演奏家と、彼らが所有する楽器で演奏できる曲を書いた。閉ざされた状況下でも音楽を創造した彼らを想いつつ、詩唱を交えて3(抜粋)、1、4、7各楽章を演奏する。テキストは木部与巴仁による。〈K〉
クラリネット*藤本彩花 ヴァイオリン*戸塚ふみ代 チェロ*香月圭佑 ピアノ*森川あづさ 詩唱*中川博正
【記録】メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』を初めて意識したのは、2006年、『新宿に安土城が建つ』に出演した時。捕虜収容所で作曲されたという経緯を詩ってたちまち惹かれた。音楽的に、ではなく文学的に、惹かれたのだろう。もちろん、曲を聴いて惹かれもしたが、曲ができる背景に、ドラマを感じたということ。演奏して惹かれたのではない点に問題があるかも知れないが、そのような音楽の出会いはあると思う。『新宿に安土城が建つ』にメシアンがふさわしいとは、今となっては定かではない。共演した戸塚ふみ代の提案だったか。これだけは間違いないが、BGMとして扱ったのではない。厳密に、詩を詠む位置を決め、曲に乗せて詠むようにした。戸塚にとっても、今回の演奏は、『新宿に安土城が建つ』以来で、その時に覚えた不満を、抜粋とはいえ演奏会なのだから、払拭する機会になったはずだ。
『時の終わりへの四重奏曲』をトロッタで取り上げたのは、私なりの必然があったから。音楽の始まりがそこにある。あらかじめわかった出発点ではなく、やむにやまれず音楽を創る。どんな不完全な状況でも。創りたいと思った時に、音楽はできる。収容所でも、だ。そこにならいたい。
トロッタが“詩と音楽を歌い、奏でる”会だというのは、私には必然がある。他の作曲者、演奏者にも、それぞれの必然があるだろう。私は詩を持ってして、初めて音楽ができる。詩がなければお手上げだ。私は文学をしたいと思っていない。文学には、もちろん計り知れない価値があるものの、私にとっては目下の急務ではない。それはやはり、伊福部先生の『音楽家の誕生』を書いたところからの始まりがあるから。音楽をわかって書いたのではなく、文学的に理解しようとしたのだと、自戒をこめて回顧するが、それでも、そこに出発点がある以上、詩を書いても文学として完結させようとは思っていない。音楽としての詩を、私は志向している(このへんに私の問題点があることは、じゅうぶんに理解している。文学として中途半端、音楽として中途半端。しかしそれが、私の道なのだろう。そして、それを本当に中途半端で終わらせるのかどうかは、私にかかっている。それは、トロッタが中途半端で終わるかどうかの問題でもある。終わらせるわけにはいかない)。
ところで、詩唱は中川博正にまかせた。通常なら、私が詠むところだ。この曲を演奏しようと思ったのは、私の必然だから。しかし、それでは当たり前過ぎる。中川にまかせることが挑戦である。彼にはメシアンになってもらおうと思った。メシアンの曲を聴く捕虜になってもらおうとも思った。死んで今では鳥になったメシアン、捕虜にもなってもらいたかった。スコットホールを、『時の終わりへの四重奏曲』が初演されたドイツの収容所に変える役目をも負ってもらいたかった。これはすべて、至難の業である。できただろうか? 中川は、彼なりに努力してくれた。稽古の段階で、役作りにおける、私と彼の違いが明らかになりもした。私がこれまでに詩唱した曲を、すべて彼にまかせてもよい。彼が詩唱したいというのなら。それでこそ、曲が生きるであろう。いつまでも私ひとりが詠むものではない。
トロッタ15通信.43
トロッタ14通信〈記録〉.5
『蒼鷺』
〈作曲 伊福部昭/詩 更科源蔵〉
伊福部昭が更科源蔵の詩によって書いた最後の歌曲。他の『知床半島の漁夫の歌』『オホーツクの海』『摩周湖』と同じく、更科の第二詩集『凍原の歌』から採られた。「蝦夷榛(えぞはんのき)に冬の陽があたる 凍原の上に青い影がのびる」という蒼鷺の描写が印象的だ。オーボエの音色が聴く者を世界に引きこむ。ソプラノ藍川由美によって2000年に初演された。〈K〉
バリトン*根岸一郎 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】根岸さん、三浦さん、丹野さん、徳田さんによる練習風景を思い出す。何度も何度も、合わない、どう合わせる、というようなことを繰り返しておられた。それは、あるべき音楽の風景である。そのようなことを、私は自分が出演する曲で、できたであろうか。できていない。あまりにも慌ただしく、すべてが過ぎていってしまった。昨年、「北海道新聞」に、伊福部昭先生と更科源蔵氏について、原稿を寄せることができた。それは個人的に、画期的なことであったと思う。そのことをじっくり噛みしめる時間がないのが残念だ。それは、東京の「トロッタの会」が、このようなことをしているという報告、情報だけに終わらない(と、私は思っている)。私の考え方であり、伊福部昭と更科源蔵という創作者の歴史であり、トロッタにとっては現在形の、たった今、作られつつある歴史的事象なのである。私はもっと、新聞記事の続きを書かなければならず、深めていかなければならない。
あらゆる音楽会の宿命だが、次から次へと曲が演奏されるのだが、例えば、『蒼鷺』一曲を演奏する一夜があってもよい。二本立て映画があれば、私は目当ての一本を観たら、もう外に出たいと思うから。印象を拡散させてしまいたくないから。伊福部先生にとって『蒼鷺』は力を尽くした曲だから、それだけをじっくり聴くための時間を作ってもいい(ただ、二本観たからといって、後から考えると、必ずしも印象は拡散しないということを知っている。高校生の時だったと思うが、佐藤純彌監督の『新幹線大爆破』と、ブルース・リー〜李小龍と書きたい〜監督・主演の『ドラゴンへの道』を二本立てで観た。どちらも傑作であり、歴史に残る作品だ〜本来、歴史に残らない作品というのは一本もないので、記憶に残すべき作品、というように書けばいいのだが、人によって記憶の残り方は様々である〜。印象を拡散させたくないなら、どちらかを観てすぐ退場すべきだが、『新幹線大爆破』と『ドラゴンへの道』は二本立てで観てよかったと思っている。印象は、まったく拡散していない。作品に力があれば、そうなるのは当然である)。
伊福部先生の作品は、どれも大きい。大きさということを、生前にお話しを聞く過程で、私は常に意識していた。小さく終わらせたくないと、私自身の作品についても思っている。コップいっぱいの中にも、大きさは作り出せるのである。更科氏の詩にも、大きさを感じる。大きさとは何か?
トロッタが、伊福部先生を意識するところから始まり、詩を書く私の中に更科源蔵氏への意識がある以上、仮に誤解(自分流の解釈)であっても、何かを継承していることは確かだと思う。正解であれ誤解であれ、継承していきたい。トロッタに箔をつけたいとか、正統性を主張するとか、そんなことはまるで思っていない。異端であれ、孤独であれ、という思いさえ勢い余って抱きそうだが、そうひねくれることもないだろう。『音楽家の誕生』を書いた私である。伊福部先生の影響下にあることは、素直に認めていい。影響を受けていないという方が無理だ。更科氏が登場する伊藤整の『若い詩人の肖像』を高校生のころから愛読したのだし、伊福部昭という作曲家と更科源蔵という詩人の関係をうらやましいと思う(しかし、作曲家と詩人の関係なら、トロッタは相当に深めているし、経験を積んでいると思うし、十分な足場になっていると思う。そのことを本当に実感するのは、トロッタの活動が休止した時かもしれない)。−−どうも曲の成果について語っていないが−−根岸一郎氏という、伊福部先生の歌を歌いたいというバリトンの存在を得て、トロッタは、そのすべきことを着々と実現していると思う。演奏機会の少ない『蒼鷺』を、トロッタは演奏できた、お聴かせできたという事実。これを大事に思わない私ではない。貴重だ。その貴重さを、翻って、すべての作曲家、演奏家について感じる。そうしたことが、伊福部先生から始まっているということ。噛みしめたい。『知床半島の漁夫の歌』など、すでに演奏した曲を再演してもいいだろう。
『蒼鷺』
〈作曲 伊福部昭/詩 更科源蔵〉
伊福部昭が更科源蔵の詩によって書いた最後の歌曲。他の『知床半島の漁夫の歌』『オホーツクの海』『摩周湖』と同じく、更科の第二詩集『凍原の歌』から採られた。「蝦夷榛(えぞはんのき)に冬の陽があたる 凍原の上に青い影がのびる」という蒼鷺の描写が印象的だ。オーボエの音色が聴く者を世界に引きこむ。ソプラノ藍川由美によって2000年に初演された。〈K〉
バリトン*根岸一郎 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】根岸さん、三浦さん、丹野さん、徳田さんによる練習風景を思い出す。何度も何度も、合わない、どう合わせる、というようなことを繰り返しておられた。それは、あるべき音楽の風景である。そのようなことを、私は自分が出演する曲で、できたであろうか。できていない。あまりにも慌ただしく、すべてが過ぎていってしまった。昨年、「北海道新聞」に、伊福部昭先生と更科源蔵氏について、原稿を寄せることができた。それは個人的に、画期的なことであったと思う。そのことをじっくり噛みしめる時間がないのが残念だ。それは、東京の「トロッタの会」が、このようなことをしているという報告、情報だけに終わらない(と、私は思っている)。私の考え方であり、伊福部昭と更科源蔵という創作者の歴史であり、トロッタにとっては現在形の、たった今、作られつつある歴史的事象なのである。私はもっと、新聞記事の続きを書かなければならず、深めていかなければならない。
あらゆる音楽会の宿命だが、次から次へと曲が演奏されるのだが、例えば、『蒼鷺』一曲を演奏する一夜があってもよい。二本立て映画があれば、私は目当ての一本を観たら、もう外に出たいと思うから。印象を拡散させてしまいたくないから。伊福部先生にとって『蒼鷺』は力を尽くした曲だから、それだけをじっくり聴くための時間を作ってもいい(ただ、二本観たからといって、後から考えると、必ずしも印象は拡散しないということを知っている。高校生の時だったと思うが、佐藤純彌監督の『新幹線大爆破』と、ブルース・リー〜李小龍と書きたい〜監督・主演の『ドラゴンへの道』を二本立てで観た。どちらも傑作であり、歴史に残る作品だ〜本来、歴史に残らない作品というのは一本もないので、記憶に残すべき作品、というように書けばいいのだが、人によって記憶の残り方は様々である〜。印象を拡散させたくないなら、どちらかを観てすぐ退場すべきだが、『新幹線大爆破』と『ドラゴンへの道』は二本立てで観てよかったと思っている。印象は、まったく拡散していない。作品に力があれば、そうなるのは当然である)。
伊福部先生の作品は、どれも大きい。大きさということを、生前にお話しを聞く過程で、私は常に意識していた。小さく終わらせたくないと、私自身の作品についても思っている。コップいっぱいの中にも、大きさは作り出せるのである。更科氏の詩にも、大きさを感じる。大きさとは何か?
