2012年1月17日火曜日

トロッタ15通信.40

トロッタ14通信〈記録〉.2

『恋の歌』
〈作曲 清道洋一/詩 木部与巴仁〉
三島が逝った歳になった。そろそろしっかりとした歌を作りたいと思った。歌曲を作るなら「恋の歌」以外に有り得ない。独りよがりの『状況』ではなく、ある特定の感覚を共有したいと思った。震災以来の無力感の支配からも抜け出したかった。『ステロタイプ』。しかしそれが『約束』として機能するのであれば、感覚の共有は成功なのだろう。映画に演劇に前例はいくらでもあるではないか。そう考え『既聴感』にこだわってみた。〈清道洋一〉

ソプラノ*柳 珠里 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子 ギター*萩野谷英成

【記録】“恋の歌”を作りたいから、そのような詩を、という清道洋一の求めに応じて書いた。これは清道に対していっているのではなく(結局、そうなるかもしれないが)、その人は恋をしているのかと考える。私は清道と『革命幻想歌』を創り、今また、その二作目を創ろうとしている。革命を、現実に政治的活動として行なってはいない。しかし気持ちは、おとなしく飼いならされてなどいない、ということ。政治に声をあげていないから革命を望んでいないことにはならない。そもそも、あげていないと誰が判断するのか。街頭で配られる、脱原発のちらしを受け取らないからといって、私が脱原発を志向していないとはいえないはず。サッカー選手だって革命を望む者はいるだろう。私はフィクションではなく切実に、革命を求めている。それは政治の革命ではなく、自己の革命なのだろう。ロシア革命だって、人々は、政治の変革を求めつつ、自己を革命したはずだ。自分を犠牲にしないで政治の革命などできっこない。−−革命はとりあえず措こう。恋をしたくて、あるいは恋をしているから、清道は恋の歌を書こうとしたのか、私は求められたとはいえ、恋の詩を書こうと思ったのか。端的にいって、恋をしているのか? 革命を求めて『革命幻想歌』を書くというなら、恋をしているから『恋の歌』を書いたといってほしい(私が)。
書いた詩は三篇。
ボール虫(団子虫)が主人公の『恋の始まり』。
「恋の触覚 狙いは必ずあやまたず 冴え渡って気配をとらえる 恋の触覚 われ知らずわれに教える 生命(いのち)のありか 心の昂り 行け 眉目(みめ)よきボール虫 行け 麗しのボール虫」
およそ人からは尊敬されそうにないボール虫。ライオンや鷲なら尊敬されるだろうが、地を這う虫など気味悪がられ踏みつぶされるかもしれない。しかし、彼らにも恋はあり人生がある。人が、彼らを毛嫌いする理由などどこにもない。ボール虫になりたいとすら思う。いや、もうなっているか。
蜥蜴が主人公の『恋の果て』。
「ひしゃげた躰(からだ)にのぞく 真赤な肉片 首はもげて足は飛び あの日 わたしを抱きしめた両腕は 天と地に伸びていた」
仮に戦場で死ねば、私もこうなるだろう。恋が戦いではないとは誰にもいえない。恋を、闘っているのだ。この蜥蜴の姿を、私は写真に収めている。確かに不気味だ。しかし、彼は堂々と死んでいた。そうありたいと思う。人よ、蜥蜴に劣らず、堂々と死ね。人以外の者を詠みながら、私はすべて人のこととしても詠んでいる。
蚊が主人公の『恋の音楽』。
「生きようとして殺される わたしたち 蚊という生き物 愚かなり 人は知らない 壮大なファンタジー わたしたち 蚊が築きあげた 歴史と科学 超文明の底知れなさ」
人と蚊の間に、何の差もない。あえて蚊の方が上だということもない。平等である。たっぷりと、人の血を数がいい。あなたたちは生きるために、血を吸っている。私の血はまずいと思うが、吸ってくれるだけましである。吸われて痛いと思う。かゆいと思う。生きているからで、死んでしまえば、そうしたことも思わない。生きている証明に、血を吸ってほしい。生を実感させてほしい。
この歌を、いつか、自分で歌ってみたいと思う。私の実感がこもっている。歌いたいと思って当然だろう。歌いたいと思い、清道に詩を託したのだから。誰に対してもそうだが、私の中にある部分を、清道にも感じている。それが何か、あえて書かなくてもいいだろう。ここに書いたようなことである。

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