2012年1月17日火曜日

トロッタ15通信.42

トロッタ14通信〈記録〉.4

『虹』『花の森』
〈作曲 宮崎文香/編曲 徳田絵里子/詩・詩唱 木部与巴仁〉
花をテーマにお聴かせできる曲を思っていた時、木部与巴仁さんの詩『虹』と『花の森』に出会いました。木部さんが発行している「詩の通信」に掲載されたものです。『虹』は誰にもある幼いころの記憶が虹に託され(2006.5.26号)、『花の森』は、死んだ人や獣が花として生まれ変わる様が描かれています(2009.8.17号)。楽器は、まず尺八と十七絃箏のために書かれ、徳田絵里子さんによってフルートとピアノ版に編曲されました。〈宮﨑文香〉

フルート*八木ちはる ピアノ*徳田絵里子

【記録】宮﨑文香さんから、私の詩で曲を書きたいという申し出を受けた時、純粋にうれしかった。初めてのことではない。すでに『めぐりあい』があり、『たびだち』がある。しかし(ということはない。差別などまったくないのだが)、どちらもアンコール曲である(繰り返していうが、すばらしいアンコール曲である。宮﨑さんの曲が最後にないと、トロッタは終わらない。それを、会場を出なければならない時間が来たというので、トロッタ14では『たびだち・鳥の歌』を演奏せずに終わってしまった。失敗である。申し訳ないと反省している)。それがまず、宮﨑さん企画の演奏会のため、尺八と十七絃箏の曲として作曲したいという。そうしてできあがった曲を、トロッタでも、本プログラムの曲として演奏するという。トロッタでは、尺八と十七絃箏ではなく、フルートとピアノのための曲になった。その編曲には、ピアニスト徳田絵里子さんの手を借りることになった。
詩が先にあって、曲が生まれる。いつも詩が先導すればいいとは思っていない。曲が先導する場合もあるだろう。しかし、かつて『くるみ割り人形』や『シェへラザード』を合唱曲としたように、メロディが先にあって詩を書くと、替え歌を作っているような気分になって仕方がない。何にも引きずられない、何の影響も受けない詩を書きたいと思う。だが、いつも詩が先導する場合、作曲者は詩に影響されない曲を書きたいと思うようになるだろうから、つまり立場を変えれば、私も他者に影響を与えてしまっているだろうから、どうすればいいとは断定できない。個別のケースとして考えるしかないだろう。
宮﨑さんは、「詩の通信」から二篇を選んだ。何が選択の基準になっているか、はっきりわからない。尺八と箏は、“花”をテーマにした演奏会で用いられたから、まず、花を描いた詩を選んだ。それが『花の森』である。四国の遍路が行き倒れになり、その跡に花が咲いた、という想像上の物語だ。『虹』には花が出ない。それでも選んだのは、宮﨑さんの感性である。私が子どもだったころ、空に架かる虹を見て、母親に、あれは何? と尋ねる。子どもにとって、初めて見るものは多いだろう。世の中は新鮮な驚きに満ちている。大人になると、そうしたものが少なくなる。少々のことでは驚かない。それはいいことではなく、残念なことだ。常に驚いていたい。虹は、驚くに値するものだ。原理がわかっていても、やはり驚異である。原理などわかっても大したことはない。わからない方がいい。宮﨑さんはおそらく、子ども心の純粋さに惹かれた。彼女自身が、それを持っているのだろう。音楽を書く力になり、詩を書く力にもなる。私は持っているか? 持ちたいと思う。トロッタは、常にその驚きを忘れない会でありたい。『虹』の始まりにある。「遠くと 近くの 区別もないまま 何もかも ぼんやりしていた あのころ」今の私が、そうだ。すべての距離がない。混沌としている。その、どろどろの中から何かを引きずりあげたい。

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