トロッタが、伊福部先生を意識するところから始まり、詩を書く私の中に更科源蔵氏への意識がある以上、仮に誤解(自分流の解釈)であっても、何かを継承していることは確かだと思う。正解であれ誤解であれ、継承していきたい。トロッタに箔をつけたいとか、正統性を主張するとか、そんなことはまるで思っていない。異端であれ、孤独であれ、という思いさえ勢い余って抱きそうだが、そうひねくれることもないだろう。『音楽家の誕生』を書いた私である。伊福部先生の影響下にあることは、素直に認めていい。影響を受けていないという方が無理だ。更科氏が登場する伊藤整の『若い詩人の肖像』を高校生のころから愛読したのだし、伊福部昭という作曲家と更科源蔵という詩人の関係をうらやましいと思う(しかし、作曲家と詩人の関係なら、トロッタは相当に深めているし、経験を積んでいると思うし、十分な足場になっていると思う。そのことを本当に実感するのは、トロッタの活動が休止した時かもしれない)。−−どうも曲の成果について語っていないが−−根岸一郎氏という、伊福部先生の歌を歌いたいというバリトンの存在を得て、トロッタは、そのすべきことを着々と実現していると思う。演奏機会の少ない『蒼鷺』を、トロッタは演奏できた、お聴かせできたという事実。これを大事に思わない私ではない。貴重だ。その貴重さを、翻って、すべての作曲家、演奏家について感じる。そうしたことが、伊福部先生から始まっているということ。噛みしめたい。『知床半島の漁夫の歌』など、すでに演奏した曲を再演してもいいだろう。
トロッタ15通信.42
トロッタ14通信〈記録〉.4
『虹』『花の森』
〈作曲 宮崎文香/編曲 徳田絵里子/詩・詩唱 木部与巴仁〉
花をテーマにお聴かせできる曲を思っていた時、木部与巴仁さんの詩『虹』と『花の森』に出会いました。木部さんが発行している「詩の通信」に掲載されたものです。『虹』は誰にもある幼いころの記憶が虹に託され(2006.5.26号)、『花の森』は、死んだ人や獣が花として生まれ変わる様が描かれています(2009.8.17号)。楽器は、まず尺八と十七絃箏のために書かれ、徳田絵里子さんによってフルートとピアノ版に編曲されました。〈宮﨑文香〉
フルート*八木ちはる ピアノ*徳田絵里子
【記録】宮﨑文香さんから、私の詩で曲を書きたいという申し出を受けた時、純粋にうれしかった。初めてのことではない。すでに『めぐりあい』があり、『たびだち』がある。しかし(ということはない。差別などまったくないのだが)、どちらもアンコール曲である(繰り返していうが、すばらしいアンコール曲である。宮﨑さんの曲が最後にないと、トロッタは終わらない。それを、会場を出なければならない時間が来たというので、トロッタ14では『たびだち・鳥の歌』を演奏せずに終わってしまった。失敗である。申し訳ないと反省している)。それがまず、宮﨑さん企画の演奏会のため、尺八と十七絃箏の曲として作曲したいという。そうしてできあがった曲を、トロッタでも、本プログラムの曲として演奏するという。トロッタでは、尺八と十七絃箏ではなく、フルートとピアノのための曲になった。その編曲には、ピアニスト徳田絵里子さんの手を借りることになった。
詩が先にあって、曲が生まれる。いつも詩が先導すればいいとは思っていない。曲が先導する場合もあるだろう。しかし、かつて『くるみ割り人形』や『シェへラザード』を合唱曲としたように、メロディが先にあって詩を書くと、替え歌を作っているような気分になって仕方がない。何にも引きずられない、何の影響も受けない詩を書きたいと思う。だが、いつも詩が先導する場合、作曲者は詩に影響されない曲を書きたいと思うようになるだろうから、つまり立場を変えれば、私も他者に影響を与えてしまっているだろうから、どうすればいいとは断定できない。個別のケースとして考えるしかないだろう。
宮﨑さんは、「詩の通信」から二篇を選んだ。何が選択の基準になっているか、はっきりわからない。尺八と箏は、“花”をテーマにした演奏会で用いられたから、まず、花を描いた詩を選んだ。それが『花の森』である。四国の遍路が行き倒れになり、その跡に花が咲いた、という想像上の物語だ。『虹』には花が出ない。それでも選んだのは、宮﨑さんの感性である。私が子どもだったころ、空に架かる虹を見て、母親に、あれは何? と尋ねる。子どもにとって、初めて見るものは多いだろう。世の中は新鮮な驚きに満ちている。大人になると、そうしたものが少なくなる。少々のことでは驚かない。それはいいことではなく、残念なことだ。常に驚いていたい。虹は、驚くに値するものだ。原理がわかっていても、やはり驚異である。原理などわかっても大したことはない。わからない方がいい。宮﨑さんはおそらく、子ども心の純粋さに惹かれた。彼女自身が、それを持っているのだろう。音楽を書く力になり、詩を書く力にもなる。私は持っているか? 持ちたいと思う。トロッタは、常にその驚きを忘れない会でありたい。『虹』の始まりにある。「遠くと 近くの 区別もないまま 何もかも ぼんやりしていた あのころ」今の私が、そうだ。すべての距離がない。混沌としている。その、どろどろの中から何かを引きずりあげたい。
『虹』『花の森』
〈作曲 宮崎文香/編曲 徳田絵里子/詩・詩唱 木部与巴仁〉
花をテーマにお聴かせできる曲を思っていた時、木部与巴仁さんの詩『虹』と『花の森』に出会いました。木部さんが発行している「詩の通信」に掲載されたものです。『虹』は誰にもある幼いころの記憶が虹に託され(2006.5.26号)、『花の森』は、死んだ人や獣が花として生まれ変わる様が描かれています(2009.8.17号)。楽器は、まず尺八と十七絃箏のために書かれ、徳田絵里子さんによってフルートとピアノ版に編曲されました。〈宮﨑文香〉
フルート*八木ちはる ピアノ*徳田絵里子
【記録】宮﨑文香さんから、私の詩で曲を書きたいという申し出を受けた時、純粋にうれしかった。初めてのことではない。すでに『めぐりあい』があり、『たびだち』がある。しかし(ということはない。差別などまったくないのだが)、どちらもアンコール曲である(繰り返していうが、すばらしいアンコール曲である。宮﨑さんの曲が最後にないと、トロッタは終わらない。それを、会場を出なければならない時間が来たというので、トロッタ14では『たびだち・鳥の歌』を演奏せずに終わってしまった。失敗である。申し訳ないと反省している)。それがまず、宮﨑さん企画の演奏会のため、尺八と十七絃箏の曲として作曲したいという。そうしてできあがった曲を、トロッタでも、本プログラムの曲として演奏するという。トロッタでは、尺八と十七絃箏ではなく、フルートとピアノのための曲になった。その編曲には、ピアニスト徳田絵里子さんの手を借りることになった。
詩が先にあって、曲が生まれる。いつも詩が先導すればいいとは思っていない。曲が先導する場合もあるだろう。しかし、かつて『くるみ割り人形』や『シェへラザード』を合唱曲としたように、メロディが先にあって詩を書くと、替え歌を作っているような気分になって仕方がない。何にも引きずられない、何の影響も受けない詩を書きたいと思う。だが、いつも詩が先導する場合、作曲者は詩に影響されない曲を書きたいと思うようになるだろうから、つまり立場を変えれば、私も他者に影響を与えてしまっているだろうから、どうすればいいとは断定できない。個別のケースとして考えるしかないだろう。
宮﨑さんは、「詩の通信」から二篇を選んだ。何が選択の基準になっているか、はっきりわからない。尺八と箏は、“花”をテーマにした演奏会で用いられたから、まず、花を描いた詩を選んだ。それが『花の森』である。四国の遍路が行き倒れになり、その跡に花が咲いた、という想像上の物語だ。『虹』には花が出ない。それでも選んだのは、宮﨑さんの感性である。私が子どもだったころ、空に架かる虹を見て、母親に、あれは何? と尋ねる。子どもにとって、初めて見るものは多いだろう。世の中は新鮮な驚きに満ちている。大人になると、そうしたものが少なくなる。少々のことでは驚かない。それはいいことではなく、残念なことだ。常に驚いていたい。虹は、驚くに値するものだ。原理がわかっていても、やはり驚異である。原理などわかっても大したことはない。わからない方がいい。宮﨑さんはおそらく、子ども心の純粋さに惹かれた。彼女自身が、それを持っているのだろう。音楽を書く力になり、詩を書く力にもなる。私は持っているか? 持ちたいと思う。トロッタは、常にその驚きを忘れない会でありたい。『虹』の始まりにある。「遠くと 近くの 区別もないまま 何もかも ぼんやりしていた あのころ」今の私が、そうだ。すべての距離がない。混沌としている。その、どろどろの中から何かを引きずりあげたい。
トロッタ15通信.41
トロッタ14通信〈記録〉.3
フルートとチェロのための『対話と変容』(ガルシア・ロルカと共に)
〈作曲 今井重幸〉
フルート奏者の斉藤香さんに委嘱されて書き下ろした。トロッタの会に編曲するため、詩人ガルシア・ロルカを想う時間が多い。私自身、青年期よりロルカを敬愛してきた。斎藤さんに応えようとした時、自然に、“ロルカとの対話”が楽案に浮かんだ。スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとするなど、これらを自由に変容させて、ふたつの楽器による“対話”を試みたのである。〈今井重幸〉
フルート*斉藤 香 チェロ*武井英哉
【記録】(ガルシア・ロルカと共に)と書き添えられている。今井重幸先生の、ロルカへの思いが伝わってくる。今井先生には、『ロルカのカンシオネス「スペインの歌」』の編曲をお願いしている。すでに七曲、歌った。その過程で生まれたのが、フルートとチェロのための『対話と変容』である(と解釈しているが、違うだろうか。だとしたら、曲の誕生に間接的に関与していることになり、うれしいことだが。しかし、私は)今井先生の希望を満たす歌を歌えていないだろう。そもそも私が、歌えていないと思う。思いだけで音楽をしようとしている。文学として音楽をしている。意識的に音楽をしようとしている。所詮は詩を書く者であって音楽をする者ではない。音楽と文学の溝に思い至るべきである。いや、溝などないはずだ。音楽と文学を、分かちがたいものとして、私はとらえているはず、とらえようとしているはず。そのことに間違いは、絶対にないはずだ。でなければトロッタをしていない(それが、清道洋一の項で書いた、革命ということではないのか)。そのことは後で書くとして−−。
演奏者として、斉藤香さんと武井英哉さんを迎えた。おふたりとは、できれば練習期間中にお目にかかりたかったのだが、果たせなかった。私の理想は−−、トロッタに出演したいただく方々と、あらかじめ顔を合わせて、少しでもお話をしておくこと。当然だろう。トロッタの会を、共に開いているのだ。ばらばらの人間が、本番の日、一日だけ会うことを、私はよしとしない。しかし、無理だった。無理に会わなくても、きちんと練習をして曲を作り、本番に備えればよい。その考えに間違いはない。斉藤さんと武井さんは、そのようにして本番に備えてくださった。他の曲にも出番があれば、もちろん会う機会が増えただろうが、そうではないのだから、ご自分たちの曲に専念していただければよかった。それができず、うまくいかなかったというのではない。うまくいっただろう。問題は、私の側の気持ちである。(ガルシア・ロルカと共に)という曲なのだし、どこがロルカと共に、なのか知っておきたかった(こういう態度が文学的か? しかし、そのどこが悪いのかと思う)。
興味深かった点。トロッタに常に出てくださっている方々、初めてでも練習期間に何度も顔を合わせる方のことは、すでにわかっている部分が多い。しかし斉藤さんと武井さんは、本番一日だけの機会だったので、いい意味で馴れず、新鮮だった。皮肉ではなく、おふたりの演奏会に立ち会っているような気さえした。だが、会を開いている者として、それでいいのか。第一、この原稿にも、曲のことをまったく書いていない。わかっていないから、だ。今井先生の、自他共に許す本領は、例えば打楽器を伴う、トロッタ13で演奏した『草迷宮』のような曲だろう。早稲田奉仕園スコットホールは、もう打楽器が使えなくなった。何とかならないかと思う。今井先生にとって、消化不良であろう。それでフルートとチェロのための『対話と変容』を出品された。それがすべてではないが、理由の一つではある。これまで、今井先生には打楽器のない曲もあった。『仮面の舞』や『青山悠映』など。それでもじゅうぶんに成果をあげている。しかし、できるなら−−、という作曲家としての思いは理解できる。
スコットホールを、私は好きである。どのホールにも長所と短所がある。短所は目につきやすいが、本来は長所にこそ目を向けるべきだ。人も同じ。スコットホールを完全に生かし、もうすることがないと思ったのなら他に移ってもいいが、まだスコットホールを使い切っていない。打楽器は使えなくても、と思う(やはり、『対話と変容』について書いていない。今井先生がいう「スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとする、これらを自由に変容させ」といったことについて書けない。申し訳ない)
フルートとチェロのための『対話と変容』(ガルシア・ロルカと共に)
〈作曲 今井重幸〉
フルート奏者の斉藤香さんに委嘱されて書き下ろした。トロッタの会に編曲するため、詩人ガルシア・ロルカを想う時間が多い。私自身、青年期よりロルカを敬愛してきた。斎藤さんに応えようとした時、自然に、“ロルカとの対話”が楽案に浮かんだ。スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとするなど、これらを自由に変容させて、ふたつの楽器による“対話”を試みたのである。〈今井重幸〉
フルート*斉藤 香 チェロ*武井英哉
【記録】(ガルシア・ロルカと共に)と書き添えられている。今井重幸先生の、ロルカへの思いが伝わってくる。今井先生には、『ロルカのカンシオネス「スペインの歌」』の編曲をお願いしている。すでに七曲、歌った。その過程で生まれたのが、フルートとチェロのための『対話と変容』である(と解釈しているが、違うだろうか。だとしたら、曲の誕生に間接的に関与していることになり、うれしいことだが。しかし、私は)今井先生の希望を満たす歌を歌えていないだろう。そもそも私が、歌えていないと思う。思いだけで音楽をしようとしている。文学として音楽をしている。意識的に音楽をしようとしている。所詮は詩を書く者であって音楽をする者ではない。音楽と文学の溝に思い至るべきである。いや、溝などないはずだ。音楽と文学を、分かちがたいものとして、私はとらえているはず、とらえようとしているはず。そのことに間違いは、絶対にないはずだ。でなければトロッタをしていない(それが、清道洋一の項で書いた、革命ということではないのか)。そのことは後で書くとして−−。
演奏者として、斉藤香さんと武井英哉さんを迎えた。おふたりとは、できれば練習期間中にお目にかかりたかったのだが、果たせなかった。私の理想は−−、トロッタに出演したいただく方々と、あらかじめ顔を合わせて、少しでもお話をしておくこと。当然だろう。トロッタの会を、共に開いているのだ。ばらばらの人間が、本番の日、一日だけ会うことを、私はよしとしない。しかし、無理だった。無理に会わなくても、きちんと練習をして曲を作り、本番に備えればよい。その考えに間違いはない。斉藤さんと武井さんは、そのようにして本番に備えてくださった。他の曲にも出番があれば、もちろん会う機会が増えただろうが、そうではないのだから、ご自分たちの曲に専念していただければよかった。それができず、うまくいかなかったというのではない。うまくいっただろう。問題は、私の側の気持ちである。(ガルシア・ロルカと共に)という曲なのだし、どこがロルカと共に、なのか知っておきたかった(こういう態度が文学的か? しかし、そのどこが悪いのかと思う)。
興味深かった点。トロッタに常に出てくださっている方々、初めてでも練習期間に何度も顔を合わせる方のことは、すでにわかっている部分が多い。しかし斉藤さんと武井さんは、本番一日だけの機会だったので、いい意味で馴れず、新鮮だった。皮肉ではなく、おふたりの演奏会に立ち会っているような気さえした。だが、会を開いている者として、それでいいのか。第一、この原稿にも、曲のことをまったく書いていない。わかっていないから、だ。今井先生の、自他共に許す本領は、例えば打楽器を伴う、トロッタ13で演奏した『草迷宮』のような曲だろう。早稲田奉仕園スコットホールは、もう打楽器が使えなくなった。何とかならないかと思う。今井先生にとって、消化不良であろう。それでフルートとチェロのための『対話と変容』を出品された。それがすべてではないが、理由の一つではある。これまで、今井先生には打楽器のない曲もあった。『仮面の舞』や『青山悠映』など。それでもじゅうぶんに成果をあげている。しかし、できるなら−−、という作曲家としての思いは理解できる。
スコットホールを、私は好きである。どのホールにも長所と短所がある。短所は目につきやすいが、本来は長所にこそ目を向けるべきだ。人も同じ。スコットホールを完全に生かし、もうすることがないと思ったのなら他に移ってもいいが、まだスコットホールを使い切っていない。打楽器は使えなくても、と思う(やはり、『対話と変容』について書いていない。今井先生がいう「スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとする、これらを自由に変容させ」といったことについて書けない。申し訳ない)
トロッタ15通信.40
トロッタ14通信〈記録〉.2
『恋の歌』
〈作曲 清道洋一/詩 木部与巴仁〉
三島が逝った歳になった。そろそろしっかりとした歌を作りたいと思った。歌曲を作るなら「恋の歌」以外に有り得ない。独りよがりの『状況』ではなく、ある特定の感覚を共有したいと思った。震災以来の無力感の支配からも抜け出したかった。『ステロタイプ』。しかしそれが『約束』として機能するのであれば、感覚の共有は成功なのだろう。映画に演劇に前例はいくらでもあるではないか。そう考え『既聴感』にこだわってみた。〈清道洋一〉
ソプラノ*柳 珠里 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子 ギター*萩野谷英成
【記録】“恋の歌”を作りたいから、そのような詩を、という清道洋一の求めに応じて書いた。これは清道に対していっているのではなく(結局、そうなるかもしれないが)、その人は恋をしているのかと考える。私は清道と『革命幻想歌』を創り、今また、その二作目を創ろうとしている。革命を、現実に政治的活動として行なってはいない。しかし気持ちは、おとなしく飼いならされてなどいない、ということ。政治に声をあげていないから革命を望んでいないことにはならない。そもそも、あげていないと誰が判断するのか。街頭で配られる、脱原発のちらしを受け取らないからといって、私が脱原発を志向していないとはいえないはず。サッカー選手だって革命を望む者はいるだろう。私はフィクションではなく切実に、革命を求めている。それは政治の革命ではなく、自己の革命なのだろう。ロシア革命だって、人々は、政治の変革を求めつつ、自己を革命したはずだ。自分を犠牲にしないで政治の革命などできっこない。−−革命はとりあえず措こう。恋をしたくて、あるいは恋をしているから、清道は恋の歌を書こうとしたのか、私は求められたとはいえ、恋の詩を書こうと思ったのか。端的にいって、恋をしているのか? 革命を求めて『革命幻想歌』を書くというなら、恋をしているから『恋の歌』を書いたといってほしい(私が)。
書いた詩は三篇。
ボール虫(団子虫)が主人公の『恋の始まり』。
「恋の触覚 狙いは必ずあやまたず 冴え渡って気配をとらえる 恋の触覚 われ知らずわれに教える 生命(いのち)のありか 心の昂り 行け 眉目(みめ)よきボール虫 行け 麗しのボール虫」
およそ人からは尊敬されそうにないボール虫。ライオンや鷲なら尊敬されるだろうが、地を這う虫など気味悪がられ踏みつぶされるかもしれない。しかし、彼らにも恋はあり人生がある。人が、彼らを毛嫌いする理由などどこにもない。ボール虫になりたいとすら思う。いや、もうなっているか。
蜥蜴が主人公の『恋の果て』。
「ひしゃげた躰(からだ)にのぞく 真赤な肉片 首はもげて足は飛び あの日 わたしを抱きしめた両腕は 天と地に伸びていた」
仮に戦場で死ねば、私もこうなるだろう。恋が戦いではないとは誰にもいえない。恋を、闘っているのだ。この蜥蜴の姿を、私は写真に収めている。確かに不気味だ。しかし、彼は堂々と死んでいた。そうありたいと思う。人よ、蜥蜴に劣らず、堂々と死ね。人以外の者を詠みながら、私はすべて人のこととしても詠んでいる。
蚊が主人公の『恋の音楽』。
「生きようとして殺される わたしたち 蚊という生き物 愚かなり 人は知らない 壮大なファンタジー わたしたち 蚊が築きあげた 歴史と科学 超文明の底知れなさ」
人と蚊の間に、何の差もない。あえて蚊の方が上だということもない。平等である。たっぷりと、人の血を数がいい。あなたたちは生きるために、血を吸っている。私の血はまずいと思うが、吸ってくれるだけましである。吸われて痛いと思う。かゆいと思う。生きているからで、死んでしまえば、そうしたことも思わない。生きている証明に、血を吸ってほしい。生を実感させてほしい。
この歌を、いつか、自分で歌ってみたいと思う。私の実感がこもっている。歌いたいと思って当然だろう。歌いたいと思い、清道に詩を託したのだから。誰に対してもそうだが、私の中にある部分を、清道にも感じている。それが何か、あえて書かなくてもいいだろう。ここに書いたようなことである。
『恋の歌』
〈作曲 清道洋一/詩 木部与巴仁〉
三島が逝った歳になった。そろそろしっかりとした歌を作りたいと思った。歌曲を作るなら「恋の歌」以外に有り得ない。独りよがりの『状況』ではなく、ある特定の感覚を共有したいと思った。震災以来の無力感の支配からも抜け出したかった。『ステロタイプ』。しかしそれが『約束』として機能するのであれば、感覚の共有は成功なのだろう。映画に演劇に前例はいくらでもあるではないか。そう考え『既聴感』にこだわってみた。〈清道洋一〉
ソプラノ*柳 珠里 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子 ギター*萩野谷英成
【記録】“恋の歌”を作りたいから、そのような詩を、という清道洋一の求めに応じて書いた。これは清道に対していっているのではなく(結局、そうなるかもしれないが)、その人は恋をしているのかと考える。私は清道と『革命幻想歌』を創り、今また、その二作目を創ろうとしている。革命を、現実に政治的活動として行なってはいない。しかし気持ちは、おとなしく飼いならされてなどいない、ということ。政治に声をあげていないから革命を望んでいないことにはならない。そもそも、あげていないと誰が判断するのか。街頭で配られる、脱原発のちらしを受け取らないからといって、私が脱原発を志向していないとはいえないはず。サッカー選手だって革命を望む者はいるだろう。私はフィクションではなく切実に、革命を求めている。それは政治の革命ではなく、自己の革命なのだろう。ロシア革命だって、人々は、政治の変革を求めつつ、自己を革命したはずだ。自分を犠牲にしないで政治の革命などできっこない。−−革命はとりあえず措こう。恋をしたくて、あるいは恋をしているから、清道は恋の歌を書こうとしたのか、私は求められたとはいえ、恋の詩を書こうと思ったのか。端的にいって、恋をしているのか? 革命を求めて『革命幻想歌』を書くというなら、恋をしているから『恋の歌』を書いたといってほしい(私が)。
書いた詩は三篇。
ボール虫(団子虫)が主人公の『恋の始まり』。
「恋の触覚 狙いは必ずあやまたず 冴え渡って気配をとらえる 恋の触覚 われ知らずわれに教える 生命(いのち)のありか 心の昂り 行け 眉目(みめ)よきボール虫 行け 麗しのボール虫」
およそ人からは尊敬されそうにないボール虫。ライオンや鷲なら尊敬されるだろうが、地を這う虫など気味悪がられ踏みつぶされるかもしれない。しかし、彼らにも恋はあり人生がある。人が、彼らを毛嫌いする理由などどこにもない。ボール虫になりたいとすら思う。いや、もうなっているか。
蜥蜴が主人公の『恋の果て』。
「ひしゃげた躰(からだ)にのぞく 真赤な肉片 首はもげて足は飛び あの日 わたしを抱きしめた両腕は 天と地に伸びていた」
仮に戦場で死ねば、私もこうなるだろう。恋が戦いではないとは誰にもいえない。恋を、闘っているのだ。この蜥蜴の姿を、私は写真に収めている。確かに不気味だ。しかし、彼は堂々と死んでいた。そうありたいと思う。人よ、蜥蜴に劣らず、堂々と死ね。人以外の者を詠みながら、私はすべて人のこととしても詠んでいる。
蚊が主人公の『恋の音楽』。
「生きようとして殺される わたしたち 蚊という生き物 愚かなり 人は知らない 壮大なファンタジー わたしたち 蚊が築きあげた 歴史と科学 超文明の底知れなさ」
人と蚊の間に、何の差もない。あえて蚊の方が上だということもない。平等である。たっぷりと、人の血を数がいい。あなたたちは生きるために、血を吸っている。私の血はまずいと思うが、吸ってくれるだけましである。吸われて痛いと思う。かゆいと思う。生きているからで、死んでしまえば、そうしたことも思わない。生きている証明に、血を吸ってほしい。生を実感させてほしい。
この歌を、いつか、自分で歌ってみたいと思う。私の実感がこもっている。歌いたいと思って当然だろう。歌いたいと思い、清道に詩を託したのだから。誰に対してもそうだが、私の中にある部分を、清道にも感じている。それが何か、あえて書かなくてもいいだろう。ここに書いたようなことである。
トロッタ15通信.39
iPadを買ったが、例えば電車の中でブログに書きこみ、twitterで発言する、などという使い方は、結局、できていない。これからもできないだろう。iPadも、きちんとした原稿を書くために使ってしまう。書評のためにスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作を読み通した。『ミレニアム』第一部は電子書籍になっているが、私は文庫本で読んだ。紙の本で読むことが、私の態度としては自然だ。電子書籍は読まない(使わない)。コンピュータは原稿を書くために使う。iPadも、手軽な使い方はしない。それが私なら、それでよい。
「トロッタ14通信」は、ひとつも書けなかった。各曲について、すでに2か月が経った今から、記録として書いておこう。演奏順に書いてゆく。トロッタ10から13まで書いた「トロッタ通信」を、原稿として、整理しておこうと思う。
トロッタ14通信〈記録〉.1
花の三部作最終章『祝いの花』op.53
〈作曲 橘川琢/詩・詩唱 木部与巴仁/花 上野雄次〉
『花の記憶』『死の花』に続く、橘川琢“花の三部作”最後を飾る曲である。『花の記憶』は2007年10月20日初演、『死の花』は2009年12月5日初演だから、2年おきに作曲・初演されてきたことになる。前二作に強かった〈死〉の印象を(依然として書いているものの)払拭したかった。最終章にふさわしい曲が聴けるだろう。上野雄次の花に注目したい。〈K〉
ソプラノ*大久保雅代 フルート[ピッコロ]*八木ちはる 〈弦楽五重奏〉Vn.戸塚ふみ代、Vn.田口 薫、Va.仁科拓也、Vc.小島遼子、Cb.丹野敏広 ピアノ*森川あづさ
【記録】そのようには書かれていないが、橘川琢のいう「詩歌曲」である。本来、ファゴットが予定されていたが無理となり、急遽、他の楽器で補うことになった。『花の記憶』初演当時、次の年にでも三部作を完成させて全曲を演奏、というようなプランもあったが、2007年から2011年まで、足掛け5年に及んだ。人によるだろうが、三部作を作るとは、そのくらいかかるということだ。『花の記憶』は、三度、演奏している。『祝いの花』は、初演時の記憶がまだ比較的新しいから、思い出せる。『死の花』の記憶が薄い。記録に残っているから演奏したことは間違いないのに。芝居でいうなら幕切れに、絶叫に近い声をあげた。覚えているのはそれだけだ。絶叫など、したくない。それを覚えているという皮肉。これで、いいのだろうか(自分に対して疑問に思っていることだ)。三部作を仮に通した時、曲ごとに編成が違うし、どうなるのか見当がつかない。
『祝いの花』は、三部作で最も大きな編成となった。上野雄次の花も、大きなものとなった。巨大な花を背負って客席最後列に現われ、中央通路を進んで舞台に至る。花の塊を背負っているから、上野の姿は見えない。舞台への階段を上り、上ったところで静止して、花を鋏みで切ってゆく。切る音が会場に響く。演奏が終わると、赤い花が宙にまかれる。音楽を聴きながら、お客様は何を見ていたのか。音楽面では、詩唱を音楽として受け取っていただけるなら、編成が大きいだけに、聴こえたのかという疑問がある。合わせの時間があまり取れず、練る時間が決定的に不足した。『死の花』が記憶にないのも、初演から時間が経ったこともあるが、こうした練習時間の不足に原因があると思う。結局、『花の記憶』が最もまとまっていて、三部作の本質はすべてそこにある、というような考えになる。すべて『花の記憶』にあるなら、残りの二曲はできなくてもよかった、ということになってしまう。三部作だが、一曲一曲に、独立した作品性を求めたい。『祝いの花』は、大きな音の塊を作り上げる意図は見えた。音も声も、ぶつけあって塊にする。作曲者の意図はわからないが、詩唱していて、そのように感じた。その効果があったのかどうか。舞台上からはわからない(この点も、『花の記憶』には舞台上で手応えを感じたのだ)。
橘川琢と、トロッタについて初めて話した時。朗読があって楽器の演奏がある、そのようなことをしたかったと聞いた。それは、達成されたかもしれない。たくさんの詩歌曲が生まれた。その結果。詩唱のない曲に、今の橘川の気持ちは向かっているかも知れない。それならば、それでよい。橘川が曲を発表しようとする。詩唱があるだろうと思う。それは予定調和だ。予定調和は避けたい。詩唱曲だけではないだろうというような迷いが、橘川に生じているかもしれない。それはそれでよい。花の三部作が終わったのだし、転換点かも知れない。それでいいのだ。私たちは、常に転換点に立っているはずだ。−−もともと、橘川には文学的な思考が強かった。曲名を振り返ればわかる。詩歌曲第一番、というような命名はしない。既にある文学作品に拠ることもあった。次のような例がある。『都市の肖像』」第一集「ロマンス」op.21~ヴァイオリンとピアノによる~第一曲「Romance」、第二曲「Silent Actress」、第三曲「水の歌が聴こえる」(2008)、第四曲「少年期/コール・ドラッジュの庭」。詩はもともと第一番などと呼ばれず、文学的な題名がつけられているから(何が文学的か、議論はあるだろう。文学的な姿勢、態度を橘川に感じる)。そのような姿勢が、詩歌曲に現われていたといえるだろう。
「トロッタ14通信」は、ひとつも書けなかった。各曲について、すでに2か月が経った今から、記録として書いておこう。演奏順に書いてゆく。トロッタ10から13まで書いた「トロッタ通信」を、原稿として、整理しておこうと思う。
トロッタ14通信〈記録〉.1
花の三部作最終章『祝いの花』op.53
〈作曲 橘川琢/詩・詩唱 木部与巴仁/花 上野雄次〉
『花の記憶』『死の花』に続く、橘川琢“花の三部作”最後を飾る曲である。『花の記憶』は2007年10月20日初演、『死の花』は2009年12月5日初演だから、2年おきに作曲・初演されてきたことになる。前二作に強かった〈死〉の印象を(依然として書いているものの)払拭したかった。最終章にふさわしい曲が聴けるだろう。上野雄次の花に注目したい。〈K〉
ソプラノ*大久保雅代 フルート[ピッコロ]*八木ちはる 〈弦楽五重奏〉Vn.戸塚ふみ代、Vn.田口 薫、Va.仁科拓也、Vc.小島遼子、Cb.丹野敏広 ピアノ*森川あづさ
【記録】そのようには書かれていないが、橘川琢のいう「詩歌曲」である。本来、ファゴットが予定されていたが無理となり、急遽、他の楽器で補うことになった。『花の記憶』初演当時、次の年にでも三部作を完成させて全曲を演奏、というようなプランもあったが、2007年から2011年まで、足掛け5年に及んだ。人によるだろうが、三部作を作るとは、そのくらいかかるということだ。『花の記憶』は、三度、演奏している。『祝いの花』は、初演時の記憶がまだ比較的新しいから、思い出せる。『死の花』の記憶が薄い。記録に残っているから演奏したことは間違いないのに。芝居でいうなら幕切れに、絶叫に近い声をあげた。覚えているのはそれだけだ。絶叫など、したくない。それを覚えているという皮肉。これで、いいのだろうか(自分に対して疑問に思っていることだ)。三部作を仮に通した時、曲ごとに編成が違うし、どうなるのか見当がつかない。
『祝いの花』は、三部作で最も大きな編成となった。上野雄次の花も、大きなものとなった。巨大な花を背負って客席最後列に現われ、中央通路を進んで舞台に至る。花の塊を背負っているから、上野の姿は見えない。舞台への階段を上り、上ったところで静止して、花を鋏みで切ってゆく。切る音が会場に響く。演奏が終わると、赤い花が宙にまかれる。音楽を聴きながら、お客様は何を見ていたのか。音楽面では、詩唱を音楽として受け取っていただけるなら、編成が大きいだけに、聴こえたのかという疑問がある。合わせの時間があまり取れず、練る時間が決定的に不足した。『死の花』が記憶にないのも、初演から時間が経ったこともあるが、こうした練習時間の不足に原因があると思う。結局、『花の記憶』が最もまとまっていて、三部作の本質はすべてそこにある、というような考えになる。すべて『花の記憶』にあるなら、残りの二曲はできなくてもよかった、ということになってしまう。三部作だが、一曲一曲に、独立した作品性を求めたい。『祝いの花』は、大きな音の塊を作り上げる意図は見えた。音も声も、ぶつけあって塊にする。作曲者の意図はわからないが、詩唱していて、そのように感じた。その効果があったのかどうか。舞台上からはわからない(この点も、『花の記憶』には舞台上で手応えを感じたのだ)。
橘川琢と、トロッタについて初めて話した時。朗読があって楽器の演奏がある、そのようなことをしたかったと聞いた。それは、達成されたかもしれない。たくさんの詩歌曲が生まれた。その結果。詩唱のない曲に、今の橘川の気持ちは向かっているかも知れない。それならば、それでよい。橘川が曲を発表しようとする。詩唱があるだろうと思う。それは予定調和だ。予定調和は避けたい。詩唱曲だけではないだろうというような迷いが、橘川に生じているかもしれない。それはそれでよい。花の三部作が終わったのだし、転換点かも知れない。それでいいのだ。私たちは、常に転換点に立っているはずだ。−−もともと、橘川には文学的な思考が強かった。曲名を振り返ればわかる。詩歌曲第一番、というような命名はしない。既にある文学作品に拠ることもあった。次のような例がある。『都市の肖像』」第一集「ロマンス」op.21~ヴァイオリンとピアノによる~第一曲「Romance」、第二曲「Silent Actress」、第三曲「水の歌が聴こえる」(2008)、第四曲「少年期/コール・ドラッジュの庭」。詩はもともと第一番などと呼ばれず、文学的な題名がつけられているから(何が文学的か、議論はあるだろう。文学的な姿勢、態度を橘川に感じる)。そのような姿勢が、詩歌曲に現われていたといえるだろう。
2012年1月14日土曜日
トロッタ15通信.38
ブログやツイッターの書き分けについて。ブログは、〈トロッタ論〉(仮題)を改めて書く。これは連載のための、正式の題をつける。並行して、日々の報告などを書く。これを従来の「トロッタ15通信」とする。ツイッターは、2つあるうち、ひとつは日々の報告で、「トロッタ15通信」と同じ。もうひとつは、木部個人の活動報告などを書く。
2012年1月9日月曜日
トロッタ15通信.37
昨夜から、詩を二篇、書く。
ひとつは『秋の一族』。橘川琢氏のための詩で、2009年初演の『冬の鳥』、2010年初演の『夏の國』に続く、四季シリーズの第三作となるべきもの。いつか曲になればいいと思う。
もうひとつは、トロッタ15のための『トロッタ、七年の夢』。酒井健吉氏作曲、清道洋一氏演出、中川博正氏詩唱のための詩。トロッタ1で演奏し、初演は2005年だった、『トロッタで見た夢』の続編である。
ひとつは『秋の一族』。橘川琢氏のための詩で、2009年初演の『冬の鳥』、2010年初演の『夏の國』に続く、四季シリーズの第三作となるべきもの。いつか曲になればいいと思う。
もうひとつは、トロッタ15のための『トロッタ、七年の夢』。酒井健吉氏作曲、清道洋一氏演出、中川博正氏詩唱のための詩。トロッタ1で演奏し、初演は2005年だった、『トロッタで見た夢』の続編である。
2012年1月8日日曜日
トロッタ15通信.36
ほとんど読み返すことのなかった過去の原稿に、今に続いている、私の考えを見ます。トロッタ以前のことですが、トロッタを開く態度、詩と音楽をめぐるテーマが、ここにあるように思います。年末に書いた、萩原朔太郎にも通じるでしょう。というより、すべてに通じます。
〈第3回〉
ピエールには、DVD『サラヴァ』として発表された以外にも、数多くの映像作品がある。まず挙げたいのは、衛星放送の電波に乗り、ビデオにもなって発売された『Nuits de Nacre'91〜真珠貝の夜・チュール〜』である。フランス南西部の町チュールで開かれたアコーディオンの国際フェスティバルに出かけ、ピエール自らがヴィデオ・カメラを回した。翌92年にカナダで撮影され、今は予告編にとどまっている続編も、彼の頭の中にはあるらしい。
さらに、2003年に一夜だけの上映会がもたれた『サヴァ サヴィアン(BIS)』。チンドン屋“かぼちゃ商会”がフランス各地で演奏する姿をとらえた映像から、私たちは音楽に寄せたピエールの愛情を存分に感じ取る。チンドン屋とは、街を歩き、移動しながら演奏することに、その音楽の本質がある。旅と音楽が人生の始まりからほとんど同義であったピエールに重なるではないか。そしてこの作品は、1970年に創られた『サヴァ サヴィアン』の続編である。『サラヴァ』にも『真珠貝の夜』にも『サヴァ サヴィアン』にも、ピエール・バルーは終止符を打っていない。すべては“つづく…”。この他にも、知られていない作品はまだまだある。それらがピエールの納得できる形で世に出ることを望んでいる。
もう一度確認しよう。DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」である。バーデン・パウエル、ピシンギーニャ、ジョアン・ダ・バイアーナ、マリア・ベターニア、アダン・グザレバラダ、シブーカなど。彼らブラジルの音楽家たちには、ピエールがフランスから彼の地に旅をし、出逢ったことからこそ、私たちも時空を越えて、相まみえることができた。その姿をとどめるフィルムやヴィデオの力があるにせよ、まず出逢い、出逢うための旅、その行為なくして彼らの姿や声、創造される音を、私たちは見られなかったし聴けなかった。
〈第4回〉
「私の願いはあなたを私達と共に旅に連れて行くことです」
ピエールがこのように語り始める時、34年という歳月の壁は消える。
「ブラジル音楽はアフリカ音楽の影響を受けたの?」
「すべてそうだよ。ルーツは皆、アフリカだ。ハーモニーではジャズの影響を受け、リズムではアフリカがルーツだ。この2つを合わせると、奇麗なサンバが1曲出来る」
ピエールとバーデンの会話は、たった今、この瞬間に交わされているのである。
「私の選曲にはいつも深い理由があるの。例えば今は私の兄、カエターノ・ヴェローゾが国外追放されていて、私はブラジルだから……」
マリア・ベターニアの言葉だ。!969年、時の軍事政権によってブラジルを追われ、ロンドンに住むことを余儀なくされていたカエターノ。画面には姿を現わさないが、彼の存在も『サラヴァ』の背後にある。
「悪ふざけはやめよう/ソクラテスとプラトンは最初に茶番劇に参加した哲学者/悪ふざけは止めよう/教会の門の前で飢えた者達が来はしない救い主を待っている」
何と深い、アダンの声と詩。これはいつの歌なのか? 古代にもありえたし、中世にもありえた。それこそ時空を越えた音楽家が、現代のリオ・デ・ジャネイロにいたという奇跡。当時のアダンは400以上の曲を書いたが、それは彼が住む貧民街の住人以外に知られることはなかったと、ピエールは書き添えている。真の音楽家とは、そのようなものかもしれない。
ピエール・バルーは歌をうたって楽器を奏でる音楽家だが、その本質にあるのは詩。『サラヴァ』を観ればわかる。彼は人の理知ではなく、情動に訴えている。鉛筆と紙とギターを小型のヴィデオ・カメラに持ち替えて詩を創っている。
この年この時期のブラジルにはこんなことがあった、こんな人々がいた、こんな音楽が……。ドキュメンタリーを創るつもりなら、他にもっと方法があっただろう。映像の文法とでもいうべきものが。しかし、彼は説明を避けている。博物館のキュレーターのように、一つ一つの場面を懇切丁寧に案内しようとはしていない。字幕さえ、イマジネーションと発見の楽しみを大切にしたいという理由で、最小限にとどめられているのだから。
ブラジル音楽に明るくなく、言葉もわからない人には、何が語られているのか、語られていることが何なのか、わからないかもしれない。しかし、それでいい。知識は得られなくても実感が残る。ブラジル音楽の精髄に触れた手ごたえが残っている。もっと観たい、もっと聴きたい、もっと歌いたいという気持ちが生まれている。未知のものを求める旅人の態度に、似ていないだろうか。それをもたらしのはピエール・バルーの、詩人としての力だ。
2007.7.3
木部与巴仁
〈第3回〉
ピエールには、DVD『サラヴァ』として発表された以外にも、数多くの映像作品がある。まず挙げたいのは、衛星放送の電波に乗り、ビデオにもなって発売された『Nuits de Nacre'91〜真珠貝の夜・チュール〜』である。フランス南西部の町チュールで開かれたアコーディオンの国際フェスティバルに出かけ、ピエール自らがヴィデオ・カメラを回した。翌92年にカナダで撮影され、今は予告編にとどまっている続編も、彼の頭の中にはあるらしい。
さらに、2003年に一夜だけの上映会がもたれた『サヴァ サヴィアン(BIS)』。チンドン屋“かぼちゃ商会”がフランス各地で演奏する姿をとらえた映像から、私たちは音楽に寄せたピエールの愛情を存分に感じ取る。チンドン屋とは、街を歩き、移動しながら演奏することに、その音楽の本質がある。旅と音楽が人生の始まりからほとんど同義であったピエールに重なるではないか。そしてこの作品は、1970年に創られた『サヴァ サヴィアン』の続編である。『サラヴァ』にも『真珠貝の夜』にも『サヴァ サヴィアン』にも、ピエール・バルーは終止符を打っていない。すべては“つづく…”。この他にも、知られていない作品はまだまだある。それらがピエールの納得できる形で世に出ることを望んでいる。
もう一度確認しよう。DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」である。バーデン・パウエル、ピシンギーニャ、ジョアン・ダ・バイアーナ、マリア・ベターニア、アダン・グザレバラダ、シブーカなど。彼らブラジルの音楽家たちには、ピエールがフランスから彼の地に旅をし、出逢ったことからこそ、私たちも時空を越えて、相まみえることができた。その姿をとどめるフィルムやヴィデオの力があるにせよ、まず出逢い、出逢うための旅、その行為なくして彼らの姿や声、創造される音を、私たちは見られなかったし聴けなかった。
〈第4回〉
「私の願いはあなたを私達と共に旅に連れて行くことです」
ピエールがこのように語り始める時、34年という歳月の壁は消える。
「ブラジル音楽はアフリカ音楽の影響を受けたの?」
「すべてそうだよ。ルーツは皆、アフリカだ。ハーモニーではジャズの影響を受け、リズムではアフリカがルーツだ。この2つを合わせると、奇麗なサンバが1曲出来る」
ピエールとバーデンの会話は、たった今、この瞬間に交わされているのである。
「私の選曲にはいつも深い理由があるの。例えば今は私の兄、カエターノ・ヴェローゾが国外追放されていて、私はブラジルだから……」
マリア・ベターニアの言葉だ。!969年、時の軍事政権によってブラジルを追われ、ロンドンに住むことを余儀なくされていたカエターノ。画面には姿を現わさないが、彼の存在も『サラヴァ』の背後にある。
「悪ふざけはやめよう/ソクラテスとプラトンは最初に茶番劇に参加した哲学者/悪ふざけは止めよう/教会の門の前で飢えた者達が来はしない救い主を待っている」
何と深い、アダンの声と詩。これはいつの歌なのか? 古代にもありえたし、中世にもありえた。それこそ時空を越えた音楽家が、現代のリオ・デ・ジャネイロにいたという奇跡。当時のアダンは400以上の曲を書いたが、それは彼が住む貧民街の住人以外に知られることはなかったと、ピエールは書き添えている。真の音楽家とは、そのようなものかもしれない。
ピエール・バルーは歌をうたって楽器を奏でる音楽家だが、その本質にあるのは詩。『サラヴァ』を観ればわかる。彼は人の理知ではなく、情動に訴えている。鉛筆と紙とギターを小型のヴィデオ・カメラに持ち替えて詩を創っている。
この年この時期のブラジルにはこんなことがあった、こんな人々がいた、こんな音楽が……。ドキュメンタリーを創るつもりなら、他にもっと方法があっただろう。映像の文法とでもいうべきものが。しかし、彼は説明を避けている。博物館のキュレーターのように、一つ一つの場面を懇切丁寧に案内しようとはしていない。字幕さえ、イマジネーションと発見の楽しみを大切にしたいという理由で、最小限にとどめられているのだから。
ブラジル音楽に明るくなく、言葉もわからない人には、何が語られているのか、語られていることが何なのか、わからないかもしれない。しかし、それでいい。知識は得られなくても実感が残る。ブラジル音楽の精髄に触れた手ごたえが残っている。もっと観たい、もっと聴きたい、もっと歌いたいという気持ちが生まれている。未知のものを求める旅人の態度に、似ていないだろうか。それをもたらしのはピエール・バルーの、詩人としての力だ。
2007.7.3
木部与巴仁
2012年1月7日土曜日
トロッタ15通信.35
2003年7月に書きました、ピエール・バルー氏についての文章の2回目です。もう9年前であることに今さらながら驚きます。しかし、9年前のことだけあって、私がなぜ、どういう経緯でこの原稿を書くことになったのか、はっきりしません。当時はサイトにいろいろと原稿を書いていました。そこに、この土台となった原稿を載せ、それをご覧いただいた上で、オーマガトキ連絡をいただいて、ということだと思います。
「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」
〈第2回〉
ピエール・バルーがこの世に生を享けたのは、1934年2月19日。パリに近いルヴァロワに生まれたが、両親は、トルコのコンスタンチノープルから移り住んでいた。移動した者の子であり、旅を宿命づけられた子であったと見ることができよう。そのピエールが自ら欲して行う旅は、14歳のころから始まったと聞く。
「少年時代、私の散歩の始まりの頃、道路の両側で交互にヒッチハイクをしていた。北に行ったり南に行ったり、西に東に…水に浮かんだコルク栓と同じ」
CD『ITCHI GO ITCHI E』の解説で、彼はこのように語っている。散歩といい旅という、その行為。欠かせなかったのは、一丁のギターだった。心の赴くままにギターを弾き、歌い、詩を書いた。詩は−−、少年時代に観た映画『悪魔が夜来る』(“LES VISITEURS DU SOIR”)に影響されて志した。マルセル・カルネの監督作品であり、脚本には、フランスの20世紀を代表する詩人、ジャック・プレヴェールが参加している。『悪魔が夜来る』の何が、どこが、少年ピエールの心を動かしたのか。興味は尽きない。
青年時代、フランス代表に選ばれるほどバレーボールに打ちこんだピエールは、音楽に加えてスポーツを介し、見知らぬ人との出逢いを持てた。同じく『ITCHI GO ITCHI E』の解説より拾ってみる。
「リスボン1959年、独裁政権サラザール。ブルージンにギターをかかえた私は実にうさんくさい存在であったが、どんな政権でも地下のルートはあるものだ。タージ河のむこうの漁村にとめてもらいバレーボールを通して友達を作った私は時々リスボンのイタリアレストラン『ソレント』で歌を歌った。その頃ベロアルト近くのあるキャバレーでシブーカを発見しとりこになった。彼こそが当時まったく知られてなかったブラジル音楽の豊かなメロディとハーモニーそして詩の内容を教えてくれた人だ。ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスそして後にバーデン・パウエル等の貴公子達に会わせてくれたのもシブーカだ」
さらにこんな言葉も−−。
「人は一生たったひとつの核のまわりに人生を築いてゆく。私の場合は初めて歌を作った15才の時から『むこう岸』(未知のもの)への憧れがマクニールやブリジット・フォンテーヌ、ピエール・アケンダンゲらに扉をひらかせ、テアトル・アレフと芝居をやらせ、映画や歌を作らせてきた。そうやって私の出会った素晴らしいものや人の証言者になりたいのだ」
1966年にはクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(“UN HOMME ET UNE FEMME”)に出演し、『サンバ・サラヴァ』を歌った。カンヌ映画祭でグランプリを、アカデミー賞では外国語映画賞を獲得するなどしたこの映画によって、ピエール・バルーの名と才能は世界に知られる。しかし、ピエールは映画スターとしての可能性をあっさり捨てた。映画産業という共同体社会に見切りをつけ、サラヴァ・レーベルを創設し、未知の表現者との出逢いを求める。もったいないことかもしれないし、残念なことかもしれないが、ピエールの思い切りを私は支持したい。
『男と女』を観る人は、ピエールの存在感があまりにも異質であることに気づくだろう。彼の出演場面のみ空気間が違っている。演技や台詞回しで他の俳優と斬り結ぶわけではなく、過剰な自己主張を画面にほとばしらせるでもなく、ピエール・バルーはピエール・バルーとして存在している。実際に逢った印象と寸分違わぬピエールが『男と女』に現われるので、かえって驚いてしまうほどだ。
彼は映画俳優か? ノン。彼は歌い手か? ノン。彼はピール・バルーである。自分を一つの場所、一つの姿にとどめない。それもまた旅人としての生き方だ、旅人は共同体では−−、そう、生きられない。
「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」
〈第2回〉
ピエール・バルーがこの世に生を享けたのは、1934年2月19日。パリに近いルヴァロワに生まれたが、両親は、トルコのコンスタンチノープルから移り住んでいた。移動した者の子であり、旅を宿命づけられた子であったと見ることができよう。そのピエールが自ら欲して行う旅は、14歳のころから始まったと聞く。
「少年時代、私の散歩の始まりの頃、道路の両側で交互にヒッチハイクをしていた。北に行ったり南に行ったり、西に東に…水に浮かんだコルク栓と同じ」
CD『ITCHI GO ITCHI E』の解説で、彼はこのように語っている。散歩といい旅という、その行為。欠かせなかったのは、一丁のギターだった。心の赴くままにギターを弾き、歌い、詩を書いた。詩は−−、少年時代に観た映画『悪魔が夜来る』(“LES VISITEURS DU SOIR”)に影響されて志した。マルセル・カルネの監督作品であり、脚本には、フランスの20世紀を代表する詩人、ジャック・プレヴェールが参加している。『悪魔が夜来る』の何が、どこが、少年ピエールの心を動かしたのか。興味は尽きない。
青年時代、フランス代表に選ばれるほどバレーボールに打ちこんだピエールは、音楽に加えてスポーツを介し、見知らぬ人との出逢いを持てた。同じく『ITCHI GO ITCHI E』の解説より拾ってみる。
「リスボン1959年、独裁政権サラザール。ブルージンにギターをかかえた私は実にうさんくさい存在であったが、どんな政権でも地下のルートはあるものだ。タージ河のむこうの漁村にとめてもらいバレーボールを通して友達を作った私は時々リスボンのイタリアレストラン『ソレント』で歌を歌った。その頃ベロアルト近くのあるキャバレーでシブーカを発見しとりこになった。彼こそが当時まったく知られてなかったブラジル音楽の豊かなメロディとハーモニーそして詩の内容を教えてくれた人だ。ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスそして後にバーデン・パウエル等の貴公子達に会わせてくれたのもシブーカだ」
さらにこんな言葉も−−。
「人は一生たったひとつの核のまわりに人生を築いてゆく。私の場合は初めて歌を作った15才の時から『むこう岸』(未知のもの)への憧れがマクニールやブリジット・フォンテーヌ、ピエール・アケンダンゲらに扉をひらかせ、テアトル・アレフと芝居をやらせ、映画や歌を作らせてきた。そうやって私の出会った素晴らしいものや人の証言者になりたいのだ」
1966年にはクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(“UN HOMME ET UNE FEMME”)に出演し、『サンバ・サラヴァ』を歌った。カンヌ映画祭でグランプリを、アカデミー賞では外国語映画賞を獲得するなどしたこの映画によって、ピエール・バルーの名と才能は世界に知られる。しかし、ピエールは映画スターとしての可能性をあっさり捨てた。映画産業という共同体社会に見切りをつけ、サラヴァ・レーベルを創設し、未知の表現者との出逢いを求める。もったいないことかもしれないし、残念なことかもしれないが、ピエールの思い切りを私は支持したい。
『男と女』を観る人は、ピエールの存在感があまりにも異質であることに気づくだろう。彼の出演場面のみ空気間が違っている。演技や台詞回しで他の俳優と斬り結ぶわけではなく、過剰な自己主張を画面にほとばしらせるでもなく、ピエール・バルーはピエール・バルーとして存在している。実際に逢った印象と寸分違わぬピエールが『男と女』に現われるので、かえって驚いてしまうほどだ。
彼は映画俳優か? ノン。彼は歌い手か? ノン。彼はピール・バルーである。自分を一つの場所、一つの姿にとどめない。それもまた旅人としての生き方だ、旅人は共同体では−−、そう、生きられない。
2012年1月6日金曜日
トロッタ15通信.34
昨日、音楽製作者のTさんから年賀メールがありました。フランスのサラヴァ・レーベルのCDを、日本で発売することになったそうです。Tさんはかつて、レコード会社のオーマガトキに所属しておられましたが、お辞めになって、その後はどうされているのか、私は存じ上げないままでした。
年賀メールによると、今はヤマハミュージックアンドビジュアルズに属しておられるようです。そのTさんがサラヴァのCDを出すというのですから、サラヴァのCDはつまり、ヤマハから出る、ということでしょうか。そして、このヤマハミュージックアンドビジュアルズの住所が、トロッタ9の会場だった、ヤマハエレクトーンシティ渋谷と同じなのです。やはり、サラヴァのCDはヤマハから発売されると考えて間違いないようです。
Tさんは、オーマガトキでもサラヴァを担当しておられました。新たな職場でもサラヴァに関わります。サラヴァに対する、相当の思いがあると受けとめました。そのTさんに、かつて原稿を依頼されたことがあります。サラヴァの主宰者、詩人で歌手のピエール・バルーが撮ったドキュメンタリー映画『SARAVAH』の解説です。ボサノヴァを弾いたギタリスト、石井康史さんが亡くなったことを思い続けるうち、ブラジル音楽の神髄に触れようとしたこの映像作品に、思いは自然に至りました。2006年以来、谷中ボッサで「ボッサ/声と音の会」を行っています。トロッタ以前のスタートですが、その第一回ゲストが、ピエール・バルーでした。DVDを開けて自分の原稿を取り出すと、2003年の執筆になっています。もうすぐ10年になろうとする古さです。しかし、昨日書いたような気がしています。音楽の出発点は人それぞれです。私の音楽への思いは、このピエール・バルーの姿、個人ではなくてもピエール・バルーのような人の姿(それは古来の吟遊詩人といってもいい)に重ねられます。書くことはまだ多いのですが、DVDの解説文「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」を改めてここに書き、原点を振り返ります。これは、石井康史さん追悼のための準備でもあります。
〈第1回〉
あなたは−−と、他人に指を向ける前に、まず自分に問うてみる。“私は旅を必要としているのか? 旅を求めているのか?”と。
空間移動としての旅なら。必ずしも私には必要ない。たった今いる東京を、仮に一生離れなくても苦痛を感じないだろうという予感がある。もちろん、現実の自分に満足できなくて、さまざまな事柄に思いを馳せる想念としての旅ならば、それは私にも必要だ。心の旅、精神の旅なしではたちまち窒息してしまう。
しかし世の中には、点から点へ、線を伝って線へと、空間を移動しなくてはどうにもいられない人がいる。その過程で彼や彼女も、心の旅路をたどるのだろう。ピエール・バルーとはまさしく、そのような生来の旅人、生きていることそれ自体を旅に喩えるのはふさわしい人物だと映る。
DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」。映像作品に与えられた題名だが、これはピエール・バルーその人をも表わしている。彼は時空を超えた散歩者であり、その結果としての出逢いを求め、受けとめている人間だ。
『サラヴァ』には、長短の別がある四つの作品が収められている。「1969 Rio de Janeiro」を始めとする、「2003 Tokyo」「1996 Rio de Janeiro」「1998 la suite…」。
もともは1969年の一作だけだったのが、今や四作を合わせて全体となった。見れば、最新作が二番目に配され、第二作が三番目に配されるなどの並べ替えがある。その上で、四番目の作は“つづく…”と題された。
製作年で区別するが、「1969」に登場したバーデン・パウエルの息子二人、ルイ・マルセルとフィリップが「2003」に登場し、「1969」では出逢えなかった音楽家アダン・グザレバラダが「1996」に現われ、そのアダン作曲の『アラウルン』を「1998」ではビーアが歌う。
バーデンを始め、ピシンギーニャやジョアン・ダ・バイアーナは既に亡い。しかし40数年前、ピエールをブラジル音楽に巡り合わせたシブーカの姿を、私たちは観ることができる。マリア・ベターニアとパウリーニョ・ダ・ヴィオラはいまだ若く、その一方でアダンは貧民街から教会の施療院へと身を移し、したたかに音楽を創り続けている。そして、そうしたことの一切に立ち会い、観る私たちに語りかけるのはピエール・バルー。人と人、街と街、国と国、さらに時間と時間を結ぶ、音楽というものの力、不思議さを実感する。
「1998」が「1969」に還ってゆくととらえてもいいし、「1998」から伸びる線上に、まだ創られぬ何かがあるととらえるのもいい。それはもしかすると映像の形をとらず、詩として現われるかもしれず、『ラスト・チャンス・キャバレー』のように音楽劇の姿をまとうかもしれない。全体が円環する場合でも、環の途中に未来の作品が挿しはさまれていくだろう。いずれにせよ『サラヴァ』の世界は永遠に終わらない、終わらせないというピエールの意志を見る。旅人の態度である。旅とは何かを知っている者の態度である。(つづく)
年賀メールによると、今はヤマハミュージックアンドビジュアルズに属しておられるようです。そのTさんがサラヴァのCDを出すというのですから、サラヴァのCDはつまり、ヤマハから出る、ということでしょうか。そして、このヤマハミュージックアンドビジュアルズの住所が、トロッタ9の会場だった、ヤマハエレクトーンシティ渋谷と同じなのです。やはり、サラヴァのCDはヤマハから発売されると考えて間違いないようです。
Tさんは、オーマガトキでもサラヴァを担当しておられました。新たな職場でもサラヴァに関わります。サラヴァに対する、相当の思いがあると受けとめました。そのTさんに、かつて原稿を依頼されたことがあります。サラヴァの主宰者、詩人で歌手のピエール・バルーが撮ったドキュメンタリー映画『SARAVAH』の解説です。ボサノヴァを弾いたギタリスト、石井康史さんが亡くなったことを思い続けるうち、ブラジル音楽の神髄に触れようとしたこの映像作品に、思いは自然に至りました。2006年以来、谷中ボッサで「ボッサ/声と音の会」を行っています。トロッタ以前のスタートですが、その第一回ゲストが、ピエール・バルーでした。DVDを開けて自分の原稿を取り出すと、2003年の執筆になっています。もうすぐ10年になろうとする古さです。しかし、昨日書いたような気がしています。音楽の出発点は人それぞれです。私の音楽への思いは、このピエール・バルーの姿、個人ではなくてもピエール・バルーのような人の姿(それは古来の吟遊詩人といってもいい)に重ねられます。書くことはまだ多いのですが、DVDの解説文「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」を改めてここに書き、原点を振り返ります。これは、石井康史さん追悼のための準備でもあります。
〈第1回〉
あなたは−−と、他人に指を向ける前に、まず自分に問うてみる。“私は旅を必要としているのか? 旅を求めているのか?”と。
空間移動としての旅なら。必ずしも私には必要ない。たった今いる東京を、仮に一生離れなくても苦痛を感じないだろうという予感がある。もちろん、現実の自分に満足できなくて、さまざまな事柄に思いを馳せる想念としての旅ならば、それは私にも必要だ。心の旅、精神の旅なしではたちまち窒息してしまう。
しかし世の中には、点から点へ、線を伝って線へと、空間を移動しなくてはどうにもいられない人がいる。その過程で彼や彼女も、心の旅路をたどるのだろう。ピエール・バルーとはまさしく、そのような生来の旅人、生きていることそれ自体を旅に喩えるのはふさわしい人物だと映る。
DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」。映像作品に与えられた題名だが、これはピエール・バルーその人をも表わしている。彼は時空を超えた散歩者であり、その結果としての出逢いを求め、受けとめている人間だ。
『サラヴァ』には、長短の別がある四つの作品が収められている。「1969 Rio de Janeiro」を始めとする、「2003 Tokyo」「1996 Rio de Janeiro」「1998 la suite…」。
もともは1969年の一作だけだったのが、今や四作を合わせて全体となった。見れば、最新作が二番目に配され、第二作が三番目に配されるなどの並べ替えがある。その上で、四番目の作は“つづく…”と題された。
製作年で区別するが、「1969」に登場したバーデン・パウエルの息子二人、ルイ・マルセルとフィリップが「2003」に登場し、「1969」では出逢えなかった音楽家アダン・グザレバラダが「1996」に現われ、そのアダン作曲の『アラウルン』を「1998」ではビーアが歌う。
バーデンを始め、ピシンギーニャやジョアン・ダ・バイアーナは既に亡い。しかし40数年前、ピエールをブラジル音楽に巡り合わせたシブーカの姿を、私たちは観ることができる。マリア・ベターニアとパウリーニョ・ダ・ヴィオラはいまだ若く、その一方でアダンは貧民街から教会の施療院へと身を移し、したたかに音楽を創り続けている。そして、そうしたことの一切に立ち会い、観る私たちに語りかけるのはピエール・バルー。人と人、街と街、国と国、さらに時間と時間を結ぶ、音楽というものの力、不思議さを実感する。
「1998」が「1969」に還ってゆくととらえてもいいし、「1998」から伸びる線上に、まだ創られぬ何かがあるととらえるのもいい。それはもしかすると映像の形をとらず、詩として現われるかもしれず、『ラスト・チャンス・キャバレー』のように音楽劇の姿をまとうかもしれない。全体が円環する場合でも、環の途中に未来の作品が挿しはさまれていくだろう。いずれにせよ『サラヴァ』の世界は永遠に終わらない、終わらせないというピエールの意志を見る。旅人の態度である。旅とは何かを知っている者の態度である。(つづく)
トロッタ15通信.33
ここ数日、新しい原稿を書いているので、ブログの更新が滞っていました。それとは別のことも考えています。以下は、昨年末に発行した「詩の通信VI」第11号の文面です。
*
《後記》十二月十七日(土)、ギタリストの石井康史さんが亡くなられました。五十二歳でした。南米文学の研究者で、慶應義塾大学で教鞭をとられていましたが、私は二〇〇六年六月四日(日)、第二回「ボッサ 声と音の会」での共演を記憶します。ゲストの細川周平さんのご紹介で、打楽器の内藤修央さんと共に石井さんが出演されました。脳腫瘍で倒れ、半身がご不自由になり、ギターも弾けなくなりましたが、リハビリにつとめ、いったんは教壇に復帰なさいました。十月の第一週までは授業も行なっていたということです(情報を総合すると、一進一退だったのだろうと想像します)。訃報に接してすぐに思ったのは、追悼詩を書きたいということでした。最近、心にとどめている萩原朔太郎の詩に『ぎたる弾くひと』があるので、それに触発される形で『ギター弾く人』を書きました。それが今号の詩です。石井さんがなされた、南米文学の成果は残念ながら存じ上げません。日本語訳が近年に出た、ロベルト・ボラーニョの作品についてお話しをしたことがあり、(原文で読める方に対しておかしな話ですが、病中の石井さんに求められたので)ボラーニョの作品集『通話』を、お見舞いに持参しました。私にとって石井さんはまず、ギタリストでした。ギターを弾く人として私の前に現われ、去って行きました。お別れの会の祭壇にギターが立てられていたことにも、ギタリスト、石井康史の面目は窺われました。石井さんとの共演はわずか一回なので、そんな私が追悼の演奏会などは開けません。せめて詩を書くことで、故人を偲びたいと思いました。石井康史さん、安らかに。もう存分に、ギターを弾けるでしょう。次号第十二号は、二〇一二年一月九日(月)発行予定です。 二〇一一年十二月二十八日(水)
*
私が石井康史さんと共演したのは、ただ一回です。例えば打楽器の内藤修央さんのように、石井さんと共演した音楽家はたくさんいます。そうした彼らによって、石井さんを偲ぶ演奏会が開かれることでしょう。しかし私も、私なりの会を開きたいと思います。会とはいわなくても、何らかの会で、一曲でも石井さんを偲ぶ曲を演奏したいと思います。
上記の『ギター弾く人』は、すでに田中修一さんによって楽曲化され、年末に届きました(12月28日発送、31日着)。この曲を中心にすることで、石井さんと共演した思い出の場所、谷中ボッサで会を開きたいと思うのです。思えばトロッタ1では、田中修一さんと酒井健吉さんによって、伊福部先生追悼作品が2曲、発表されました。音楽の会は人の魂に触れる機会です。石井康史さんの魂に、触れたいと思っています。
*
《後記》十二月十七日(土)、ギタリストの石井康史さんが亡くなられました。五十二歳でした。南米文学の研究者で、慶應義塾大学で教鞭をとられていましたが、私は二〇〇六年六月四日(日)、第二回「ボッサ 声と音の会」での共演を記憶します。ゲストの細川周平さんのご紹介で、打楽器の内藤修央さんと共に石井さんが出演されました。脳腫瘍で倒れ、半身がご不自由になり、ギターも弾けなくなりましたが、リハビリにつとめ、いったんは教壇に復帰なさいました。十月の第一週までは授業も行なっていたということです(情報を総合すると、一進一退だったのだろうと想像します)。訃報に接してすぐに思ったのは、追悼詩を書きたいということでした。最近、心にとどめている萩原朔太郎の詩に『ぎたる弾くひと』があるので、それに触発される形で『ギター弾く人』を書きました。それが今号の詩です。石井さんがなされた、南米文学の成果は残念ながら存じ上げません。日本語訳が近年に出た、ロベルト・ボラーニョの作品についてお話しをしたことがあり、(原文で読める方に対しておかしな話ですが、病中の石井さんに求められたので)ボラーニョの作品集『通話』を、お見舞いに持参しました。私にとって石井さんはまず、ギタリストでした。ギターを弾く人として私の前に現われ、去って行きました。お別れの会の祭壇にギターが立てられていたことにも、ギタリスト、石井康史の面目は窺われました。石井さんとの共演はわずか一回なので、そんな私が追悼の演奏会などは開けません。せめて詩を書くことで、故人を偲びたいと思いました。石井康史さん、安らかに。もう存分に、ギターを弾けるでしょう。次号第十二号は、二〇一二年一月九日(月)発行予定です。 二〇一一年十二月二十八日(水)
*
私が石井康史さんと共演したのは、ただ一回です。例えば打楽器の内藤修央さんのように、石井さんと共演した音楽家はたくさんいます。そうした彼らによって、石井さんを偲ぶ演奏会が開かれることでしょう。しかし私も、私なりの会を開きたいと思います。会とはいわなくても、何らかの会で、一曲でも石井さんを偲ぶ曲を演奏したいと思います。
上記の『ギター弾く人』は、すでに田中修一さんによって楽曲化され、年末に届きました(12月28日発送、31日着)。この曲を中心にすることで、石井さんと共演した思い出の場所、谷中ボッサで会を開きたいと思うのです。思えばトロッタ1では、田中修一さんと酒井健吉さんによって、伊福部先生追悼作品が2曲、発表されました。音楽の会は人の魂に触れる機会です。石井康史さんの魂に、触れたいと思っています。
2012年1月3日火曜日
トロッタ15通信.32
インターネット上のコミュニティサイトを整理する。twitter、facebookなどは、宣伝に役立つから活用すべきだという意見が多い。実際にそうかもしれないし、そうなのだろう。トロッタの集客に実効性はなくても、少なくともひとりでも多くの人に、トロッタの存在を知ってもらう点では有効だ。それは認めたとしても、所詮は他人が作ったものだという事実は否定できない。まさか同様のコミュニティを作る力はないが、他人の都合には、できるだけ左右されたくない。だから、サイト作りには、すべてではないが、HTMLを自分で書いてきた。初歩的なものである。恥ずかしくもあるが、自分の力で、できるだけのことをしている自負はある。まず発信するものとして、インターネットを使ったトロッタ独自のメディアを作れないか。難しいとわかっていながら、そう思っている。
2012年1月1日日曜日
トロッタ15通信.31
2012年が始まりました。大晦日、トロッタのサイトに、4月12日(火)の「北海道新聞」に掲載された「詩と音楽の力 伊福部昭と更科源蔵」の画像を掲載しました。伊福部先生と更科氏について考えることは、トロッタの原点のひとつだと思います。自分の原稿ですが、何度でも読み返したい思いです。
登録:
投稿 (Atom)